『聖女という立場に縋る強欲な女は地獄に堕ちろ』と言われたので、神の加護ごと隣国へ移ります

 アリアが最後の祈りを終えると、床に広がっていた白金の光がゆっくりと消えていった。

 今日訪れたのは、王都から馬車で半刻ほど離れた村の神殿。
 魔の瘴気そのものはすでに祓われているものの、その影響で弱った土地には、今も定期的な浄化が必要になる。

「これで、しばらくは問題ありません」

 立ち上がると、集まっていた神官たちが揃って頭を下げた。

「ありがとうございました、アリア様」
「次回からは、今日お伝えした手順で皆さんだけでもできるはずです。分からないことがあれば、いつでも王都の神殿へ知らせてください」

 神官たちは真剣な顔で頷いた。
 かつてアリアは、どこへ行くにも一人で浄化を行っていた。
 聖女の力を扱えるのは自分だけなのだから、自分がすべてを引き受けるのは当然だと思っていたのだ。

 けれど、ヴァルテへ来てからは違う。
 エリクの勧めで神官たちに祈りの補助を教え、アリアがいなくても小さな異変ならば対処できる体制を整え始めている。
 聖女一人に国の命運を背負わせてはならない。
 エリクはそう言った。

 その言葉を聞いた時、アリアは自分がヴァルシアでどれほど多くのものを背負わされていたのか、初めて知った。

「では、今日はこれで失礼します」

 神殿を出ると、昼を少し過ぎた空から柔らかな日差しが降り注いでいた。
 階段の下には、村人たちが集まっている。
 アリアの姿を見つけると、老人や子供たちが嬉しそうに手を振った。

 笑って手を振り返す。
 その人々の奥に、見慣れた黒髪が見えた。

「アリア」
「……エリク?」

 王城で公務をしているはずの婚約者が、護衛を二人だけ連れて立っていた。
 儀礼用ではない濃紺の上着を身につけ、肩に届く黒髪を後ろで緩く結んでいる。
 王城で会う時よりも少しだけ軽装だった。

 階段を下り、彼の前まで歩いていった。

「どうしたのですか?」
「そろそろ終わる頃かと思って、迎えに来ました」
「私を?」
「他に誰がいるのですか」

 さも当然のように答えられ、逆にこちらが戸惑ってしまう、

「でも、今日は朝から公務があると聞いていました」
「午前の分は終わらせてきました。午後の会議まで、まだ時間があります」
「では、お昼を召し上がるために王城へ戻る途中ですか?」
「いいえ」

 エリクは少しだけ視線を逸らした。

「あなたに会いたかったので、まだ昼食を取っていません」
「……昼食を抜いたのですか?」
「抜いてはいません。これから食べます」
「これから?」
「アリアと一緒に」

 そこでようやく、彼の言葉の意味が繋がった。

「近くの町に、評判の店があるそうです。午後の公務まで、それほど長くはいられませんが」
「私と昼食を取るために、ここまで来たのですか?」
「はい。迷惑でしたか?」
「いいえ。そんなことはありません!とても嬉しいです」

 そう答えると、すぐに彼の表情がわずかに緩んだことに気がつく。

「では、行きましょう」

 差し出しされた手に、自分の手を重ねる。
 婚約してから、手を繋ぐこと自体は珍しくない。
 王城の庭を歩く時も、視察先で段差を下りる時も、エリクは自然に手を差し出してくれる。

 けれど今日だけは、なぜかいつもと違って感じた。
 神殿から町へ向かう道を、二人で並んで話しながら歩く。
 護衛たちは会話が聞こえない程度に距離を取ってついてきていた。

「どのようなお店なのですか?」
「焼きたてのパンと、煮込み料理が評判だそうです」
「エリクが探したのですか?」
「侍従長に聞きました」
「侍従長に?」
「婚約者と二人で昼食を取るのに向いている店を知っているかと」

 婚約者と、二人で。
 仕事を終えたところへ迎えに来てもらい、少し離れた町まで昼食を食べに行く。
 これは、前世でいうところの。

「……デート?」

 考えていた言葉が、そのまま口から出ていた。
 エリクがアリアを見る。

「あの、これはひょっとして、デートなのでしょうか」
「私はそのつもりでした」
「そうだったのですか!?」
「伝わっていませんでしたか?」
「いえ。今、気づきました……」

 自分の二十年分の記憶を振り返った。
 今世では、幼い頃から聖女になるための修行を受けてきた。
 十代半ばからは戦場に出ていたため、異性と二人で出かける機会など一度もない。

 レイナルドは婚約者だったが、二人きりで外出した記憶はない。
 王宮で顔を合わせても、話すのは聖女の任務や王家の予定ばかり。

 では、前世はどうだっただろう。
 日本という国で、普通の大学生として暮らしていた。
 友人と出かけたり、講義の帰りに買い物をしたり、部屋で異世界ファンタジー小説を読み漁る毎日。

