***
番紋が顕れてから、一か月。
最初はほんの少し離れただけでも霊障に襲われていたが、調月による定期的な霊力検診を経て、今では学内程度の距離であれば、別々に行動できるところまで回復していた。
『校内での単独行動は許可する。ただし、登下校だけは必ず一緒に行動すること』
それが先日、調月から新たに言い渡された最低限の条件だった。
霊力が安定してきたことで、休止していた部活動にも無事復帰した。青葉は弓道部、東雲は剣道部へ——二人は少しずつ、失われた日常のピースを取り戻し始めていた。
もっとも、『二人に番紋が顕れた』という事実は、未だ学院全体には伏せたままである。
だから部活や委員会が終わると、二人は校舎からほとんど人がいなくなるまで、それぞれ部室や図書館で時間を潰す。そして、人気がなくなった頃合いを見計らって互いを迎えに行く。それが、いつしか二人の習慣になっていた。
そして今日は——青葉が東雲を迎えに行く番だった。
夕焼け色にじんわりと染まり始めた、放課後の静かな校舎を歩き、武道場へと続く長い渡り廊下を進む。
開け放たれた古い窓から吹き抜ける風が、制服の襟元から覗く汗ばんだ青葉の首筋を心地よく撫でていった。
そろそろ、今日の部活終わってる頃だろう。
前方には、既に全体練習を終えて制服に着替えた剣道部員たちが「お疲れ様でしたー!」「今日の地稽古マジできつかったわ!」と声を掛け合いながらワラワラと歩いていくのが見えた。
周りに誰もいないのを確認してから武道場の引き戸に手をかけ、音を立てないように滑らせて開ける。
鼻腔を掠めるのは、乾いた床板と、藍染めの道着や防具に染みついた独特の匂い。何十人もの部員たちが激しく竹刀を打ち合っていた気配がまだ微かに残っている。
そんな余韻が残る広い空間に、一人だけ。
傾いた夕陽が格子窓から差し込む中、ポツンと正座する人影があった。——東雲だ。
青葉は息を詰めた。
東雲は道着を乱れなく着込み、その脇に竹刀を置いて一人黙想していた。いつも教室で見る、穏やかで誰にでも優しい彼とは別人のように、今は声をかけることさえためらわせるほど鋭く研ぎ澄まされている。
「……っ」
こんな表情、知らない。
どくん、と心臓が大きく脈を打った。渡り廊下を歩いてきたせいでは説明できない熱が、身体の奥から込み上げてくる。
……違う。これは、番のせいだ。
番紋が彼の霊力に共鳴し、自分の脳に錯覚を見せているのだろう。そう考えれば、この不自然な胸の高鳴りにも説明がつく。
それなのに。夕陽に縁取られた彼の横顔から、どうしてか目を逸らすことができなかった。
やがて東雲は、胸の奥の空気をすべて吐き出すように息を吐き、ゆっくりと瞼を持ち上げた。その鋭い視線が、武道場の入り口に立っている自分を捉えた瞬間——。
「……あ」
ふっ、と風に溶けるように、張り詰めていた空気がほどけた。武人のような鋭さは影を潜め、見慣れた柔らかな笑みが顔に浮かぶ。
その変化に、胸の奥がまた大きく跳ねる音がした。
……さっきからなんなんだ、もう!
突然湧いてきたむず痒さを振り払うように首を振ると、何食わぬ顔で武道場へ足を踏み入れた。
「東雲!」
天井の高い道場に、青葉の声が明瞭に響く。
「お疲れ様。終わった?」
「うん、着替えてくる」
東雲は床からスッと立ち上がり、いつものように笑った。
「わざわざ、迎えに来てくれたんだ」
「水曜は私の番でしょ。昨日、東雲に図書館まで迎えに来てもらったんだから、お互い様だよ」
「あ……そっか、今日水曜日だ。ごめん、待たせた?」
「ううん。ちょうど今、来たところ」
近づいてきた彼から、いつもより鮮烈な森の香りが漂う。反射的に深く息を吸い込みそうになり、青葉は慌てて口元を引き結んだ。身体が勝手に彼を求めているようで、相変わらず腹立たしい。
「そういえばさ」
着替えを終えて部室から出てきた東雲は、鞄を肩にかけながら、ふっと思い出したように口を開いた。
「来週から、霊学祭の特別準備期間が始まるな」
「あー……もうそんな時期か」
並んで歩き出しながら、青葉も頷く。
霊学祭——それは、この霊術学院高等部が毎年九月初旬に開催する、一年で最も大きな学校行事である。
一般的な文化祭というより、研究発表会に近い。近隣住民や一般客だけでなく、全国の霊術関係者や大学、有望な人材を求める企業関係者までが足を運ぶ。だからこそ、生徒たちは夏休みを返上してでも展示や実演の準備に打ち込むのだ。
特に研究者志望の生徒にとっては、自分たちの研究を学外へ発信できる、年に一度の晴れ舞台でもあった。
「ねえ。今年の全体テーマ、なにになるの?」
「気になるよなー」
「え、東雲もまだ知らないの?」
隣を覗き込むと、東雲は困ったように眉を下げ、けれどどこか楽しそうに唇を綻ばせた。
「いや、そりゃ知ってるけど。全校生徒への正式発表前だし」
「ヒントは?」
「ヒントも駄目」
