自主練習に励んでいた運動部の生徒たちもいなくなった校内には、靴音だけが響いていた。見慣れたはずの景色が、急にどこか知らない場所のように感じて、どうにも居心地が悪い。
二人の間に、会話はなかった。
ただ、帰路へと続く校門へ向かって、長く伸びた影を引きずりながら、静かに桜の並木道を歩いていく。
左手首の奥では、未だにじりじりと焼けるような熱が燻り続けていた。
ドクン、ドクンと番紋が脈打つたびに、東雲の霊力と不本意に共鳴し、身体の奥から五感が過敏になっていくような奇妙な感覚に襲われた。青葉のすぐ後ろからは、もう一つの足音が聞こえてくる。近づいては離れて、離れては近づき——見えない境界線を探るように、東雲は一定の距離を保ちながら歩いていた。
……気まずすぎて、息が詰まりそうだ。
なにか言葉を発しなければ、という焦燥はある。けれど、一体なにを話せばいいのか。今の青葉にはさっぱり分からなかった。番紋がこの肌に発現してから、まだ一時間しか経っていないのだ。このあまりにも短すぎる時間の中で、自分が思い描いていた未来は、音を立てて姿を変えてしまった。
「……篠宮」
不意に、背後から低い声が名前を呼んだ。
足は止めず、ただ前を見据えたまま歩調を緩める。
「ごめん」
東雲の謝罪に、青葉の目尻がぴくりと動いた。
「俺……お前が番のことを、そんなふうに思ってたなんて、知らなかった」
静かな呟きだった。その声には、昼休みに校庭で見せていたような、堂々とした自信は微塵も感じられない。
彼もまた、この事態に動揺しているのだろう。冷静さを取り戻した頭で振り返ると、酷いもんだ。どうして、よりにもよって東雲なのか。そう自分が思ったのと同じように、待ちに待った運命の相手が、どうしてこの女なのかと思ったに違いない。もっと番に肯定的な相手だったら、こんなことにはならなかっただろうに。もしも“番ガチャ”なんてものがあるのなら、東雲には申し訳ないが、自分は間違いなく大外れだ。
しばらくの間、黙って歩き続ける。そして、胸の奥に凝り固まったしこりを吐き出すように、小さく息を漏らした。今、話さなければいけない気がした。
「……桜お姉ちゃん」
「え?」
「私の姉の話。篠宮桜」
東雲からの返答はなかった。ただ黙って、青葉が続ける言葉を待っている。
「お姉ちゃんはね、この学院を主席で卒業したの。本当に優秀で、そのまま最先端の霊術研究所に入って……私なんかよりずっと、研究者として将来を期待されていた。……婚約者もいた」
街灯がちらつき始めたアスファルトへ視線を落としたまま、ぽつり、ぽつりと、胸の傷口を開くように言葉を紡いでいく。
「蒼介くんっていうの。本当に仲が良くて、幸せそうで……私も、本当のお兄ちゃんみたいに慕ってた」
強い風に揺らされ、街路樹のナンキンハゼがさらさらと寂しげな音を立てている。青葉は歩みを止めないまま、制服の袖越しに左手首を、指先が白くなるほど握り締めた。
「知ってる? 女性は二十一歳の誕生日を迎えるまでしか、番紋は顕れないの。だから、お姉ちゃんも蒼介くんも、もう大丈夫だって思ってた。……でも、二十一歳になる誕生日の三日前……お姉ちゃんの手首にも、これが出たの」
歩みを止めることなく話し続ける青葉へ、東雲は恐る恐る問いかけた。
「その、相手は……?」
「蒼介くんじゃなかった」
ひゅっ、と息を呑む音だけが、静まり返った夜道に小さく響いた。東雲はそれ以上なにも訊くことなく、ただただ言葉を失っていた。青葉もまた、すぐには言葉を続けられなかった。いくつかの並木を通り過ぎ、夜の影が色濃くなってから、ようやく喉の奥から声を絞り出す。
