スプーンが器に触れる小さな音と、店内に流れる穏やかなジャズが、ゆったりと二人の時間を満たしていく。
しばらくして、アイスティーを一口飲んだ東雲が、なにかを思い出したように口を開いた。
「そうだ。忘れないうちに、これを」
「うん?」
東雲は先ほど壁際に寄せていた大きな紙袋の中から、さらに小さな紙袋を取り出した。そこにはさっき立ち寄った店のロゴが印刷されている。
「これ、良かったら使って」
「……え?」
青葉はきょとんとしたまま、目の前に差し出された紙袋と東雲の顔を交互に見た。
見たところ、自分のために買ってくれた物なのだろう。しかし今日は誕生日でもなければ、なにか特別な記念日でもない。なぜ唐突に、という疑問と、一体何をくれるというのか、という期待に胸がどきりと高鳴った。
「私に? なに、これ」
「さっき青葉がノートを選んでる間に、別の棚を見てたらたまたま見つけたんだよ」
「開けていい?」
「どうぞ」
「……これ……っ!」
慎重に袋のテープを剥がし、中身を取り出すと、出てきたのは製図ペンが収められた細長い箱だった。
「私がいつも使ってるやつの……!」
「だろ?」
「えっ、しかもこれ、限定の大容量モデルじゃない!? すごい……これ、普通の書店じゃ滅多に見かけないやつだよ」
「どうせノート何十冊も埋めるんだろ? だったら、インク切れは少ない方がいいと思って」
東雲は「ほらな」と言わんばかりに、にっと笑った。
他人にわざわざ言うことでもないので誰にも話したことはないが、製図ペンはこのブランドしか使ってない。初めて使った時に書き味が気に入ってから愛用しているものの、インクの消費が早いのがやや難点だった。特にここ最近は、一日で交換することもあったぐらいだ。伊織だって多分知らないだろうけど、まさか東雲に気づかれていたとは。
しかもこれ、限定だけあってペン軸の装飾も凝っている。持ってるだけでテンションが上がるやつだ。
まじまじとペンを眺めていた青葉だったが、ここでふと、膝に乗せたままの紙袋にまだわずかな重みがあることに気づく。
「あれ。ちょっと待って、まだなんか入ってる……?」
袋の中を覗き込み、底に寝かされていた一冊の本を取り出す。
「! うそ……っ」
その表紙を見た瞬間、歓喜に胸が震えた。
それは、先週発売されたばかりの霊術専門書——青葉が発売前から目をつけていた、人気シリーズの最新刊だった。
青葉は慌てて周囲を見回し、小さく身を縮めると、早速本を開いた。
「これ……前からずっと気になってたの! わっ、見て、この図版! こんなコンパクトなのにすごい見やすい……!」
指先が、興奮で小さく震える。だが、何ページ目かをめくったところで、はっと我に返り、思わず本を裏返す。裏表紙に印字された定価を見た瞬間、表情筋が引きつった。
「待って……これ、結構なお値段じゃん。それに、製図ペンも絶対高かったでしょ? さすがに悪いよ……」
「じゃあ、誕生日プレゼントってことで」
「私、誕生日とっくに過ぎてるけど……ってか知ってんの?」
「橘と瑞浪が話してただろ。でも俺、渡してないから」
「……そういえば、東雲の誕生日っていつ?」
「十一月十二日」
「えっ、あと二か月ちょっとじゃん。こんなのもらったら、私も何かちゃんと考えないと」
「別に釣り合わせなくていいよ。そういうつもりじゃないし。青葉が喜んでくれたなら、それで十分」
「……ほんとに、もらっちゃっていいの?」
「どうぞ」
東雲は当たり前のように頷いた。青葉は本を胸に抱きしめたまま、しばらく言葉が出なかった。胸の奥が、じんわりと温もりで満たされていく。
「ありがとう。すっごく嬉しい」
「ふふ。……前に、図書館でさ」
「え?」
「その著者の本、読んでただろ。夢中になって読んでたから」
「……」
「だから、これ青葉が好きそうだなって思って」
なんで、そんなに覚えてくれてるんだろう。
友達だからって、そんなものいちいち覚えていられるだろうか。自分は幼馴染である颯人ですら、正直好みがあやふやなものなんていっぱいあるのに。
——それ、誰にでもしてるの?
