ジュエルクッキー、君の分だけ様子がおかしい

 文化祭が終わってから一週間が経った。

 七瀬は今日も製菓部に来ている。走ってきたみたいで息を切らしながら、作業台を覗き込んで、「先輩、今日は何ですか?」と言いいつつ、ニコニコしながら隣に立つ。

 彼の存在はもはや、俺の中では空気みたいになっていて……この距離の近さにも慣れて、心の距離も縮まっている気がする。

 久しぶりに弓道着姿のまま来ているから、また部活に戻るのかな? と思って俺は急いで袋にお菓子を詰める。

「先輩、今から強制ミーティングです。だから戻らなきゃいけなくて……」

「そうか。腹減ってるんだろ?」

「はい、白石先輩……今日って、俺の分用意してくれてましたか?」

 すかさず、「これ、持って行け」とぶっきらぼうに渡す。

「やった、お腹空いてて。さすが先輩です」

 大切そうに袋を両手で覆って、顔をほころばせている姿は、おやつをもらって嬉しそうなこども、という感じで凛とした見た目とは似合わなくて笑ってしまう。

「ありがとうございます。今日もジャム多くて嬉しいです!」

「甘党だからな……」

「先輩、好きです」

「また……軽く言う」

 七瀬は「ヘヘッ」とにやつきながら走って行った。その背中を見送っていると、後ろから声がかかる。

「あれ、白石?」

 振り返ると、高瀬(たかせ)が立っていた。隣のクラスで確か弓道部だったと思う。七瀬の背中を目で追いながら、口の端を上げる。

「今のって七瀬だよな。なんでわざわざ製菓部まで来てんの……白石が呼んだの? これからミーティングなのに、七瀬いなくなるから探してたんだけど。まさか呼び出したとか……もしかして、白石も七瀬のファンなの? うける」

「……違う」

「え、なんか渡してたじゃん」

「お菓子。製菓部の試食のやつ……」

「へ〜、七瀬だけ特別扱いか。あいつ、ファン多いから大変だね」

 嫌味ったらしく口を歪めて、言い捨てると、七瀬を追うように去っていった。
 廊下に一人取り残された俺は、しばらく動けなかった。ファン……という言葉が頭の中でぐるぐる駆け巡り、黒い渦となる。

 文化祭の時、大勢に見られながらも真っ先に俺を探して、人混みの中で袖を引っ張って走りだした七瀬のことなんて、高瀬は知らないから……そういった記憶と、ファンという言葉が、頭の中でうまく重ならなくて、迷宮に迷い込んでいく。