「研究所で知り合ったばかりの、名家の上司だった。お姉ちゃんは、蒼介くんとの婚約を強制的に破棄させられた。しばらくして、あれだけ愛していた研究の仕事も辞めて……周囲から『名家なんだから』『番なんだから』って言われるまま、その上司の家へ嫁いで……子どもも産んだ」
気づけば、自宅が目の前まで迫っていた。けれど、一度口を開いてしまえば、抑え込んできた感情は堰を切ったように溢れ出し、もう止めることはできなかった。
「番は“運命の祝福”だって、別にそう思うこと自体を否定するつもりはない。それが普通なんだって、ちゃんと分かってるから。……だけど私は、運命なんていう理不尽なものに流されたくない。自分の人生は、自分で決めるの。だから——番だからって理由で、誰かを好きになることだけは、絶対にないから」
そう言い切ると、東雲はしばらくの間、彫刻のように身じろぎもせず、なにも言わなかった。
長い、長い沈黙が二人の間を支配したあと。
「……分かった」
その言葉に、青葉は思わず足を止めて振り返る。
「お前の番に対する考えは、否定しない」
東雲は静かに歩みを進めながら、一つひとつ言葉を選ぶように口を開いた。
「……だから。霊力が安定するまでの、これからの三か月、まずはさ」
そこで一度言葉を区切り、彼は夕闇の中、目の前に立つ青葉を真っ直ぐ見つめた。
「友達になってよ」
「……え?」
思ってもみない提案に、青葉は目を見開いた。東雲はようやく肩の力を抜いたように、ふっと笑うと、話を続けた。
「調月先生も言っていただろ。今日だけで結論を出そうとするな、ってさ。……それに、別に番だからって、男女の仲にならなきゃいけないなんて決まりはないと思う」
……この男は、自分が今、何を口にしたのか分かっているのだろうか。
『番だからって、男女の仲にならなきゃいけないなんて決まりはない』——確かに、そうなのかもしれない。けれど社会の常識として、番となった男女は、夫婦として結ばれるのが当たり前だ。『番だけどただの友達です』なんて、そんな関係を理解する人はほとんどいないだろう。ましてやそれが、代々番の祝福を受けてきた大企業の御曹司だなんて。それを公表してしまえば、彼自身の立場がどうなるのか。……その覚悟まで含めて、この言葉を口にしているのだろうか。
「…………」
青葉は言葉を発することなく、ただ彼を見つめていた。何も答えない青葉に、東雲は少しだけ困ったように眉を下げる。
「……ダメかな?」
気遣うような彼の声音を聴きながら、青葉は静かに胸の中で、目の前の男を捉え直そうとしていた。
この人は——少なくとも、自分の信じる“祝福”を、こちらに押しつけてくる人ではない。
それだけは、はっきりと分かってしまった。
「……勝手にすれば」
けれど、ここで素直に頷いたら、さっきまであれほど拒絶していた彼を、あっさりと受け入れてしまいそうで。青葉はぶっきらぼうに、それだけを答えた。
自分でも、あまりにも投げやりで可愛げのない返答だと思う。それなのに、東雲はその綺麗な目をほんの少しだけ細めた。
「良かった」
「別に、許可したわけじゃないし。これ以上近づいたら本当に怒るからね!」
「はは、分かってるよ」
東雲の強張っていた表情がほどけ、どこかホッとしたような笑みが浮かんだ。その彼の表情に、青葉は無性にむず痒さを覚え、逃げるように玄関の扉を開けた。
「じゃあ、また明日な。篠宮」
扉が閉じて見えなくなるまで、彼は笑顔で手を振っていた。
……変なやつ。
容姿端麗、文武両道な学年主席の生徒会長。
『番は祝福だろ』と無邪気に言ってのけた、大企業の御曹司。
放課後の図書館で、研究者になるという自分の夢を『似合っている』と肯定してくれた同級生。
そして今——番を否定し拒絶した自分に、友達になってと笑った、自分の番。
東雲玲司がどういう男なのか、青葉にはまだ分からない。
ただ一つだけ。
