“しあわせな結婚”とは何なのだろう、と考えることがある。
嘗てイヴァンは、言っていた。少なくとも俺は、愛される結婚の方がしあわせだと思う、と。人それぞれなのではあるのだろうけれど。それでも彼は、相手を蔑ろにする結婚よりも、愛される結婚の方がしあわせだ、と言っていた。
ならば、“しあわせ”とは何なのだろう。
愛があればそれで良いという人もいれば、金があれば、地位や名声があれば、或いは他の何かがあれば十分にしあわせだ、という人も世の中にはいるだろう。レイモンドやマチルダは、正しくそうだったと思う。彼等はお互いに愛情がなくとも、金と地位だけで“夫婦”という繋がりを保っていた。一方で、婚約者との契を破棄してでも一緒になりたいと、愛を優先したアルバートのような人間もいる。
各々で違う、とひと言で言ってしまえば、確かにそうなのだろうけれど。では、自分にとっての“しあわせ”とは、“しあわせな結婚”とは何なのだろう、と考えだすと、どうしても思考の深みに迷い込んでしまう。
イヴァンと共にいる生活が嫌なわけでは、決してない。しあわせではない、というわけでも。誰より一番近いところにいたい、という我儘を、彼は叶えてくれた。ゼハディアの皇帝も皇妃も、他国から嫁いできた娘――しかも突然――であるにもかかわらず、まるで我が子のように可愛がってくれるし、ケレムもクロエも以前と変わりなく接し、傍にいてくれる。そんな日々の何に、不満を抱けるというだろう。毎日はとても満ち足りている。この国を照らす太陽の、燦々と降り注ぐ陽光のようにあたたかに。
けれど、それが“本当のしあわせ”なのかというと、それは少し違うような気がした。
「――何読んでんだ?」
ふいに声をかけられ、レティシアは顔を上げた。天を仰ぐように、ぐっと首を後ろに曲げて。頭上を覆うように差した影と目が合うと、彼はにこりとやわらかく笑って、レティシアの剥き出しになった額に唇を落とした。触れるだけの、けれど、とびきり甘い砂糖菓子のような口付けを。
「ソフィアからの手紙よ」
そう告げると、ああ、と独り言のように小さくこぼして、イヴァンはレティシアの隣に腰掛けた。豪奢な白亜の宮殿に抱かれるようにして広がる、大きな庭園。川を模して人工的に作られた水路、絶え間なく水が溢れ出す大理石製の噴水、それらを活かすように配された椰子やサイプレス。幾つかの灌木には白やピンクの花が咲き、大きな手のひらのような葉をたっぷりと茂らせた木には、美味しそうイチジクがたわわに実っている。
そんな庭園の真ん中に設えられた、白いガゼボ。六本の白い柱で組まれたそれの天井には同色の網が張り巡らされ、そこに、鮮やかなオレンジ色をした蔓薔薇が隙間を埋めるようにしてびっしりと絡みついている。花や葉の隙間から差し込む幾つもの細い光の筋、それの描き出す、幾何学的な葉漏れ日の模様。
ガゼボの下には二人掛けのベンチが向かい合うようにして――間にティーテーブルを挟んで――置かれているというのに、イヴァンはその片方に座るのではなく、まるでそうするのが当然とでもいうような自然な素振りで、何の躊躇いもなく――そもそも考えることすらせずに――隣に腰を据えたものだから、レティシアはつい、くすくすと笑ってしまう。結婚し、同じ宮殿で過ごすようになってから気付いたことなのだけれど。彼は存外、くっついていたがる質のようだった。傍にいられる時は、一番近いところにいたい――その想いを行動で示してくれることが嬉しく、胸の中がぽうっとあかるく、あたたかくなるのを感じながら、レティシアはゆっくりとひとつ瞬いた。
「そういえば、来月こっちに越して来るんだったか」
「ええ、そうよ」
クロエの母であるソフィアは、レティシアたちと共にゼハディアへ行かないか、と娘に相当説得をされたようだったが、しかし「友人を置いてはいけない」という理由で、ひとりエルミラードに残ることにした。その決意は頑ななもので、クロエがどんなに言葉を尽くしても、結局は、やはり墓の中に眠る唯一無二の親友――エレノア――を置いてはゆけない、という想いが何よりも勝ったようだった。
