来客を告げるハンドベルは今日も鳴る。
この館は、誰でも入れる場所ではない。
『お客さんの品性は、館の品格に繋がる。』
とはサンサの言葉だった。
客はドレイプに手紙を送り、
気に入られてからお金を積むことで、
ようやく来館が許される。
夜の館は分水街でも有名な高級娼館で、
サンサは東にあるエルテル領の養女。
誰にも買うことのできない彼女が、
ベッドの上で肌を重ねる相手は
これまで一人も居なかった。
それでもサンサに招かれたいが為に、
贈り物や手紙を用意する客は後を絶たない。
天蓋の下で大量の手紙に
目を通すサンサは、頭巾と宝飾巾、
義腕とアームカバーまで着用して、
今日は外出の用意をしていた。
――これからどこかへ出かけるのかしら。
認証管理のボナが仕分けた手紙でも、
サンサはほとんどをゴミ箱に捨てていく。
手紙の内容に小さく笑い、
外出する様子はない。
サンサの護衛に付く騎士のハーフガンが、
今日も変わらず眉間に力を入れて、
予定にない客を館内に連れてきた。
ドレイプに認められて招かれた客は、
フランジや従業員が案内を行う。
サンサを目当てにする客を、
日陰の庭へと案内するのは、
ハーフガンが常となっていた。
「やぁ、狂気の女神。
また会いに来ましたよ。」
「放蕩息子…。よく顔が出せたわね。」
狂気の女神と呼ばれたサンサは、
声を低くして、険しい口調で言った。
人間や神々を不均衡と過失に導く女神、
などと呼ばれれば彼女でも
気分を害するらしい。
「久しぶりの逢瀬だというのに、
真冬の雪のように冷たいですな。
手紙は読んでくれましたか?」
「逢瀬もなにも、
あなたは呼んでないわよ。
それに手紙なんて届いてないもの。」
ハーフガンが連れてきた、
放蕩息子と呼ばれた金髪碧眼で痩身の男。
濃い肌とやや黒が混ざる濁った金髪で、
髪の癖も激しい。
短めの髪を真ん中から分けて、
赤色の飾り紐で縛って額を出している。
清潔には見えないキャシュク。
胸元の飾緒は金の鎖に代えて輝かせ、
これでも身分の高い人物らしい。
飾り布はせずに、藍色に深染めした
薄手の上着の袖を肩に掛けて先を結ぶ。
およそこの分水街に住んでいる貴族や、
上流階級の人間には見えない奇抜な格好。
テーブルの上には
この客に対する用意はなにもしていない。
アルはテーブルの下で影に紛れ、
イオスは網棚の隙間から、
太い尻尾を出して寝ている。
わたしはメノーから参考として渡された
難解な医学書の、読解を試んでいる。
背後のスーからは、わたしの傷んでいた髪を
握り鋏で整えられている最中だった。
それほど長くないわたしの髪を編むなど、
スーが満足するまで弄られるのが
日課になりつつあった。
切られて落ちた毛が背中に入った為か、
背中から身震いする寒気に襲われた。
「下がっていいわよ。」
サンサがハーフガンに告げると、
彼は客に舌打ちをして
玄関側へと去っていった。
去り際にわたしは睨まれる。
「またお城を追い出されたの?」
と、スーがこの客に訊ねた。
サンサやハーフガンに比べると、
スーは嫌悪の感情を見せない。
それでも彼女から朗らかな表情は消えて、
普段のサンサを真似しているのか、
冷然とした態度に変わる。
――スーって誰かを嫌悪するのかしら?
「春のあいだは、カヴァに
お世話になりましてね。」
「なにをやらかして捕まったの? 詐欺?」
サンサはこの来客に不敬な質問を浴びせる。
「捕まってませんよ。
僕はペタの次代領主ですよ。
そんなことしたら外交問題でしょう。
僕が賓客に決まってるじゃあないですか。
座りますよ。いいんですか?
いいですよね。」
「ダメと言っても座るでしょ。
ヘッペは。」
「その名前で僕を呼ばないでおくれよ。」
ヘッペと呼ばれた男は贈り物も手にせず、
天蓋が作る日陰に入って
南側の客席に勝手に座る。
スーは彼には椅子を引かなかった。
彼はすぐにわたしと目を合わせて、
暗い碧色の目を細めて顎を上げる。
「赤い生娘だ。
お名前は?
