軽量鉄骨づくりの二階建てのアパートの一階。母さんと暮らし始めてもう十二年くらいになる我が家はぶっちゃけ狭い。古いし、床鳴りもする。ただ日当たりだけはいい。
西日が射し込む居間を突っ切り、俺は南側にある自分の四畳半の部屋へと工藤を案内する。
「悪い、座れるのそこだけだけど」
ベッドの上を指さすと、工藤は軽く首を傾けてから、ん、と頷いてすとん、と乱れたベッドに腰を下ろした。
正直、好きな相手を自分のベッドに座らせるのはなんか……と思う。居間のほうがよかったかも。ただあっちはあっちで母さんがベランダに下着を干したままにしているし、食器も片付いていない。本を見せたくて呼んだんだし、と自分に言い訳しながら俺は台所から持ってきた麦茶のボトルとグラスをローテーブルに置く。
「狭いよな。ごめん」
ぼそっと言ったと同時にくすっと笑われた。見れば、ベッドの上で膝を抱えて座った工藤が口元を綻ばせていた。
「部屋よりお前が小さくなったみたい。なに緊張してんの」
「し、してないし」
「だったらこっち来な?」
言いながら工藤が自分の隣をぽんぽん、と叩く。ここで断るのもおかしい。なんといっても、俺の部屋はベッドとローテーブル、本棚を置いたらもういっぱいだし。
「なんか丹羽っぽくない部屋」
俺はめちゃくちゃ緊張してるっていうのに、工藤は相変わらず遠慮がない。ずけずけ言いながらじろじろと室内を眺め回している。
「もっとめちゃくちゃな部屋かと思った」
「めちゃくちゃってなんだよ。パンツ落ちてるとかそういう話? さすがにそこまでだらしなくないわ」
軽口を叩きながらグラスに麦茶を注ぎ、工藤の隣に座る。ん、と差し出すと、どうも、と言いながら工藤がグラスを受け取った。指先同士が触れ合って震えそうになる。
こいつはこんな細い指であんなガチなシャベルを握るのだ。しかも俺なんかより汗みずくで土を掘る。それくらいこいつにとって地底への想いは本物で……。
「本、見せてくれるんじゃないの?」
促されて俺はベッドの上で跳ねる。
「あ、ああ、そう。そうだった」
小刻みに頷きながらベッド脇の本棚に手を伸ばす。引っ張り出した本を工藤に差し出すと工藤が目を見張った。
「これ?」
「洞窟探検家の原西さんの体験記」
「原西さん?」
「知らね? この人、世界各国の洞窟探検してんの。地下に伸びた縦穴発見もしててさあ。この人のこれ読んじゃうと、やっぱ地面掘り返して地底への入り口探すより、洞窟探してみたほうが確実なのかなあ、とか思っちゃった」
「この辺で洞窟っていったら菊塚風穴だよな」
ページをめくりながら工藤が言う。視線は食い入るように本に落とされている。
「そう! あそこはメインの穴だけじゃなくてまだ調査されてない横穴がもいっぱいあるって話だし本当はそっちから探したかったんだけどさ、俺達にはまだ難しい」
「わかる。学校帰りに気軽に探索はしにくい」
そこまで言ったところでページをめくる手が止まった。なに、と問いかえそうとして俺は声を飲み込む。
工藤の膝の上、開かれたページにいたのは、数多の虫だった。
真っ白い体。異様に発達した触覚。細長い体を覆う透明な体毛。
地上では絶対にお目にかかれないような、奇異な肢体を持つ生物がひしめいている。
「真洞穴性生物っていうんだ、こういうの」
「あー、うん。すごいよな。見たことない虫めっちゃいんの。ってもしかして工藤、虫苦手なの?」
問いかけてから、それはないか、と心の中で否定する。
一度、俺のジャージの背中にカナブンが入り込んでしまったことがある。それを工藤は素手で取ってくれたから。
こんなんでビビってたら地底なんか行けないよ、と俺を思いっきり馬鹿にしながら。
そんな工藤が虫を怖いなんて言うわけがない。
「苦手ではない。ただ」
思った通りの答えを返し、工藤がすうっとページの虫達を指で辿る。愛おしむみたいなそんな手つきに見えて少し驚く。
