一頻りダンスを楽しんだ後、レティシアは息抜きがてら庭園に足を運んだ。大広間のある建物の裏側にある、ひと気配のない戸口から出たところにあるそれは、四方を石造りの回廊に抱かれた小さな中庭で、大庭園や温室に比べて植わっている草花はそう多くない。けれど、控え目な色調で揃えられた植物と、バランスよく配された木々、ひっそりと佇むオブジェが織り成すしっとりとした雰囲気が、レティシアはとても気に入っていた。
あの日もこんな夜だった――。青白い月明かりに照らされ、息を潜めて静かに眠る鈴蘭やビオラ、スイートアッサムをぼんやりと眺めながら、レティシアは小さく息を吐く。婚約者であるアルバートが、ミリーと口付けを交わしているその只中に偶然出くわしてしまった、あの夜。その日もまた、大広間からはヴァイオリンやフルートの華やかな音色が聞こえてきていたし、頬を撫でる風もひんやりと穏やかで心地が良かった。雲ひとつない澄んだ夜空、煌々と輝く星々、圧倒的な存在感を放ちながらきらめく丸い月。
息抜きをしたい、とうのは、確かにそうだったのだけれど。でもあの日と違うのは、ただそれだけが理由ではない、ということだった。休むことくらい、大広間の中でだって幾らでも出来ることだ。壁際に立っているだけでも良いのだし、たくさんある控室のどれかで息をつくことも出来る。
しかしそうしなかったのは、周囲の目――決して快くはない、刺々しい無数の視線たち――があったからというのも、もちろんあるけれど。でもそれ以上に、イヴァンが誰かの手をとり、楽しく談笑をしたり、ダンスに興じたりする姿を見ていたくなかったからだ。――あんな濃密で甘美なひとときを過ごした後だから、なおのこと。醜い嫉妬心に苛まれたくはなかった。
――俺も行く。
最後の一曲を終え、休憩を兼ねて外の空気を吸いに行くと告げると、彼はいつもの飄々とした様子で後をついてこようとした。まるでそうすることがさも当たり前であるかのように。そんな彼を慌ててとめたのは、外でもないレティシア自身だった。一緒に行く、と、イヴァンがそう言ってくれたことはとても嬉しかったけれど。しかし、いつまでも彼を独り占めにしているのは、さすがに気が引けた。イヴァンと――正しく言うならば、彼個人というより、“ゼハディア帝国の皇太子”と――関係を持ちたいと思っている者は、大臣たちだけでなく、教会関係者や貴族たちの中にも五万といるのだから。
矛盾している、と、レティシアは夜風に靡く髪の毛をそっと片耳にかけながら、胸の内で苦笑をこぼす。矛盾している。彼が他の誰かと過ごしているところを見るのは嫌だと思っているくせに、でも、彼がそうするよう仕向けたのは自分自身なのだから。
――折角来たんですもの。他の人たちとも話してみたらどうかしら? 私に付き合ってばかりなんて、勿体ないわ。
そう言った時、イヴァンは明らかに不貞腐れていた。眉根を僅かに寄せて、解せない、と言いたげに。それでも、エルミラード王国のひとりとして、侯爵家の娘として、そうする他になかった。ブランシャール家のことを、体面を気にする父のことを考えれば、なおさら。貴族令嬢としての務めを果たす――それが、あの場でレティシアに求められたことだった。
本当は傍にいたかったのだけれど。それが出来たらどんなに良かっただろう。自嘲混じりにそう思いながら、レティシアは中庭へと続く短い階段へ足をかけようとした――その時だった。
「こちらにいらしたのですね、レティシア様」
唐突に声をかけられ、レティシアははたと足をとめた。声のした方をゆっくりと振り返れば、吹き抜けた夜風に煽られた淡いラベンダー色の髪の毛が視界を埋め尽くす。純白だけで作られた簡素な聖女の装いとはまるで程遠い、如何にも贅を尽くしたとひと目で分かる華やかで美しいドレス。惜しげもなく鏤められた宝石は、まるで夜空に浮かぶ星々のように燦然ときらめている。