今日まで思っていた“何もかも持っている遠い人”という印象だけは、少しずつ変わり始めていた。
二人の間に、会話はなかった。
ただ、帰路へと続く校門へ向かって、長く伸びた影を引きずりながら、静かに桜の並木道を歩いていく。
左手首の奥では、未だにじりじりと焼けるような熱が燻り続けていた。
ドクン、ドクンと番紋が脈打つたびに、東雲の霊力と不本意に共鳴し、身体の奥から五感が過敏になっていくような奇妙な感覚に襲われた。青葉のすぐ後ろからは、もう一つの足音が聞こえてくる。近づいては離れて、離れては近づき——見えない境界線を探るように、東雲は一定の距離を保ちながら歩いていた。
……気まずすぎて、息が詰まりそうだ。
なにか言葉を発しなければ、という焦燥はある。けれど、一体なにを話せばいいのか。今の青葉にはさっぱり分からなかった。番紋がこの肌に発現してから、まだ一時間しか経っていないのだ。このあまりにも短すぎる時間の中で、自分が思い描いていた未来は、音を立てて姿を変えてしまった。
「……篠宮」
不意に、背後から低い声が名前を呼んだ。
足は止めず、ただ前を見据えたまま歩調を緩める。
「ごめん」
東雲の謝罪に、青葉の目尻がぴくりと動いた。
「俺……お前が番のことを、そんなふうに思ってたなんて、知らなかった」
静かな呟きだった。その声には、昼休みに校庭で見せていたような、堂々とした自信は微塵も感じられない。
彼もまた、この事態に動揺しているのだろう。冷静さを取り戻した頭で振り返ると、酷いもんだ。どうして、よりにもよって東雲なのか。そう自分が思ったのと同じように、待ちに待った運命の相手が、どうしてこの女なのかと思ったに違いない。もっと番に肯定的な相手だったら、こんなことにはならなかっただろうに。もしも“番ガチャ”なんてものがあるのなら、東雲には申し訳ないが、自分は間違いなく大外れだ。
しばらくの間、黙って歩き続ける。そして、胸の奥に凝り固まったしこりを吐き出すように、小さく息を漏らした。今、話さなければいけない気がした。
「……桜お姉ちゃん」
「え?」
「私の姉の話。篠宮桜」
東雲からの返答はなかった。ただ黙って、青葉が続ける言葉を待っている。
「お姉ちゃんはね、この学院を主席で卒業したの。本当に優秀で、そのまま最先端の霊術研究所に入って……私なんかよりずっと、研究者として将来を期待されていた。……婚約者もいた」
街灯がちらつき始めたアスファルトへ視線を落としたまま、ぽつり、ぽつりと、胸の傷口を開くように言葉を紡いでいく。
「蒼介くんっていうの。本当に仲が良くて、幸せそうで……私も、本当のお兄ちゃんみたいに慕ってた」
強い風に揺らされ、街路樹のナンキンハゼがさらさらと寂しげな音を立てている。青葉は歩みを止めないまま、制服の袖越しに左手首を、指先が白くなるほど握り締めた。
「知ってる? 女性は二十一歳の誕生日を迎えるまでしか、番紋は顕れないの。だから、お姉ちゃんも蒼介くんも、もう大丈夫だって思ってた。……でも、二十一歳になる誕生日の三日前……お姉ちゃんの手首にも、これが出たの」
歩みを止めることなく話し続ける青葉へ、東雲は恐る恐る問いかけた。
「その、相手は……?」
「蒼介くんじゃなかった」
ひゅっ、と息を呑む音だけが、静まり返った夜道に小さく響いた。東雲はそれ以上なにも訊くことなく、ただただ言葉を失っていた。青葉もまた、すぐには言葉を続けられなかった。いくつかの並木を通り過ぎ、夜の影が色濃くなってから、ようやく喉の奥から声を絞り出す。
「研究所で知り合ったばかりの、名家の上司だった。お姉ちゃんは、蒼介くんとの婚約を強制的に破棄させられた。しばらくして、あれだけ愛していた研究の仕事も辞めて……周囲から『名家なんだから』『番なんだから』って言われるまま、その上司の家へ嫁いで……子どもも産んだ」
