つがいがなんだってんだ!

 昼休みの鐘が鳴ると、青葉は弁当を手早く掻き込み、机の脇の鞄へ手を伸ばした。
 図書館へ足を運ぶには少し短い昼休みだが、教室で本を読み進めるには十分な時間がある。一分一秒が惜しい。鞄から引っ張り出したのは、付箋だらけになった霊術専門書——『現代霊術応用技術学・概論』だ。
 栞を抜き、続きのページを開いて文字を追い始めたその時、向かいの席から呆れたような声が降ってきた。

「青葉、まーたそんな難しい本読んでんの?」

 顔を上げると、(たちばな)伊織(いおり)が机に頬杖をつきながら、こちらを覗き込んでいた。右目尻にある泣き黒子が印象的な目元には、いつもの悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。面倒見が良く誰とでもすぐ打ち解ける伊織は、あまり人と馴れ合うことのない自分にとって、数少ない気の置けない友人だった。

「別に、そんな難しいものじゃないと思うけど」
「いーや、難しいね。タイトルを見ただけで、アタシの脳が睡眠モードに入るもん」
「それは伊織が勉強嫌いなだけじゃ……」
「んなっ、失礼な。アタシだって本くらい読むわよ」
「雑誌と漫画でしょ?」
「読むじゃん!」

 堂々と胸を張る伊織に、青葉は堪えきれずに吹き出した。

「はいはい、威張るところじゃないから。これ以上邪魔をしない」
「えー。じゃあさ、その本のどこがそんなに面白いのか教えてよ」
「うーん……例えばね、結界術の消費霊力を大幅に削減できれば、霊力の強い専門家がいない小さな町でも、安全な防犯結界を維持できるようになるでしょ」
「うん……?」
「それに、災害時の通信術式が改良されたら、救助活動のスピードが劇的に上がる。術式端末がもっと普及すれば、霊力が低い一般の人だって、安全にその恩恵を受けられるようになるの。それってすごく面白いと思わない?」
「まあ……すごい、かも。難しいことはよく分かんないけど……うん、青葉が楽しそうなのは分かった!」

 清々しいほどの返答に、思わずため息が零れた。
 出会った時からそうなのだ。自分からいろいろと聞いてくるわりに、その実、半分も理解しているかどうかも怪しい。そもそも、SNSや芸能、ファッションなどが好きな彼女からすれば、専門書や研究の話など大して面白くもないだろうに、それでもこちらが話し終えるまでただニコニコと聞いているのだから、殊更に謎である。
 何を考えているのか、よく分からない時もある。けれど、好きな食べ物やちょっとしたこだわりなど、何気ない話になると不思議なくらい話が合って、そうして気づけば、学校ではいつも隣にいた。

「青葉は将来、本当に研究者になるつもりなんだね」

 ふと真面目なトーンに戻った伊織へ、青葉はさらりと言い放った。

「なるつもり、じゃない。なるの!」
「わお、言い切った」
「うん、言い切る」

 國立霊術学院の大学部へ進み、その先にある最先端の研究機関へ行く。霊術応用技術学の研究者になり、人々の生活を便利にする。そこだけは、誰にも決めさせない。誰にも譲るつもりはなかった。

「おーい、未来の大研究者先生」

 ふいに背後から、聞き慣れた声が割り込んできた。振り返ると、幼なじみの瑞浪(みずなみ)颯人(はやと)が椅子をくるりと反転させ、背もたれを前にして器用に腰掛けていた。両腕に大量の菓子パンを抱えている。弁当も食べた後だというのに、まだそんなに食べるのか。午後の授業、眠くなりそうだ。
 
「また難しそうな研究者ごっこかー?」
「ごっこじゃないってば」
「いや、まだ俺たち高校生だし」
「高校生だけど、なる予定だからいいの」
「はいはい、分かってるよ」

 肩をすくめて笑う颯人に、青葉は「絶対になるから」と口を尖らせた。
 颯人も昔からこうだ。自分の夢を馬鹿にして笑うことは決してないし、かと言って無条件に持ち上げるわけでもない。つかず離れず、互いに深く干渉はしないけれど、なんとなく気にはかけている。その距離感が心地よかった。
 青葉が再び目線を本へと移そうとした、その時だった。開け放たれた窓の向こう——校庭の方から大きな歓声が沸き起こった。
 何事かと、三人同時に窓の外へと目を向ける。
 陽光が降り注ぐ昼休みの校庭では、男子生徒たちが集まって即席のバスケットボールに興じていた。歓声の中心にいたのは、東雲(しののめ)玲司(れいじ)だった。迫るディフェンスを鮮やかなステップで一人かわすと、そのままシュートを放った。美しい放物線を描いたボールは、バックボードに触れることもなく、吸い込まれるようにリングの中心を射抜く。沸き返るコートの中で、東雲は額に滲んだ汗を拭っていた。

