つがいがなんだってんだ!

 結局、昨日はほとんど眠ることができなかった。
 ……夏の朝焼けなんて、初めて見たかもしれない。写真、撮っておこうかな。伊織に見せてやろう。
 スマホを手に取ったその時、寝巻きの袖口から覗いた左手首が視界に入った。
 
「…………」
 
 夢ならどれほど良かったか。いくら目を背けようとしても、手首のこれは、時折不快な熱を滲ませては存在を主張してくる。まるで思考を放棄することすら許さないと言っているようで、それがまた憎らしい。
 鏡に映る自分の目元には、絵に描いたような濃いクマが浮かんでいる。あまりにひどい寝不足顔に笑いさえ込み上げてくる。
 両親には話していない。居間にいた母には、詮索を避けるために『少し試験勉強で疲れているだけ』と濁してある。父はそもそも出張中だから、顔を合わせてすらいない。もっとも、顔を合わせたところで打ち明けるつもりもないのだが。
 心身ともにボロボロで、できることなら今日一日くらい学校を休みたい。けれどここで逃げたら、運命に負けたことになる。たかが不可抗力の番紋ごときに、大切な日常を一秒たりとも譲り渡してなるものか。

「行ってきます」

 背後の静かな廊下へ誰にともなくそう告げ、玄関の扉へ手を掛ける。ガチャ、と音を立てて引くと、朝独特の清々しい空気が前髪を揺らした。

「おはよう、篠宮」
「…………」

 青葉は無言のまま、静かに玄関の扉を閉めた。
 ガチャリと音を立てて扉が閉まり、閉ざされた玄関の中に再び静寂が戻る。
 ……なにも見なかった。
 昨日はいろいろと現実離れした出来事が起きすぎたのだ。脳の疲労が限界を迎えているに違いない。人間、徹夜気味になれば幻覚の一つや二つ、普通に見る。
 胸元で深く呼吸を一つ。よし、と気合を入れ直して、もう一度扉を開ける。

「おはよう。今日もいい天気だな」
「…………」

 バタンッ。
 青葉は素早く扉を閉めた。

「青葉ー? 出たり入ったりしてどうしたの?」

 廊下の奥から、不思議そうな母の声が飛んでくる。

「な、なんでもない! ちょっと、忘れ物確認しただけ!」

 全くもって、なんでもなくない。
 昨日あれだけのことがあったというのに、東雲が当たり前のように我が家の前に立っているのだから。
 嘘でしょ、いつからあそこで待ってたの。てか、誰にも見られてないよね……?
 これ以上玄関で不審な挙動を続ければ母に出てこられてしまう。仕方ない。両頬を叩いて気合を入れ、覚悟を決めて扉を開ける。
 東雲は今度は声を掛けず、何事もなかったかのような穏やかな瞳でこちらを見つめていた。

「……あんた、朝から一体なにをしてんの」
「え? なにって、篠宮を迎えに来たんだ」
「それは見れば分かるけど!」
「だって、調月先生が言ってただろ?」
「はあ?」
「登校から下校までは、原則として一緒に行動しろって。俺が篠宮迎えに行くのが、一番篠宮の負担が少ないし」

 大真面目なその言葉に、青葉の脳裏へ、昨日朦朧とした意識の中で聞いた調月の話が蘇った。

『当分の間、少なくとも学校生活では、登校から下校まで原則として行動をともにしろ』
『今のお前たちは、互いが互いの点滴スタンドみたいなものだ。片方だけで移動することはできん。どう移動するかは、二人で決めればいい』
 
「だから、来た」

 一点の曇りもない真顔でさらりと言う東雲に、青葉はその場にしゃがみ込んで頭を抱えたくなった。
 いや、彼がやっていることは正しい。そうだけど。そうなんだけどさあ……!

「いや……いくら調月先生が言ったからってさ、五十メートルは離れられるわけでしょ。隣を歩く必要はないじゃない。ちょっと離れて歩くとかさ、もう少し工夫しようよ。一緒に登校してるとこなんて、誰かに見られるの嫌なんだけど、私。それに、親にもまだ話してないんだから、家の前まで来るのはやめて」
「そっか……それはごめん。待つ場所はまた考えとく。でも、隣歩くのは許して」
「はあ? なんでよ」
「だって、昨日みたいに道端で倒れたらどうすんの? まだ、どんな症状が出るかも分かってないんだし。もし何かあった時に、俺がすぐ助けられる方が良くない?」
「う……それは、そう……だけど……」

 たしかに、昨日のような症状が起きたら、自分一人で対処することは不可能だ。それに、事情を知らない一般人に助けられたりなんかしたら、今度こそ番紋を隠し通せなくなる。それだけは避けたい。だから、これは極めて合理的な提案なのである。分かってはいる……けれど。

「……あのさ、気まずくないの? だって昨日の今日だよ。私があれだけ拒絶したのに」
「んー。でも、一応友達にはなってくれるんだろ?」
「…………」
「わっ、顔に『不本意』って書いてある。まあ、でもさ。篠宮に何かあったら、俺が嫌なんだよ。だから、隣歩かせて」
「っ……もう、勝手にしなよ」
「ふふっ。じゃあ、勝手にする」
 
 ……本当に、変なやつ。
 昨日あれほど拒絶されたことなど、まるで気にも留めていないかのように、平然とそこに立っている。そして気づけば、一緒に登校することが決定事項になっている。なんか、うまく丸め込まれたようで釈然としない。
 大体、昨日だって「勝手にすれば」と言っただけだし。友達になるのも、隣を歩くのも、不本意ながら認めただけだし。それなのに、なんでそんな嬉しそうな顔をするのか、まるで意味が分からない。言いたいことはいろいろあったはずなのに、そんな顔をされたら、なにも言えなくなるじゃんか。
 青葉は小さく肩をすくめ、降参の合図代わりに短いため息を吐き出した。

「行こ。遅刻したら内申に響くでしょ」
「おう、行くか」

 二人は適度な距離を保ったまま、並んで朝の住宅街を歩き出した。
 昨日までとはほんの少しだけ、けれど決定的に景色が違う朝が始まろうとしていた。