しかしそんなソフィアも、さすがに身体の不調には抗えず、ゼハディアへ移住することを決めた。その引っ越し作業に、クロエだけでなくケレムもまた同行すると聞かされた時には驚いたものだが、確かに女ふたりだけの家族にとって、男手は必要なものだろう。――とはいえ、休暇を許可したイヴァンは、そればかりが理由ではない、と愉しんでいるようだったが。
けれど――。開いたままの便箋に視線を落とし、レティシアは胸の内で小さく苦笑をこぼす。ソフィアがゼハディアへ越すことを決めたのは、友人への想いに一区切りがつき、そして何より年齢による苦労が増えたからであるのは確かだけれど。しかし手紙の内容を読むに、どうもそれだけではないようだった。真っ直ぐに引かれた罫線に沿って、流麗な筆跡で綴られたたくさんの文字。もう何度となく辿ったそれを、レティシアはもう一度初めから、丁寧に視線でなぞる。
「先日、お父様がソフィアのもとを訪ねてきたそうよ」
「なんだ、改心でもしたのか」
「あら、あの“お父様”よ? そんなはずないじゃない」
天と地がひっくり返っても有り得ないわ、と付け加えたレティシアに、イヴァンは、ははっ、と声を上げて笑った。もし彼が心を入れ替え、真っ当に生きてゆこうとしているのなら、ソフィアのもとを訪ねなどしなかったはずだ。そもそも、レイモンドが彼女に会いに行ったのは、昔の使用人を懐かしんででも、はたまたエレノアへ未練や贖罪の意識があるからでもなく、たんに金の無心の為だったのだから。なんとも彼らしい、相変わらずと言えるその行動に、最初手紙を読んだ時には心底呆れたものだ。
レイモンドはあの後、爵位の返上こそ免れたものの、今や“没落貴族”として扱われ、社交界では格好の笑い草になっているようだった。嘗ては、王太子妃――ゆくゆくは“王妃の父”という肩書を手に掴む寸前まで上り詰めたというのに。そんな事実などまるでなかったかのように、見る影もないほどの凋落ぶりを晒しているという。
後妻であるマチルダとは離婚したようであるが、しかし、件の事件に彼女もまた関与していたことが発覚し、その影響はマチルダの実家にまで及んでいるようだった。ソフィアの綴るところによると、どうやらそのことによって、彼女は一族から縁を切られてしまったらしい。つまりはレイモンドもマチルダも、それぞれ“独り”になったということだ。これまでふたりが、散々他者に――特にエレノアに――対してしてきたのと同じ様に。
そんな彼等に、同情はまるでなかった。マチルダは兎も角、唯一血の繋がりのあるレイモンドに対してもそうであるのは、血も涙もない薄情な娘、と言われても仕方がないだろうけれど。しかし、だからといって、憐憫というものが湧いてくるわけではない。
「そういや、宮廷で一騒動起こってる、って風の噂で聞いたな」
「そうみたいね。ミリー様の件でしょう?」
ブランシャール家が、急な坂を転がるような勢いで零落している一方、エルミラード王国の宮廷では、王家の威信を揺るがしかねない大問題が噴出している、と、ソフィアの手紙にはそう書かれていた。
事の始まりは、ミリーと護衛騎士との不貞が明るみに出たことによるらしい。現在彼女は第二子を妊娠しているが、月数をもとに懐妊時期を遡ってみたところ、どうやら父親がアルバートでない可能性が高いのだという。ちょうどその頃、彼はひとつきばかり他国へ外遊しており、エルミラード王国を不在にしていたのだ。そうだというのに、どうやってアルバートの子を身籠ることが出来るというのだろう。その事実が露見するや否や、ミリーの身辺調査が行われ、忽ち数人の間男が引っ立てられた。中には結婚当初から関係を続けている者もおり、故に、第一王子の出生にまで疑惑が出てしまっているという。万が一にも、彼が間男との子であり、王太子であるアルバートの血を継いでいないとなれば、それこそ“王家”という存在そのものに深い傷を与えかねない。王位継承権、そして王位そのものへの正統性――。
