金貨の娘

わたし達が見ていた店の近くで、
突然ハンドベルが鳴らされて、
広場にいる人々の視線が音の方向に集まる。


店先にはカヴァの刃物が大量に並んでいて、
騎士の長剣、料理包丁と解体用で使う鉈、
果物用の小さなナイフまで揃えられている。


店主はよく通る太い声で、
「絶対に錆びない包丁だ。」と嘯く。


わたしは店先に掲げられた
営業許可証を見て、首を捻った。


退化の科学論に書かれた遙遠代の技術は、
非常に高度で製法も複雑な為、
再現が困難になる。


金や白金だけで作れば
絶対に錆びないかもしれないけれど、
柔らかく包丁としての機能は期待できない。


金も白金も量の限られる金属なので、
価格は高くなる。


厨房で使う鋼の包丁は、
鉄鉱石に乾留した石炭を使って熔かして、
水や空気などを取り除いて精錬していく。


鋼でも空気や水と結びつくと錆びてしまう。


人間が吸った空気は肺を通り、
血の中に鉄を含んだ細胞が、
空気と結びついて身体中を巡る。


その為『銅貨の味』と言われている血は、
血液に含まれる鉄の錆びに関係する。


人間や他の動物の血の色は、
鉄錆によって赤く見える。


軟体動物の蛸や魷の血には、
鉄ではなく銅が含まれているらしく、
緑青と同じように青に見えるという。


血を浴びた刃物は錆びやすくなる
と、本にもよく書かれている。


錆びは水と空気と金属によって発生し、
身近に存在する現象の一つ。


金属が錆びつく現象を『酸化』と呼び、
乾留した石炭を使って高温で熱せば、
炭素と空気が結びついて『還元』される。


館の厨房で使い終えた包丁は血や脂などの
汚れを拭い、洗剤を使って洗浄し、
水を拭き取ってから油を塗っておく。


金属を錆から防ぐにはガラス鏡のように、
空気や水から守る膜を作る必要がある。


包丁を油に漬けておき、
水や空気に触れさせずに使わなければ、
店主の言う錆びない包丁になる。


しかし油自体が酸化するので、
この方法も絶対とは言い切れない。


観賞用では包丁としての定義も怪しい。


こんな誇張でも騙されるひとは多かった。


刃毀れしたものや先の欠けたものが、
テマッサと同じ5ルースで安く売られた。


錆びない包丁を求めて、
店の前に人々が群がる。


群衆に押されたわたしは、
二人と逸れてしまった。


「あれ? トリン? どこ?」


「ここ。こっち。」


しばらく探していたのに、
彼女はわたしの後ろに立って、
乱れた帯布を直している。


「わっ、そっち?
 逸れたのかと思ったわ。

 ムネモスは見た?」


「あそこに居るでしょ。」


「ムネモス!」


「あ、はぁい。見てください。これ。」


「おいっ! ガキぃっ!」


ムネモスが銅の浮き彫り細工を掲げた途端、
後ろの男に腕を捕まれてしまった。


「えっ?」


「待って!」


わたしは叫び、急いで駆けつけた。


「なんだぁ? 盗賊の仲間か?」


「違うわよ。夜の館の者よ。」


「夜のぉ? 赤土の娼婦か?」


男は街の商人をしている店主らしく、
館の名前でこちらの所属を理解してくれた。


巨体の店主は貴族病のように太っていて、
首周りの肉がキャシュクの襟から出ている。


店主の毛深い腕と太い指が、
ムネモスの柔い腕を握り捻じると、
彼女は悲鳴を漏らした。


「彼女は館のフランジよ。
 その手を離しなさい。」


「フランジぃ?
 どうせ元は盗賊のガキだろうがっ。」


夜の館の名前を知っている相手でも、
子供ばかりでは館の持つ威信は通じない。


――わたしがフランジの
  小娘だからなのね…。


「なんだこいつ。
 その汚い手をさっさと離せ。」


「ダメよトリン。
 グゥグス! ウント!」


護衛の二人を呼びつけた。


わたしは身分証を持っておらず、
この場には後見人も居ない。


騒ぎを解決できる正統な手段がない。


「お! 喧嘩かぁ?
 いいぜ! オレがやってやらぁ!」


「しないわよっ!

