婚約破棄された出戻り令嬢の、しあわせな結婚について

 市街地の外れに、小さな森がある。正直なところ、それを“森”と呼んでも良いのか分からない。鬱蒼としているのは外縁だけで、中心には芝生や砂の広場がぽっかりと空いているからだ。けれども、王都に住む人々は総じてそれを“森”と呼び、“森”として扱う。死者の眠る森、として――。

 古いものから新しいもの、木でできたものから石でできたものまで、実に様々な姿をした墓標が思い思いに並ぶ景色を眺めながら、ここはいつ来ても変わらない、とレティシアは思う。四季折々の花をつける――手入れがされず、自然のままに好き放題に育つ――木々も、何の秩序もなく敷かれた――故に妙な所で折れ曲がったり、墓に突き当たったりする――路も、ただこんもりと盛り上がった色の違う土だけが、そこに誰かが眠っていることを示す名も無き墓も、時間そのものが息を潜めているような、冷たく澄んだ静謐な空気も。

 その変わらなさの中に居るからこそ、傍らにある存在の奇妙さがより増して感じられる。ここへ来る前より、もっとずっと。

「元侯爵夫人の墓にしては、随分とシンプルだな」

 名前と生没年だけが刻まれた墓石を見下ろし、何ともいい難い複雑な表情を浮かべるイヴァンに、レティシアは小さく苦笑をこぼす。

「お母様には、身寄りがいなかったのよ。それに、お金は殆ど病気の治療にあてられていたから、亡くなった時にはもう口座は空っぽだったそうよ」

 貴族は基本的に、平民とは区別されて、上流区の教会に付随する専用の墓地に埋葬されるのが慣わしだ。爵位が高ければ高いほど、生前の功績が素晴らしければ素晴らしいほど良い場所が与えられ、資金が豊富であればあるほど立派な――時に華美すぎもする――墓石を建てる。死してなお、埋葬者の威厳と品位を保ち、それを幾百年も語り継いでゆく為だ。

 母・エレノアは元々子爵家の出身であったものの、レティシアが産まれる頃には既に家運が傾いており、先代子爵夫妻が亡くなってからは更に拍車がかかり、一気に坂を転げ落ちるようにして没落の一途を辿った。先代夫妻にはエレノア以外に子どもはおらず、血を分けた傍系の一族も殆どが断絶していた為に、衰退の勢いをとめることができなかったのだろう。離婚後に家督を継いだエレノアが世を去ると同時に爵位も領地も国へと返還され、彼女の一族は静かにその名を歴史から消していった。

 あの強欲で打算的なレイモンドが、何の後ろ盾もなく、潤沢な財産があるわけでもない没落寸前の子爵家から、何故一人娘のエレノアを娶ったのか。それは当の本人から聞き出しでもしない限り、本当のことは分からない。

 けれど、レイモンドはエレノアの美貌を褒めることはあっても、それ以外のことにはまるで見向きもしなかった、と、乳母のソフィアは言っていた。つまりはそれが目当てだったのだろう。見目麗しい妻を侍らすことで己のステータスを誇示し、そして、もしかしたら、手駒となる子どもにも彼女の器量を引き継がせる為に――。

 正直なところ、レティシアは自分の容姿が優れているとは思っていない。肖像画に描かれたエレノアは、同性であっても、つい見惚れてしまうほどの美しさだった。いっそ神々しいと言っても良いほどに。そんな彼女の麗質を受け継げているかといえば、それは甚だ疑問だった。便利な駒になるから、という理由だけで引き取った娘が、成長すればするほど、どんどんと思惑からかけ離れてゆく――。その姿を前に、レイモンドは果たして何を思っただろう。

「だが、今建てたばかりみたいに、とても綺麗だ」
「乳母が定期的に掃除をしてくれているの」

 埋葬されてもう十数年経つというのに、それでも未だ墓石に少しの汚れひとつなく、辺りに雑草が茂っているわけでもないのは、偏に乳母・ソフィアのおかげだった。そもそもこの墓自体、彼女がこつこつと貯めていた給金を投じて造られている。主と使用人という関係にありながら、あの邸でエレノアの数少ない味方であり、理解者であり、そして友人であったソフィア。

 いつだったか、幾つかの宝石を売って代金を返そうとしたレティシアに、彼女は珍しく怒ったものだ。余計なことはしなくて良い、と。これは私たちの友情の証なのだから、と――。

「宗教が違うが、大丈夫か?」
「問題ないわ。お母様はとても優しい人だったから、宗教の違いなんて気にしないはずよ」
「そうか。なら良かった」

 そう言ってやわらかく微笑み、イヴァンは墓石の真ん前まで歩み出ると、恭しく膝を折った。何の躊躇いもなくこなされたその行動に、レティシアはぎょっとする。宗教の違いなんて気にしない、とは言ったものの、だからといって、それとこれとではわけが違う。

「ちょ、ちょっと、イヴァンっ。立ってちょうだい」
「何故?」

 肩越しに振り向いた彼の、端正なかんばせに浮かぶ心底不思議そうな表情に、レティシアは思わずたじろいでしまう。あまりにも混じり気のない、純粋すぎる疑問を湛えた面持ちのせいで。

「何故、って……だって貴方は、帝国の皇太子なのよ?」

 少し離れた所にケレムとクロエがいるだけで、他には誰の姿もないと分かっていても、そう訴えかける声は自然と小さくなる。

 平民同様の身なりをしているけれど、イヴァンはれっきとしたゼハディア帝国の皇太子だ。そうそう跪いて良いような立場ではない。彼ほどの高貴な身分ともなれば、それが許されるのは皇帝の前か、或いは主神の前かに限られる。