アルバートはひどく憤怒しているそうだけれど、それはミリーに対してではなく、彼女に不埒な真似を働いて言い寄った間男たちに対するものだった。臣下たちはミリーとの離婚を諫言し、他国や自国から新しい娘を妃――或いは愛妾――として迎え入れようと企てているようだが、それを耳ざとく聞きつけたミリーが、なりふり構わず大暴れをして妨害し、何としても今の地位を守り抜こうと躍起になっているという。
「絵に描いたような泥沼劇じゃねえか」
そう言って深々と溜息を吐き出したイヴァンが、呆れ顔をしながら肩を竦めているのだろう姿が容易に想像出来、レティシアは手元に視線を落としたままくすりと笑う。
ソフィアの手紙によれば、王室のその騒動は既に社交界だけでなく市井にまで広がっており、一部の過激な人々からはミリーの処刑や追放を求める声や、更にはアルバートの“王太子”としての資質を問う声も挙がっているそうだ。
そこまで読み終え、レティシアは小さく息を吐き出して、ちらりと、隣りに座るイヴァンの横顔へ目を向けた。艷やかな銀色の髪の毛、南国の陽射しをそのまま溶かし込んだような褐色の肌、長く濃い睫毛に縁取られた金色の瞳、凹凸のくっきりとした輪郭。金細工を編んで作られたピアスが、穏やかに吹き抜ける風にのって、ふわりと揺れる。その完璧に整えられた美麗な横顔に、つい見惚れてしまいそうになるけれど、ふと振り向いた彼と視線が交わり、レティシアはわざと本心を隠しながら、戯けた調子で首を僅かに傾けた。
「貴方は、愛妾を作らないの?」
「俺が? 愛妾を? 何故? 君がいるのに」
心底驚いた、というふうに目を見開かせ、イヴァンはまじまじとレティシアを見つめる。その瞳は、疑っているのか、と問いたげでありながら、どこか拗ねた子どものようでもあり、レティシアは思わず小さく吹き出した。
「冗談よ」
「そういう君はどうなんだ」
「間男をもたないのか、ということかしら」
視線だけで肯定され、レティシアはふっと、吐息をこぼすように微笑む。
「貴方がいるのに、間男なんて必要ないわ」
貴方が与えてくれる愛だけで、私の身体はいっぱいいっぱいなんだもの――。その言葉は敢えて呑み込み、レティシアは手紙を片手にゆっくりと腰を上げた。庭園を撫でるように渡ってきた長閑な風に乗って、草花のふくよかな匂いが、辺り一面に強く漂う。かさかさと葉擦れの音を立てるオリーブ、一際香り立つジャスミンの白い花。ゼハディアの植物たちは、燦々と降り注ぐあたたかな陽光のおかげで、どれもこれも活き活きとした生命力に満ち溢れ、濃密な色をしている。
「もう行くのか」
「ええ。陛下とお茶の約束をしているの」
ゼハディア帝国の現皇帝・タリクは、病に臥せり、一時期は寝台から身を起こせないほどであったものの、侍医や皇妃たちの懸命な治療が実り、幸いにも今では軽い政務であればこなせるほどにまで快復していた。
とはいえ、無理は禁物ということで、宮廷を取り纏める主な役割は皇太子であるイヴァンが引き継ぎ、彼は朝から晩まで多忙な日々を送っている。もっと家族と共に過ごせる時間がほしい、と、事あるごとにケレムへ愚痴をこぼすほど。
「親父だけずるいよな。可愛い義理の娘と茶が飲めて。俺はこれから会議だっていうのに」
ベンチの背もたれにぐったりと身体を預け、イヴァンはつまらなさそうに眉根を寄せる。そんな彼がなんだか可愛らしく、レティシアはくすくすと笑い声をこぼして、そっと、愛する夫の頬に軽く唇を触れさせた。
「陛下とのお茶が終わったら、クロエとエルトと一緒に、お菓子を焼くことにしているの。出来上がったら、真っ先に貴方に持っていくわね」
息子の名前に、彼の綺麗に整えられた眉が、ぴくりと反応を示す。銀髪に金眼という、イヴァンの血を色濃く受け継いだのだろう一人息子は、あまりにも幼い頃の彼によく似ているせいで、ケレムはよく“小さなイヴァン”と言っている。当のイヴァンはそれを不服に思っているようだけれど――そこまでやんちゃではなかった、と常々反論している――、子供の時分から彼の世話をしてきたケレムからすれば、言動そのものや、端々から覗くちょっとした仕草が、瓜二つにしか見えないのだろう。そんなケレムは、イヴァン同様に、第一皇子であるエルトからもすこぶる懐かれている。