「悲しいと思った」
「悲しい? なんで?」
「ここに載ってるのってさ、洞窟でしか生きられないやつだろ」
「あー、うん」
「それって、一生洞窟に縛られるってことだよな。別の場所に憧れても離れられない。決められた場所で終わるしかない。そんな生き方、なんかすごく」
悲しい。
そう付け足した工藤の横顔を俺は息を止めて見つめる。
なんだろう、こいつなんか……おかしい。
いや、こいつはいつだっておかしいし、今に始まったことじゃないけど、それでもこの今の瞬間、こいつをひとりにしちゃいけない気がなぜかすごく、した。
「なんそれ、哲学か?」
……笑わせなきゃ。
ただ、俺にはその方法がひとつしか思いつかない。
「らしくなく弱気じゃん。わかった。お前、ほんとは虫嫌いなのに嘘ついてたんだろ。大丈夫だって、殺虫剤持ってけば戦えるし。安心しろよ。俺が守ってやるって」
茶化すみたいに笑って肩で肩を押すと、夢から覚めたみたいに工藤が肩を震わせた。細い首が巡らされ、顔が俺に向けられる。
顔と顔の距離はわずか三十センチ。
「あ、ええと」
……しまった。距離詰めすぎた……。
とっさに下がろうとしたが、その俺の肩を不意に工藤が掴んだ。そのままくいっと押される。なに、と言う間もなく仰向けに押し倒され、俺は呼吸を止めた。
「丹羽こそ、嘘ついてるくせに」
見下ろしてくるのは、目に毒なくらい綺麗な顔。
「俺のこと、見てないって言ってたけど、ほんとはいつも見てるよな」
「み、見てないって」
「ふうん」
顔と顔の距離がさらに縮められ、俺は口を噤む。耳を撫でるのはしっとりした声。
「まあそれならそれでいいや。でもさ、さっき言っただろ。チャラい顔したら探索、一緒にするのやめるって。なのにまたそんな顔して。それって俺とはもう探索したくないって意味?」
――今チャラい顔したら、お前と探索すんのもうやめようかなって思ってた。
カレー屋で言われた台詞が耳の中に蘇る。一気に青くなり、俺は首をもたげた。
「そういうんじゃない!」
「じゃあなに。なんで急にふざけてきたの?」
「それは! おま、お前が!」
「俺が?」
探るような蜂蜜色の目が俺の目をまっすぐに射貫く。起き上がろうとじたばたしていた俺の体を押さえつけているのは細い体。こんなの簡単に突き飛ばせるはずなのにそうできないのは、この目のせいかもしれない。
強くて、怖くて、深い、この目が俺は好きで。なのに……。
「泣きそうだった、から」
工藤がどんな事情を抱えているかなんて俺は知らない。こいつはなにも教えてくれないし、心に俺を入れてもくれない。
でも、工藤の顔に浮かんだ表情を見たとたん、思ってしまったのだ。
……泣くなよ。
「けど、笑わせる方法、俺これしかわかんねえんだよ……」
そこまで言ったところで言葉が口の中で消える。自制したからじゃない。そうじゃなかった。
俺の声を奪ったのは、工藤。
感じなかったはずの体重が一気に俺に襲いかかる。重くはない。でも熱い。
唇を唇で覆われて……熱い。
触れた場所からじりっと熱が沁みていく。じわじわと広がって俺の全身へと広がるそれによって頭の奥が熱せられてくらくらする。
なんなんだろう。これは、なんなんだ?
理由の尻尾さえ見えない。わたわたしながら薄い胸に手を突いて押し返そうとしたとき、すっと唇が解けた。
「もしかして、初めてだった?」
「なっ……」
ほんの数センチの距離で囁かれ、俺はかっとなる。
「んなわけあ、あ、あるか! お、お、お前こそ……っ! ってか、なんでこんな、いや、こんなってかあの」
「キョドりすぎ」
くすっと笑われ、俺はなおも顔を赤くする。苛立って体を起こそうとするけど、工藤に伸しかかられたままで動けない。
「ふざけんなよ! なんつうこと……」
「丹羽、こういうの無理なんだ」
「は?! い、いや、無理っていうか……」
なんだこれ。なにを訊かれてるんだ?
