そして、アリアがヴァルテへ来て一年が経った春。
レイナルド本人が、ヴァルテ王城を訪れた。
謁見の間に通された彼は、旅塵を帯びた外套のまま立っていた。
かつての華やかさは薄れている。
頬はこけ、目の下には疲労の影があった。
それでも彼は、アリアを見るなり、当然のように口を開いた。
「アリア。戻れ」
一年ぶりに聞いた声は、驚くほど変わっていなかった。
王座の横に立ち、静かに彼を見つめた。
隣にはエリクがいる。
けれど彼は、何も言わない。
これはアリアが終わらせるべきことだと、分かってくれているのだ。
「ヴァルシアは今、未曾有の国難にある。疫病、凶作、水源の汚染。すべてお前が国を離れたせいだ」
「私が離れたせい、ですか」
「そうだ。だから戻れ。お前の罪は、私が取りなしてやる」
罪。
その言葉を胸の中で転がす。
不思議なほど、怒りは湧かなかった。
目の前にいる男は、何も変わっていない。
ただ、道具箱の中にあるはずの道具が見つからず、癇癪を起こしているだけ。
「殿下。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「私はヴァルシアに戻った後、何として扱われるのでしょう」
レイナルドは眉をひそめた。
「何を言っている。聖女に決まっているだろう」
「以前、殿下はおっしゃいました。私は世界を救うための便利な道具だと」
「それは……言葉の綾だ」
「任務が終われば不要になる、とも」
「状況が変わったのだ」
「ええ。変わりました。私はもう、誰かに不要と言われて傷つく場所には戻りません」
謁見の間に、沈黙が落ちた。
「アリア!」
レイナルドが一歩踏み出した瞬間、エリクが前に出ようとした。
だが、そっと手で制す。
守られるためではない。
自分の言葉で、終わらせるために。
「私はヴァルシア王家の所有物ではありません」
「お前はヴァルシアに生まれた女だろう!」
「はい。けれど、神の加護は王冠に宿るものではありません」
蒼い瞳に、白金の光が宿る。
それは戦場で魔王を祓った時と同じ光だった。
けれど今、その光は誰かを滅ぼすためではなく、アリア自身の尊厳を照らすためにあった。
「神の加護は、人の祈りに応えるものです。あなた方は私を捨てたのではありません」
一歩、前へ出た。
「自ら、神の加護を手放したのです」
レイナルドの顔から血の気が引いた。
「……では、我が国はどうなる」
「ヴァルシアのことは、ヴァルシアの方々でお考えください」
「民を見捨てるのか」
「民を見捨てたのは、民を守っていたものを道具と呼んだ王家です」
その言葉に、彼は息を詰まらせた。
声を荒らげず、責め立てもせず、ただ事実だけを告げる。
「私は今、ヴァルテ王国の民と共に生きています。ここで祈り、ここで働き、ここで必要とされ、大切にされています」
「アリア……」
「殿下。私はもう、戻りません」
その瞬間、謁見の間の窓から、柔らかな光が差し込んだ。
庭のリンゴの木が、白い花を揺らしている。
「地獄に堕ちろとまで言われたのです」
レイナルドは何かを言おうとしたけれど、言葉は出なかった。
彼が最後に見た彼女は、捨てられた女ではなかった。
救いを乞われても揺らがない、ひとりの聖女。
「ならば、どうかご覧ください。私が去った場所と、私が選んだ場所。どちらが地獄になったのかを」
何を反論するでもなく、レイナルドはその日のうちにヴァルテを去った。
その後、ヴァルシア王国では王太子の婚約が白紙となった。
カミラ・フォン・ロゼンベルクは侯爵家へ戻され、神殿長は虚偽の教義を広めた責任を問われた。
王家は各地の被害に追われ、長い時間をかけて、聖女に頼らない国の立て直しを迫られることになった。
それを遠い国の報せとして聞いた。
胸がまったく痛まないわけではなかったけれど、戻りたいとは思わなかった。
ヴァルテへ来て一年が経った春の終わり。
庭のリンゴの木の下で、エリクがアリアに言った。
「アリア。私と婚約してほしい」
白い花びらが、風に揺れていた。
アリアが見つめる視線の先に、エリクは真っ直ぐに立つ。
その瞳に、迷いはない。
命令するような強さも、所有するような熱もなく、ただ、誠実な願いだけがあった。
「聖女としてではなく、貴女個人に頼んでいます。この一年で、私はアリアという人を知りました。誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも孤独だった人を」
