婚約破棄された出戻り令嬢の、しあわせな結婚について

 捕まった――そう、思った。一瞬で。頭の中を、忽ち嫌な想像が埋め尽くす。マチルダ、見張り、執事長、或いは他の――。ぶつかった反動で身体が後ろに跳ね返り、ヒールの踵が滑る。これでは無様に転けるだけだ、と、思考はすぐにそこへ至るのに、でも、身体の端々にまでそれは行き届かず、踏ん張るにはどうしても間に合わない。

 ぎゅっと目を瞑り、襲い来るであろう衝撃に備えて身を固めたレティシアだったが、しかしいつまで待っても、どすん、と倒れ込む音も聞こえなければ、骨に響くような痛みも床の硬さも感じない。ただ、すっぽりと何かに覆われているような気がするだけだ。腰に何かが巻き付き、それに支えられているような感覚が。

 閉じていた瞼を、レティシアは恐る恐る持ち上げる。視界に映り込んだのは、誰かの足元でも、煌々と灯る天井でも、はたまた艷やかに磨き立てられた床でもなく、見覚えのある金の首飾りと、複雑な模様の刺繍がたっぷりと施された濃紺の布だった。仄かに甘く、それでいてエキゾチックなぬくもりの溶け込んだふくよかな薫りが、ふわりと鼻先を掠める。刹那、どきりと心臓が飛び跳ねた。一際強く、胸を突き破りそうなほどの勢いで、激しく。

 呆然としながら顔を上向けると、太陽のように眩いあの金色の瞳が、そこにあった。今すぐに会いたい、と。傍に行きたい、と思っていた、愛しい男の瞳が、そこに。

 何故此処に居るの。今日は会う約束なんてしていなかったじゃない。邸に来るだなんて聞いていないわ――。疑問は次から次へと浮かんでくるけれど、浮かんだ端から、それらはあぶくのように弾けて消えてゆく。多分、そんなものは必要ないのだ。何を訊いたところで、結局身体の奥底から湧き出てくる想いから目を逸らすことも、抑え込むことも、出来やしないのだから。

「イ、ヴァン……」

 ゆるゆると目を見開かせながら、レティシアはぽつりと、掠れた声で彼の名前を紡ぐ。部屋にはレイモンドがいるのだから、親しい間柄であることを示すような態度をとってはいけない、と、分かっている。分かっているけれど、真っ直ぐに向けられる穏やかな眼差しが、“ゼハディア帝国の皇太子”としてではなく“イヴァン・アルヴィーン”としてのそれであるせいで、どうしても取り繕うことが出来ない。“イヴァン”というひとりの人間として見つめてくれているからこそ、自分もまた、“レティシア”というひとりの人間として、その瞳を受け止め、応えたいと思ってしまう。

「――もっと早く来れば良かったと、後悔している」

 そう言いながら、何故か彼の方が悲しみを、痛みを堪えるように、眉根を寄せた。そうして、徐に持ち上げた右手で、レティシアの頬に――レイモンドに打たれた方の頬に――やさしく触れる。親指の腹で、そうっと肌を撫でられると、腫れなんて初めからなかったかのように、じくじくとした疼きが溶けて消えてゆく。まるで魔法の手だ、と、されるがままになりながら、レティシアは思う。彼はもしかしたら魔法使いなのかもしれない、と、有り得もしないことを、けれどほんの少し本気で。

「これはこれは、イヴァン殿下。よくぞ我が邸へお越しくださいました。昨夜のダンス、娘から聞いております。楽しいひとときをお過ごしいただけましたかな」

 浅ましい下心を隠しもしない、あまりにも耳障りな猫撫で声。気色ばんでいたあの顔にはもう、媚び諂うような下卑た笑みが浮かんでいるだろうことは、振り返らずとも分かった。身分が高い、或いは利益になりそうな相手には阿り、何の価値もない上に自身よりも身分の低い相手には高圧的な態度をとるのは、昔から変わらないレイモンドの性分だ。

 いくら血の繋がった父といえど、そんな男とイヴァンを会わせたくはなかった。耳障りな声を聞かせることも。レイモンドは間違いなく、彼を逃がしはしないだろうから。己の欲の為だけに。