「べ、別にキ、キスが嫌いとかそういうんじゃ、なくて。ただ」
「相手が俺なのがだめと」
違う。そうじゃない。そんなわけ、ない。
なんだか目頭が熱い。目を逸らすと、ごめんて、と声が落ちてきた。
「でも丹羽が悪いわ、今のは」
「なんで。俺なんもしてねえだろ……」
「した。ってか、言った」
低い声で言い、逸らした視線を視線で捕まえるように覗き込まれる。息を止めた俺の前で形のいい唇がゆっくりと動いた。
「『笑わせる方法これしかわかんねえんだよ』」
さっき自分が言った台詞を繰り返されて一気に耳が熱を持つ。その赤くなった耳をするっと工藤が撫でる。
「そんなこと言われたら好きになっちゃうよ、お前のチャラい顔まで」
本気になって突き飛ばせば簡単に抜け出せる腕の中。なのに俺はただ赤くなって見上げてばかりいる。
「それ……」
チャラい顔、まで?
それってどういう……。
そのとき、きいっとドアが軋む音がした。俺の目の前で工藤の眼球がすうっと滑って音の方を向く。
「あー、もう、疲れたー。なんだ七音帰ってるの? ちょっとー、帰ってるなら洗濯物くらい取り込んでおいてよー」
薄い襖の向こうから声がする。どたどたと踏み鳴らすような足音の後、無遠慮な手で襖が開けられた。一瞬早く、工藤が俺の体の上から下りる。
「ちょっと七音……あれ?」
顔を出したのは朝まで勤務のはずの母親だった。ひっつめた髪から後れ毛がところどころ出ている、仕事終わりらしい疲れ切った顔で化粧っけもない。
「友達?」
問われて、俺も慌ててベッドの上で身を起こす。工藤は、と視線を送ると、元通りベッドに腰かけて澄ました顔で麦茶を飲んでいた。
「か、勝手に開けんなよっ。大体、帰るの早くね?」
「ごめんって。まさか友達来てると思ってなかったから。いやー、勤務、勘違いしててさあ、非番だったのに出ちゃって。ついでだから手伝えって言われてこんな時間。ブラックだよー。まったく……えーと、何くんだっけ?」
うちの母親はまあまあ身長が高いので、そんなふうにぬうっと戸口から首を伸ばされると威圧感がある。
おいこら、と俺は母親を睨んだ。
「うっせーよ。勝手に話しかけんな」
「こんなイケメンの友達連れてくるんだもの。テンションも上がるでしょうが。ああ、ごめんなさいねうるさくて。はじめましてー、七音の母ですー。この子、学校でちゃんとやれてます? いやもう、この子ってば学校の話、なんにもしてくれないから」
「うるさいのわかってんなら出てけって。邪魔」
「なーによー。照れちゃって。少しは話させないよー。で、えーと」
「佐藤です」
え、と工藤を振り返ると同時に、ことんと麦茶のグラスがテーブルに置かれた。
「俺、そろそろ帰るわ」
「え……」
なんだ? なんなんだ?