そう思った瞬間、なぜだか胸の奥がきゅっと締め付けられた。その痛みに蓋をするように、本をぎゅっと胸に抱え込む。
「……東雲」
「ん?」
「ありがと。……本当に、大事にするね」
さっきよりも静かな、けれど心の底から湧き上がるような感謝の言葉に、東雲は照れくさそうに笑った。
喫茶店を出ると、街は柔らかな斜陽に染まり始めていた。
二人の手には、霊学祭用の資材がずっしりと提げられている。それでも喫茶店で過ごした心地よい休息と、胸に残る温かな余韻のおかげか、足取りは軽かった。
「はぁー、楽しかった!」
「そう? 相当歩かせることになったけど」
「ううん! 買い出しもバッチリ終わったし、プリンもクリームソーダも美味しかったし……」
なにより——東雲が、自分のために選んでくれた本とペン。青葉は腕に抱えた紙袋を、宝物を包み込むようにぎゅっと抱き寄せた。
「ねえ、東雲」
青葉はふと思いついたように、歩きながらくるりと東雲の方へと身体を向けた。後ろ向きに歩きながら、弾んだ声で提案する。
「霊学祭が、無事に全部終わったらさ」
「ん?」
「また、二人でどっか行こうよ。クラスの打ち上げとは別に、私たちの『お疲れ様会』!」
「……え?」
東雲は、思いがけない提案に目を丸くした。
「ほら。この二か月、放課後も夏休みに入ってからも、ずっと準備とか研究ばっかりで、どこにも遊びに行けなかったじゃん? だからさ、霊学祭が成功したら、そのご褒美ってことで!」
「お前なぁ……。まぁ、いいけど。どこに行きたいの」
「んー……どこがいいかなぁ」
青葉は人差し指を顎に当てて考え込む。
そのとき、今日の昼間に見た美しい光景がパッと脳に蘇った。そうだ。せっかくなら、ここに行きたい。
「水族館!」
「! 水族館、ね……」
「私、小さい頃からずっと水族館が大好きなんだよね。小学校の頃なんか、年パス買って毎週のように行ってたの。今日のデモも、すっごい良かったんだけどさ。見てたら本物行きたくなっちゃって!」
「……へえ」
「イルカのショーも良いんだけどさ、クラゲとか熱帯魚の水槽をぼーっと眺めてる時間も結構好きなんだ。気づいたら何時間も経ってたりしてさ」
「…………」
そこでようやく、東雲がいつになく口数を減らしていることに気づいた。しまった、ついテンションが上がって一人で喋りすぎてしまったかもしれない。
「東雲? どうかした?」
隣を覗き込むと、東雲ははっと我に返ったように顔を上げた。
「あ、いや……楽しいだろうな」
「でしょ!? だからさ、霊学祭が終わったら絶対に——」
「青葉」
「!」
「まずは、霊学祭。頑張ろう」
「……うん。絶対、大成功させようね!」
二人の間を吹き抜けた夕風が、夏の終わりの匂いを運んできた。
しばらくして、アイスティーを一口飲んだ東雲が、なにかを思い出したように口を開いた。
「そうだ。忘れないうちに、これを」
「うん?」
東雲は先ほど壁際に寄せていた大きな紙袋の中から、さらに小さな紙袋を取り出した。そこにはさっき立ち寄った店のロゴが印刷されている。
「これ、良かったら使って」
「……え?」
青葉はきょとんとしたまま、目の前に差し出された紙袋と東雲の顔を交互に見た。
見たところ、自分のために買ってくれた物なのだろう。しかし今日は誕生日でもなければ、なにか特別な記念日でもない。なぜ唐突に、という疑問と、一体何をくれるというのか、という期待に胸がどきりと高鳴った。
「私に? なに、これ」
「さっき青葉がノートを選んでる間に、別の棚を見てたらたまたま見つけたんだよ」
「開けていい?」
「どうぞ」
「……これ……っ!」
慎重に袋のテープを剥がし、中身を取り出すと、出てきたのは製図ペンが収められた細長い箱だった。
「私がいつも使ってるやつの……!」
「だろ?」
「えっ、しかもこれ、限定の大容量モデルじゃない!? すごい……これ、普通の書店じゃ滅多に見かけないやつだよ」
「どうせノート何十冊も埋めるんだろ? だったら、インク切れは少ない方がいいと思って」
東雲は「ほらな」と言わんばかりに、にっと笑った。
他人にわざわざ言うことでもないので誰にも話したことはないが、製図ペンはこのブランドしか使ってない。初めて使った時に書き味が気に入ってから愛用しているものの、インクの消費が早いのがやや難点だった。特にここ最近は、一日で交換することもあったぐらいだ。伊織だって多分知らないだろうけど、まさか東雲に気づかれていたとは。
しかもこれ、限定だけあってペン軸の装飾も凝っている。持ってるだけでテンションが上がるやつだ。
まじまじとペンを眺めていた青葉だったが、ここでふと、膝に乗せたままの紙袋にまだわずかな重みがあることに気づく。
