数日後の放課後、七瀬との約束を守るため弓道場に来ている。
道場に一歩足を踏み入れた瞬間、外の世界とは切り離された異空間みたいだと感じた。
ヒンヤリとした冷気が頬に纏わりつき、張り詰めた空気が流れている。そろりと歩いているけれど、少し古めの床板が軋む音だけが妙に響く。
場内では弓道着姿の部員たちが一列に並んで、草むらの先にある的に狙いを定めていた。俺はギャラリーたちに混ざり、端の壁際から七瀬を探す。部員の横顔を一人一人チェックしていき、十人目くらいでやっと見つける。
七瀬は普段とは違う雰囲気で、例えて言うなら――凍てつく湖のような静寂。誰も彼には近づけない、神聖な存在として、俺の目には映った。
七瀬が弓を手に取り、的の方を見つめて、一瞬目を伏せる。
周りの音を全部遮断しているその姿は、何かの儀式みたいだ。その間、道場はシーンと静まり返り、物音すら聞こえず、誰も動けない。
呼吸音すら我慢しているみたいに――七瀬が作り出した静寂に、全員が飲み込まれていく。
それからゆっくりと弓が持ち上がり、目を開く。その獣のような鋭い眼光に、俺は面くらう。
お前は一体誰だ……と言いたくなるくらいに。
右手が弦を掴んで、引き始める。少しずつ弓がしなるにつれて、道場の空気がさらに変わっていく。密度が増すというか、張り詰めるというか――もう、全員息が出来なくなるくらいの圧があった。
引いて、引いて、まだ引く。
どこまで引くんだ、と思った瞬間、止まった。そして、限界まで絞り切った弦を、七瀬はそのまま支え続ける。他の部員たちとは静止の長さが違う。秒数じゃなくて、空気感が違うのが素人の俺にもわかる位だ。
パーン。
デカい音がしたと思った瞬間、矢はもう的の中心に刺さっていた。嘘みたいにセンターを捉えていて、これは神業だ、と思ってしまう。精密機械みたいだ。矢のスピードが早すぎて、飛んでいくところを、見失ってしまったし。
「七瀬、また中心だ」
誰かの言葉には反応ぜず、七瀬はもう一本の矢を静かに構え始めた。集中していると周りの声が聞こえなくなるのかもしれない。一本目と同じ静寂が、道場に浸透していく。
さっきまでの息苦しさが、また始まろうとしていた。
あそこにいる七瀬には、俺の知らない聖域がある――そう思った瞬間、胃の奥が冷たくなった。
部室でジャムを山盛りにして恥ずかしがっていた奴と、同じ人間とは思えない。射線に立つ七瀬は、知らないヤツみたいだ。でも、そのギャップを知っているのが自分だけだと思うと、俺が特別なんじゃないかって、自惚れみたいな感情がじわじわと脳を浸食していく。
全ての矢を射終えて七瀬が弓を下ろした時、さっきまでの静寂が解除された。周りの部員たちが動き出して、道場にざわめきが戻ってきている。
その時、七瀬がこちらに歩いて来て、ギャラリーの中にいる誰かを探し始める。視線が俺を捉えた瞬間――別人みたいに顔が変わった。
さっきまでの誰も寄せ付けない獣みたいな鋭さが消えて、口角を少し上げたと思ったら、ニカっと白い歯を見せて笑う。あの、神聖なほど緊張感が、俺を見つけただけで緩んでいく。
俺の存在が彼の笑顔を作る餌なのかもしれない。
部室で「先輩、今日何焼いてますか」と覗き込んでくる、あの顔に戻っていた。
同じ人間か、これ……胃の奥に作られた氷が溶かされていく。俺は心臓のあたりをギュッとシャツごと掴んだ。
練習が終わると、七瀬に「待っててください」と言われたので、更衣室の外のベンチに腰を下ろして待っていた。しばらくして七瀬が道場から戻って来て、弓道着の襟元を緩めて、紐を解きながらこちらに向かってくる。