唖然とする俺を尻目に工藤は部屋を出ていく。入口のところで母さんに軽く目礼をしてそのまま玄関へ向かう工藤を俺はとっさに追いかけた。
「なに! 急になんで……」
「用事思い出したから」
三和土にあったスニーカーに足が突っ込まれる。するっと手が伸び、昔ながらの丸いノブが回された。
「じゃあ」
きい、とドアが軋む。岩陰から滑り出していく熱帯業みたいな動きで、細い隙間から工藤は出ていく。それを数秒ぽかんとして見送ってから、俺は慌てて後を追った。エントランスを出てすぐのところで追いついて肩を引っ掴む。
「工藤、工藤ってば! なに急に。ってかなんなんだよ、今の」
「なにが」
「なにがって! なんで偽名? あれ俺の母親だし、本名知ったからって悪用なんてしねえよ? ぐいぐい来るしウザかったかもだけど……」
「うん、ウザかった。さすが丹羽の母親って感じ」
別に俺は母さん子というわけでもなんでもない。仕事仕事で俺のことは基本的に放置だ。ただだからといって見るのもムカつくとか、嫌いとか、そんなことはない。片親で頑張ってくれていたことだって知っている。だからそんな言われ方をされてかちんときた。
「初対面でその言い方はなくね?」
「ああそう、ごめん。けどさ」
振り切るように腕が動き、手が解かれる。勢いよくこっちを見た工藤には一切の表情がなかった。
「そんなに母親大事なら地底なんて行かないでそばにいたら?」
胸の真ん中を言葉が突き刺す。固まる俺を工藤は一度睨みつけてから顔を背ける。足早に遠ざかるその背中に俺はとっさに声を投げた。
「話、終わってねえって!」
「俺はない」
「なくないだろ。なんでっ」
工藤は立ち止まらない。その背中に向かい、俺は小声で吐き捨てる。
「なんであんなこと、したんだよっ……」
――そんなこと言われたら好きになっちゃうよ、お前のチャラい顔まで。
柔らかく包むみたいに落とされたキスがじわっと唇に蘇ってくる。口元を手の甲で押さえ、俺は深い息を吐く。
追いかけて肩を掴んで揺さぶって、怒鳴りつけてやりたかった。でもできなかった。
だってもしも、なに本気になってんの? と呆れられたら? 思ったよりピュアなんだなチャラ王子のくせに、ってせせら笑われたら?
無理だ。立ち直れない。
「やっぱ……ノリとかそういうの、かな」
工藤は氷結王子なんて呼ばれるくらい人気がある。誰かと密な関わりをしているところなんて一度も見たことがないけど、キスやそれ以上の経験だってあってもおかしくない。
でも、俺にとって工藤が唯一の相棒なのと同じく、工藤にとってもそうなんじゃないのか? その俺になんであいつはキスなんてした? そんなことしたら探索だって続けられなくなっちゃうかもしれないのに。
やっぱり理由を訊きたい。訊く権利が俺にはある気がする。
そうだ、そうに違いない。
明日学校で会ったら絶対訊く。
夜、ベッドの中で結論づけ、朝を迎えたが、その俺の決意はもろくも崩れることとなった。
工藤が学校に来なかったために。
西日が射し込む居間を突っ切り、俺は南側にある自分の四畳半の部屋へと工藤を案内する。
「悪い、座れるのそこだけだけど」
ベッドの上を指さすと、工藤は軽く首を傾けてから、ん、と頷いてすとん、と乱れたベッドに腰を下ろした。
正直、好きな相手を自分のベッドに座らせるのはなんか……と思う。居間のほうがよかったかも。ただあっちはあっちで母さんがベランダに下着を干したままにしているし、食器も片付いていない。本を見せたくて呼んだんだし、と自分に言い訳しながら俺は台所から持ってきた麦茶のボトルとグラスをローテーブルに置く。
「狭いよな。ごめん」
ぼそっと言ったと同時にくすっと笑われた。見れば、ベッドの上で膝を抱えて座った工藤が口元を綻ばせていた。
「部屋よりお前が小さくなったみたい。なに緊張してんの」
「し、してないし」
「だったらこっち来な?」
言いながら工藤が自分の隣をぽんぽん、と叩く。ここで断るのもおかしい。なんといっても、俺の部屋はベッドとローテーブル、本棚を置いたらもういっぱいだし。
「なんか丹羽っぽくない部屋」
俺はめちゃくちゃ緊張してるっていうのに、工藤は相変わらず遠慮がない。ずけずけ言いながらじろじろと室内を眺め回している。
「もっとめちゃくちゃな部屋かと思った」
「めちゃくちゃってなんだよ。パンツ落ちてるとかそういう話? さすがにそこまでだらしなくないわ」