「それは楽しみだ」
そう言いながら、イヴァンはレティシアの腰に腕を回して軽く引き寄せ、近付いた唇に、やさしく口付けた。数時間後にはまた会えるというのに。その離れている僅かな時間さえ惜しい、というような、寂しさの滲んだぬくもり。この人は本当に狡い、と、薄い皮膚にじんわりと広がるその甘美なぬくもりに感じ入りながら、レティシアは思う。この人は、本当に狡い。だってそんなキスをされてしまうと、離れがたくなってしまうから。
とはいえ、約束に遅れるわけにはいかない。どうにか理性を働かせ、レティシアはゆっくりと身体を離す。それでも縋るように追いかけてくる夫の双眸を、レティシアは愛しさを込めながら見つめ返し、苦笑ともつかない薄い笑みを浮かべる。もう行かないと、と、そのたったひと言を告げるのには、もう少しだけ時間が必要だった。
「君が来るまでに、一山終わらせておくか」
「ええ。でも、無理はしないでね」
更に一拍ほど見つめ合い、ゆっくりとひとつ瞬いた後、レティシアはドレスの裾をふわりと靡かせて踵を返した。もうじき、陛下付きの侍女が迎えに来るだろう。それまでに、クロエに手伝ってもらいながら、改めて身嗜みを整えておかなければならない。もう身内であるとはいえ、それでも相手は大帝国の偉大な皇帝陛下なのだから。
「――レティシア」
唐突に名前を呼ばれ、レティシアは足を止めた。振り返ると、ベンチに腰掛けたままのイヴァンと目が合う。やさしくも、熱を帯びた、甘やかな眼差し。端正な顔には、いつもの屈託のない笑みが浮かんでいた。天高いところから大地を明るく照らす太陽のような、無邪気で溌剌とした――レティシアの一番好きな、眩いな笑顔。
「愛してる」
“しあわせな結婚”とは何なのだろう、と考えることがある。金や地位があればしあわせなのか。それとも、愛があればしあわせなのか。
イヴァンは、少なくとも愛される結婚の方がしあわせだ、と言っていた。相手を蔑ろにする結婚よりも、愛される結婚の方がしあわせだ、と。
完璧な婚約者でいること。完璧な王太子妃でいること。父の便利な人形でいること。それは確かに、見方によっては“しあわせ”であったのかもしれない。父の言いなりになり、既に敷かれた道を歩めば、あの国で最も高い地位にある男の妻として、そして国の母として在ることが出来たのだから。
けれども、そうあることに縛られ続けたこれまでの人生は、そしてその果てに得るしあわせは、ある意味、箱庭の中にだけ存在する、そこでしか光り輝くことの出来ない“偽物”だったのだろう、と思う。本物の愛はそこになくとも、“完璧な人形”として、“便利な駒”として――少なくとも父からは――愛でられ続けたかもしれない。しかし、それはあくまで箱庭に閉じ込められ、そこで生き続ける“人形”の話であり、その末路だ。
でも、そこから一歩外に出ればもう、それがまやかしであったと分かる。今となってはもう、どれもこれも色褪せた記憶の欠片でしかない。
愛されれば、しあわせなのか。愛さえあれば、それはしあわせな結婚なのか。箱庭に中にあったものと、今正に眼の前にあるものとでは、何が違うのだろう。
「――イヴァン」
それは、多分――。身体ごと向き直り、レティシアは込み上げる想いを顔いっぱいに溢れさせながら、ふわりと、大輪の花が綻ぶように笑った。それは多分、“ひとりの人間”として扱われているか否かなのだろう。ひとりの人間として認め、ひとりの人間として愛し、ひとりの人間として愛されることの違い。そして、人形としてではなく、ひとりの人間として在れること。“愛される”ことが先にあるのではない。それらの末に、“愛し愛される関係”が存在するのだろう、と思う。
だから、私にとっての“しあわせな結婚”は、初めて私を“ひとりの人間”として見つめてくれた貴方の隣に、“本当の私”のままでいられること――。
「“本当の私”を見つけてくれて、ありがとう。愛しているわ。誰よりも、貴方だけを。心の底から、愛してる」
