◇
篠宮が思った以上の早さで教室の空気に溶け込んだことに、少しホッとした。
これまで教室や図書館で見かけていた彼女は、周囲に壁を作っているわけではないけれど、どこか一線を引いて相手を見ているようなところがあったから。
このクラスは仲間想いで積極的な奴が多いので、彼女の研究にも喜んで協力するだろう。だが、如何せん騒がしい。この独特の空気に気圧されて、肩身の狭い思いをしてしまうのではないかと危惧していた。
しかし、どうやらそれは杞憂だったようだ。
いつの間にか輪の中心にいた篠宮は、瞳をきらきらと輝かせ、楽しそうに笑っている。
篠宮への好意を自覚してからというもの、以前にも増して、彼女の表情が目につくようになった。笑っていれば安心し、曇ればその理由を知りたくなる。それだけのことで一喜一憂してしまうたび、「お前はただの友達だろ」と、昨日の自分が釘を刺す。
「なあなあ。篠宮ってさあ、可愛いよな」
「あ、やっぱお前も思った?」
「今まで図書館で本読んでるところしか見たことなかったからさ。なんか結構、喋ると印象違うっていうか」
「分かるわー。ギャップっていいよなあ」
「篠宮、頭も超いいしな。この前の中間テスト、学年三位だったらしいぜ」
「マジか。今度、『霊術数論の課題分かんねぇ』って言って、教えてもらおっかな」
「それは下心丸出しすぎだろ」
「はは、バレた?」
少し離れた後ろの席から、男子生徒たちが声を潜めて交わす会話が聞こえてきた。
彼らの視線の先には、身振り手振りを交えながら談笑している篠宮。その無邪気さを見ていると、不思議とこちらまで頬が緩む。
……可愛いな。
その思いが胸を掠めたのと同時に、右手首がじわりと熱を帯びた。まただ。今日だけで何度目だろう。
「俺、割とマジでタイプなんだよなあ。連絡先交換できねぇかな」
「普通に話しかければいいじゃん。当分いるんだろ?」
「いや、でも何話せばいいんだよ」
「霊術数論教えてもらえば?」
「それ、さっき俺が言ったやつ!」
背後から聞こえてくる笑い声に、胸の底で黒い火種が、ちり、と爆ぜた。
「…………」
ついさっきまでは、篠宮が楽しそうに笑っていることが、ただ嬉しかったはずなのに。その笑顔を他の男まで『可愛い』と口にした途端、妙に落ち着かなくなる。
手のひらが、制服のポケットの中で固く握りしめられた。知らず知らずのうちに、眉間へ深い皺が寄る。
……なにも知らないくせに。
彼女がどれほどの努力家で、どれだけの熱量を持って術式と向き合っているかも。弱っている時でさえ、自分の足で立とうとするほど頑固なところも。そして昨日、番紋を見た瞬間に、あれほど絶望したような、苦しそうな顔を浮かべていたことも。
あいつらは、なに一つ知らないだろう。
それなのに、ほんの一瞬見えた笑顔だけで、『可愛い』だの『タイプ』だのと好き勝手なことを言っている。そんな男たちの笑い声が、どうしようもなく癇に障った。
やがて男たちは、本当に篠宮のいる輪へと加わっていった。数メートル先では、彼らの冗談に「やめてよ」と笑い返している篠宮がいる。
ただその光景を見ているだけなのに、腹の底がじりじりと煮える。今すぐあの輪へ割って入り、彼女をあいつらの視線が届かない場所へ連れていきたい。
自分の中にこんな感情があるなんて、思いもしなかった。それは、恋心などという綺麗な言葉で括るには、あまりにどす黒く、醜い何かだった。
ふと、自身の右手首へ視線を落とす。
じわりと熱を帯びた紋様が、今も脈打つようにその存在を主張している。
……なあ。これも“お前”のせいなのか。
今まさに胸の中で疼いているこの独占欲まで、番だから湧き上がっているだけなのか。
いや。たとえ番紋のせいではなく、本当に自分自身の感情だったとしても、それを篠宮へ押しつけていい理由にはならない。
そもそも、篠宮が誰と話し、誰を好きになるのかは、彼女自身が決めることだ。そこに俺の権利は、ない。
そんなことは、昨日のやり取りで嫌というほど分かったはずなのに。
理性が引き止めるより先に、足が動いていた。
「あ、東雲」
クラスメイトの輪の中で楽しそうに笑っていた篠宮が振り返る。
「ねぇ、成瀬くんって面白いね! さっき——」
「篠宮」
「!」
思った以上に低い声が出たことに、自分でも驚いた。
「……実習室の基本設備を案内するから。行くぞ」
「え? でも、今日はまだそんな本格的には測定しないよ?」
「今日はしなくても、あらかじめ設備の仕様を把握しておいた方がいいだろ」
「……まあ、それもそっか。分かった」
気づけば、彼女をあの輪から連れ出すための、もっともらしい理由が口をついて出ていた。
篠宮は少しだけ首を傾げたものの、素直にこちらの言葉へ頷いた。
その返事にホッとした自分が、何より厄介だった。
「ごめんね、みんな。また後で!」
「おう、気にすんなって!」
玲司は篠宮を促し、そのまま逃げるように教室を出た。扉をくぐる間際、背後から成瀬涼真の含み笑いが聞こえた。
「……へぇ」
「ん? 成瀬、どうしたよ」
「んー、いや。面白いもんが見れたなぁって」
その言葉が自分へ向けられている気はしたが、玲司は振り返らなかった。