弓道をしている時はあんなに清廉に見えたのに、なんで俺の前で着替えるの? もうすぐ更衣室なのに、我慢出来ないらしい。子供か? と思ったその時だった。
剥き出しになった鎖骨、鍛えられた胸から腹筋へと続く筋の影を目で追ってしまう――芸術作品のような体躯を見せつけられて、喉に何かがつかえて息が出来ない。
予想外だ、男の身体を見てこんな気持ちになるなんて。目を逸らさなきゃと思いながら、じっくりと見てしまうのは、何故なんだろう……脳内はエラーを起こして、思考が止まる。
「……白石先輩? どこ見てるんですか」
不意に声をかけられて、焦って視線を逸らす。七瀬ははだけた胸元を気にする様子もなく、悪戯っぽく口の端を上げた。
「……べっ、別に。何でもない」
その場を離れようとした瞬間、手首を掴まれた。驚いて顔を上げると、至近距離に七瀬の顔があった。
「やっぱり、先輩の腕って細いな……」
空いている七瀬の指が、俺の指の先端からゆっくりと確かめるようになぞるように触れてから、五本の指を絡めながら手を繋ぐ。なぜ今手をつなぐの? 俺は耳が熱くなるのを感じた。
七瀬は俺の肌の感覚を試しているみたいだ。なんとなく、俺も同じように七瀬の手の感触に神経を研ぎ澄ませる。
右手の親指の付け根と、人差し指から薬指の内側が皮が厚く硬くなっている。弦が当たる場所だからだろうか。同じ高校生の手なのに、全然違うと思った。お菓子ばっかり作っている俺の手とは、何もかもが違う。
「弓道やってると、こうなるんです。ちょっと固いですよね。先輩の手は柔らかくて、指が細くて……すべすべしていて気持ちいです」
絡められた指先に力がこもって、逃げられないまま身体に熱がこもっていく。近すぎるし、この時間、本当なんなんだよ! 俺をどうしたいんだ……そう思うのに、何も行動出来ずにされるがままになってしまう。
ここは、七瀬のいつもの石鹸みたいな香りに包まれていた。
「……七瀬」
「はい」
「近い」
「そうですかね?」
「もう……帰るぞ。早く着替えて」
七瀬はクスッと笑い、俺の手を放してやっと着替え始めた。
◇
帰り道、河川敷に出ると、夕陽が川面に真っ赤に映っていて、あまりにも綺麗だから沈むまで、ここにいようという事になった。
土手の上のベンチに並んで腰を下ろして、今朝焼いておいた、試食用のジュエルクッキーを渡すと、七瀬は喜んで、すぐに袋を開けて一口食べた。
「……今日のジャム、少しスパイシーです!」
「カルダモンを足した。ばあちゃんのレシピノートに、夏は多めの方が食欲が出るって書いてあって」
「おばあちゃんの知恵、すごいです!」
七瀬が食べながら、感心したように頷く。その横顔を見ていたら、ふと思い出した。
「……そういえば、ばあちゃんがこんなことも教えてくれた。スウェーデンの『ミッドサマー』っていう夏のお祭りで、七種類の花を枕の下に置いて寝ると、将来の伴侶が夢に出てくるんだって」
「……将来の伴侶?」
七瀬が静かに繰り返して、川の方を向いたまま少し黙った。それからゆっくりこちらに顔を向けて、悪戯っ子みたいに微笑む。俺は失言したようだ。何も言わずに、ただ見つめ合う時間が気まずくて、俺は話題を変えようと口を開いた。
「……七瀬さ、いつから弓道やってんの? あんなに強いから、相当長いんだろ?」
七瀬は少しだけ目を細めてから、話しだす。
「五歳からですかね。従兄弟の試合を見に行った時、どうしてもやってみたいと思っちゃって。小さい子達でも、めちゃくちゃ強い子がいっぱいいて、負けたくないって思ってそれで」
「五歳からか……凄いな」