 ◇

 数日後の放課後、部室のドアが勢いよく開いた。

 高瀬がまたやって来た。これから弓道部の練習時間のはずだけど、どうしたんだろう。なんか怒っているみたいだし。また、嫌なことでも言われそうだな、と俺は身構える。

「白石、ちょっといいか」

 田中が「あ、高瀬くん」と愛想よく声をかけるが、高瀬は田中を無視して俺の方へズカズカと歩いてくる。どうしよう……高瀬は体格も良いから、武力では絶対負けるだろうな。

「七瀬に餌付けするのやめてくれない?」

「……は? 餌付けって……」

「最近、練習終わりにここに来てるらしいな。三カ月前位からお前に呼び出されてるって、他の奴らに聞いた」

「自分の意思で来てると思うけど……」

「来させてんだろ。食べ物で釣ってさ」

 俺は拳を強くにぎり、怒りを抑えながら答えた。

「釣ってない。試作品を食べてもらってるだけ」

「練習後のミーティングも出ずに、ここに来てる。七瀬は弓道部のエースなんだけど? 試食係にしないでもらえる?」

 驚きすぎて言葉が出ない。七瀬は無理して来てたってこと? 
 高瀬の怒りはピークに到達し、声が上ずる。

「お前……七瀬のこと好きなんじゃないの。だからわざわざ特別扱いして、懐かせて」

「は?」

「違うの? あいつの分だけ特別に用意してるらしいじゃん。甘そうなやつ。みんな知ってるんだけど」

 心臓が嫌な跳ね方をする。チクチク痛いし……否定しなきゃと思うのに、言い返す言葉が見つからない。でも……意地になって口から零れてしまう。

「……好きなわけないだろ。後輩のひとりだ」

 声が、思ったより大きく出た。自分じゃないみたいに、ハキハキした声で驚く。怒りが溜まっていたみたいで……ほんとに自分らしくない。

 部室がシーンと静まり返って、周りのみんなも驚いているみたいだ。
 その時、田中が隣に来て、俺の袖をグイグイとひっぱり、入り口を指さす。

 なんだろうと、視線をそちらへ向けると――少し空いたドアの陰に七瀬の姿があった。
 いつから、いたんだろう……どこまで、聞いていたんだろう……やっぱり、今の聞かれたのかな……。

 俺は終わったと思った。
 七瀬としっかりと目が合うと、気まずそうで、悲しそうで……こんな顔見たことがない。
 七瀬は視線を外し、それから静かに口を開いた。

「……高瀬先輩、練習行きますよ。……お邪魔しました」

 それだけ言って、踵を返した。足音が廊下に消えていくのを、動けないまま聞くしかない。追いかけて、弁明したい……でも足が動かない。

 七瀬の残像を、見つめるしかなくて……後輩のひとりだ、と言った自分の声が、耳の奥でリフレインし続ける。

「高瀬くん」

 田中が穏やかな声で口を開いた。

「白石が誰を好きでも、高瀬くんには関係ないですよね」

「田中こそ関係ないだろ」

「俺たち全員関係ないですよ」

 田中がさらっと返すと、高瀬は舌打ちをして部室を出て行った。
 田中は俺には何も言及することなく、肩をポンと叩いて、「先帰ってもいいですよ。後はやっておくので」と言ってくれたから、俺はそのまま帰路についた。

 ◇

 その夜、早めにベッドに入り布団を被ると、自然に目に熱い物が込み上げてきた。
 やっと、現実を受け入れたみたいだ。

 毎日のように、七瀬から来ていたチャットも止まったまま。それが彼を傷つけたことの証だ。「今何してますか?」というような短文や、意味不明なスタンプとか……。もう二度と来ないのかも。そう考えるだけで、視界がぼやけてくる。

 あの気まずそうな声が、まだ消えない。七瀬は怒るでも責めるでもなく、ただ悲しそうに「お邪魔しました」と言って去って行った。

 恋の赤い炎が消された跡には、一筋の煙が広がり、グレーな空気が充満していく。それが俺の今の心境そのものだった。

 本気で好きになってしまった――気づいてたのに……もう取り返しがつかないだろう。

 でも、これは七瀬のためには好機かもしれない。俺のこと忘れて弓道に打ち込んで、もっと強くなって欲しい。ちゃんと、ミーティングもサボらないで。

 七瀬はスター選手で、ファンが山ほどいる。今日みたいに俺に傷つけられてる時間がもったいないし、そんなレベルの人じゃないから。

 ここで、終わりにした方がいい。本気になりきる前に、俺は身を引く。

 思いっきり涙を流したら、いつのまにか眠ってしまっていた。

 ◇

 翌朝の目覚めは最悪で、瞼が腫れて酷いから氷嚢で冷やしてから登校した。

 放課後の製菓部に、七瀬は変わらず現れた。表情は明るくはないけど、他の奴らとわいわいしながら、お菓子の試食をしている。

 弁明もぜず、他の奴らと話す感じで、必要以上に話さない。七瀬も空気を読んでいるのか、昨日のことには触れないし、怒りをぶつけられることもなくて。

「部活の間だけの恋人」を辞めたいとかもなくて……。俺が二人っきりになるのを避けているのもあるけど。田中が、「大丈夫ですか?」って何度も心配してくれるけど、俺は首を縦に振るだけだ。

 隣には座らせないし、目も合わせないようにして――何もなかったことにしてしまいたい……今は、ただそれだけだった。

 でも、実際にやってみると思っていたより苦しくて、自分でも驚く。七瀬のお菓子にもっとジャムを乗せてあげたくなったり、世話を焼きたくなる。でも、もうそんな関係じゃないし、俺がなにかをしてあげる権利はないのかもしれない。

