「あ! 玲司来たぞ!」
誰かが、扉の前に立つ東雲に気づいて声を上げた。
「東雲、昨日の予算委員会マジお疲れー」
「それな。砺波もありがと」
「玲司! 今日帰り葵屋行かね?」
「あーごめん、今日は無理。また今度な!」
東雲は声をかけてくる一人ひとりに気さくに応じている。教室へ入ってまだ一分も経たないというのに、次々とクラスメイトが話しかけてくる。本当に、どこ行っても人気者なんだな。
「あれ?」
教室の入り口からぼんやりとその光景を眺めていると、不意に後方から、聞き覚えのある声が飛んできた。
「しのりんじゃん! やっほー」
「あ……由美。お疲れ」
振り向けば、弓道部の南雲由美が親しげに大きく手を振っていた。青葉の姿に気づいた途端、周囲の生徒たちから次々と声が上がり始める。
「ほんとだ、篠宮じゃん」
「あれ。でも篠宮って、創成だろ? なんで自科霊に来てんの?」
その一言をきっかけに、教室中の視線が一斉に青葉へと集まった。
「え、なに? 知り合い?」
「あの子、図書委員の中でもめっちゃ本詳しいって有名だよ」
「そういえばこの前、図書館で探してた本すぐ見つけてくれたわ」
「てか、弓道部でしのりんって呼ばれてんだ?」
あっという間に青葉の情報が教室中へ伝播していく。あちこちから「しのりんって誰?」「あの子がしのりんか」と呟く声が聞こえてくる。最早『篠宮青葉』よりも先に『しのりん』が一人歩きしている始末である。
部活仲間につけられたあだ名が、まさかこんなところで広まるとは思わなかった。ひどく締まらないこの響きには、三年目の今でもあまりしっくり来ていないので、呼ばれるたびに微妙な気分になる。
「そんで?」
さっきまで指先に炎を灯して盛り上がっていた短髪の男子が、ニカッと白い歯を見せ、腕を組んだまま再び東雲へ視線を向けた。
「玲司。そのしのりんを、なんで連れてきたわけ?」
教室中の視線が、説明を求めるように東雲へと集まる。青葉もつられるように東雲を見た、その時だった。
「おーい、お前らー」
教室の後方から、どこか気だるげでハスキーな女性の声が飛んでくる。
声のした方へ視線を向けると、一人の女性教師がドアフレームに寄りかかっていた。片手には湯気の立つマグカップ、もう片方の手には出席簿を持ち、それをひらひらと振っている。
肩にかかる程度の黒髪を無造作に後ろで一つに束ね、白衣の袖は肘の上までラフにまくり上げられている。眠たそうに薄く細められた目元はいかにも不健康そうだが、その立ち姿には、不思議と一筋縄ではいかない空気が漂っていた。
「お疲れ様です、雨夜先生」
東雲がいつも通りに挨拶をする。
「ん、おつかれー」
雨夜と呼ばれた女性教師は、手近な教卓の端にマグカップをコトリと置くと、視線をゆっくりと青葉の方へ向けた。
「君が、創成棟から来た篠宮青葉?」
「……はい、そうです」
「蔭山先生から話は聞いてるよ」
そこまで言うと、雨夜はニヤリと意地の悪そうな、けれどチャーミングな笑みを浮かべた。
「あっちじゃ、結構な有名人らしいね。寝食忘れて術式に没頭する研究オタクだってさ」
「……っ」
ハゲ山め、余計なことを。眉をひそめてむっとすると、雨夜は可笑しそうに肩をすくめてみせた。
「あー、ごめんごめん、気ぃ悪くしないで。安心しなよ——ここにも、似たような方向性の同類がいっぱい転がってるからさ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、教室のあちこちから一斉にブーイングが飛ぶ。
「美波ちゃん、地味に聞こえてるー!」
「それって俺ら、褒められてんのー?」
「はは、褒めてなーい。ほら、席着けー」
悪びれる様子もない雨夜の返しに、教室内が笑いに包まれていく。
雨夜はその賑やかな声を右から左へと聞き流しながら、すっと青葉との距離を詰め、彼女の目の前に立った。
「私は雨夜美波。このクラスの担当だ。よろしくね」
そう言って、白衣のポケットから抜いた右手を、青葉の前へと差し出す。
青葉は少しだけ圧倒されながらも、細く、しかしどこか力強い手をしっかりと握り返した。
「……よろしくお願いします、雨夜先生」
「そんなガチガチに固くなんなくていいよ。こいつら、私のこと先生なんて思ってないから」
雨夜は可笑しそうに目を細めた。
「別に君は、お客さんとしてここに来たわけじゃないんでしょ。データを取りたいなら、好きに歩き回ればいい。疑問があれば、私でも、その辺の連中でも、好きに捕まえて質問しな。作業の邪魔にならない限り、誰を捕まえて、どんなデータを毟り取ろうと構わないからさ」
「……え?」