「お姿が見えなかったので、探したのですよ」
そう言ってふわりと表情を綻ばせたミリーに、レティシアは思わず眉を寄せそうになるのを、既の所でぐっと堪えた。艷やかに彩られた唇には、にこやかな笑みこそ浮かんでいるものの、しかし彼女の、長く濃い睫毛に縁取られた大きな目だけは、少しも笑っていない。大広間での、あの“健気で心優しい、慈悲深い聖女様”の面持ちはいったい何処へいったのだろうか、と思ってしまうほど、蒼穹のような瞳は実に冷ややかだ。
「私に何か御用でしょうか」
レティシアもまた儀礼的な笑みを湛えながら、身体ごとミリーへ向き直る。正直なところ、あまり彼女とふたりで同じ空間にいたくはなかった。ミリーがどうのというより、彼女とふたりでいることによってアルバートの癇に障ってしまうだろうことが、容易に想像出来るからだ。
ちらりと周囲を覗ってみるも、彼女の周りには他に誰の姿もない。アルバートも、枢機卿も、大臣も、はたまた護衛騎士も。常にミリーを傍においておきたい、というほど溺愛しているあの王太子の傍から、果たして彼女はどのようにしてひとり抜け出してきたのだろうか。
「レティシア様と、ふたりきりでお話がしたかったのです」
愛らしい顔を僅かに傾け、ミリーはにこりと笑みを深める。相も変わらず、真っ直ぐに見据えてくる瞳だけは冷たいまま。
ふたりで話しがしたい、と言われても、彼女にそう望まれる理由が、レティシアにはまるで分からなかった。あの夜、悪びれもせず嘲笑を滲ませていた彼女が、こうして親しげに声をかけてくる理由が、何も。強いて言うならば、アルバートのことくらいしか思いつかない。或いは――。
嫌な予感が胸を掠め、レティシアは静かに目を細める。あの愛らしい笑顔の下に、いったい何が隠されているのだろう、と、そこに潜むものを探ろうとするように。
「それにしても、レティシア様はイヴァン殿下と随分親しくされているのですね」
ああ――と、レティシアは内心苦々しく息を吐きながら、ゆっくりとひとつ瞬いた。ああなるほど、と。目的はアルバートではなく彼の方だったのか、と、半ば呆れつつ、ミリーの可憐でありながらもどこか蠱惑的な瞳をじっと見つめる。
ただ純粋に、彼と関係を深めたいだけなのだろうか。アルバートの婚約者として、エルミラード王国の王太子妃として、はたまた教会の頂に立つ聖女として。大帝国の皇太子であるイヴァンと懇意にしておきたい、と、ただそれだけが彼女の素直な思惑なのだろうか。――万が一にもその他が有り得ては、大問題になりかねないのだけれど。
「幼い頃からの付き合いですから」
「そうなのですか? イヴァン殿下は、レティシア様のことをとても気に入られているように見えましたけれど」
なんとも含みのある言い方だな、と思いながらも、レティシアは努めて平静に唇を開く。
「お優しい方ですから。それだけのことですわ」
嘘は、言っていない。イヴァンとの関係が始まったのも、それが未だに続いているのも、偏に彼が無邪気でやさしいからに過ぎず、それ以上でもなければ以下でもないのだ。もちろん、レティシア自身が彼のことをどう思っているかは別として。しかし、それを正直にミリーに告げる必要はないだろう。彼女には関係のないことだ。個人的な想いなど。
「まあ、流石はゼハディア帝国の皇太子殿下ですのね」
愉しげな口調でそう言いながら、ミリーは一歩、また一歩と、悠然とした歩みで近付いてくる。ドレスの裾が奏でる微かな衣擦れの音と、こつん、と石の床を叩く靴音。中庭を撫でるように吹き抜けた風が枝葉を揺らし、湿り気を含んだ夜気をさざ波のように震わせる。
「ねえ、レティシア様」