「うわぁ……相変わらず、かっこいいねぇ」

 伊織が窓枠に顎を乗せ、感心したように声を漏らす。

「あー。東雲ねぇ」

 颯人がどこか苦笑交じりに続けた。

「運動神経抜群、学業優秀、顔も良ければ、おまけに国内屈指の東雲グループの御曹司……ほんと、世の中不公平だよなぁ」
「改めて並べるとスペックが渋滞してるわ」
「全部ちゃんと事実だから腹が立つんだよ。全く……天は二物をなんとやら、なんてさ。あいつ見たら信じらんねぇよな。神はいくつ与えてんだっての」

 二人のやり取りに、青葉は肩をすくめた。

「まあ……同じ高校生とは思えないくらい、すごい人なのは認めるけどね」

 自分にとっては遠い世界の存在であり、同じ三年二組の教室に席を並べているのが不思議なほどの男だった。
 華やかな校庭の様子を三人でぼんやりと俯瞰していると、コート内でパスを受け取った東雲が、不意に校舎の方へと顔を向けた。
 特にこれといった理由はない、気まぐれな視線だったのだと思う。けれどそれは、窓辺で彼を眺めていた自分たちのところで止まって——。
 ……あれ。なんか今、目が合った……?
 なんとなく、専門書を持ったままの手をひらりと振ってみせる。クラスメイトと目が合ったのだから、それくらいの挨拶は社交辞令として普通だと思ったのだ。
 だがその瞬間、東雲がピシリと動きを止めたのが、遠目からでもはっきりと分かった。

「おい、玲司!」
「っ、ごめん!」

 隙を突かれて東雲から奪われたボールは、そのまま相手チームの手によってゴールへと鮮やかに運ばれていった。

「あーっ、玲司先輩が抜かれた!」
「おいおい、しっかりしろよ東雲!」

 校庭からは賑やかなヤジが飛び交っている。
 その光景に、青葉は小さく首を傾げた。

「……なんか今の、東雲らしくなかったね」
「確かに。あいつがあんなヘマすんの珍しいよな」

 颯人も不思議そうに顎をさすっている。けれどその隣では、伊織が何か面白いものでも見つけたように、悪戯(いたずら)な笑みを浮かべて校庭を見つめていた。

「へぇ……なるほどねぇ……」
「え、なに。伊織」
「いーや? なんでもなーい」

 そんなにニヤニヤしておいて、なんでもないわけないでしょうよ。なにがそんなに面白いんだか。
 まあ、伊織のこれは今に始まったことじゃないし、たいして気になるわけでもないから、それ以上突っ込むのはやめ、手元の本を再び開いた。

「あ、そういえばさあ! 知ってる? 二年生で番紋が出た人がいるらしいよ」

 伊織が思い出したように口を開いた。

「あぁ。なんか女子たちが『運命の相手だー!』ってめちゃくちゃ騒いでたな」

 颯人はジャムパンの袋を開けながら相槌を打つ。
 番紋。それは霊力保持者の中でも高い霊力を有し、かつ波長が極めて高い純度で共鳴した男女にのみ顕れる、特別な紋様だ。番になった者同士は、魂のレベルで惹かれあい、生涯をともにする伴侶となることで、永遠の幸せが約束される——と、されている。霊術界では、『魂の伴侶』『運命の祝福』と呼ばれ、誰もが一度は夢見る存在だった。……一部、例外を除いて。

「はぁ〜。“運命の祝福”、いいなぁ。相手探しで悩まなくていいし、結婚も将来も安泰って感じじゃない? ちょっと憧れるよねぇ」

 伊織が頬杖をついて笑う。

「青葉はどうよ?」
「私は嫌」
「え?」
「番なんていらない」

 青葉は本から視線を上げなかった。その返答が想定外だったのか、伊織が素っ頓狂な声をあげた。
 
「え、なんで!? だって番だよ? 運命の相手が最初から決まってるなんて、最高じゃん! 一生相手探ししなくていいし、お互い絶対に裏切らないって言われてるし。番がいると就職だって有利になるし。いいことしかなくない? ねえ、颯人?」
「あー……まあな」
 
 伊織の同意を求める声に、颯人は思わず苦笑する。

「運命なんて必要ない。私の将来は自分で決めたい」
「えー、冷めてんなぁ。……うん? あれ……でもさ。青葉の家って番紋出やすいみたいなこと、前に颯人言ってなかったっけ」
「…………」
「あー……」

 青葉は無言で颯人を睨みつけた。颯人はその視線から逃れるように、言葉を濁しながらもそもそとパンをかじっている。二人の間に流れる微妙な空気に、伊織は気まずそうに口を噤んだ。

「まあ……青葉は研究一筋だからな」

 颯人は一度咳払いをすると、笑って言った。

「番より論文。デートより実験」
「別に、そんなことないけど」
「えー? 昨日も『図書館で一日暮らせる』とか言ってなかった?」
「言ったけど」
「ほらな。こいつ、本棚と結婚できるタイプだから」
「ちょっと! 私はさすがに、本と結婚する気なんてないから!」
「でも本棚の前だと目ぇ輝いてるだろ」
「そりゃ、好きな本があればみんなそんな感じになるでしょ!」