予想外の言葉に、青葉は思わず目を丸くする。
雨夜は青葉の瞳を真っ直ぐに見つめ、その本質を突くように言葉を重ねた。
「君はその目で見たものを、一度自分の中で構造を組み立て直して理解するタイプなんだろ? だったら、黙って遠くから眺めてたって、なんの意味もないじゃない」
蔭山からどんな伝達があったのだろう。既にここまで自分のことを把握されていることに驚いたけれど、それを否定するどころか、存分にやれと言ってくれるのは非常にありがたい。
雨夜は青葉の表情を見ると、小さく頷き、くるりと教室全体を見回した。
「はい、お前らー」
パン、パン、と乾いた手拍子が教室に響いた。
「一回こっちに全員集合ー」
さっきまで各々自由な場所にいた生徒たちが、その声一つで、一斉に動き出す。
「はいはい」
「美波ちゃん、相変わらず集合の掛け方が雑なんだよなー」
「うるさい。ほら、火ぃ消してー」
軽口を叩き合いながらも、ものの十数秒で全員が教卓の前に綺麗な半円を描いて集まってきた。
一見自由奔放な印象の彼らだけど、なんだかんだちゃんとまとまってるのだから面白い。創成棟とはまったく違うけれど、自科霊棟には自科霊棟なりの規律があるようだ。
全員の視線が集まったのを確認すると、雨夜は隣に立つ青葉の肩にポンと軽く手を置いた。
「今日から三か月間、創成クラスの篠宮青葉が、うちで卒業研究のデータ収集をする。創成棟の蔭山からの正式な依頼だよ。——経緯は以上」
一拍置き、雨夜はクラスの面々を見渡した。
「協力してやって」
たったそれだけの簡潔な紹介。それだけで十分だとでもいうような、教え子たちへの揺るぎない信頼が伝わってきた。
「あったりまえじゃん!」
「任せとけって、しのりん!」
「研究データだろ? 俺の霊術、一番最初に測っていいぞ!」
「まずは風操霊術見てってよ!」
「いやいや、こっちが先でしょ!」
一瞬にして、教室中が歓迎の声で満たされていく。
雨夜はコーヒーをひと口啜ると、その光景を満足そうに眺め、小さく笑った。
「ね、言っただろ。うちの連中、お節介と自己アピールの塊だからさ」
青葉は、目の前でキラキラとした純粋な視線を向けてくるクラスメイトたちを、じっと見つめた。なんの躊躇いもなく、自分を迎え入れてくれている。その事実が、張り詰めていた心を優しく溶かしていった。
誰かが、扉の前に立つ東雲に気づいて声を上げた。
「東雲、昨日の予算委員会マジお疲れー」
「それな。砺波もありがと」
「玲司! 今日帰り葵屋行かね?」
「あーごめん、今日は無理。また今度な!」
東雲は声をかけてくる一人ひとりに気さくに応じている。教室へ入ってまだ一分も経たないというのに、次々とクラスメイトが話しかけてくる。本当に、どこ行っても人気者なんだな。
「あれ?」
教室の入り口からぼんやりとその光景を眺めていると、不意に後方から、聞き覚えのある声が飛んできた。
「しのりんじゃん! やっほー」
「あ……由美。お疲れ」
振り向けば、弓道部の南雲由美が親しげに大きく手を振っていた。青葉の姿に気づいた途端、周囲の生徒たちから次々と声が上がり始める。
「ほんとだ、篠宮じゃん」
「あれ。でも篠宮って、創成だろ? なんで自科霊に来てんの?」
その一言をきっかけに、教室中の視線が一斉に青葉へと集まった。
「え、なに? 知り合い?」
「あの子、図書委員の中でもめっちゃ本詳しいって有名だよ」
「そういえばこの前、図書館で探してた本すぐ見つけてくれたわ」
「てか、弓道部でしのりんって呼ばれてんだ?」
あっという間に青葉の情報が教室中へ伝播していく。あちこちから「しのりんって誰?」「あの子がしのりんか」と呟く声が聞こえてくる。最早『篠宮青葉』よりも先に『しのりん』が一人歩きしている始末である。
部活仲間につけられたあだ名が、まさかこんなところで広まるとは思わなかった。ひどく締まらないこの響きには、三年目の今でもあまりしっくり来ていないので、呼ばれるたびに微妙な気分になる。
「そんで?」
さっきまで指先に炎を灯して盛り上がっていた短髪の男子が、ニカッと白い歯を見せ、腕を組んだまま再び東雲へ視線を向けた。
「玲司。そのしのりんを、なんで連れてきたわけ?」
教室中の視線が、説明を求めるように東雲へと集まる。青葉もつられるように東雲を見た、その時だった。
「おーい、お前らー」
教室の後方から、どこか気だるげでハスキーな女性の声が飛んでくる。
声のした方へ視線を向けると、一人の女性教師がドアフレームに寄りかかっていた。片手には湯気の立つマグカップ、もう片方の手には出席簿を持ち、それをひらひらと振っている。