「……私は、国を救うための力を持っています」
「知っています」
「これからも、きっと多くの人が私に祈りを求めます」
「それも知っています」
「私は、ただ穏やかに守られるだけの妃にはなれないかもしれません」
「貴女を閉じ込めたいわけではありません」
エリクはゆっくりと一歩近づく。
「貴女が国を救うのは、貴女が望むからです。私が命じるからではない。私が婚約してほしいのは、貴女と共に生きたいからです。それだけです」
胸の奥が、静かに震えた。
かつて、王太子妃になる未来を当然のように受け入れていた。
それは聖女の役目の先に置かれた、もう一つの役割。
けれど今、目の前にあるのは役割ではなく、選択だった。
「ただし、条件が一つあります」
「何でも聞きます」
「私がまた無理をしそうになったら、止めてください」
「もちろん」
「私も、あなたが一人で抱え込もうとしたら止めます」
「それは少し困るな」
「困ってください」
彼は一瞬きょとんとし、それから不器用に笑った。
その笑顔を見て、つられるように笑ってしまう。
白い花びらが、二人の間をゆっくりと舞い落ちる。
かつてアリアは、自分を物語の中に転生した聖女なのだと思っていた。
聖女は現れ、魔王を討ち、世界を救う。
その役目を終えれば、幸せな結末が与えられるのだと、どこかで信じていた。
けれど、違った。
幸せは、役目の報酬として与えられるものではない。
誰かに認められたから手に入るものでもない。
自分で選び、自分の足で歩いた先にあるものだ。
躊躇いながらも、彼の手を取った。
「はい。あなたと共に生きます」
エリクの手が、そっとアリアの指を包む。
その手は、彼女を縛るものではなかった。
道具として握るものでもなかった。
共に歩くための手。
遠く、鐘の音が鳴る。
ヴァルテの空は青く澄み、北部から運ばれてきたリンゴの若木には、今年初めての小さな実がついていた。
その光景を見つめながら、静かに思いを馳せる。
この国でなら、私は聖女でありながら、人として生きていける。
そして白金の光は、祝福のように、二人の足元に淡く広がっていった。
レイナルド本人が、ヴァルテ王城を訪れた。
謁見の間に通された彼は、旅塵を帯びた外套のまま立っていた。
かつての華やかさは薄れている。
頬はこけ、目の下には疲労の影があった。
それでも彼は、アリアを見るなり、当然のように口を開いた。
「アリア。戻れ」
一年ぶりに聞いた声は、驚くほど変わっていなかった。
王座の横に立ち、静かに彼を見つめた。
隣にはエリクがいる。
けれど彼は、何も言わない。
これはアリアが終わらせるべきことだと、分かってくれているのだ。
「ヴァルシアは今、未曾有の国難にある。疫病、凶作、水源の汚染。すべてお前が国を離れたせいだ」
「私が離れたせい、ですか」
「そうだ。だから戻れ。お前の罪は、私が取りなしてやる」
罪。
その言葉を胸の中で転がす。
不思議なほど、怒りは湧かなかった。
目の前にいる男は、何も変わっていない。
ただ、道具箱の中にあるはずの道具が見つからず、癇癪を起こしているだけ。
「殿下。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「私はヴァルシアに戻った後、何として扱われるのでしょう」
レイナルドは眉をひそめた。
「何を言っている。聖女に決まっているだろう」
「以前、殿下はおっしゃいました。私は世界を救うための便利な道具だと」
「それは……言葉の綾だ」
「任務が終われば不要になる、とも」
「状況が変わったのだ」
「ええ。変わりました。私はもう、誰かに不要と言われて傷つく場所には戻りません」
謁見の間に、沈黙が落ちた。
「アリア!」
レイナルドが一歩踏み出した瞬間、エリクが前に出ようとした。
だが、そっと手で制す。
守られるためではない。
自分の言葉で、終わらせるために。
「私はヴァルシア王家の所有物ではありません」
「お前はヴァルシアに生まれた女だろう!」
「はい。けれど、神の加護は王冠に宿るものではありません」
蒼い瞳に、白金の光が宿る。
それは戦場で魔王を祓った時と同じ光だった。
けれど今、その光は誰かを滅ぼすためではなく、アリア自身の尊厳を照らすためにあった。