春の初物かい。」
「名乗るべきではない相手には、
名乗る必要はないわよ。」
「厳しいですなぁ。
それじゃあなんて呼べばいいやら。
赤雌蕊、花の香、暮相の髪の…、
赤い眼は闇を照らす、銅のテレス。」
彼は気にも留めずに、
奇妙な語調で歌い出す。
「詩才に欠けるわね。
闇ではなく夜にすべきよ。
ここは夜の館なのよ。
メルセの場所は分かる?」
「メルセ…?」
「ペタの昔のひとの呼び名だよ。」
「同じ領地なんだ。」
「大水害の後に出来た、
お城の名前から取ってるからね。
世代の違いかな?」
言ってスーはサンサを見た。
「偏見が酷いわね。
大水害なんて300年以上も昔よ?
正式な名前がメルセ領なのよ。
洞窟港とエルテルの交わる土地、
という意味でメルセ。
そのメルセに建つお城の名前がペタ城ね。
お城の建っているペタは、
『偉大』や『高貴』という意味よ。」
「蜂蜜やナショーには、
ペタって名前を付けて売るんだよ。
ペタ蜜に、ペタナショーだって。」
――付加価値って言うのよね。
そんな話を倉庫の前でサンサから聞いた。
「年寄りはみんなメルセ領って呼ぶのさ。
困るんだよなぁ。」
「わたしまで年寄り扱いなんて、
不敬罪で吊るそうかしら…。」
サンサは呟いて深く溜め息を吐く。
「ヘッペという男は、
ペタの次代領主を騙っている――。」
「騙るもなにもないだろっ。」
急に感情を昂らせた彼は、
その相手を見て一度咳をする。
「僕はメルセ・ハス・ヘッペリオ。
由緒あるメルセ家の、正統な後継者さ。
そんなに畏まられても困るから、
親しみを込めてリオンと呼んでおくれ。
よろしく、暮相の生娘。」
彼は立ち上がり、
首に掛けた上着の裾を手で払うと、
なにかを真似して靡かせて見せる。
「埃が舞うから止めなさい。
ヘッペとは仲良くしなくていいわよ。」
客のはずの彼に対して、
サンサは冷たく遇う。
名前も名乗っていないわたしは、
ヘッペリオから差し出された
右手の対応に困っていると、
彼は強引にこちらの右手を掴んで握る。
彼の碧色の瞳が、
わたしを蔑むように見下ろしてくる。
「…ヘッペって言葉には、
どういう意味があるの?」
わたしは彼の顔を見ずに、
助けを求めるつもりで二人に訊ねた。
「ヘッペは『代表』という意味で、
あまり使われない大陸の古語よ。」
「繊維のペヌンも同じ語源だよね。」
「良い意味、だよね?」
南部草から作る繊維のペヌンの評価は
分からないけれど、代表という意味なら
彼が厭うほど悪くは聞こえない。
「リオは『崇高』の縮約。
だからメルセ領主のペタリオは
『高貴』で『崇高』なのよ。
二人共お似合いで素敵な名前ね。」
――思ってもいないことを…。
「領主の付けた名前で煽てられたって、
いい気はしないんですよ。
分かるかい?」
「それなら名前を変えればいいのに。
ねぇ。」
と、スーはわたしに同意を求める。
――わたしだって変える予定はないのに…。
「ご存知かもしれませんがね。
改名できる分水街の仕組みは、
因循なペタにはまだないのさ。
現領主のペタリオも、認めはしません。
古いんですよ。
領主も。メルセ領も。
もっと外に目を向けるべきです。」
「あなたの愚痴はどうでもいいわよ。
ヘッペなんて小者を、
カヴァが賓客扱いするわけないわ。
手を放しなさいよ。」
彼はいつまで経っても
わたしの手を握ったまま離さない。
「名前を言うまで放しませんよ、僕は。」
「スー。
あの汚れた手を斬り落としていいわよ。」
「こんな鋏だと鼻しか斬り落とせないよ。」
縫い糸や髪を切る程度の
握り鋏しか持っていないスーは断念する。
「鼻を斬り落とされては困る。
さぁさ、僕をリオンと呼んでおくれ。
それでお前は、なんて名前だい?」
「えぇ…。」
――サンサは『名乗りたい相手』ではなく、
『名乗るべきではない相手』って
否定的に主張してたわね。
――そんな相手をサンサは
どうして館に入れたのかしら?