軽口を叩きながらグラスに麦茶を注ぎ、工藤の隣に座る。ん、と差し出すと、どうも、と言いながら工藤がグラスを受け取った。指先同士が触れ合って震えそうになる。
こいつはこんな細い指であんなガチなシャベルを握るのだ。しかも俺なんかより汗みずくで土を掘る。それくらいこいつにとって地底への想いは本物で……。
「本、見せてくれるんじゃないの?」
促されて俺はベッドの上で跳ねる。
「あ、ああ、そう。そうだった」
小刻みに頷きながらベッド脇の本棚に手を伸ばす。引っ張り出した本を工藤に差し出すと工藤が目を見張った。
「これ?」
「洞窟探検家の原西さんの体験記」
「原西さん?」
「知らね? この人、世界各国の洞窟探検してんの。地下に伸びた縦穴発見もしててさあ。この人のこれ読んじゃうと、やっぱ地面掘り返して地底への入り口探すより、洞窟探してみたほうが確実なのかなあ、とか思っちゃった」
「この辺で洞窟っていったら菊塚風穴だよな」
ページをめくりながら工藤が言う。視線は食い入るように本に落とされている。
「そう! あそこはメインの穴だけじゃなくてまだ調査されてない横穴がもいっぱいあるって話だし本当はそっちから探したかったんだけどさ、俺達にはまだ難しい」
「わかる。学校帰りに気軽に探索はしにくい」
そこまで言ったところでページをめくる手が止まった。なに、と問いかえそうとして俺は声を飲み込む。
工藤の膝の上、開かれたページにいたのは、数多の虫だった。
真っ白い体。異様に発達した触覚。細長い体を覆う透明な体毛。
地上では絶対にお目にかかれないような、奇異な肢体を持つ生物がひしめいている。
「真洞穴性生物っていうんだ、こういうの」
「あー、うん。すごいよな。見たことない虫めっちゃいんの。ってもしかして工藤、虫苦手なの?」
問いかけてから、それはないか、と心の中で否定する。
一度、俺のジャージの背中にカナブンが入り込んでしまったことがある。それを工藤は素手で取ってくれたから。
こんなんでビビってたら地底なんか行けないよ、と俺を思いっきり馬鹿にしながら。
そんな工藤が虫を怖いなんて言うわけがない。
「苦手ではない。ただ」
思った通りの答えを返し、工藤がすうっとページの虫達を指で辿る。愛おしむみたいなそんな手つきに見えて少し驚く。
「悲しいと思った」
「悲しい? なんで?」
「ここに載ってるのってさ、洞窟でしか生きられないやつだろ」
「あー、うん」
「それって、一生洞窟に縛られるってことだよな。別の場所に憧れても離れられない。決められた場所で終わるしかない。そんな生き方、なんかすごく」
悲しい。
そう付け足した工藤の横顔を俺は息を止めて見つめる。
なんだろう、こいつなんか……おかしい。
いや、こいつはいつだっておかしいし、今に始まったことじゃないけど、それでもこの今の瞬間、こいつをひとりにしちゃいけない気がなぜかすごく、した。
「なんそれ、哲学か?」
……笑わせなきゃ。
ただ、俺にはその方法がひとつしか思いつかない。
「らしくなく弱気じゃん。わかった。お前、ほんとは虫嫌いなのに嘘ついてたんだろ。大丈夫だって、殺虫剤持ってけば戦えるし。安心しろよ。俺が守ってやるって」
茶化すみたいに笑って肩で肩を押すと、夢から覚めたみたいに工藤が肩を震わせた。細い首が巡らされ、顔が俺に向けられる。
顔と顔の距離はわずか三十センチ。
「あ、ええと」
……しまった。距離詰めすぎた……。
とっさに下がろうとしたが、その俺の肩を不意に工藤が掴んだ。そのままくいっと押される。なに、と言う間もなく仰向けに押し倒され、俺は呼吸を止めた。
「丹羽こそ、嘘ついてるくせに」
見下ろしてくるのは、目に毒なくらい綺麗な顔。
「俺のこと、見てないって言ってたけど、ほんとはいつも見てるよな」
「み、見てないって」
「ふうん」
顔と顔の距離がさらに縮められ、俺は口を噤む。耳を撫でるのはしっとりした声。
「まあそれならそれでいいや。でもさ、さっき言っただろ。チャラい顔したら探索、一緒にするのやめるって。なのにまたそんな顔して。それって俺とはもう探索したくないって意味?」
――今チャラい顔したら、お前と探索すんのもうやめようかなって思ってた。
カレー屋で言われた台詞が耳の中に蘇る。一気に青くなり、俺は首をもたげた。
「そういうんじゃない!」
「じゃあなに。なんで急にふざけてきたの?」
「それは! おま、お前が!」
「俺が?」