「真面目か。ケチ」
「そういう役目だから」
青葉は肩を落とし、わざとらしくため息をついてみせる。
「あーあ。ほんと口堅いんだから、この生徒会長様は」
「ふはっ。まあ、来週の発表まで楽しみに待っててよ」
東雲は悪戯っぽく笑うと、前を見据えながら続けた。
「でも……今年は篠宮も自科霊棟にいるし、例年よりずっと賑やかになりそうだな」
「……私? 私はただ、データを取りに来させてもらってるだけの、居候みたいなものだけど」
「こっちで研究始めて、もう一か月だろ。みんなもう、お前のことを完全に身内だと思ってるよ」
「えっ……」
「今日も部活前に涼真が言ってたんだ。『今年は篠宮もいるし、いつもと同じじゃつまんねえだろ』って、みんなで展示の話をしてたよ」
「えぇ……なにそれ、初耳なんだけど。あのバカたち、勝手に計画に組み込まないでよ……」
呆れたように首を振りつつも、口元には小さな笑みが浮かんでしまう。
自分は本来、創成棟の人間だ。それなのに今は、自科霊棟の一員として、いつの間にか当たり前のように数えられている。その事実が、胸の奥を、なんだか少しだけくすぐったく、温かくした。
「……楽しみだな、本当に」
「……東雲って、そういう学校行事とかお祭りごとって、好きなんだ?」
「嫌いじゃないよ」
「ふーん……まあ、嫌いだったらわざわざ自分から進んで生徒会長なんてやってないか。ただでさえ、普段から忙しそうなのに」
「たしかに、霊学祭前の一か月は特に忙しくなるな」
「ほら、やっぱり」
「でも」
東雲は歩みを止めることなく、どこか遠くを見るように、優しく目を細めた。
「みんなが一つのことに夢中になってる光景を見るのは、結構好きなんだ」
「……そっか」
二人で歩く帰り道には、これから始まる祭りを予感させるように、ヒグラシの鳴き声が心地よく響いていた。
番紋が顕れてから、一か月。
最初はほんの少し離れただけでも霊障に襲われていたが、調月による定期的な霊力検診を経て、今では学内程度の距離であれば、別々に行動できるところまで回復していた。
『校内での単独行動は許可する。ただし、登下校だけは必ず一緒に行動すること』
それが先日、調月から新たに言い渡された最低限の条件だった。
霊力が安定してきたことで、休止していた部活動にも無事復帰した。青葉は弓道部、東雲は剣道部へ——二人は少しずつ、失われた日常のピースを取り戻し始めていた。
もっとも、『二人に番紋が顕れた』という事実は、未だ学院全体には伏せたままである。
だから部活や委員会が終わると、二人は校舎からほとんど人がいなくなるまで、それぞれ部室や図書館で時間を潰す。そして、人気がなくなった頃合いを見計らって互いを迎えに行く。それが、いつしか二人の習慣になっていた。
そして今日は——青葉が東雲を迎えに行く番だった。
夕焼け色にじんわりと染まり始めた、放課後の静かな校舎を歩き、武道場へと続く長い渡り廊下を進む。
開け放たれた古い窓から吹き抜ける風が、制服の襟元から覗く汗ばんだ青葉の首筋を心地よく撫でていった。
そろそろ、今日の部活終わってる頃だろう。
前方には、既に全体練習を終えて制服に着替えた剣道部員たちが「お疲れ様でしたー!」「今日の地稽古マジできつかったわ!」と声を掛け合いながらワラワラと歩いていくのが見えた。
周りに誰もいないのを確認してから武道場の引き戸に手をかけ、音を立てないように滑らせて開ける。
鼻腔を掠めるのは、乾いた床板と、藍染めの道着や防具に染みついた独特の匂い。何十人もの部員たちが激しく竹刀を打ち合っていた気配がまだ微かに残っている。
そんな余韻が残る広い空間に、一人だけ。
傾いた夕陽が格子窓から差し込む中、ポツンと正座する人影があった。——東雲だ。
青葉は息を詰めた。
東雲は道着を乱れなく着込み、その脇に竹刀を置いて一人黙想していた。いつも教室で見る、穏やかで誰にでも優しい彼とは別人のように、今は声をかけることさえためらわせるほど鋭く研ぎ澄まされている。
「……っ」
こんな表情、知らない。
どくん、と心臓が大きく脈を打った。渡り廊下を歩いてきたせいでは説明できない熱が、身体の奥から込み上げてくる。
……違う。これは、番のせいだ。
番紋が彼の霊力に共鳴し、自分の脳に錯覚を見せているのだろう。そう考えれば、この不自然な胸の高鳴りにも説明がつく。
それなのに。夕陽に縁取られた彼の横顔から、どうしてか目を逸らすことができなかった。
やがて東雲は、胸の奥の空気をすべて吐き出すように息を吐き、ゆっくりと瞼を持ち上げた。その鋭い視線が、武道場の入り口に立っている自分を捉えた瞬間——。
「……あ」
ふっ、と風に溶けるように、張り詰めていた空気がほどけた。武人のような鋭さは影を潜め、見慣れた柔らかな笑みが顔に浮かぶ。
その変化に、胸の奥がまた大きく跳ねる音がした。
……さっきからなんなんだ、もう!