「あれ。ちょっと待って、まだなんか入ってる……?」
袋の中を覗き込み、底に寝かされていた一冊の本を取り出す。
「! うそ……っ」
その表紙を見た瞬間、歓喜に胸が震えた。
それは、先週発売されたばかりの霊術専門書——青葉が発売前から目をつけていた、人気シリーズの最新刊だった。
青葉は慌てて周囲を見回し、小さく身を縮めると、早速本を開いた。
「これ……前からずっと気になってたの! わっ、見て、この図版! こんなコンパクトなのにすごい見やすい……!」
指先が、興奮で小さく震える。だが、何ページ目かをめくったところで、はっと我に返り、思わず本を裏返す。裏表紙に印字された定価を見た瞬間、表情筋が引きつった。
「待って……これ、結構なお値段じゃん。それに、製図ペンも絶対高かったでしょ? さすがに悪いよ……」
「じゃあ、誕生日プレゼントってことで」
「私、誕生日とっくに過ぎてるけど……ってか知ってんの?」
「橘と瑞浪が話してただろ。でも俺、渡してないから」
「……そういえば、東雲の誕生日っていつ?」
「十一月十二日」
「えっ、あと二か月ちょっとじゃん。こんなのもらったら、私も何かちゃんと考えないと」
「別に釣り合わせなくていいよ。そういうつもりじゃないし。青葉が喜んでくれたなら、それで十分」
「……ほんとに、もらっちゃっていいの?」
「どうぞ」
東雲は当たり前のように頷いた。青葉は本を胸に抱きしめたまま、しばらく言葉が出なかった。胸の奥が、じんわりと温もりで満たされていく。
「ありがとう。すっごく嬉しい」
「ふふ。……前に、図書館でさ」
「え?」
「その著者の本、読んでただろ。夢中になって読んでたから」
「……」
「だから、これ青葉が好きそうだなって思って」
なんで、そんなに覚えてくれてるんだろう。
友達だからって、そんなものいちいち覚えていられるだろうか。自分は幼馴染である颯人ですら、正直好みがあやふやなものなんていっぱいあるのに。
——それ、誰にでもしてるの?
そう思った瞬間、なぜだか胸の奥がきゅっと締め付けられた。その痛みに蓋をするように、本をぎゅっと胸に抱え込む。
「……東雲」
「ん?」
「ありがと。……本当に、大事にするね」
さっきよりも静かな、けれど心の底から湧き上がるような感謝の言葉に、東雲は照れくさそうに笑った。
喫茶店を出ると、街は柔らかな斜陽に染まり始めていた。
二人の手には、霊学祭用の資材がずっしりと提げられている。それでも喫茶店で過ごした心地よい休息と、胸に残る温かな余韻のおかげか、足取りは軽かった。
「はぁー、楽しかった!」
「そう? 相当歩かせることになったけど」
「ううん! 買い出しもバッチリ終わったし、プリンもクリームソーダも美味しかったし……」
なにより——東雲が、自分のために選んでくれた本とペン。青葉は腕に抱えた紙袋を、宝物を包み込むようにぎゅっと抱き寄せた。
「ねえ、東雲」
青葉はふと思いついたように、歩きながらくるりと東雲の方へと身体を向けた。後ろ向きに歩きながら、弾んだ声で提案する。
「霊学祭が、無事に全部終わったらさ」
「ん?」
「また、二人でどっか行こうよ。クラスの打ち上げとは別に、私たちの『お疲れ様会』!」
「……え?」
東雲は、思いがけない提案に目を丸くした。
「ほら。この二か月、放課後も夏休みに入ってからも、ずっと準備とか研究ばっかりで、どこにも遊びに行けなかったじゃん? だからさ、霊学祭が成功したら、そのご褒美ってことで!」
「お前なぁ……。まぁ、いいけど。どこに行きたいの」
「んー……どこがいいかなぁ」
青葉は人差し指を顎に当てて考え込む。
そのとき、今日の昼間に見た美しい光景がパッと脳に蘇った。そうだ。せっかくなら、ここに行きたい。
「水族館!」
「! 水族館、ね……」
「私、小さい頃からずっと水族館が大好きなんだよね。小学校の頃なんか、年パス買って毎週のように行ってたの。今日のデモも、すっごい良かったんだけどさ。見てたら本物行きたくなっちゃって!」
「……へえ」
「イルカのショーも良いんだけどさ、クラゲとか熱帯魚の水槽をぼーっと眺めてる時間も結構好きなんだ。気づいたら何時間も経ってたりしてさ」
「…………」
そこでようやく、東雲がいつになく口数を減らしていることに気づいた。しまった、ついテンションが上がって一人で喋りすぎてしまったかもしれない。
「東雲? どうかした?」
隣を覗き込むと、東雲ははっと我に返ったように顔を上げた。
「あ、いや……楽しいだろうな」
「でしょ!? だからさ、霊学祭が終わったら絶対に——」
「青葉」
「!」
「まずは、霊学祭。頑張ろう」
「……うん。絶対、大成功させようね!」
二人の間を吹き抜けた夕風が、夏の終わりの匂いを運んできた。