探るような蜂蜜色の目が俺の目をまっすぐに射貫く。起き上がろうとじたばたしていた俺の体を押さえつけているのは細い体。こんなの簡単に突き飛ばせるはずなのにそうできないのは、この目のせいかもしれない。
強くて、怖くて、深い、この目が俺は好きで。なのに……。
「泣きそうだった、から」
工藤がどんな事情を抱えているかなんて俺は知らない。こいつはなにも教えてくれないし、心に俺を入れてもくれない。
でも、工藤の顔に浮かんだ表情を見たとたん、思ってしまったのだ。
……泣くなよ。
「けど、笑わせる方法、俺これしかわかんねえんだよ……」
そこまで言ったところで言葉が口の中で消える。自制したからじゃない。そうじゃなかった。
俺の声を奪ったのは、工藤。
感じなかったはずの体重が一気に俺に襲いかかる。重くはない。でも熱い。
唇を唇で覆われて……熱い。
触れた場所からじりっと熱が沁みていく。じわじわと広がって俺の全身へと広がるそれによって頭の奥が熱せられてくらくらする。
なんなんだろう。これは、なんなんだ?
理由の尻尾さえ見えない。わたわたしながら薄い胸に手を突いて押し返そうとしたとき、すっと唇が解けた。
「もしかして、初めてだった?」
「なっ……」
ほんの数センチの距離で囁かれ、俺はかっとなる。
「んなわけあ、あ、あるか! お、お、お前こそ……っ! ってか、なんでこんな、いや、こんなってかあの」
「キョドりすぎ」
くすっと笑われ、俺はなおも顔を赤くする。苛立って体を起こそうとするけど、工藤に伸しかかられたままで動けない。
「ふざけんなよ! なんつうこと……」
「丹羽、こういうの無理なんだ」
「は?! い、いや、無理っていうか……」
なんだこれ。なにを訊かれてるんだ?
「べ、別にキ、キスが嫌いとかそういうんじゃ、なくて。ただ」
「相手が俺なのがだめと」
違う。そうじゃない。そんなわけ、ない。
なんだか目頭が熱い。目を逸らすと、ごめんて、と声が落ちてきた。
「でも丹羽が悪いわ、今のは」
「なんで。俺なんもしてねえだろ……」
「した。ってか、言った」
低い声で言い、逸らした視線を視線で捕まえるように覗き込まれる。息を止めた俺の前で形のいい唇がゆっくりと動いた。
「『笑わせる方法これしかわかんねえんだよ』」
さっき自分が言った台詞を繰り返されて一気に耳が熱を持つ。その赤くなった耳をするっと工藤が撫でる。
「そんなこと言われたら好きになっちゃうよ、お前のチャラい顔まで」
本気になって突き飛ばせば簡単に抜け出せる腕の中。なのに俺はただ赤くなって見上げてばかりいる。
「それ……」
チャラい顔、まで?
それってどういう……。
そのとき、きいっとドアが軋む音がした。俺の目の前で工藤の眼球がすうっと滑って音の方を向く。
「あー、もう、疲れたー。なんだ七音帰ってるの? ちょっとー、帰ってるなら洗濯物くらい取り込んでおいてよー」
薄い襖の向こうから声がする。どたどたと踏み鳴らすような足音の後、無遠慮な手で襖が開けられた。一瞬早く、工藤が俺の体の上から下りる。
「ちょっと七音……あれ?」
顔を出したのは朝まで勤務のはずの母親だった。ひっつめた髪から後れ毛がところどころ出ている、仕事終わりらしい疲れ切った顔で化粧っけもない。
「友達?」
問われて、俺も慌ててベッドの上で身を起こす。工藤は、と視線を送ると、元通りベッドに腰かけて澄ました顔で麦茶を飲んでいた。
「か、勝手に開けんなよっ。大体、帰るの早くね?」
「ごめんって。まさか友達来てると思ってなかったから。いやー、勤務、勘違いしててさあ、非番だったのに出ちゃって。ついでだから手伝えって言われてこんな時間。ブラックだよー。まったく……えーと、何くんだっけ?」
うちの母親はまあまあ身長が高いので、そんなふうにぬうっと戸口から首を伸ばされると威圧感がある。
おいこら、と俺は母親を睨んだ。
「うっせーよ。勝手に話しかけんな」
「こんなイケメンの友達連れてくるんだもの。テンションも上がるでしょうが。ああ、ごめんなさいねうるさくて。はじめましてー、七音の母ですー。この子、学校でちゃんとやれてます? いやもう、この子ってば学校の話、なんにもしてくれないから」
「うるさいのわかってんなら出てけって。邪魔」
「なーによー。照れちゃって。少しは話させないよー。で、えーと」
「佐藤です」
え、と工藤を振り返ると同時に、ことんと麦茶のグラスがテーブルに置かれた。
「俺、そろそろ帰るわ」
「え……」
なんだ? なんなんだ?