手を伸ばせば触れそうなほどの距離で足をとめたミリーが、にやりと意味深な――それでも不思議と、天使のように愛くるしく見える――笑みを湛えて、レティシアの双眸を射抜いた。妖しく冷ややかな、底の知れない翳りを奥底に滲ませた、艷やかな青い瞳。
「――わたくしとイヴァン殿下の仲を取り持ってくださらないかしら」
あの日もこんな夜だった――。青白い月明かりに照らされ、息を潜めて静かに眠る鈴蘭やビオラ、スイートアッサムをぼんやりと眺めながら、レティシアは小さく息を吐く。婚約者であるアルバートが、ミリーと口付けを交わしているその只中に偶然出くわしてしまった、あの夜。その日もまた、大広間からはヴァイオリンやフルートの華やかな音色が聞こえてきていたし、頬を撫でる風もひんやりと穏やかで心地が良かった。雲ひとつない澄んだ夜空、煌々と輝く星々、圧倒的な存在感を放ちながらきらめく丸い月。
息抜きをしたい、とうのは、確かにそうだったのだけれど。でもあの日と違うのは、ただそれだけが理由ではない、ということだった。休むことくらい、大広間の中でだって幾らでも出来ることだ。壁際に立っているだけでも良いのだし、たくさんある控室のどれかで息をつくことも出来る。
しかしそうしなかったのは、周囲の目――決して快くはない、刺々しい無数の視線たち――があったからというのも、もちろんあるけれど。でもそれ以上に、イヴァンが誰かの手をとり、楽しく談笑をしたり、ダンスに興じたりする姿を見ていたくなかったからだ。――あんな濃密で甘美なひとときを過ごした後だから、なおのこと。醜い嫉妬心に苛まれたくはなかった。
――俺も行く。
最後の一曲を終え、休憩を兼ねて外の空気を吸いに行くと告げると、彼はいつもの飄々とした様子で後をついてこようとした。まるでそうすることがさも当たり前であるかのように。そんな彼を慌ててとめたのは、外でもないレティシア自身だった。一緒に行く、と、イヴァンがそう言ってくれたことはとても嬉しかったけれど。しかし、いつまでも彼を独り占めにしているのは、さすがに気が引けた。イヴァンと――正しく言うならば、彼個人というより、“ゼハディア帝国の皇太子”と――関係を持ちたいと思っている者は、大臣たちだけでなく、教会関係者や貴族たちの中にも五万といるのだから。
矛盾している、と、レティシアは夜風に靡く髪の毛をそっと片耳にかけながら、胸の内で苦笑をこぼす。矛盾している。彼が他の誰かと過ごしているところを見るのは嫌だと思っているくせに、でも、彼がそうするよう仕向けたのは自分自身なのだから。
――折角来たんですもの。他の人たちとも話してみたらどうかしら? 私に付き合ってばかりなんて、勿体ないわ。
そう言った時、イヴァンは明らかに不貞腐れていた。眉根を僅かに寄せて、解せない、と言いたげに。それでも、エルミラード王国のひとりとして、侯爵家の娘として、そうする他になかった。ブランシャール家のことを、体面を気にする父のことを考えれば、なおさら。貴族令嬢としての務めを果たす――それが、あの場でレティシアに求められたことだった。
本当は傍にいたかったのだけれど。それが出来たらどんなに良かっただろう。自嘲混じりにそう思いながら、レティシアは中庭へと続く短い階段へ足をかけようとした――その時だった。
「こちらにいらしたのですね、レティシア様」
唐突に声をかけられ、レティシアははたと足をとめた。声のした方をゆっくりと振り返れば、吹き抜けた夜風に煽られた淡いラベンダー色の髪の毛が視界を埋め尽くす。純白だけで作られた簡素な聖女の装いとはまるで程遠い、如何にも贅を尽くしたとひと目で分かる華やかで美しいドレス。惜しげもなく鏤められた宝石は、まるで夜空に浮かぶ星々のように燦然ときらめている。
「お姿が見えなかったので、探したのですよ」