「へへっ。弓道やってると心が落ち着くんですよね。弦が弾けて的を射抜く音を聞くと、魂が浄化されるっていうか。雑音が消えて、静かになれる。……それがないと、なんか、俺じゃない気がして」
少し間があって、七瀬が続けた。
「でも弓道場では、本心では笑えないんですよね。弓道は好きだけど、みんな俺のこと見てるから。隙見せたら終わりみたいな空気があって」
「……そうなのか?」
「だから製菓部の部室が好きです。先輩の前だと、気が抜けた素の俺を出せる気がして」
七瀬はそう言って、いつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「うん。今日の七瀬、製菓部に来てる時と全然違ったよな……」
思ったまま口に出すと、七瀬が少し首を傾げる。
「どっちが本当の俺だと思いますか?」
「……えっ、どっちも七瀬だろ。両方だ」
「正解です」
七瀬が二カッとした。部室で見せる、キラキラした笑顔に完全に戻ってて、弓道場の凛とした神の化身みたいなヤツがこんな顔をするのが、まだ慣れなかった。
「先輩は、どっちの俺が好きですか?」
「……えっ、どっちって何」
「どっちも俺ですよ。先輩が望むなら、両方いつでも出します」
返す言葉がなくて、俺はクッキーの袋に視線を落とした。どういう意味なんだよ……本当わかんねぇ。
少し沈黙が流れて、無言で夕陽が水面に沈むのを見つめる。
そして、七瀬が口を開いた。
「先輩」
「うん」
「俺、ずっと見てました。先輩のこと」
「……は?」
「白石先輩、俺、あなたのことが好きです。わかってますよね?」
心臓がドクンと跳ねた。本気にしたらダメなやつだ、と思って笑い飛ばそうとした。
「なに、罰ゲーム? いいから食べなさい」
「もう、食べ終わりました」
「そ、そうだけど……」
「本気ですよ。俺」
七瀬の目が俺の瞳を捉えた。夕暮れの光の中で、顔を覗き込まれて、俺は身体が固まる。ふざけているのではない。真剣で揺るがない目だ。部室でクッキーを食べる時とも、弓道場で矢を放つ時とも違う――俺だけを見つめる灼熱の太陽みたいな瞳。
「俺じゃダメですか?」
「ダメっていうか……」
頭の中で、色々なことが一度に浮かんだ。毎回ジャムの量について言及する声。エプロンをつまんで、離さなかった手。度々発せられる、七瀬の「好き」は最初から本気だったってこと?
「先輩が最初から、素の俺を見てくれたから」
七瀬が静かに続けた。
「弓道してない俺を。それが嬉しくて、ほっと出来て。離せないって思いました」
俺は絶句して何も言えなかった。
「だから、付き合ってほしいです」
「……じゃあ」
「はい」
「部活の間だけね」
断るという選択肢はなかった。でもちゃんと付き合うとも言えなかくて――最悪だ。
少し間があって、しょんぼりした表情で七瀬がゆっくり口を開いた。
「それは、好きじゃないから、ダメということですか……」
「違う。まだわかんないから」
「……わかりました。俺、待ちますね。先輩が認めてくれるまで」
少し声のトーンが落ちた。
「自分の気持ちに……ね」
「え?」どういうことだ? 俺の脳内は混乱した。
「それじゃ、部活の間だけの恋人になってください」
「うん……いいよ」
即答したけど、なんか苦しい。
「よろしくお願いします」
七瀬はキラキラとした満面の笑みをこちらに向ける。本当に俺のことが好きだなんて、まだ信じられねぇ……。
「でも、覚えていてください。俺は先輩のこと、本気なんで」
別れ際の七瀬の言葉がリフレインする。夕陽は沈んで、黄昏時の空の下で一人になってからも、胸のざわめきは止まらない。
苦しさと、少しの嬉しさが、俺の中で半分ずつ陣地を奪い合っていた。