 二人のやり取りに、伊織がついに吹き出した。

「まあ……青葉なら、ウェディングドレスより白衣のが似合いそうだよね。ドレス姿ももちろん綺麗だろうけどさ。白衣は『青葉!』って感じがする」
「! ……それは嬉しい、かも」
「そこ喜ぶんだ!?」

 誰からともなく吹き出し、三人の笑い声が重なった。
 その拍子に、伊織が青葉の机に置かれていた一本のボールペンを肘で弾いてしまった。

「あっ、ごめん!」

 ころころと床を転がったボールペンは、教室後方のロッカーの前でぴたりと止まる。
 伊織が拾おうと立ち上がるよりも早く、節ばった長い指がそれを拾い上げた。

「……あげピヨ?」
 
 すぐ近くから聞こえた落ち着いた声に振り向くと、いつの間にか校庭から戻ってきていた東雲が、ボールペンを手にロッカーの前でしゃがみ込んでいた。教科書を取り出して授業の準備をしていたようだった。

「えっ、東雲!? もう戻ってきたのかよ」
「次の授業、神谷だろ。遅刻すると面倒臭いんだよ」
「さすが生徒会長、真面目だねえ」
「いや、前に一回やらかしてるから。この時間にまだ外いるヤツらは神谷の説教コース確定だな。はい、これ」
「あ……ありがと、東雲」

 東雲はボールペンをそっと青葉の机の上へ置いた。

「篠宮、あげピヨ好きなの?」

 東雲がボールペンに描かれた、丸い黄色い雛鳥のキャラクターを見て、小さく目を瞬かせる。

「え? うん。なんで?」
「いや。ちょっと意外だなって思って」
「どういう意味?」
「専門書とかよく読んでるから、もっと無機質なやつ使ってるのかと」

 東雲が少しだけ肩をすくめる。青葉はボールペンを見つめ、それから少しだけ口元を緩めた。

「別に、可愛いものくらい好きだよ」
「そっか」

 東雲は短く笑い、ロッカーから教科書を取り出す。
 しばらくして、なにかを思い出したように口を開いた。

「そういえばさ、盗み聞きしたつもりはないんだけど……“ウェディングドレス”って、そんな話でもしてたの?」
「ああ、それ。青葉がね、図書館と結婚するんだって話してたの」

 伊織のふざけた説明に、東雲は少し驚いたように青葉を見る。

「はぁ?」
「ちょ、伊織! それは誤解を生むからやめてよ。そもそも、私はただ『番なんていらない』って言っただけだし」
「え……なんで?」

 青葉の発言に、東雲は不思議そうに首を傾げた。

「なんでって——」
「番は“運命の祝福”だろ?」

 先ほどの伊織と全く同じその言葉に、青葉は眉間の皺を深くした。こいつもか。いや、大半はそうだ。()()()()反応が世間的には当たり前なのだ。自分が、そうではないだけで。
 もやもやと反論を飲み込んでいる間にも、東雲は続けた。

「俺の両親も、じいちゃんばあちゃんも、その上の代も全員番なんだ。皆仲がいいし、小さい頃からずっとそういう夫婦を見て育ってきたからさ。だから……番はやっぱり、運命の相手ってやつなんだろうな、って思うけどな」

 青葉は黙って目の前の男を見つめた。その顔には、悪意など欠片も見当たらない。ただ、これまでの人生で見てきた幸福を、そのまま口にしているだけなのだ。
 それに勝手に傷つき、苛立っているのは、あくまでも自分の問題である。決して彼が悪いわけではない。そんなことはわかってる。けれど——。

「……東雲はさ。番が見つかることが、必ずしも幸せにつながるとは限らないって、考えたことある?」
「え?」

 その言葉に、東雲の顔から笑みが消えた。

「それは……」

 東雲は口を開きかけたものの、結局なにも言わなかった。四人の間に重い沈黙が落ちる。
 ああ……別に空気を悪くしたいわけじゃないんだけどな。この手の話が続いたせいで、どうも今日はよろしくない。

「はい、終了ーー!!」

 そんな空気に切り込むように、颯人が食べ終わったパンの袋を叩いた。くしゃ、という気の抜けた音に、少しだけ肩の力が抜ける。

「午後イチ、神谷の霊術史だぞ? こんな重い話なんかしたら眠くなる前に胃が痛くなるって」
「そ、そうそう! ほら青葉、準備しよ!」
「颯人。さっきのジャム、ついてるけど」
「え?」

 颯人は慌てて自分の制服を見下ろした。裾には、苺ジャムがべっとりとついている。

「うわ、マジじゃん! ウケる」
「やっべ、めっちゃ付いてる!」
「よそ見しながら食べるからだよ」

 気づけば、いつもの昼休みの空気が戻っていた。青葉は心の中でため息をつきながら、机の中から霊術史の教科書を引っ張り出す。
 東雲玲司——なにもかも、自分とは違う世界を生きる人間。たまたま同じ学校で、同じクラスにいるから話すこともあるけれど、ここを卒業したら恐らく、二度と交わることのない人だ。
 きっと、この男とは一生分かり合えないだろう。