 七瀬が試食を終えて帰っていく……。「先輩先輩」とぐいぐい来ることもなくなって、部員たちに「ごちそうさまでした」と軽く会釈して帰るだけ。

 俺はその後ろ姿を見るたびに、心まで凍っていく気がした。

 ある日、七瀬がクッキーを食べ終わって立ち上がった時のことだ。帰り際にドアの前で一瞬だけ止まって、振り返るかと思ってドキドキする。息が出来なくなって、苦しくて……でも、七瀬は振り返らずにそのまま出て行った。

 俺はその姿を見つめることしか出来ない。七瀬なら、「話し合いませんか?」とか言ってくれて、上手く誤解が溶けて、仲直りが出来て……なんて都合良いことばかり考えてしまって、自分の身勝手さに嫌になる――身を引くと決めたのに。

 七瀬のこの行動は続き、帰り際に見せる哀愁漂う背中からは、何かを伝えたいけど言えない――そんな気持ちが滲み出ているような気がした。

 彼が、振り返って笑顔を見せてくれる日はくるのだろうか。ただの後輩として……。

 ◇

 一週間が過ぎた頃、田中が片付けをしながらぽつりと呟く。

「白石、最近ジャム少なすぎませんか」

 手元を見ると、今日のクッキーにはジャムがほとんど乗っていなかった。自分では気づいていなくて……気分が落ちていると、いつも少なくなる。七瀬にも指摘されたっけ……。

 少しの沈黙後、田中が続ける。

「もう認めたらどうですか」

「なんのこと?」

「バレバレですよ。あれから七瀬くんと話せてないんですか」

 わかってる。俺が悪いのに放置してるから。話すチャンスはあるのに。でも、どうしたらいいのか。

 ◇

 しばらくこんな日が続いたある日のこと。

 製菓部で、お菓子の試作を出し終えて、みんな帰って行く時間になった。今日は七瀬は来ないのかな、と思い片づけようとしたその時だった。

「遅くなりました。まだ大丈夫ですか?」

 走って来たのか、息切れしてるみたいだ。「まだ、いいよ」と向かい入れる。すると、田中が「先生に呼ばれてたんだった」とわざとらしく俺に言って、「あと頼みますよ」と部室から出ていくから、この空間に二人きりになってしまった。

 いつぶりだろう……この感じ。七瀬はお菓子を食べながら窓の外を見ているようだ。

 あっちから話しかけてくることは、ないのだろうな……これでいいのか? と自問自答していくうちに、この沈黙に耐えられなくなって、気づけば俺から話しかけていた。

「大会って、いつ?」

 前に教えてもらっていた、大きな弓道の大会のことを切り出すと、七瀬が目を丸くした。久しぶりの会話だから、驚いたのだろう。

 一瞬間があってから、「今週の土曜です」と答えた。三日後か……話さなくなって、そんなに時が経過してたのか。目を細めて、どこか優しげな七瀬を見ていると、胸が苦しくて切り刻まれそうに痛い。

「そうなんだ……」

「……来てくれませんよね?」

「行く」なんて、図々しくて言えないし、「行かない」なんてもっと言えない。これ以上七瀬を傷つけるなんて出来ない。真っ直ぐに見つめる瞳の奥に見え隠れする哀しみに、心が震える。

「……わからない」

「そう……ですよね」

 七瀬は納得したように頷き、残していた、最後のクッキーを口に頬張り、「ごちそうさまです」と言い、部室から出て行った。

 閉められたドアをしばらく見てから、息を吐く。やっと話せたのに、謝れなかった自分に腹が立つ。

 片づけをしようと、ジャム瓶の蓋をしめていく。赤いベリーと黄金色の林檎ジャムの中身はたっぷり残っているのに、最近入れ忘れたりと全然減っていない。

 七瀬のために山盛りにジャムを乗せていたことを、ふと思い出して、切なさが込み上げてくる。

 大会には行けない――でも、どうしたらいいのか、本当にわからない……。