道場に一歩足を踏み入れた瞬間、外の世界とは切り離された異空間みたいだと感じた。
ヒンヤリとした冷気が頬に纏わりつき、張り詰めた空気が流れている。そろりと歩いているけれど、少し古めの床板が軋む音だけが妙に響く。
場内では弓道着姿の部員たちが一列に並んで、草むらの先にある的に狙いを定めていた。俺はギャラリーたちに混ざり、端の壁際から七瀬を探す。部員の横顔を一人一人チェックしていき、十人目くらいでやっと見つける。
七瀬は普段とは違う雰囲気で、例えて言うなら――凍てつく湖のような静寂。誰も彼には近づけない、神聖な存在として、俺の目には映った。
七瀬が弓を手に取り、的の方を見つめて、一瞬目を伏せる。
周りの音を全部遮断しているその姿は、何かの儀式みたいだ。その間、道場はシーンと静まり返り、物音すら聞こえず、誰も動けない。
呼吸音すら我慢しているみたいに――七瀬が作り出した静寂に、全員が飲み込まれていく。
それからゆっくりと弓が持ち上がり、目を開く。その獣のような鋭い眼光に、俺は面くらう。
お前は一体誰だ……と言いたくなるくらいに。
右手が弦を掴んで、引き始める。少しずつ弓がしなるにつれて、道場の空気がさらに変わっていく。密度が増すというか、張り詰めるというか――もう、全員息が出来なくなるくらいの圧があった。
引いて、引いて、まだ引く。
どこまで引くんだ、と思った瞬間、止まった。そして、限界まで絞り切った弦を、七瀬はそのまま支え続ける。他の部員たちとは静止の長さが違う。秒数じゃなくて、空気感が違うのが素人の俺にもわかる位だ。
パーン。
デカい音がしたと思った瞬間、矢はもう的の中心に刺さっていた。嘘みたいにセンターを捉えていて、これは神業だ、と思ってしまう。精密機械みたいだ。矢のスピードが早すぎて、飛んでいくところを、見失ってしまったし。
「七瀬、また中心だ」
誰かの言葉には反応ぜず、七瀬はもう一本の矢を静かに構え始めた。集中していると周りの声が聞こえなくなるのかもしれない。一本目と同じ静寂が、道場に浸透していく。
さっきまでの息苦しさが、また始まろうとしていた。
あそこにいる七瀬には、俺の知らない聖域がある――そう思った瞬間、胃の奥が冷たくなった。
部室でジャムを山盛りにして恥ずかしがっていた奴と、同じ人間とは思えない。射線に立つ七瀬は、知らないヤツみたいだ。でも、そのギャップを知っているのが自分だけだと思うと、俺が特別なんじゃないかって、自惚れみたいな感情がじわじわと脳を浸食していく。
全ての矢を射終えて七瀬が弓を下ろした時、さっきまでの静寂が解除された。周りの部員たちが動き出して、道場にざわめきが戻ってきている。
その時、七瀬がこちらに歩いて来て、ギャラリーの中にいる誰かを探し始める。視線が俺を捉えた瞬間――別人みたいに顔が変わった。
さっきまでの誰も寄せ付けない獣みたいな鋭さが消えて、口角を少し上げたと思ったら、ニカっと白い歯を見せて笑う。あの、神聖なほど緊張感が、俺を見つけただけで緩んでいく。
俺の存在が彼の笑顔を作る餌なのかもしれない。
部室で「先輩、今日何焼いてますか」と覗き込んでくる、あの顔に戻っていた。
同じ人間か、これ……胃の奥に作られた氷が溶かされていく。俺は心臓のあたりをギュッとシャツごと掴んだ。
練習が終わると、七瀬に「待っててください」と言われたので、更衣室の外のベンチに腰を下ろして待っていた。しばらくして七瀬が道場から戻って来て、弓道着の襟元を緩めて、紐を解きながらこちらに向かってくる。