わたしは彼から視線を逸らし、
彼の背後に立つハーフガンを見上げた。
「斬り落としていいのはこの首か?」
「あはは。冗談ですよ。
怖いなぁ…。ねぇ?」
ヘッペリオは首に触れる剣の鞘に怯え、
素早く手を放し、笑って目を逸らした。
「お互いに笑い合えるものを
冗談というのよ。」
サンサが言うと、
ハーフガンが舌打ちをする。
彼は去り際にまたわたしを睨んできた。
「野蛮な男だ…。」
「気に入ったのなら今度は彼に、
ヘッペをエルテルの石塔まで
案内させるわよ。」
「冗談じゃないぞ!」
ヘッペリオは、
館から追い出そうとする
サンサに不満を訴えた。
▶
この館は、誰でも入れる場所ではない。
『お客さんの品性は、館の品格に繋がる。』
とはサンサの言葉だった。
客はドレイプに手紙を送り、
気に入られてからお金を積むことで、
ようやく来館が許される。
夜の館は分水街でも有名な高級娼館で、
サンサは東にあるエルテル領の養女。
誰にも買うことのできない彼女が、
ベッドの上で肌を重ねる相手は
これまで一人も居なかった。
それでもサンサに招かれたいが為に、
贈り物や手紙を用意する客は後を絶たない。
天蓋の下で大量の手紙に
目を通すサンサは、頭巾と宝飾巾、
義腕とアームカバーまで着用して、
今日は外出の用意をしていた。
――これからどこかへ出かけるのかしら。
認証管理のボナが仕分けた手紙でも、
サンサはほとんどをゴミ箱に捨てていく。
手紙の内容に小さく笑い、
外出する様子はない。
サンサの護衛に付く騎士のハーフガンが、
今日も変わらず眉間に力を入れて、
予定にない客を館内に連れてきた。
ドレイプに認められて招かれた客は、
フランジや従業員が案内を行う。
サンサを目当てにする客を、
日陰の庭へと案内するのは、
ハーフガンが常となっていた。
「やぁ、狂気の女神。
また会いに来ましたよ。」
「放蕩息子…。よく顔が出せたわね。」
狂気の女神と呼ばれたサンサは、
声を低くして、険しい口調で言った。
人間や神々を不均衡と過失に導く女神、
などと呼ばれれば彼女でも
気分を害するらしい。
「久しぶりの逢瀬だというのに、
真冬の雪のように冷たいですな。
手紙は読んでくれましたか?」
「逢瀬もなにも、
あなたは呼んでないわよ。
それに手紙なんて届いてないもの。」
ハーフガンが連れてきた、
放蕩息子と呼ばれた金髪碧眼で痩身の男。
濃い肌とやや黒が混ざる濁った金髪で、
髪の癖も激しい。
短めの髪を真ん中から分けて、
赤色の飾り紐で縛って額を出している。
清潔には見えないキャシュク。
胸元の飾緒は金の鎖に代えて輝かせ、
これでも身分の高い人物らしい。
飾り布はせずに、藍色に深染めした
薄手の上着の袖を肩に掛けて先を結ぶ。
およそこの分水街に住んでいる貴族や、
上流階級の人間には見えない奇抜な格好。
テーブルの上には
この客に対する用意はなにもしていない。
アルはテーブルの下で影に紛れ、
イオスは網棚の隙間から、
太い尻尾を出して寝ている。
わたしはメノーから参考として渡された
難解な医学書の、読解を試んでいる。
背後のスーからは、わたしの傷んでいた髪を
握り鋏で整えられている最中だった。
それほど長くないわたしの髪を編むなど、
スーが満足するまで弄られるのが
日課になりつつあった。
切られて落ちた毛が背中に入った為か、
背中から身震いする寒気に襲われた。
「下がっていいわよ。」
サンサがハーフガンに告げると、
彼は客に舌打ちをして
玄関側へと去っていった。
去り際にわたしは睨まれる。
「またお城を追い出されたの?」
と、スーがこの客に訊ねた。
サンサやハーフガンに比べると、
スーは嫌悪の感情を見せない。
それでも彼女から朗らかな表情は消えて、
普段のサンサを真似しているのか、
冷然とした態度に変わる。
――スーって誰かを嫌悪するのかしら?
「春のあいだは、カヴァに
お世話になりましてね。」
「なにをやらかして捕まったの? 詐欺?」
サンサはこの来客に不敬な質問を浴びせる。
「捕まってませんよ。
僕はペタの次代領主ですよ。
そんなことしたら外交問題でしょう。
僕が賓客に決まってるじゃあないですか。
座りますよ。いいんですか?
いいですよね。」
「ダメと言っても座るでしょ。
ヘッペは。」
「その名前で僕を呼ばないでおくれよ。」
ヘッペと呼ばれた男は贈り物も手にせず、
天蓋が作る日陰に入って
南側の客席に勝手に座る。
スーは彼には椅子を引かなかった。
彼はすぐにわたしと目を合わせて、
暗い碧色の目を細めて顎を上げる。
「赤い生娘だ。
お名前は?
春の初物かい。」
「名乗るべきではない相手には、
名乗る必要はないわよ。」
「厳しいですなぁ。
それじゃあなんて呼べばいいやら。
赤雌蕊、花の香、暮相の髪の…、
赤い眼は闇を照らす、銅のテレス。」
彼は気にも留めずに、
奇妙な語調で歌い出す。
「詩才に欠けるわね。
闇ではなく夜にすべきよ。
ここは夜の館なのよ。
メルセの場所は分かる?」
「メルセ…?」
「ペタの昔のひとの呼び名だよ。」
「同じ領地なんだ。」
「大水害の後に出来た、
お城の名前から取ってるからね。
世代の違いかな?」
言ってスーはサンサを見た。
「偏見が酷いわね。
大水害なんて300年以上も昔よ?