「それにしても、こうしてご足労いただけたということは、娘に何か特別な御用でもおありでしょうか?」

 嬉々とした口調でそう問いかけたレイモンドを、しかしイヴァンは冷たく一瞥しただけで、すぐに視界の外へと追い遣った。存在を認識していながら、しかし、まるでそこに存在などしていないかのように。

「――レティシア」

 あたたかな声音で名前を囁かれ、レティシアはその心地良さに、思わず甘やかな吐息を漏らす。不思議な感覚だった。彼と見つめ合っていると、まるで互いの瞳の中に、ただ相手だけが存在しているかのような、或いは、見つめ合うことで、ふたりきりの世界がそこに広がっているような錯覚に心をとらわれる。その世界が、このままずっと続けば良いのに、と思う。そうしたらどんなに幸せだろう、とも。

 だから、「どうしたの」と、たったそれだけの言葉を返すのにすら、長い間を要してしまった。イヴァンが、その不自然な空白に、小さく笑う。それが、彼に伝わったのだ、という証左であるような気がして、レティシアは胸を高鳴らさずにはいられなかった。

「勝手なことを言うようだが……ひとつ、君に選んでほしいことがある」

 何のことだか分からず小首を傾げると、イヴァンはほんの一瞬だけ視線を逸らした。気まずそうに、というより、最適な言葉を慎重に選んでいるような。けれど、再び重なった金色の瞳には、確かな意思が感じられた。清々しいほどに真っ直ぐな、少しの揺るぎもない、それこそ、太陽そのもののような力強い意思を。

「このまま此処に残るか、それとも――俺と一緒にゼハディアへ行くか」

 時が、止まったような気がした。瞬きも呼吸も鼓動も思考も、ありとあらゆる全てのものが止まってしまったような気が。イヴァンの双眸を見上げたまま、レティシアはただ呆然と立ち尽くす。そうする以外に出来ることは、何もなかった。出来るはずがなかった。

「但し、俺と一緒に行くのなら、君にはこの家もこの国も捨ててもらうことになる」

 どくん、と心臓が跳ね上がり、血潮が身体中へ送り出される感覚とともに、頭が少しずつ彼の言葉を呑み込んでゆく。此処に残るか、それとも、俺と一緒にゼハディアへ行くか――。ぼんやりとした意識の指先で、それでも丁寧になぞるようにして、幾度も幾度も反芻する。此処に残るか、それとも、俺と一緒にゼハディアへ行くか――。

 正気なの?
 とても本当のことと思えないわ。
 一体どういうつもり?

 言葉になりそこねた塊たちが、吸い込んだ空気と共に、喉の奥へと滑り落ちてゆく。愚問だ、と思った。浮かんでくるのはどれも愚問ばかりだ、と。だって彼の真摯な双眸を見れば、イヴァンが嘘を言っているわけでも、誑かしているわけでも、戯けているわけでもないことは、痛いほど伝わってくるのだから。

「本当は、今すぐにでも君を攫ってしまいたい……というのが、正直な気持ちなんだがな」

 そう言って、イヴァンは苦笑とも自嘲ともつかない笑みを、微かに滲ませた。

「けど、君の人生を選ぶのは、俺ではなく君自身だ。だから、教えてほしい。君がどうしたいのかを。たとえどんな答えが返ろうと、俺は君の意思を尊重する」

 どうしてこの人は――。あたたかな声が、まるで蜜のように鼓膜を甘く伝ってゆくのを感じながら、レティシアは思う。どうしてこの人は、私の心を、こうも簡単に揺り動かしてしまうのだろう、と。

 初めて出会った時から、そうだった。木の枝に腰掛け、まだ小さかった手で、こんこん、と窓を叩いたあの時から、ずっと。――彼は、色のない世界を、いつだって一瞬にして色鮮やかに燈してくれる。

「行くわ……貴方と一緒に」

 無意識に、答えは口を衝いて出ていた。

「この家を、この国を捨てても」
「レ、レティシア! お前は何を言っているんだっ!」

 背後から、レイモンドの慌てふためく叫びが聞こえてきたけれど、

「もう嫌なの!」

 今まで一度だって荒げたことのない声を張り上げ、レティシアは父を遮った。もう貴方の人形でいたくはない、と、明確な拒絶を言外に含ませて。

 それをきっかけに、箍が外れてしまった喉から、次から次へと言葉が溢れ出してくる。

「イヴァン……私は、貴方と一緒に行きたいわ。たとえ一番近くにいられなくても、構わない。そんな欲張りなことは言わないから……貴方が大切に守り、導いていく尊い国で、貴方と同じ景色を見ながら生きていければ、ただそれだけで……」