突然湧いてきたむず痒さを振り払うように首を振ると、何食わぬ顔で武道場へ足を踏み入れた。
「東雲!」
天井の高い道場に、青葉の声が明瞭に響く。
「お疲れ様。終わった?」
「うん、着替えてくる」
東雲は床からスッと立ち上がり、いつものように笑った。
「わざわざ、迎えに来てくれたんだ」
「水曜は私の番でしょ。昨日、東雲に図書館まで迎えに来てもらったんだから、お互い様だよ」
「あ……そっか、今日水曜日だ。ごめん、待たせた?」
「ううん。ちょうど今、来たところ」
近づいてきた彼から、いつもより鮮烈な森の香りが漂う。反射的に深く息を吸い込みそうになり、青葉は慌てて口元を引き結んだ。身体が勝手に彼を求めているようで、相変わらず腹立たしい。
「そういえばさ」
着替えを終えて部室から出てきた東雲は、鞄を肩にかけながら、ふっと思い出したように口を開いた。
「来週から、霊学祭の特別準備期間が始まるな」
「あー……もうそんな時期か」
並んで歩き出しながら、青葉も頷く。
霊学祭——それは、この霊術学院高等部が毎年九月初旬に開催する、一年で最も大きな学校行事である。
一般的な文化祭というより、研究発表会に近い。近隣住民や一般客だけでなく、全国の霊術関係者や大学、有望な人材を求める企業関係者までが足を運ぶ。だからこそ、生徒たちは夏休みを返上してでも展示や実演の準備に打ち込むのだ。
特に研究者志望の生徒にとっては、自分たちの研究を学外へ発信できる、年に一度の晴れ舞台でもあった。
「ねえ。今年の全体テーマ、なにになるの?」
「気になるよなー」
「え、東雲もまだ知らないの?」
隣を覗き込むと、東雲は困ったように眉を下げ、けれどどこか楽しそうに唇を綻ばせた。
「いや、そりゃ知ってるけど。全校生徒への正式発表前だし」
「ヒントは?」
「ヒントも駄目」
「真面目か。ケチ」
「そういう役目だから」
青葉は肩を落とし、わざとらしくため息をついてみせる。
「あーあ。ほんと口堅いんだから、この生徒会長様は」
「ふはっ。まあ、来週の発表まで楽しみに待っててよ」
東雲は悪戯っぽく笑うと、前を見据えながら続けた。
「でも……今年は篠宮も自科霊棟にいるし、例年よりずっと賑やかになりそうだな」
「……私? 私はただ、データを取りに来させてもらってるだけの、居候みたいなものだけど」
「こっちで研究始めて、もう一か月だろ。みんなもう、お前のことを完全に身内だと思ってるよ」
「えっ……」
「今日も部活前に涼真が言ってたんだ。『今年は篠宮もいるし、いつもと同じじゃつまんねえだろ』って、みんなで展示の話をしてたよ」
「えぇ……なにそれ、初耳なんだけど。あのバカたち、勝手に計画に組み込まないでよ……」
呆れたように首を振りつつも、口元には小さな笑みが浮かんでしまう。
自分は本来、創成棟の人間だ。それなのに今は、自科霊棟の一員として、いつの間にか当たり前のように数えられている。その事実が、胸の奥を、なんだか少しだけくすぐったく、温かくした。
「……楽しみだな、本当に」
「……東雲って、そういう学校行事とかお祭りごとって、好きなんだ?」
「嫌いじゃないよ」
「ふーん……まあ、嫌いだったらわざわざ自分から進んで生徒会長なんてやってないか。ただでさえ、普段から忙しそうなのに」
「たしかに、霊学祭前の一か月は特に忙しくなるな」
「ほら、やっぱり」
「でも」
東雲は歩みを止めることなく、どこか遠くを見るように、優しく目を細めた。
「みんなが一つのことに夢中になってる光景を見るのは、結構好きなんだ」
「……そっか」
二人で歩く帰り道には、これから始まる祭りを予感させるように、ヒグラシの鳴き声が心地よく響いていた。