弓道をしている時はあんなに清廉に見えたのに、なんで俺の前で着替えるの? もうすぐ更衣室なのに、我慢出来ないらしい。子供か? と思ったその時だった。
剥き出しになった鎖骨、鍛えられた胸から腹筋へと続く筋の影を目で追ってしまう――芸術作品のような体躯を見せつけられて、喉に何かがつかえて息が出来ない。
予想外だ、男の身体を見てこんな気持ちになるなんて。目を逸らさなきゃと思いながら、じっくりと見てしまうのは、何故なんだろう……脳内はエラーを起こして、思考が止まる。
「……白石先輩? どこ見てるんですか」
不意に声をかけられて、焦って視線を逸らす。七瀬ははだけた胸元を気にする様子もなく、悪戯っぽく口の端を上げた。
「……べっ、別に。何でもない」
その場を離れようとした瞬間、手首を掴まれた。驚いて顔を上げると、至近距離に七瀬の顔があった。
「やっぱり、先輩の腕って細いな……」
空いている七瀬の指が、俺の指の先端からゆっくりと確かめるようになぞるように触れてから、五本の指を絡めながら手を繋ぐ。なぜ今手をつなぐの? 俺は耳が熱くなるのを感じた。
七瀬は俺の肌の感覚を試しているみたいだ。なんとなく、俺も同じように七瀬の手の感触に神経を研ぎ澄ませる。
右手の親指の付け根と、人差し指から薬指の内側が皮が厚く硬くなっている。弦が当たる場所だからだろうか。同じ高校生の手なのに、全然違うと思った。お菓子ばっかり作っている俺の手とは、何もかもが違う。
「弓道やってると、こうなるんです。ちょっと固いですよね。先輩の手は柔らかくて、指が細くて……すべすべしていて気持ちいです」
絡められた指先に力がこもって、逃げられないまま身体に熱がこもっていく。近すぎるし、この時間、本当なんなんだよ! 俺をどうしたいんだ……そう思うのに、何も行動出来ずにされるがままになってしまう。
ここは、七瀬のいつもの石鹸みたいな香りに包まれていた。
「……七瀬」
「はい」
「近い」
「そうですかね?」
「もう……帰るぞ。早く着替えて」
七瀬はクスッと笑い、俺の手を放してやっと着替え始めた。
◇
帰り道、河川敷に出ると、夕陽が川面に真っ赤に映っていて、あまりにも綺麗だから沈むまで、ここにいようという事になった。
土手の上のベンチに並んで腰を下ろして、今朝焼いておいた、試食用のジュエルクッキーを渡すと、七瀬は喜んで、すぐに袋を開けて一口食べた。
「……今日のジャム、少しスパイシーです!」
「カルダモンを足した。ばあちゃんのレシピノートに、夏は多めの方が食欲が出るって書いてあって」
「おばあちゃんの知恵、すごいです!」
七瀬が食べながら、感心したように頷く。その横顔を見ていたら、ふと思い出した。
「……そういえば、ばあちゃんがこんなことも教えてくれた。スウェーデンの『ミッドサマー』っていう夏のお祭りで、七種類の花を枕の下に置いて寝ると、将来の伴侶が夢に出てくるんだって」
「……将来の伴侶?」
七瀬が静かに繰り返して、川の方を向いたまま少し黙った。それからゆっくりこちらに顔を向けて、悪戯っ子みたいに微笑む。俺は失言したようだ。何も言わずに、ただ見つめ合う時間が気まずくて、俺は話題を変えようと口を開いた。
「……七瀬さ、いつから弓道やってんの? あんなに強いから、相当長いんだろ?」
七瀬は少しだけ目を細めてから、話しだす。
「五歳からですかね。従兄弟の試合を見に行った時、どうしてもやってみたいと思っちゃって。小さい子達でも、めちゃくちゃ強い子がいっぱいいて、負けたくないって思ってそれで」
「五歳からか……凄いな」