「神の加護は、人の祈りに応えるものです。あなた方は私を捨てたのではありません」
一歩、前へ出た。
「自ら、神の加護を手放したのです」
レイナルドの顔から血の気が引いた。
「……では、我が国はどうなる」
「ヴァルシアのことは、ヴァルシアの方々でお考えください」
「民を見捨てるのか」
「民を見捨てたのは、民を守っていたものを道具と呼んだ王家です」
その言葉に、彼は息を詰まらせた。
声を荒らげず、責め立てもせず、ただ事実だけを告げる。
「私は今、ヴァルテ王国の民と共に生きています。ここで祈り、ここで働き、ここで必要とされ、大切にされています」
「アリア……」
「殿下。私はもう、戻りません」
その瞬間、謁見の間の窓から、柔らかな光が差し込んだ。
庭のリンゴの木が、白い花を揺らしている。
「地獄に堕ちろとまで言われたのです」
レイナルドは何かを言おうとしたけれど、言葉は出なかった。
彼が最後に見た彼女は、捨てられた女ではなかった。
救いを乞われても揺らがない、ひとりの聖女。
「ならば、どうかご覧ください。私が去った場所と、私が選んだ場所。どちらが地獄になったのかを」
何を反論するでもなく、レイナルドはその日のうちにヴァルテを去った。
その後、ヴァルシア王国では王太子の婚約が白紙となった。
カミラ・フォン・ロゼンベルクは侯爵家へ戻され、神殿長は虚偽の教義を広めた責任を問われた。
王家は各地の被害に追われ、長い時間をかけて、聖女に頼らない国の立て直しを迫られることになった。
それを遠い国の報せとして聞いた。
胸がまったく痛まないわけではなかったけれど、戻りたいとは思わなかった。
ヴァルテへ来て一年が経った春の終わり。
庭のリンゴの木の下で、エリクがアリアに言った。
「アリア。私と婚約してほしい」
白い花びらが、風に揺れていた。
アリアが見つめる視線の先に、エリクは真っ直ぐに立つ。
その瞳に、迷いはない。
命令するような強さも、所有するような熱もなく、ただ、誠実な願いだけがあった。
「聖女としてではなく、貴女個人に頼んでいます。この一年で、私はアリアという人を知りました。誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも孤独だった人を」
「……私は、国を救うための力を持っています」
「知っています」
「これからも、きっと多くの人が私に祈りを求めます」
「それも知っています」
「私は、ただ穏やかに守られるだけの妃にはなれないかもしれません」
「貴女を閉じ込めたいわけではありません」
エリクはゆっくりと一歩近づく。
「貴女が国を救うのは、貴女が望むからです。私が命じるからではない。私が婚約してほしいのは、貴女と共に生きたいからです。それだけです」
胸の奥が、静かに震えた。
かつて、王太子妃になる未来を当然のように受け入れていた。
それは聖女の役目の先に置かれた、もう一つの役割。
けれど今、目の前にあるのは役割ではなく、選択だった。
「ただし、条件が一つあります」
「何でも聞きます」
「私がまた無理をしそうになったら、止めてください」
「もちろん」
「私も、あなたが一人で抱え込もうとしたら止めます」
「それは少し困るな」
「困ってください」
彼は一瞬きょとんとし、それから不器用に笑った。
その笑顔を見て、つられるように笑ってしまう。
白い花びらが、二人の間をゆっくりと舞い落ちる。
かつてアリアは、自分を物語の中に転生した聖女なのだと思っていた。
聖女は現れ、魔王を討ち、世界を救う。
その役目を終えれば、幸せな結末が与えられるのだと、どこかで信じていた。
けれど、違った。
幸せは、役目の報酬として与えられるものではない。
誰かに認められたから手に入るものでもない。
自分で選び、自分の足で歩いた先にあるものだ。
躊躇いながらも、彼の手を取った。
「はい。あなたと共に生きます」
エリクの手が、そっとアリアの指を包む。
その手は、彼女を縛るものではなかった。
道具として握るものでもなかった。
共に歩くための手。
遠く、鐘の音が鳴る。
ヴァルテの空は青く澄み、北部から運ばれてきたリンゴの若木には、今年初めての小さな実がついていた。
その光景を見つめながら、静かに思いを馳せる。
この国でなら、私は聖女でありながら、人として生きていける。
そして白金の光は、祝福のように、二人の足元に淡く広がっていった。