嘗てイヴァンは、言っていた。少なくとも俺は、愛される結婚の方がしあわせだと思う、と。人それぞれなのではあるのだろうけれど。それでも彼は、相手を蔑ろにする結婚よりも、愛される結婚の方がしあわせだ、と言っていた。
ならば、“しあわせ”とは何なのだろう。
愛があればそれで良いという人もいれば、金があれば、地位や名声があれば、或いは他の何かがあれば十分にしあわせだ、という人も世の中にはいるだろう。レイモンドやマチルダは、正しくそうだったと思う。彼等はお互いに愛情がなくとも、金と地位だけで“夫婦”という繋がりを保っていた。一方で、婚約者との契を破棄してでも一緒になりたいと、愛を優先したアルバートのような人間もいる。
各々で違う、とひと言で言ってしまえば、確かにそうなのだろうけれど。では、自分にとっての“しあわせ”とは、“しあわせな結婚”とは何なのだろう、と考えだすと、どうしても思考の深みに迷い込んでしまう。
イヴァンと共にいる生活が嫌なわけでは、決してない。しあわせではない、というわけでも。誰より一番近いところにいたい、という我儘を、彼は叶えてくれた。ゼハディアの皇帝も皇妃も、他国から嫁いできた娘――しかも突然――であるにもかかわらず、まるで我が子のように可愛がってくれるし、ケレムもクロエも以前と変わりなく接し、傍にいてくれる。そんな日々の何に、不満を抱けるというだろう。毎日はとても満ち足りている。この国を照らす太陽の、燦々と降り注ぐ陽光のようにあたたかに。
けれど、それが“本当のしあわせ”なのかというと、それは少し違うような気がした。
「――何読んでんだ?」
ふいに声をかけられ、レティシアは顔を上げた。天を仰ぐように、ぐっと首を後ろに曲げて。頭上を覆うように差した影と目が合うと、彼はにこりとやわらかく笑って、レティシアの剥き出しになった額に唇を落とした。触れるだけの、けれど、とびきり甘い砂糖菓子のような口付けを。
「ソフィアからの手紙よ」
そう告げると、ああ、と独り言のように小さくこぼして、イヴァンはレティシアの隣に腰掛けた。豪奢な白亜の宮殿に抱かれるようにして広がる、大きな庭園。川を模して人工的に作られた水路、絶え間なく水が溢れ出す大理石製の噴水、それらを活かすように配された椰子やサイプレス。幾つかの灌木には白やピンクの花が咲き、大きな手のひらのような葉をたっぷりと茂らせた木には、美味しそうイチジクがたわわに実っている。
そんな庭園の真ん中に設えられた、白いガゼボ。六本の白い柱で組まれたそれの天井には同色の網が張り巡らされ、そこに、鮮やかなオレンジ色をした蔓薔薇が隙間を埋めるようにしてびっしりと絡みついている。花や葉の隙間から差し込む幾つもの細い光の筋、それの描き出す、幾何学的な葉漏れ日の模様。
ガゼボの下には二人掛けのベンチが向かい合うようにして――間にティーテーブルを挟んで――置かれているというのに、イヴァンはその片方に座るのではなく、まるでそうするのが当然とでもいうような自然な素振りで、何の躊躇いもなく――そもそも考えることすらせずに――隣に腰を据えたものだから、レティシアはつい、くすくすと笑ってしまう。結婚し、同じ宮殿で過ごすようになってから気付いたことなのだけれど。彼は存外、くっついていたがる質のようだった。傍にいられる時は、一番近いところにいたい――その想いを行動で示してくれることが嬉しく、胸の中がぽうっとあかるく、あたたかくなるのを感じながら、レティシアはゆっくりとひとつ瞬いた。
「そういえば、来月こっちに越して来るんだったか」
「ええ、そうよ」
クロエの母であるソフィアは、レティシアたちと共にゼハディアへ行かないか、と娘に相当説得をされたようだったが、しかし「友人を置いてはいけない」という理由で、ひとりエルミラードに残ることにした。その決意は頑ななもので、クロエがどんなに言葉を尽くしても、結局は、やはり墓の中に眠る唯一無二の親友――エレノア――を置いてはゆけない、という想いが何よりも勝ったようだった。