肩にかかる程度の黒髪を無造作に後ろで一つに束ね、白衣の袖は肘の上までラフにまくり上げられている。眠たそうに薄く細められた目元はいかにも不健康そうだが、その立ち姿には、不思議と一筋縄ではいかない空気が漂っていた。
「お疲れ様です、雨夜先生」
東雲がいつも通りに挨拶をする。
「ん、おつかれー」
雨夜と呼ばれた女性教師は、手近な教卓の端にマグカップをコトリと置くと、視線をゆっくりと青葉の方へ向けた。
「君が、創成棟から来た篠宮青葉?」
「……はい、そうです」
「蔭山先生から話は聞いてるよ」
そこまで言うと、雨夜はニヤリと意地の悪そうな、けれどチャーミングな笑みを浮かべた。
「あっちじゃ、結構な有名人らしいね。寝食忘れて術式に没頭する研究オタクだってさ」
「……っ」
ハゲ山め、余計なことを。眉をひそめてむっとすると、雨夜は可笑しそうに肩をすくめてみせた。
「あー、ごめんごめん、気ぃ悪くしないで。安心しなよ——ここにも、似たような方向性の同類がいっぱい転がってるからさ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、教室のあちこちから一斉にブーイングが飛ぶ。
「美波ちゃん、地味に聞こえてるー!」
「それって俺ら、褒められてんのー?」
「はは、褒めてなーい。ほら、席着けー」
悪びれる様子もない雨夜の返しに、教室内が笑いに包まれていく。
雨夜はその賑やかな声を右から左へと聞き流しながら、すっと青葉との距離を詰め、彼女の目の前に立った。
「私は雨夜美波。このクラスの担当だ。よろしくね」
そう言って、白衣のポケットから抜いた右手を、青葉の前へと差し出す。
青葉は少しだけ圧倒されながらも、細く、しかしどこか力強い手をしっかりと握り返した。
「……よろしくお願いします、雨夜先生」
「そんなガチガチに固くなんなくていいよ。こいつら、私のこと先生なんて思ってないから」
雨夜は可笑しそうに目を細めた。
「別に君は、お客さんとしてここに来たわけじゃないんでしょ。データを取りたいなら、好きに歩き回ればいい。疑問があれば、私でも、その辺の連中でも、好きに捕まえて質問しな。作業の邪魔にならない限り、誰を捕まえて、どんなデータを毟り取ろうと構わないからさ」
「……え?」
予想外の言葉に、青葉は思わず目を丸くする。
雨夜は青葉の瞳を真っ直ぐに見つめ、その本質を突くように言葉を重ねた。
「君はその目で見たものを、一度自分の中で構造を組み立て直して理解するタイプなんだろ? だったら、黙って遠くから眺めてたって、なんの意味もないじゃない」
蔭山からどんな伝達があったのだろう。既にここまで自分のことを把握されていることに驚いたけれど、それを否定するどころか、存分にやれと言ってくれるのは非常にありがたい。
雨夜は青葉の表情を見ると、小さく頷き、くるりと教室全体を見回した。
「はい、お前らー」
パン、パン、と乾いた手拍子が教室に響いた。
「一回こっちに全員集合ー」
さっきまで各々自由な場所にいた生徒たちが、その声一つで、一斉に動き出す。
「はいはい」
「美波ちゃん、相変わらず集合の掛け方が雑なんだよなー」
「うるさい。ほら、火ぃ消してー」
軽口を叩き合いながらも、ものの十数秒で全員が教卓の前に綺麗な半円を描いて集まってきた。
一見自由奔放な印象の彼らだけど、なんだかんだちゃんとまとまってるのだから面白い。創成棟とはまったく違うけれど、自科霊棟には自科霊棟なりの規律があるようだ。
全員の視線が集まったのを確認すると、雨夜は隣に立つ青葉の肩にポンと軽く手を置いた。
「今日から三か月間、創成クラスの篠宮青葉が、うちで卒業研究のデータ収集をする。創成棟の蔭山からの正式な依頼だよ。——経緯は以上」
一拍置き、雨夜はクラスの面々を見渡した。
「協力してやって」
たったそれだけの簡潔な紹介。それだけで十分だとでもいうような、教え子たちへの揺るぎない信頼が伝わってきた。
「あったりまえじゃん!」
「任せとけって、しのりん!」
「研究データだろ? 俺の霊術、一番最初に測っていいぞ!」
「まずは風操霊術見てってよ!」
「いやいや、こっちが先でしょ!」
一瞬にして、教室中が歓迎の声で満たされていく。
雨夜はコーヒーをひと口啜ると、その光景を満足そうに眺め、小さく笑った。
「ね、言っただろ。うちの連中、お節介と自己アピールの塊だからさ」
青葉は、目の前でキラキラとした純粋な視線を向けてくるクラスメイトたちを、じっと見つめた。なんの躊躇いもなく、自分を迎え入れてくれている。その事実が、張り詰めていた心を優しく溶かしていった。


