つがいがなんだってんだ!

 ◇
 
 ……また、知らない顔だ。
 玲司は息を呑んだ。
 自分はこの一か月で、篠宮のことを知れた気になっていた。けれど、こんな彼女は初めて見た。
 自科霊クラスで研究の話をしている時とも違う。自分が見てきた篠宮は、まだほんの一面に過ぎなかったのだと痛いほどに思い知る。
 その事実が少し悔しくて、けれどそれ以上に、もっと知りたいと思ってしまう自分がいた。
 不意に、あの日の夕暮れが脳裏をよぎる。
 西日に照らされた図書館で、霊術書を胸に抱えたまま照れくさそうに、それでも曇りのない瞳で未来を語っていた少女の横顔——。
 
『研究ってさ、今まで“仕方ない”で終わっていたことを、変える力があるんだよ』
『本人にはどうしようもないことで、選択肢が狭まってしまわないように……そういうのを、一つずつ減らしていけるような研究がしたいんだ』
 
 あぁ……そういうことだったのか。
 篠宮にとって、選択肢を増やすということは、隔てられていたものを繋ぐことでもあるのかもしれない。
 理論と実践。創成棟の緻密な分析と、自科霊棟の自由な発想。そして——霊術を自在に扱える者と、そうでない者。
 ようやく、篠宮青葉の見る夢の輪郭に少しだけ触れられたような気がした。
 目の前では、創成棟の生徒たちが興味津々に光球へ見入っている。この一か月、たった一人で自科霊クラスを観察し続け、篠宮が形にしたもの。そこへ今、かつての仲間たちの手により、新たな命が吹き込まれようとしている。
 まだ始まったばかりだ。それでも、創成棟と自科霊棟という二つの世界は今、確かに繋がり始めていた。胸の奥底から込み上げてくる小さな感動を、玲司は静かに噛み締めた。
 先ほど自分に振り向いて微笑んでくれた彼女は、早くも蓮水の隣でノートを広げて話し込んでいる。
 篠宮が眉を寄せれば、蓮水は「ああ、それか」とすぐ気づく。長い時間をともに研究してきた者同士だからこその信頼なのだろう。
 
「…………」
 
 羨ましい、と。そう思った。
 なにが羨ましいのか、自分でも上手く言葉にできないけれど。
 
「青葉」
「うん? どうしたの柊也」
「ちょっとこれ見て」
 
 篠宮は蓮水の手元のノートを覗き込むように身を寄せた。そうして二人はまた、なにかを話し始める。
 その姿を見た瞬間、ひどく心がざわついて、気づけば目を逸らしていた。

 ***
 
 創成棟との話をまとめ、自科霊棟へ戻って経緯を伝えると、教室内は今日一番の盛り上がりを見せた。放課後には涼真や橘たちの提案により顔合わせを兼ねた交流会を開くことになり、解散した頃にはすっかり日が傾いていた。
 西日が長い渡り廊下を茜色に染め、校舎の硝子窓が黄金色に輝いている。
 
「あー、本当に良かった! みんな、快く引き受けてくれて」
「うん」
「私、一人じゃ絶対無理だった」
 
 隣を歩く篠宮は、心の底から嬉しそうに笑っている。それなのに、玲司の胸の奥には、まだ小さな棘が刺さったままだった。
 ちくりと痛むたびに思い出すのは、篠宮と蓮水が寄り添う姿。
 
『青葉』
『柊也』
 
 二人は互いの名前を呼んでいた。それが、昔から当たり前だったかのように。それが長い時間をともに研究してきた者同士だからこその距離なのだと、分かっている。……頭では。
 
「ねえ、東雲」
「…………」
「東雲?」
「…………」
「東雲! ちょっと、聞いてる?」
 
 肩を軽く叩かれて、ようやく我に返った。
 
「……ああ。ごめん、ちょっと考え事」
「えー? 珍しいね、東雲が上の空なんて」
「そんなこともあるだろ」
「! ……そっか。ごめん」
 
 それ以上、言葉は続かなかった。不揃いな二つの足音だけが、渡り廊下に響いていく。
 青葉……か。
 今日だけで、何度耳にしただろう。
 蓮水が、荻野が、創成棟の全員が。誰もがその名を呼ぶたびに、彼女は嬉しそうに振り返り、同じように彼らの名前を呼んでいた。それは、長い時間をともに過ごしてきたからこその距離だ。
 そんなことは、分かっているけれど——。
 
「東雲。待って、早いよ」
 
 いつから自分は、こんなに欲深くなったのだろう。
 青葉が好きだと気づいて、友達になって、いろんな顔を知ることができて。
 それで良かったはずなのに、気づけば彼女の中の特別が欲しいなんて、思ってしまう自分がいる。
 
「東雲ってば! ……ねえ、ごめん。もしかして私、なんか東雲に嫌なこと——」
「青葉」
 
 夕風が、二人の間をすり抜けた。
 
「……え?」
 
 夕日に照らされた顔が、驚いたように自分を見上げる。
 やってしまった、と理解するまで数秒かかった。
 呼ぶつもりなんてなかった。なのに、気づけばその名前が口をついていた。
 
「…………」

 どうしよう、この空気。謝る? ただ名前を呼んだだけで、謝る必要があるのだろうか。でも、青葉を困らせるのは違う。目の前の彼女は驚いた顔のまま硬直している。
 何を言えば良いのか、どう弁明すれば元の空気に戻せるのか。こんなに頭を回しているはずなのに、何一つ浮かんでこない自分が情けない。
 二人の間に、短い沈黙が落ちる。やがて——。
 
「……っ」

 青葉の白い頬が、みるみるうちに夕焼けとは違う赤色へ染まっていく。言葉が見つからないのか、小さく唇を震わせるばかりだった。
 待ってくれよ。なんでそんな顔、するんだよ。
 もしかして、少しくらいは俺のこと——。
 ほんの少し前まで胸を締め付けていた、あのざわつきも、不安も。その一瞬だけ、綺麗に吹き飛んだ。その穴を埋めるように、微かな期待がふわりと胸に湧き上がった。
 ……いや、違う。都合よく解釈してはダメだ。
 さっきまで苗字で呼んでた奴が、なんの脈絡もなく名前で呼んだら誰だって面食らうだろう。
 だけど——どうしても、このままなかったことにはしたくなかった。
 
「……友達なんだから。名前で呼んだって、変じゃないだろ」
「…………」

 毎度苦しい言い訳で誤魔化す自分に、心の中で自嘲する。
 青葉は顔を赤くしたまま目を瞬かせた。
 
「とも……だち」
「…………」
「そっか。うん……友達、ね」
 
 拒絶は、されなかった。
 その事実にほっと胸を撫で下ろす。
 やがて、二人はまたゆっくりと歩き出した。
 さっきまでと同じ帰り道。同じ夕焼け。けれど、二人の間に流れる空気は、昨日までとは少しだけ違っていた。