『聖女という立場に縋る強欲な女は地獄に堕ちろ』と言われたので、神の加護ごと隣国へ移ります

 剣が砕け、盾が割れ、呪文が尽きた戦場で、アリア・フォン・シルヴァンは静かに両手を広げた。

 指先から溢れた白金の光が、夜の魔の瘴気を押しのける。
 それはやがて天蓋のような穹窿となり、傷ついた兵士たちの頭上を覆う。

「——神よ。この命を代償に、悪を祓い給え」

 詠唱というより、祈りに近かった。

 次の瞬間、世界が光に包まれた。

 三百年来、この大陸に君臨し続けた魔王ヴァルドスは、声ひとつ上げることなく塵となり、夜の闇は裂け、山岳に巣食っていた魔物の群れが霧散する。
 地に伏していた兵士たちは、白金の光の中でみるみる傷を塞がれ、やがて呆然と空を仰ぐ。

「……聖女様が、やってのけた」

 誰かが呟いた。
 それが合図となったように、戦場に地鳴りのような歓声が沸き起こる。

 アリア・フォン・シルヴァン。二十歳。
 ヴァルシア王国、辺境伯家の三女。
 そして、この世界でたった一人、神から直接『聖なる光』を授かった聖女である。

 幼い頃から、アリアには前世の記憶があった。
 日本という国で、ごく普通の大学生として生きていた記憶。
 あの頃、読み漁っていた異世界ファンタジー小説の知識のおかげで、アリアは誰よりも早く自分が物語めいた運命の中に放り込まれたことを理解した。

 聖女は現れ、魔王を討ち、世界を救う。
 それが自分の役割なのだと、アリアは幼い頃から覚悟していた。
 そして今、彼女はその役割を果たした。

 凱旋の馬車に乗り込みながら、長い金髪を後ろへ払い、遠く王都の方角を見つめた。

 そこには、婚約者である王太子レイナルドが待っているはずだった。
 彼が戦場に来なかったのは、王太子として国を守るため。
 王都を離れられない事情があったのだ。
 そう、何度も自分に言い聞かせてきた。

 五年に及ぶ戦いは終わった。
 魔王は滅びた。
 世界は救われた。

 これからは、血と泥と祈りにまみれた日々ではなく、穏やかな未来が始まるのだと、そう思っていた。

 あの日までは。

 凱旋から一月が経った頃、アリアは偶然を装った必然によって、その現場を目撃した。

 王宮の東離宮。
 バラが咲き誇る庭園の奥に建つ、瀟洒な別館。
 そこは本来、来客用に使われる建物のはずだった。

「王太子殿下がそちらにいらっしゃいます」

 侍女にそう告げられ、アリアは足を踏み入れた。
 何か伝えたいことがある。
 使いを寄越してきたのは、レイナルド本人だったはずだ。

 けれど、扉を押し開けた瞬間、アリアはすべてを悟った。

 白いカーテンが風に揺れる部屋の中。
 ソファの上で絡み合う二つの影。

 一人は見慣れた黒髪の青年。
 そしてもう一人は、赤みがかった栗色の巻き毛を持つ令嬢。
 カミラ・フォン・ロゼンベルク。
 第一侯爵家の長女。

 アリアとは幼馴染みで、かつては友人だと思っていた女性である。

 二人がアリアの存在に気づいたのは、数秒後のこと。
 カミラは頬を赤らめて立ち上がった。
 しかしレイナルドは、慌てるどころか、むしろ冷たい視線でアリアを見据えた。

「……アリア。ちょうどよかった」

 ちょうどよかった。
 その言葉が、胸の奥に氷の欠片のように落ちた。

「話がある。お前との婚約を破棄する」

 耳の奥で、何かがゆっくりと崩れる音がした。

「……理由を、聞かせてください」
「理由だと?」

 レイナルドは鼻で笑った。

「お前はもう聖女ではない。魔王を倒した時点で、お前の『使命』は終わった。純潔を守り、神に仕える聖女としての役割が終わったのに、王太子妃として迎える理由が何処にある」
「私の使命が終わったから、ですか」
「そうだ。お前は世界を救うために必要だった。だが任務を終えた道具を、いつまでも王宮に置いておく必要はない」
「それは——」
「お前は我々の道具だった。世界を救うための、便利な道具だ。任務が終われば、道具は不要になる」
「……私が純潔を守っていないと、おっしゃるのですか?」
「私に言わせるのか?凱旋までの期間、同行者と何があったかなど、いくらでも想像できる」

 道具。
 その言葉は、剣よりも深くアリアの心を裂いた。

 五年間、戦場に立った。
 何度も死にかけた。
 誰かを助けるために祈り、誰かを守るために血を流し、誰かの死を看取ってきた。

 その果てに返ってきた言葉が、道具。

「……私は、あなたのためだけに戦ったわけではありません」
「当然だ。聖女なのだからな」

 レイナルドの声は、あまりにも平坦だった。

「だが王太子妃となる女には、別の資質が必要だ。戦場帰りの女を、民は次期王妃として歓迎しない。魔物の血と戦場の噂をまとった女など、王家の隣に立つにはふさわしくない」
「戦場へ送り出したのは、王家ではありませんか」
「だから感謝はしている」

 その言い方は、使い終えた道具を磨いて棚に戻す時のようだった。

 カミラがそっとレイナルドの腕に手を絡める。
 そして視線をこちらへ向けて、わずかに微笑んだ。

 勝者の微笑みだった。

「カミラは、私を愛している。血筋も申し分なく、貴族としての品格もある。王太子妃にふさわしいのは、お前ではなく彼女だ」
「……殿下は、私が何かを失ったとお思いですか」
「聖女の力は、清らかさと信仰によって保たれると神殿は言っている。お前は魔王討伐で大きな力を使い果たした。もはや奇跡を起こす力など残っていまい。残っていたとしても、汚れた過去のある女に、民が聖女として頭を垂れるとは思えない」
「それは、神殿が?」
「そうだ。神殿長も同じ見解だ」

 ゆっくりと瞬きをした。

 神殿長。
 幼い頃から、聖女としての務めを説いてきた男。
 戦場へ向かう前には、神の名のもとに命を捧げよと告げた男。

 彼もまた、アリアを終わったものとして扱ったのか。

「それに我が国には、もはやお前は必要ない。魔王は討たれた。世界は救われた。お前が今後できることなど何もない」

 静寂が落ちた。

 アリアは唇を噛まなかった。
 涙も流さなかった。
 ただ、レイナルドを真っ直ぐ見つめた。

「殿下。私は世界を救いました」
「ああ」
「あなたは今、その私に向かって、もう何もできないとおっしゃった」
「だからなんだ。お前のような力を失ったにも関わらず、聖女という立場に縋る強欲な女は地獄に堕ちろ」
「では、そのお言葉を、お忘れなきよう」

 その瞬間、彼女の蒼い瞳に、一瞬だけ白金の光が宿った。
 レイナルドは眉をひそめる。

「何だ、その目は」
「いいえ。ただ、よく分かりました」

 静かに一礼した。

「私はもう、ここにいる必要がないのですね」

 そして踵を返した。

 背後でカミラが小さく息を吐く音がした。
 安堵か、嘲笑か。
 どちらでもよかった。