しかしそんなソフィアも、さすがに身体の不調には抗えず、ゼハディアへ移住することを決めた。その引っ越し作業に、クロエだけでなくケレムもまた同行すると聞かされた時には驚いたものだが、確かに女ふたりだけの家族にとって、男手は必要なものだろう。――とはいえ、休暇を許可したイヴァンは、そればかりが理由ではない、と愉しんでいるようだったが。
けれど――。開いたままの便箋に視線を落とし、レティシアは胸の内で小さく苦笑をこぼす。ソフィアがゼハディアへ越すことを決めたのは、友人への想いに一区切りがつき、そして何より年齢による苦労が増えたからであるのは確かだけれど。しかし手紙の内容を読むに、どうもそれだけではないようだった。真っ直ぐに引かれた罫線に沿って、流麗な筆跡で綴られたたくさんの文字。もう何度となく辿ったそれを、レティシアはもう一度初めから、丁寧に視線でなぞる。
「先日、お父様がソフィアのもとを訪ねてきたそうよ」
「なんだ、改心でもしたのか」
「あら、あの“お父様”よ? そんなはずないじゃない」
天と地がひっくり返っても有り得ないわ、と付け加えたレティシアに、イヴァンは、ははっ、と声を上げて笑った。もし彼が心を入れ替え、真っ当に生きてゆこうとしているのなら、ソフィアのもとを訪ねなどしなかったはずだ。そもそも、レイモンドが彼女に会いに行ったのは、昔の使用人を懐かしんででも、はたまたエレノアへ未練や贖罪の意識があるからでもなく、たんに金の無心の為だったのだから。なんとも彼らしい、相変わらずと言えるその行動に、最初手紙を読んだ時には心底呆れたものだ。
レイモンドはあの後、爵位の返上こそ免れたものの、今や“没落貴族”として扱われ、社交界では格好の笑い草になっているようだった。嘗ては、王太子妃――ゆくゆくは“王妃の父”という肩書を手に掴む寸前まで上り詰めたというのに。そんな事実などまるでなかったかのように、見る影もないほどの凋落ぶりを晒しているという。
後妻であるマチルダとは離婚したようであるが、しかし、件の事件に彼女もまた関与していたことが発覚し、その影響はマチルダの実家にまで及んでいるようだった。ソフィアの綴るところによると、どうやらそのことによって、彼女は一族から縁を切られてしまったらしい。つまりはレイモンドもマチルダも、それぞれ“独り”になったということだ。これまでふたりが、散々他者に――特にエレノアに――対してしてきたのと同じ様に。
そんな彼等に、同情はまるでなかった。マチルダは兎も角、唯一血の繋がりのあるレイモンドに対してもそうであるのは、血も涙もない薄情な娘、と言われても仕方がないだろうけれど。しかし、だからといって、憐憫というものが湧いてくるわけではない。
「そういや、宮廷で一騒動起こってる、って風の噂で聞いたな」
「そうみたいね。ミリー様の件でしょう?」
ブランシャール家が、急な坂を転がるような勢いで零落している一方、エルミラード王国の宮廷では、王家の威信を揺るがしかねない大問題が噴出している、と、ソフィアの手紙にはそう書かれていた。
事の始まりは、ミリーと護衛騎士との不貞が明るみに出たことによるらしい。現在彼女は第二子を妊娠しているが、月数をもとに懐妊時期を遡ってみたところ、どうやら父親がアルバートでない可能性が高いのだという。ちょうどその頃、彼はひとつきばかり他国へ外遊しており、エルミラード王国を不在にしていたのだ。そうだというのに、どうやってアルバートの子を身籠ることが出来るというのだろう。その事実が露見するや否や、ミリーの身辺調査が行われ、忽ち数人の間男が引っ立てられた。中には結婚当初から関係を続けている者もおり、故に、第一王子の出生にまで疑惑が出てしまっているという。万が一にも、彼が間男との子であり、王太子であるアルバートの血を継いでいないとなれば、それこそ“王家”という存在そのものに深い傷を与えかねない。王位継承権、そして王位そのものへの正統性――。