唖然とする俺を尻目に工藤は部屋を出ていく。入口のところで母さんに軽く目礼をしてそのまま玄関へ向かう工藤を俺はとっさに追いかけた。
「なに! 急になんで……」
「用事思い出したから」
三和土にあったスニーカーに足が突っ込まれる。するっと手が伸び、昔ながらの丸いノブが回された。
「じゃあ」
きい、とドアが軋む。岩陰から滑り出していく熱帯業みたいな動きで、細い隙間から工藤は出ていく。それを数秒ぽかんとして見送ってから、俺は慌てて後を追った。エントランスを出てすぐのところで追いついて肩を引っ掴む。
「工藤、工藤ってば! なに急に。ってかなんなんだよ、今の」
「なにが」
「なにがって! なんで偽名? あれ俺の母親だし、本名知ったからって悪用なんてしねえよ? ぐいぐい来るしウザかったかもだけど……」
「うん、ウザかった。さすが丹羽の母親って感じ」
別に俺は母さん子というわけでもなんでもない。仕事仕事で俺のことは基本的に放置だ。ただだからといって見るのもムカつくとか、嫌いとか、そんなことはない。片親で頑張ってくれていたことだって知っている。だからそんな言われ方をされてかちんときた。
「初対面でその言い方はなくね?」
「ああそう、ごめん。けどさ」
振り切るように腕が動き、手が解かれる。勢いよくこっちを見た工藤には一切の表情がなかった。
「そんなに母親大事なら地底なんて行かないでそばにいたら?」
胸の真ん中を言葉が突き刺す。固まる俺を工藤は一度睨みつけてから顔を背ける。足早に遠ざかるその背中に俺はとっさに声を投げた。
「話、終わってねえって!」
「俺はない」
「なくないだろ。なんでっ」
工藤は立ち止まらない。その背中に向かい、俺は小声で吐き捨てる。
「なんであんなこと、したんだよっ……」
――そんなこと言われたら好きになっちゃうよ、お前のチャラい顔まで。
柔らかく包むみたいに落とされたキスがじわっと唇に蘇ってくる。口元を手の甲で押さえ、俺は深い息を吐く。
追いかけて肩を掴んで揺さぶって、怒鳴りつけてやりたかった。でもできなかった。
だってもしも、なに本気になってんの? と呆れられたら? 思ったよりピュアなんだなチャラ王子のくせに、ってせせら笑われたら?
無理だ。立ち直れない。
「やっぱ……ノリとかそういうの、かな」
工藤は氷結王子なんて呼ばれるくらい人気がある。誰かと密な関わりをしているところなんて一度も見たことがないけど、キスやそれ以上の経験だってあってもおかしくない。
でも、俺にとって工藤が唯一の相棒なのと同じく、工藤にとってもそうなんじゃないのか? その俺になんであいつはキスなんてした? そんなことしたら探索だって続けられなくなっちゃうかもしれないのに。
やっぱり理由を訊きたい。訊く権利が俺にはある気がする。
そうだ、そうに違いない。
明日学校で会ったら絶対訊く。
夜、ベッドの中で結論づけ、朝を迎えたが、その俺の決意はもろくも崩れることとなった。
工藤が学校に来なかったために。