篠宮が思った以上の早さで教室の空気に溶け込んだことに、少しホッとした。
これまで教室や図書館で見かけていた彼女は、周囲に壁を作っているわけではないけれど、どこか一線を引いて相手を見ているようなところがあったから。
このクラスは仲間想いで積極的な奴が多いので、彼女の研究にも喜んで協力するだろう。だが、如何せん騒がしい。この独特の空気に気圧されて、肩身の狭い思いをしてしまうのではないかと危惧していた。
しかし、どうやらそれは杞憂だったようだ。
いつの間にか輪の中心にいた篠宮は、瞳をきらきらと輝かせ、楽しそうに笑っている。
篠宮への好意を自覚してからというもの、以前にも増して、彼女の表情が目につくようになった。笑っていれば安心し、曇ればその理由を知りたくなる。それだけのことで一喜一憂してしまうたび、「お前はただの友達だろ」と、昨日の自分が釘を刺す。
「なあなあ。篠宮ってさあ、可愛いよな」
「あ、やっぱお前も思った?」
「今まで図書館で本読んでるところしか見たことなかったからさ。なんか結構、喋ると印象違うっていうか」
「分かるわー。ギャップっていいよなあ」
「篠宮、頭も超いいしな。この前の中間テスト、学年三位だったらしいぜ」
「マジか。今度、『霊術数論の課題分かんねぇ』って言って、教えてもらおっかな」
「それは下心丸出しすぎだろ」
「はは、バレた?」
少し離れた後ろの席から、男子生徒たちが声を潜めて交わす会話が聞こえてきた。
彼らの視線の先には、身振り手振りを交えながら談笑している篠宮。その無邪気さを見ていると、不思議とこちらまで頬が緩む。
……可愛いな。
その思いが胸を掠めたのと同時に、右手首がじわりと熱を帯びた。まただ。今日だけで何度目だろう。
「俺、割とマジでタイプなんだよなあ。連絡先交換できねぇかな」
「普通に話しかければいいじゃん。当分いるんだろ?」
「いや、でも何話せばいいんだよ」
「霊術数論教えてもらえば?」
「それ、さっき俺が言ったやつ!」
背後から聞こえてくる笑い声に、胸の底で黒い火種が、ちり、と爆ぜた。
「…………」
ついさっきまでは、篠宮が楽しそうに笑っていることが、ただ嬉しかったはずなのに。その笑顔を他の男まで『可愛い』と口にした途端、妙に落ち着かなくなる。
手のひらが、制服のポケットの中で固く握りしめられた。知らず知らずのうちに、眉間へ深い皺が寄る。
……なにも知らないくせに。
彼女がどれほどの努力家で、どれだけの熱量を持って術式と向き合っているかも。弱っている時でさえ、自分の足で立とうとするほど頑固なところも。そして昨日、番紋を見た瞬間に、あれほど絶望したような、苦しそうな顔を浮かべていたことも。
あいつらは、なに一つ知らないだろう。
それなのに、ほんの一瞬見えた笑顔だけで、『可愛い』だの『タイプ』だのと好き勝手なことを言っている。そんな男たちの笑い声が、どうしようもなく癇に障った。
やがて男たちは、本当に篠宮のいる輪へと加わっていった。数メートル先では、彼らの冗談に「やめてよ」と笑い返している篠宮がいる。
ただその光景を見ているだけなのに、腹の底がじりじりと煮える。今すぐあの輪へ割って入り、彼女をあいつらの視線が届かない場所へ連れていきたい。
自分の中にこんな感情があるなんて、思いもしなかった。それは、恋心などという綺麗な言葉で括るには、あまりにどす黒く、醜い何かだった。
ふと、自身の右手首へ視線を落とす。
じわりと熱を帯びた紋様が、今も脈打つようにその存在を主張している。
……なあ。これも“お前”のせいなのか。
今まさに胸の中で疼いているこの独占欲まで、番だから湧き上がっているだけなのか。
いや。たとえ番紋のせいではなく、本当に自分自身の感情だったとしても、それを篠宮へ押しつけていい理由にはならない。
そもそも、篠宮が誰と話し、誰を好きになるのかは、彼女自身が決めることだ。そこに俺の権利は、ない。
そんなことは、昨日のやり取りで嫌というほど分かったはずなのに。
理性が引き止めるより先に、足が動いていた。
「あ、東雲」
クラスメイトの輪の中で楽しそうに笑っていた篠宮が振り返る。
「ねぇ、成瀬くんって面白いね! さっき——」
「篠宮」
「!」
思った以上に低い声が出たことに、自分でも驚いた。
「……実習室の基本設備を案内するから。行くぞ」
「え? でも、今日はまだそんな本格的には測定しないよ?」
「今日はしなくても、あらかじめ設備の仕様を把握しておいた方がいいだろ」
「……まあ、それもそっか。分かった」
気づけば、彼女をあの輪から連れ出すための、もっともらしい理由が口をついて出ていた。
篠宮は少しだけ首を傾げたものの、素直にこちらの言葉へ頷いた。
その返事にホッとした自分が、何より厄介だった。
「ごめんね、みんな。また後で!」
「おう、気にすんなって!」
玲司は篠宮を促し、そのまま逃げるように教室を出た。扉をくぐる間際、背後から成瀬涼真の含み笑いが聞こえた。
「……へぇ」
「ん? 成瀬、どうしたよ」
「んー、いや。面白いもんが見れたなぁって」
その言葉が自分へ向けられている気はしたが、玲司は振り返らなかった。