 勘違いしないでっ。」


ウントは人混みの中で剣を抜きかけ、
騒ぎを大きくしかねない行為に
わたしはすぐに手を掴んだ。


商人相手に護衛が剣を抜いて脅せば、
問題の解決から遠のいてしまう。


「触んなっ、ぐぇっ!」


わたしの手を叩いたウントは、
足を縺れさせると地面に倒れて顎を打つ。


グルグスは名前を呼んでも気付かず、
奴隷か道化に間違われて、
また子供達に囲われている。


いまにも泣き出しそうなムネモスに近寄り、
彼女の胸のあいだに右手を捩じ込む。


「キャッ!」


短い悲鳴を放つムネモスのことは気にせず、
首元から下げていた袋を取り出した。


「わたし達は、
 書室に飾るレリーフを買いに来たのよ。

 見なさい。」


袋の中から金貨を摘んで見せつける。


「紛らわしい真似しやがって!」


それでも店主は怒鳴ってわたし達を責める。


「あなたの方こそ、
 勘違いして大騒ぎしないで欲しいわね。

 それでこれはいくら?」


「その1,000ルース金貨で許してやる。」


「その値段なら買わないわ。

 この幅のレリーフなら、
 あなたの店の相場は
 400ルースでしょう?」


店の前に並ぶ、
浮き彫り細工の値札を指示する。


両の手のひら程度のレリーフならば、
預かった金貨1枚で二つは買える。


「眼識を疑うわね。
 これなら100ルースで買ってあげるわ。」


「ガキの癖に、生意気な口を利くな。」


「あなたが勘違いして騒いだせいで、
 恥を掻かされて迷惑したのよ?」


「安過ぎる。500は出せっ。」


店主は譲歩して、
こちらの付け入る隙を見せた。


「盗賊扱いして、
 1,000ルースで騙す腐敗した店主なんて
 信用できないわ。

 広場の営業許可証を掲げてないものね。」


わたしが営業許可証の掲示を求めると、
なにかを言い返そうと口を開閉する。


許可証を得るには別途、納税が必要になる。


「い、言い掛かりはやめろ。
 ここにあるだろっ!」


店主は店先に飾ったただの板を指示する。


「許可証が違うと言っているのよ。

 あなたはレリーフ屋だもの、
 同じものを作るのは容易よね。

 夜の館の女に価値が理解できない
 とでも思ってるのかしら。

 それとも望み通り、
 徴税人を呼びましょうか?」


口を大きく開いて大声を放つ振りをすると、
店主は態度を改めて頭を垂らした。


「いや、…せめて300は必要だ。」


「わたしはあなたに、
 値段を訊ねてるわけではないのよ。」


わたしは店先の偽の許可証を指先で小突く。


「200ルースで勘弁してくれねえか。
 でなきゃ収支が合わねえ。」


「子供を脅して騙し売ろうとした行いを
 あなたの事情で許す気はないわ。

 信用を得たいのなら、解決方法は一つよ。

 理解できるように教えてあげるわ。」


わたしは柱に掛けてある、
偽の許可証を取り上げた。


徴税人に見つかれば、
彼は店の営業が出来なくなり、
裁判所に連れて行かれる可能性もある。


「150で黙ってくれっ!

 家族が居るんだっ…。」


「詐欺師に同情するわけないでしょ。

 さぁ、これが最後よ。

 レリーフと100ルースの交換で、
 許してあげると言ってるのよ。

 互いの利益を尊重してね。」


手にした許可証で台を軽く叩くと、
店主は項垂れた。


――信用はお金で解決するのね…。


わたしは許可証の上に、
1,000ルース金貨を置いた。


徴税人でもないわたしが、
広場の店主相手に
罰を与えられる立場にはない。


こんな強引な交渉手段でも、
罪の意識がある彼には良く効いた。


レリーフの上に置かれた
5枚2種類の銀貨を、トリンに見せる。


「トリン。
 これで桁は合ってる?

 500ルースと100ルース4枚。

 9ルースでもないわよね?
 本物?」


疑いをかけられて店主は頷く。


「合ってるけれど…。」


トリンから確認が取れたので、
許可証と1,000ルース金貨を店主に渡した。


「こんなカヴァの物なんて
 買う必要ないわよ。」


「わたしはレリーフ1枚を
 買ったわけではないのよ。」


「なにを言ってるの?
 おかしな子。」


トリンがわたしを評したことは、
褒め言葉の言い回しと思って聞き流す。


「ムネモスも、もう泣かなくていいわよ。

 あなたのおかげで、
 良いものが手に入ったのよ。」


銅の板には馬の駆ける姿が彫られている。


筋肉質で鬣を風に靡かせる様子は、
100ルースという値段ほど悪くはない。


前肢と後肢が、前後に伸びている
奇妙な走り方をした馬のレリーフは、
元の400ルースではやや高い。


彼女のチュニックの半円のポケットに
レリーフをしまうと綺麗に収まった。


「買い物って、
 本で読んで想像した以上に楽しいわね。

 おつりも手に入ったし、
 これでなにか買って食べましょうか。

 お腹が空いてきたわ。」


ムネモスの持つ袋におつりを戻して、
彼女の頬を濡らす涙を拭った。


「ごめんなさい。私…。
 …ごめんなさい。」


彼女は小声でずっと謝っていた。


シルクのような輝きを持つ彼女の中に、
綻びを見つけてしまった。



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