「へへっ。弓道やってると心が落ち着くんですよね。弦が弾けて的を射抜く音を聞くと、魂が浄化されるっていうか。雑音が消えて、静かになれる。……それがないと、なんか、俺じゃない気がして」
少し間があって、七瀬が続けた。
「でも弓道場では、本心では笑えないんですよね。弓道は好きだけど、みんな俺のこと見てるから。隙見せたら終わりみたいな空気があって」
「……そうなのか?」
「だから製菓部の部室が好きです。先輩の前だと、気が抜けた素の俺を出せる気がして」
七瀬はそう言って、いつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「うん。今日の七瀬、製菓部に来てる時と全然違ったよな……」
思ったまま口に出すと、七瀬が少し首を傾げる。
「どっちが本当の俺だと思いますか?」
「……えっ、どっちも七瀬だろ。両方だ」
「正解です」
七瀬が二カッとした。部室で見せる、キラキラした笑顔に完全に戻ってて、弓道場の凛とした神の化身みたいなヤツがこんな顔をするのが、まだ慣れなかった。
「先輩は、どっちの俺が好きですか?」
「……えっ、どっちって何」
「どっちも俺ですよ。先輩が望むなら、両方いつでも出します」
返す言葉がなくて、俺はクッキーの袋に視線を落とした。どういう意味なんだよ……本当わかんねぇ。
少し沈黙が流れて、無言で夕陽が水面に沈むのを見つめる。
そして、七瀬が口を開いた。
「先輩」
「うん」
「俺、ずっと見てました。先輩のこと」
「……は?」
「白石先輩、俺、あなたのことが好きです。わかってますよね?」
心臓がドクンと跳ねた。本気にしたらダメなやつだ、と思って笑い飛ばそうとした。
「なに、罰ゲーム? いいから食べなさい」
「もう、食べ終わりました」
「そ、そうだけど……」
「本気ですよ。俺」
七瀬の目が俺の瞳を捉えた。夕暮れの光の中で、顔を覗き込まれて、俺は身体が固まる。ふざけているのではない。真剣で揺るがない目だ。部室でクッキーを食べる時とも、弓道場で矢を放つ時とも違う――俺だけを見つめる灼熱の太陽みたいな瞳。
「俺じゃダメですか?」
「ダメっていうか……」
頭の中で、色々なことが一度に浮かんだ。毎回ジャムの量について言及する声。エプロンをつまんで、離さなかった手。度々発せられる、七瀬の「好き」は最初から本気だったってこと?
「先輩が最初から、素の俺を見てくれたから」
七瀬が静かに続けた。
「弓道してない俺を。それが嬉しくて、ほっと出来て。離せないって思いました」
俺は絶句して何も言えなかった。
「だから、付き合ってほしいです」
「……じゃあ」
「はい」
「部活の間だけね」
断るという選択肢はなかった。でもちゃんと付き合うとも言えなかくて――最悪だ。
少し間があって、しょんぼりした表情で七瀬がゆっくり口を開いた。
「それは、好きじゃないから、ダメということですか……」
「違う。まだわかんないから」
「……わかりました。俺、待ちますね。先輩が認めてくれるまで」
少し声のトーンが落ちた。
「自分の気持ちに……ね」
「え?」どういうことだ? 俺の脳内は混乱した。
「それじゃ、部活の間だけの恋人になってください」
「うん……いいよ」
即答したけど、なんか苦しい。
「よろしくお願いします」
七瀬はキラキラとした満面の笑みをこちらに向ける。本当に俺のことが好きだなんて、まだ信じられねぇ……。
「でも、覚えていてください。俺は先輩のこと、本気なんで」
別れ際の七瀬の言葉がリフレインする。夕陽は沈んで、黄昏時の空の下で一人になってからも、胸のざわめきは止まらない。
苦しさと、少しの嬉しさが、俺の中で半分ずつ陣地を奪い合っていた。