 恋人がいた記憶はもちろんない。
 誰かに告白されたことも、自分から想いを伝えたこともなかった。
 思わずエリクの腕を掴んだ。

「どうしました?」
「私、これが初めてのデートかもしれません」
「そうですか」

 エリクはしばらく考え、それからアリアの手を取り直した。

「では、もう少し良い店を選ぶべきだったでしょうか」
「いいえ。昼食ですから、どこでも」
「初めてのデートなのでしょう?」
「だからといって、豪華である必要はありません。あなたと一緒なら、それで充分です」

 笑いながら言ってから、ずいぶん恥ずかしいことを口にした気がした。
 慌てて前を向くと、隣からエリクの声がした。

「そういうことを、平然と言わないでください」
「何かおかしかったですか?」
「いえ。嬉しいのですが……心の準備ができていませんでした」

 町へ続く道を歩きながら、改めてエリクの横顔を見上げた。
 初めて会った日から変わらない、落ち着いた青い瞳。
 風に揺れる黒髪。
 すっと通った鼻筋と、形の良い唇。

 レイナルドは、夜会の広間へ入った瞬間に誰もが振り返るような華やかさを持っていた。
 遠くにいても目立ち、そこに立っているだけで王子だと分かるような人。

 エリクは、そうではない。
 けれど、こうして近くで見ると、ひとつひとつの造作が驚くほど整っている。
 静かにしている時より、話している時や、ふと笑った時の方が目を引いた。

 どうして今まで意識しないでいられたのだろう。

「……エリクって、かなり格好いいのですね」

 また、声に出してしまうと、エリクがこちらを見る。

「私がですか?」
「はい」
「急にどうしたのですか」
「今、改めて見て気づきました」
「今まで気づいていなかったのですか?」

 怒るでも照れるでもなく、本当に分からないという顔。

「誠実で、優しくて、信頼できる方だとは思っていました」
「見た目については?」
「考えたことがありませんでした」
「そう、ですか」

 少し残念そうな返事に、思わず笑ってしまう。

「エリクだって私を見ても何も思わないでしょう?」
「私はずっと緊張しています」
「ずっと?」
「初対面の時から」

 思わず立ち止まり、王城の謁見の間で初めて会った日のことを思い出す。
 エリクは深く頭を下げ、この国のすべてをかけて礼を言うと告げた。
 声は落ち着いていて、立ち居振る舞いにも迷いはなかった。
 緊張しているようには、まったく見えなかった。

「そんな……どうしてですか?」
「五年間、何度も手紙を書いた方が、突然目の前に現れたのですから」
「でも、私は手紙の中の私と変わらなかったでしょう?」
「思っていたより、ずっと綺麗な方でした」

 言葉を失ってしまう。
 エリクは自分が何を言ったのか分かっているのか、分かっていないのか、穏やかな顔で続ける。

「しかも、来て早々に国を救い始めました。尊敬していた方が、隣にいるだけで緊張するのはおかしいですか?」
「おかしくはありませんが……」

 先ほどよりも、繋いだ手の感触が気になる。
 隣を歩くエリクの顔も、まともに見られない。
 魔王を前にした時でさえ、これほど落ち着かなかったことはない。

 町の店は、石造りの小さな建物。
 店内に入った途端、焼きたてのパンと香草の匂いが漂ってくる。
 王子と聖女が現れたことで店主は固まっていたが、エリクが普段どおりにしてほしいと頼むと、何度も頷いて奥の席へ案内した。

 運ばれてきたのは、野菜と鶏肉を煮込んだスープと、焼きたての丸いパン。
 豪華な食事ではないけれど、温かくて、どこか懐かしい味がした。

「美味しいです」
「それは良かった」

 安心したように笑うその顔を見て、また胸が騒ぐ。
 今までも何度も一緒に食事をしてきた。
 王城の晩餐も、視察先での食事もあった。
 今日の昼食は、そのどれとも違う。

 異世界ファンタジー小説の中では、魔王を倒した聖女には、幸せな未来が待っているものばかりだった。
 王子と結ばれ、民から祝福され、長い戦いの報酬を受け取る。

 けれどアリアが魔王を倒した先に待っていたのは、婚約破棄と、『地獄に堕ちろ』という言葉。

 物語と現実は違う。
 そう思い知ったはずだったのに、それでも今、目の前には仕事を終える時間を覚えていて、わざわざ迎えに来てくれた人がいる。

 アリアの好きな料理を探し、一緒に食べるために昼食を待っていてくれた人がいる。
 エリクはアリアを聖女だから選んだのではない。
 アリアという一人の人間と生きたいと言ってくれた。

「アリア?何か考え事ですか?」
「はい」
「良くないことですか?」
「いいえ。とても良いことです」

 パンを置き、顔を上げる。
 今度は、恥ずかしくても目を逸らさなかった。

「今日、迎えに来てくれてありがとうございます。とても嬉しかったです」
「また来ます」
「毎回は駄目ですよ?公務がありますから」
「では、公務に支障が出ない日だけ」
「それなら、楽しみにしています」

 世界を救った先に、幸せが用意されていたわけではない。
 けれど、役目を終えた後も自分を必要としてくれる人と出会い、自分でこの国を選び、この人の手を取った。

 その結果として手に入れた今の方が、物語の中で決められた結末よりも、ずっと温かい。
 アリアは目の前の婚約者に微笑んだ。

「やっと、魔王を倒したご褒美がもらえた気分です」