 そうだというのに、見上げてくる金色の瞳は、相変わらず不思議そうに丸く見開かれていた。僅かに顔を傾けた拍子に、彼の耳につけられたピアスが陽光を弾いて、きらりと光る。

「べつにそれは、俺の“身分”が、だろ」
「そ、う、だけれど……」
「だから何だ、って話だ。そもそも俺は、“ゼハディアの皇太子”として祈りにきたわけじゃない」

 あまりにも迷いのない口ぶりに、レティシアは息を呑む。“ゼハディアの皇太子”として祈りにきたわけじゃない――。それはつまり、“イヴァン・アルヴィーン”というひとりの人間として祈りにきてくれた、ということだろうか。こんな遠い地に足を運び、ほんの僅かとはいえ、それでも貴重な時間を割いてくれてまで。

「仮に、“ゼハディアの皇太子”として此処にいようが」

 鬱蒼とした緑をかさかさと揺らし、広々とした墓地を撫でるように渡ってきた風がふたりの間を吹き抜け、墓石の傍らに植えられた勿忘草の小さな花弁を震わせる。幼い頃、ソフィアとともに母へ想いを馳せながら植えた、青やピンクや白の愛らしい花たち。

 あの時彼女は、言っていた。いつか大きくなって、心から大事だと思える人ができたら。その人とともに、ぜひお祈りにいらしてください、と。きっとお母様は大層喜ばれるでしょうから、と――。

「俺は同じことをするぜ。君を生んでくれた母親へ最上の敬意を表するのに、それは当然の礼儀ってもんだろ」

 親父も神も怒りはしねえよ。そう言って微笑んだイヴァンの、真っ直ぐに向けられる揺るぎないあたたかな眼差しを受け止めながら、レティシアはそっと唇を噛み締める。

 大帝国の皇太子が祈りを捧げにきてくれている。ただそれだけでも、いち貴族にとっては――たとえ王家の傍流の血を継ぐ公爵家であろうと――何にも代え難いほどの誉れだというのに。あまつさえ、わざわざ墓前に膝をつき、恐らくは彼の国では最上級の作法で敬意を表そうとしてくれている。なんて破格の、これ以上ないと言っても過言ではない栄誉だろう。

 けれど――。墓石に向き直ったイヴァンの、逞しい後ろ姿をじっと見つめながら、レティシアはふっと顔を綻ばす。“ゼハディアの皇太子”が足を運んでくれたという事実だけでも、無論喜ばしいことだ。有り難いとも思う。けれどそれ以上に、“イヴァン・アルヴィーン”というひとりの人間がそこに居てくれることこそが、レティシアには何より尊く、つい目頭が熱くなってしまうほど、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

「……貴方のそういうところ、狡いと思うわ。もちろん良い意味で」
「そうか? べつに普通だろ」
「普通ではないから言っているのよ」

 苦笑をこぼしながら、レティシアもまたイヴァンの隣に跪く。

「アルバート殿下はきっと、同じことをされないと思うわ。そもそも、いらっしゃったことさえないもの。お父様でさえ、一度も」

 愛していなかったとはいえ、それでも一時期は夫婦としてひとつ屋根の下に暮らしていたレイモンドは、しかしエレノアが此処に眠っていることさえ知らない。離婚し、邸から追い出してからはもう、我関せずを貫いていた。大病を患っていようが、手持ち金が乏しく治療も食事もままならなくなろうが。彼女を、娘と同様に“道具”としてしか見ていなかった彼は、きっとエレノアが何処でどんな苦しみの末に亡くなろうとどうでも良かったのだろう。

「それはあいつらがおかしいだけだ」
「そうかしら」
「そうに決まってる」
「ゼハディアの大臣たちに咎められないか心配だわ」
「礼儀に文句をつけるような奴らはいねえよ。少なくとも、俺や親父の周りにはな」
「鷹揚な国民性なの?」
「せっかちなケレムを見てそう思うか?」
「彼が気忙しいのは貴方のせいでしょう」

 くすくすと笑って、レティシアは彼のやさしさを噛み締めるように、ゆっくりとひとつ瞬く。

 いずれ彼の妻となる女性は、やはりとびきりの幸福とぬくもりに満たされるに違いない。イヴァンはきっと、彼女を想い、彼女の家族を想い、そしてその全てを、誠意という名の真綿で大事に大事に包みこんでくれるはずだ。気紛れに交流のある、彼にしてみれば“取るにたらない知人のひとり”でしかない自分を産んでくれたという、ただそれだけの理由で、最大限の礼儀を尽くし、祈りを捧げようとしてくれているのだから。

「――イヴァン」
「ん?」
「ありがとう。お母様を想ってくれて。天国で喜んでいると思うわ」

 艷やかに磨き上げられた、質素だけれど美しい墓石を見つめながらそう告げると、不意に、くしゃりと頭を撫でられた。ごつごつとした、男らしい大きな掌で。

 どうか今だけは――。じんわりと伝わる穏やかなぬくもりにふわりと笑みをこぼし、レティシアは徐に瞼を下ろす。どうか今だけは、彼の隣に居ることを許してほしい、と。かけがえのないこの一瞬一瞬を、切なくも愛おしく思いながら。