 込み上げてくる想いを、そのまま声にのせてしまったせいで、まとまりのないことを口走ってしまっているという自覚は、ある。けれども、レティシアには他にどうしようもなかった。迸る言葉を、感情を、堰き止めることなんて。唇を縫うでもしなければ、とても出来るわけがなかった。

「だから……だから、お願い。私も一緒に、連れて行って」

 イヴァンの瞳を見つめたまま、レティシアはそっと微笑む。刹那、目の端からぽろりと何かがこぼれ落ち、熱をもったそれが、ゆっくりと肌の上を滑ってゆく。そこで漸く、レティシアは自分が泣いていることに気が付いた。いつからだったのか判然としないほど、頬も顎もびっしょりと濡れている。泣いている、と、自覚しまえばもう、堪えようがなかった。引き結んだ唇の僅かな隙間から、震えた吐息が漏れる。幼い子どもが、しゃくりあげるみたいに。

 呆れただろうか。きっと間抜けな、情けない顔をしているだろうから。

 そんな不安に駆られたレティシアを、しかしイヴァンは慈しむように抱き締めた。やさしく、けれども、力強く。

「……俺は、君に一番近くにいてもらわないと、困るんだがな」

 穏やかな笑い声が耳元に響き、レティシアはたまらず、イヴァンの服をぎゅっと握り締めながら、逞しい胸板に顔を擦り寄せた。離れたくない、と、そう告げるように。すると、まるでそれに応えるかのように、抱き締める腕に力がこもった。それがまた、レティシアの涙をとめどなく溢れさせる。ちゃんと伝わっているのだ、と。それが分かるからこそ、どうしようもないほどに。

「冗談はよせ、レティシア……! 嗚呼、イヴァン殿下もそうお思いでしょう? 家族を捨てるなど、そんな」
「自分の娘を容赦なく打った男の発言とはとても思えんな」

 髪を撫でる指先はあたたかなのに、レイモンドへ投げつける言葉は凍てついた刃のように冷ややかで。レイモンドが息を呑む気配がしたけれど、レティシアは彼を気にかけることも、振り返ることもしなかった。

「しかしまあ、見縊られたもんだな。あの浮気男と同類にされるとは」

 くすりと嗤うのに紛れ、すぐ傍らから、誰かの足音が聞こえた。横を通り過ぎていったそれは、ゆっくりと、少しずつ遠ざかってゆく。レイモンドの方へ向かって。やがて、ばさりと何かが散らばる音が部屋中に広がった。紙の束が宙を舞って散乱するような。

「俺がどれだけ長い間、一途に想い続けてきたと思ってんだ。そうだというのに、あんな奴と一緒にされるとは、反吐が出る」

 レイモンドが、小さな悲鳴を上げる。喉を引き攣らせた、殆ど金切り声のような悲鳴。

「レティシアを連れて行くことは、エルミラード王には既に許可を得ている。他国の娘を、皇太子妃として迎えるわけだからな。筋を通しておかなければならん」
「これはっ……これはどういうっ……」
「ああ、それか? 陛下への手土産だ」

 戯けたような、それでいて明確な軽蔑を孕んだ口調でそう言い放ち、イヴァンはくつりと喉を鳴らして嗤った。

「我が国の商会相手に、随分と汚い真似をしてくれていたようだな、レイモンド・ブランシャール。貿易の問題は、国家間の信用にも関わる。無論、皇帝の耳にも入っているさ」

 えっ、と、涙で濡れた頓狂な声をこぼし、レティシアは思わず顔を上げる。けれど、それより先に、頭に添えられたイヴァンの手が、レティシアの動きをやさしく制した。大丈夫だ、と、まるでそう伝えるかのように、そっと。

「レティシアの父ということで、穏便に済ませようと思っていたんだが……まあ、もうその必要はなくなったわけだ。近々、沙汰が出るだろう。――それまで、せいぜい首が飛ばんことを祈るんだな」