アルバートはひどく憤怒しているそうだけれど、それはミリーに対してではなく、彼女に不埒な真似を働いて言い寄った間男たちに対するものだった。臣下たちはミリーとの離婚を諫言し、他国や自国から新しい娘を妃――或いは愛妾――として迎え入れようと企てているようだが、それを耳ざとく聞きつけたミリーが、なりふり構わず大暴れをして妨害し、何としても今の地位を守り抜こうと躍起になっているという。
「絵に描いたような泥沼劇じゃねえか」
そう言って深々と溜息を吐き出したイヴァンが、呆れ顔をしながら肩を竦めているのだろう姿が容易に想像出来、レティシアは手元に視線を落としたままくすりと笑う。
ソフィアの手紙によれば、王室のその騒動は既に社交界だけでなく市井にまで広がっており、一部の過激な人々からはミリーの処刑や追放を求める声や、更にはアルバートの“王太子”としての資質を問う声も挙がっているそうだ。
そこまで読み終え、レティシアは小さく息を吐き出して、ちらりと、隣りに座るイヴァンの横顔へ目を向けた。艷やかな銀色の髪の毛、南国の陽射しをそのまま溶かし込んだような褐色の肌、長く濃い睫毛に縁取られた金色の瞳、凹凸のくっきりとした輪郭。金細工を編んで作られたピアスが、穏やかに吹き抜ける風にのって、ふわりと揺れる。その完璧に整えられた美麗な横顔に、つい見惚れてしまいそうになるけれど、ふと振り向いた彼と視線が交わり、レティシアはわざと本心を隠しながら、戯けた調子で首を僅かに傾けた。
「貴方は、愛妾を作らないの?」
「俺が? 愛妾を? 何故? 君がいるのに」
心底驚いた、というふうに目を見開かせ、イヴァンはまじまじとレティシアを見つめる。その瞳は、疑っているのか、と問いたげでありながら、どこか拗ねた子どものようでもあり、レティシアは思わず小さく吹き出した。
「冗談よ」
「そういう君はどうなんだ」
「間男をもたないのか、ということかしら」
視線だけで肯定され、レティシアはふっと、吐息をこぼすように微笑む。
「貴方がいるのに、間男なんて必要ないわ」
貴方が与えてくれる愛だけで、私の身体はいっぱいいっぱいなんだもの――。その言葉は敢えて呑み込み、レティシアは手紙を片手にゆっくりと腰を上げた。庭園を撫でるように渡ってきた長閑な風に乗って、草花のふくよかな匂いが、辺り一面に強く漂う。かさかさと葉擦れの音を立てるオリーブ、一際香り立つジャスミンの白い花。ゼハディアの植物たちは、燦々と降り注ぐあたたかな陽光のおかげで、どれもこれも活き活きとした生命力に満ち溢れ、濃密な色をしている。
「もう行くのか」
「ええ。陛下とお茶の約束をしているの」
ゼハディア帝国の現皇帝・タリクは、病に臥せり、一時期は寝台から身を起こせないほどであったものの、侍医や皇妃たちの懸命な治療が実り、幸いにも今では軽い政務であればこなせるほどにまで快復していた。
とはいえ、無理は禁物ということで、宮廷を取り纏める主な役割は皇太子であるイヴァンが引き継ぎ、彼は朝から晩まで多忙な日々を送っている。もっと家族と共に過ごせる時間がほしい、と、事あるごとにケレムへ愚痴をこぼすほど。
「親父だけずるいよな。可愛い義理の娘と茶が飲めて。俺はこれから会議だっていうのに」
ベンチの背もたれにぐったりと身体を預け、イヴァンはつまらなさそうに眉根を寄せる。そんな彼がなんだか可愛らしく、レティシアはくすくすと笑い声をこぼして、そっと、愛する夫の頬に軽く唇を触れさせた。
「陛下とのお茶が終わったら、クロエとエルトと一緒に、お菓子を焼くことにしているの。出来上がったら、真っ先に貴方に持っていくわね」
息子の名前に、彼の綺麗に整えられた眉が、ぴくりと反応を示す。銀髪に金眼という、イヴァンの血を色濃く受け継いだのだろう一人息子は、あまりにも幼い頃の彼によく似ているせいで、ケレムはよく“小さなイヴァン”と言っている。当のイヴァンはそれを不服に思っているようだけれど――そこまでやんちゃではなかった、と常々反論している――、子供の時分から彼の世話をしてきたケレムからすれば、言動そのものや、端々から覗くちょっとした仕草が、瓜二つにしか見えないのだろう。そんなケレムは、イヴァン同様に、第一皇子であるエルトからもすこぶる懐かれている。