そう言ってふわりと表情を綻ばせたミリーに、レティシアは思わず眉を寄せそうになるのを、既の所でぐっと堪えた。艷やかに彩られた唇には、にこやかな笑みこそ浮かんでいるものの、しかし彼女の、長く濃い睫毛に縁取られた大きな目だけは、少しも笑っていない。大広間での、あの“健気で心優しい、慈悲深い聖女様”の面持ちはいったい何処へいったのだろうか、と思ってしまうほど、蒼穹のような瞳は実に冷ややかだ。
「私に何か御用でしょうか」
レティシアもまた儀礼的な笑みを湛えながら、身体ごとミリーへ向き直る。正直なところ、あまり彼女とふたりで同じ空間にいたくはなかった。ミリーがどうのというより、彼女とふたりでいることによってアルバートの癇に障ってしまうだろうことが、容易に想像出来るからだ。
ちらりと周囲を覗ってみるも、彼女の周りには他に誰の姿もない。アルバートも、枢機卿も、大臣も、はたまた護衛騎士も。常にミリーを傍においておきたい、というほど溺愛しているあの王太子の傍から、果たして彼女はどのようにしてひとり抜け出してきたのだろうか。
「レティシア様と、ふたりきりでお話がしたかったのです」
愛らしい顔を僅かに傾け、ミリーはにこりと笑みを深める。相も変わらず、真っ直ぐに見据えてくる瞳だけは冷たいまま。
ふたりで話しがしたい、と言われても、彼女にそう望まれる理由が、レティシアにはまるで分からなかった。あの夜、悪びれもせず嘲笑を滲ませていた彼女が、こうして親しげに声をかけてくる理由が、何も。強いて言うならば、アルバートのことくらいしか思いつかない。或いは――。
嫌な予感が胸を掠め、レティシアは静かに目を細める。あの愛らしい笑顔の下に、いったい何が隠されているのだろう、と、そこに潜むものを探ろうとするように。
「それにしても、レティシア様はイヴァン殿下と随分親しくされているのですね」
ああ――と、レティシアは内心苦々しく息を吐きながら、ゆっくりとひとつ瞬いた。ああなるほど、と。目的はアルバートではなく彼の方だったのか、と、半ば呆れつつ、ミリーの可憐でありながらもどこか蠱惑的な瞳をじっと見つめる。
ただ純粋に、彼と関係を深めたいだけなのだろうか。アルバートの婚約者として、エルミラード王国の王太子妃として、はたまた教会の頂に立つ聖女として。大帝国の皇太子であるイヴァンと懇意にしておきたい、と、ただそれだけが彼女の素直な思惑なのだろうか。――万が一にもその他が有り得ては、大問題になりかねないのだけれど。
「幼い頃からの付き合いですから」
「そうなのですか? イヴァン殿下は、レティシア様のことをとても気に入られているように見えましたけれど」
なんとも含みのある言い方だな、と思いながらも、レティシアは努めて平静に唇を開く。
「お優しい方ですから。それだけのことですわ」
嘘は、言っていない。イヴァンとの関係が始まったのも、それが未だに続いているのも、偏に彼が無邪気でやさしいからに過ぎず、それ以上でもなければ以下でもないのだ。もちろん、レティシア自身が彼のことをどう思っているかは別として。しかし、それを正直にミリーに告げる必要はないだろう。彼女には関係のないことだ。個人的な想いなど。
「まあ、流石はゼハディア帝国の皇太子殿下ですのね」
愉しげな口調でそう言いながら、ミリーは一歩、また一歩と、悠然とした歩みで近付いてくる。ドレスの裾が奏でる微かな衣擦れの音と、こつん、と石の床を叩く靴音。中庭を撫でるように吹き抜けた風が枝葉を揺らし、湿り気を含んだ夜気をさざ波のように震わせる。
「ねえ、レティシア様」
手を伸ばせば触れそうなほどの距離で足をとめたミリーが、にやりと意味深な――それでも不思議と、天使のように愛くるしく見える――笑みを湛えて、レティシアの双眸を射抜いた。妖しく冷ややかな、底の知れない翳りを奥底に滲ませた、艷やかな青い瞳。
「――わたくしとイヴァン殿下の仲を取り持ってくださらないかしら」