正式な名前がメルセ領なのよ。
洞窟港とエルテルの交わる土地、
という意味でメルセ。
そのメルセに建つお城の名前がペタ城ね。
お城の建っているペタは、
『偉大』や『高貴』という意味よ。」
「蜂蜜やナショーには、
ペタって名前を付けて売るんだよ。
ペタ蜜に、ペタナショーだって。」
――付加価値って言うのよね。
そんな話を倉庫の前でサンサから聞いた。
「年寄りはみんなメルセ領って呼ぶのさ。
困るんだよなぁ。」
「わたしまで年寄り扱いなんて、
不敬罪で吊るそうかしら…。」
サンサは呟いて深く溜め息を吐く。
「ヘッペという男は、
ペタの次代領主を騙っている――。」
「騙るもなにもないだろっ。」
急に感情を昂らせた彼は、
その相手を見て一度咳をする。
「僕はメルセ・ハス・ヘッペリオ。
由緒あるメルセ家の、正統な後継者さ。
そんなに畏まられても困るから、
親しみを込めてリオンと呼んでおくれ。
よろしく、暮相の生娘。」
彼は立ち上がり、
首に掛けた上着の裾を手で払うと、
なにかを真似して靡かせて見せる。
「埃が舞うから止めなさい。
ヘッペとは仲良くしなくていいわよ。」
客のはずの彼に対して、
サンサは冷たく遇う。
名前も名乗っていないわたしは、
ヘッペリオから差し出された
右手の対応に困っていると、
彼は強引にこちらの右手を掴んで握る。
彼の碧色の瞳が、
わたしを蔑むように見下ろしてくる。
「…ヘッペって言葉には、
どういう意味があるの?」
わたしは彼の顔を見ずに、
助けを求めるつもりで二人に訊ねた。
「ヘッペは『代表』という意味で、
あまり使われない大陸の古語よ。」
「繊維のペヌンも同じ語源だよね。」
「良い意味、だよね?」
南部草から作る繊維のペヌンの評価は
分からないけれど、代表という意味なら
彼が厭うほど悪くは聞こえない。
「リオは『崇高』の縮約。
だからメルセ領主のペタリオは
『高貴』で『崇高』なのよ。
二人共お似合いで素敵な名前ね。」
――思ってもいないことを…。
「領主の付けた名前で煽てられたって、
いい気はしないんですよ。
分かるかい?」
「それなら名前を変えればいいのに。
ねぇ。」
と、スーはわたしに同意を求める。
――わたしだって変える予定はないのに…。
「ご存知かもしれませんがね。
改名できる分水街の仕組みは、
因循なペタにはまだないのさ。
現領主のペタリオも、認めはしません。
古いんですよ。
領主も。メルセ領も。
もっと外に目を向けるべきです。」
「あなたの愚痴はどうでもいいわよ。
ヘッペなんて小者を、
カヴァが賓客扱いするわけないわ。
手を放しなさいよ。」
彼はいつまで経っても
わたしの手を握ったまま離さない。
「名前を言うまで放しませんよ、僕は。」
「スー。
あの汚れた手を斬り落としていいわよ。」
「こんな鋏だと鼻しか斬り落とせないよ。」
縫い糸や髪を切る程度の
握り鋏しか持っていないスーは断念する。
「鼻を斬り落とされては困る。
さぁさ、僕をリオンと呼んでおくれ。
それでお前は、なんて名前だい?」
「えぇ…。」
――サンサは『名乗りたい相手』ではなく、
『名乗るべきではない相手』って
否定的に主張してたわね。
――そんな相手をサンサは
どうして館に入れたのかしら?
わたしは彼から視線を逸らし、
彼の背後に立つハーフガンを見上げた。
「斬り落としていいのはこの首か?」
「あはは。冗談ですよ。
怖いなぁ…。ねぇ?」
ヘッペリオは首に触れる剣の鞘に怯え、
素早く手を放し、笑って目を逸らした。
「お互いに笑い合えるものを
冗談というのよ。」
サンサが言うと、
ハーフガンが舌打ちをする。
彼は去り際にまたわたしを睨んできた。
「野蛮な男だ…。」
「気に入ったのなら今度は彼に、
ヘッペをエルテルの石塔まで
案内させるわよ。」
「冗談じゃないぞ!」
ヘッペリオは、
館から追い出そうとする
サンサに不満を訴えた。
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