気づけば、自宅が目の前まで迫っていた。けれど、一度口を開いてしまえば、抑え込んできた感情は堰を切ったように溢れ出し、もう止めることはできなかった。
「番は“運命の祝福”だって、別にそう思うこと自体を否定するつもりはない。それが普通なんだって、ちゃんと分かってるから。……だけど私は、運命なんていう理不尽なものに流されたくない。自分の人生は、自分で決めるの。だから——番だからって理由で、誰かを好きになることだけは、絶対にないから」
そう言い切ると、東雲はしばらくの間、彫刻のように身じろぎもせず、なにも言わなかった。
長い、長い沈黙が二人の間を支配したあと。
「……分かった」
その言葉に、青葉は思わず足を止めて振り返る。
「お前の番に対する考えは、否定しない」
東雲は静かに歩みを進めながら、一つひとつ言葉を選ぶように口を開いた。
「……だから。霊力が安定するまでの、これからの三か月、まずはさ」
そこで一度言葉を区切り、彼は夕闇の中、目の前に立つ青葉を真っ直ぐ見つめた。
「友達になってよ」
「……え?」
思ってもみない提案に、青葉は目を見開いた。東雲はようやく肩の力を抜いたように、ふっと笑うと、話を続けた。
「調月先生も言っていただろ。今日だけで結論を出そうとするな、ってさ。……それに、別に番だからって、男女の仲にならなきゃいけないなんて決まりはないと思う」
……この男は、自分が今、何を口にしたのか分かっているのだろうか。
『番だからって、男女の仲にならなきゃいけないなんて決まりはない』——確かに、そうなのかもしれない。けれど社会の常識として、番となった男女は、夫婦として結ばれるのが当たり前だ。『番だけどただの友達です』なんて、そんな関係を理解する人はほとんどいないだろう。ましてやそれが、代々番の祝福を受けてきた大企業の御曹司だなんて。それを公表してしまえば、彼自身の立場がどうなるのか。……その覚悟まで含めて、この言葉を口にしているのだろうか。
「…………」
青葉は言葉を発することなく、ただ彼を見つめていた。何も答えない青葉に、東雲は少しだけ困ったように眉を下げる。
「……ダメかな?」
気遣うような彼の声音を聴きながら、青葉は静かに胸の中で、目の前の男を捉え直そうとしていた。
この人は——少なくとも、自分の信じる“祝福”を、こちらに押しつけてくる人ではない。
それだけは、はっきりと分かってしまった。
「……勝手にすれば」
けれど、ここで素直に頷いたら、さっきまであれほど拒絶していた彼を、あっさりと受け入れてしまいそうで。青葉はぶっきらぼうに、それだけを答えた。
自分でも、あまりにも投げやりで可愛げのない返答だと思う。それなのに、東雲はその綺麗な目をほんの少しだけ細めた。
「良かった」
「別に、許可したわけじゃないし。これ以上近づいたら本当に怒るからね!」
「はは、分かってるよ」
東雲の強張っていた表情がほどけ、どこかホッとしたような笑みが浮かんだ。その彼の表情に、青葉は無性にむず痒さを覚え、逃げるように玄関の扉を開けた。
「じゃあ、また明日な。篠宮」
扉が閉じて見えなくなるまで、彼は笑顔で手を振っていた。
……変なやつ。
容姿端麗、文武両道な学年主席の生徒会長。
『番は祝福だろ』と無邪気に言ってのけた、大企業の御曹司。
放課後の図書館で、研究者になるという自分の夢を『似合っている』と肯定してくれた同級生。
そして今——番を否定し拒絶した自分に、友達になってと笑った、自分の番。
東雲玲司がどういう男なのか、青葉にはまだ分からない。
ただ一つだけ。
今日まで思っていた“何もかも持っている遠い人”という印象だけは、少しずつ変わり始めていた。