「それは楽しみだ」
そう言いながら、イヴァンはレティシアの腰に腕を回して軽く引き寄せ、近付いた唇に、やさしく口付けた。数時間後にはまた会えるというのに。その離れている僅かな時間さえ惜しい、というような、寂しさの滲んだぬくもり。この人は本当に狡い、と、薄い皮膚にじんわりと広がるその甘美なぬくもりに感じ入りながら、レティシアは思う。この人は、本当に狡い。だってそんなキスをされてしまうと、離れがたくなってしまうから。
とはいえ、約束に遅れるわけにはいかない。どうにか理性を働かせ、レティシアはゆっくりと身体を離す。それでも縋るように追いかけてくる夫の双眸を、レティシアは愛しさを込めながら見つめ返し、苦笑ともつかない薄い笑みを浮かべる。もう行かないと、と、そのたったひと言を告げるのには、もう少しだけ時間が必要だった。
「君が来るまでに、一山終わらせておくか」
「ええ。でも、無理はしないでね」
更に一拍ほど見つめ合い、ゆっくりとひとつ瞬いた後、レティシアはドレスの裾をふわりと靡かせて踵を返した。もうじき、陛下付きの侍女が迎えに来るだろう。それまでに、クロエに手伝ってもらいながら、改めて身嗜みを整えておかなければならない。もう身内であるとはいえ、それでも相手は大帝国の偉大な皇帝陛下なのだから。
「――レティシア」
唐突に名前を呼ばれ、レティシアは足を止めた。振り返ると、ベンチに腰掛けたままのイヴァンと目が合う。やさしくも、熱を帯びた、甘やかな眼差し。端正な顔には、いつもの屈託のない笑みが浮かんでいた。天高いところから大地を明るく照らす太陽のような、無邪気で溌剌とした――レティシアの一番好きな、眩いな笑顔。
「愛してる」
“しあわせな結婚”とは何なのだろう、と考えることがある。金や地位があればしあわせなのか。それとも、愛があればしあわせなのか。
イヴァンは、少なくとも愛される結婚の方がしあわせだ、と言っていた。相手を蔑ろにする結婚よりも、愛される結婚の方がしあわせだ、と。
完璧な婚約者でいること。完璧な王太子妃でいること。父の便利な人形でいること。それは確かに、見方によっては“しあわせ”であったのかもしれない。父の言いなりになり、既に敷かれた道を歩めば、あの国で最も高い地位にある男の妻として、そして国の母として在ることが出来たのだから。
けれども、そうあることに縛られ続けたこれまでの人生は、そしてその果てに得るしあわせは、ある意味、箱庭の中にだけ存在する、そこでしか光り輝くことの出来ない“偽物”だったのだろう、と思う。本物の愛はそこになくとも、“完璧な人形”として、“便利な駒”として――少なくとも父からは――愛でられ続けたかもしれない。しかし、それはあくまで箱庭に閉じ込められ、そこで生き続ける“人形”の話であり、その末路だ。
でも、そこから一歩外に出ればもう、それがまやかしであったと分かる。今となってはもう、どれもこれも色褪せた記憶の欠片でしかない。
愛されれば、しあわせなのか。愛さえあれば、それはしあわせな結婚なのか。箱庭に中にあったものと、今正に眼の前にあるものとでは、何が違うのだろう。
「――イヴァン」
それは、多分――。身体ごと向き直り、レティシアは込み上げる想いを顔いっぱいに溢れさせながら、ふわりと、大輪の花が綻ぶように笑った。それは多分、“ひとりの人間”として扱われているか否かなのだろう。ひとりの人間として認め、ひとりの人間として愛し、ひとりの人間として愛されることの違い。そして、人形としてではなく、ひとりの人間として在れること。“愛される”ことが先にあるのではない。それらの末に、“愛し愛される関係”が存在するのだろう、と思う。
だから、私にとっての“しあわせな結婚”は、初めて私を“ひとりの人間”として見つめてくれた貴方の隣に、“本当の私”のままでいられること――。
「“本当の私”を見つけてくれて、ありがとう。愛しているわ。誰よりも、貴方だけを。心の底から、愛してる」



