どこかでビャオォと、
掠れた子猫の声がする。
瞼の向こう側を影が横切り、
わたしは昼寝から目を覚ました。
昼食の後、わたしは日陰の庭で
メノーから借りた難しい本を読み、
椅子に座ったまま疲れて寝ていた。
「あら、起きたわね。」
胸元にあった毛布を膝に落として、
サンサの声のした方向を見た。
「こんな場所でずっと寝てたら、
レナみたいに日焼けするわよ。」
彼女が北側の椅子から立ち上がり、
その冷たい瞳でわたしに呼び掛ける。
「案内するわ。
もう暖かくなってきたから、
あなたのコートを片付けるのよ。
衣装室にはまだ入ったことないでしょ?」
サンサは青銅の鍵を摘んで見せる。
彼女の白く細い腕には、
総督のマルフから貰った、
白羊毛のコートがあった。
「暑い…。」
わたしは呟いてから、
毛布を折り重ねて椅子に掛けた。
庭の日陰が短くなっていて、
外の空気は汗が滲むくらいに暑い。
足先に触れたなにかを見ると、
テーブル下の玉石にアルが居た。
「分水街って夏は暑いし、
冬も雪は降らないのに寒いのよね。」
業者に洗って貰ったコートを押し付けられ、
わたしはそれを両腕で重ねる。
黄色く、毛が硬くなっていたコートは、
以前より白く柔らかさがあるように感じた。
分水街を見て歩き、気付いたことがある。
2階建ての夜の館は、
この街では比較的低い建物になる。
川沿いにある中流階級の住宅地になると、
4階建ての建物が雑多に密集していた。
夜の館はあくまで娼館であって、
王の住む城でもなければ、
貴族や上流階級の邸宅でもない。
建物は高過ぎず、敷地は広過ぎず、
部屋は多過ぎない。
塀と低い建物に囲まれた庭は明るく、
居住性に優れ、調度品は品格があり、
常に清潔さが求められる。
孤児と女達が働く環境で見ても、
この館は程良い収まりになっていた。
サンサの後ろを歩き、
貯蔵室の横の階段を上って、
近くにある南西側の部屋に案内された。
アルが尻尾を立ててわたしを見上げる。
「ここがわたしとメノーの衣装室ね。
フランジが侵入して遊ぶから、
ドレイプが管理するように、
オーナーのルービィに言われてるのよ。」
言いながら鍵を開けた。
スーでもこの部屋の鍵は持っていない。
館の南側と北側の2階には、
ドレイプが使う衣装室が並ぶ。
「なにこの臭気…。」
鼻腔に微かな痛みを覚える刺激臭。
「防虫剤の香りよ。
小さな生物が嫌うこの匂いの成分で、
虫が糸のあいだに入るのを防ぐの。」
衣装室は窓もなく暗く、
サンサに指示されながら、
扉から入る光だけを頼りに、
コートをハンガーに掛けた。
アルは部屋に入らず、
外廊下でお腹を床に当てて伸びている。
「貯蔵室と同じ理由なんだ。
食べ物や調味料が無いから、
匂いが違うのかな。」
「貯蔵室は木炭で除湿しつつ、
食べ物に防虫剤の臭気が付かないように
脱臭してるのよ。
こちら側がわたしとスーが使ってる列。
ニクスも服を買うようになったら、
好きに使っていいわよ。
あちら側はメノーとレナの列ね。
ウラの服もまだ残ってるわね。
どれか着てみる?」
東側のメノーとレナタ達の服は、
この部屋の半分を占めている。
サンサ達の服はスーの服を含めても、
壁側の一列も埋まっていない。
「メノーとレナタって、
こんなに服を持ってるんだ。」
「お姫様のものではないから、
許可もなく触ってはダメよ。」
「サンサが選ぶように誘導したのよね。」
東側の服の袖を摘んだわたしを、
唆したサンサが諫む。
彼女もスーも
わたしをお姫様と呼んで捓うので、
そこは好ましく思わない。
それでもサンサの指摘した通りで、
勝手に服に触れた行為をわたしは反省する。
「これ全て着てるの?」
「メノーより以前にノーラという子が居て、
その子が置いていったのよ。
メノーが着られるようにって。
他は養母のベリーからの頂戴物ね。
エルテル領の。」
暗くても服の種類や色の豊富さが分かる。
「はい、これ。」
コートの次は、紺色の紐の付いた
青銅の鍵を押し付けられた。
この衣装室の鍵だった。
「この部屋の管理は、
これからニクスがしなさい。」
「えっ? なんで?」
「責任者は、仕事を下の者に
委ねることができるのよ?」
「下の者の責任を取るのが、
責任者の仕事だよね?」
サンサの言い分に反論した。
「ニクスは失敗を恐れているのね。」
「…失敗は想像できるよ。
だからスーに任せたら?」
「想像できるのなら聞くけれど、
あの子にこの部屋の管理を
期待しても良いのかしら。」
スーは仕事を手伝っては、
レナタに迷惑を掛けていた。
スーのベッドはいまも羊皮紙に埋もれ、
上着が脱ぎ散らかされている。
サンサの言葉になにも返せない時点で、
ここに居ないスーに悪い気がする。
「手燭は持ち込まない。
ランタンも部屋の奥には入れない。
外廊下にある消火用の瓶には、
水を入れて、蓋をしておくこと。
つまり注意する点は火の扱いくらいね。
服で遊ばないこと、と言っても、
もう幼い子供ではないのだから、
あなたに言う必要ないでしょ。
鍵は無くしてしまっても、
従業員に言えば鍵屋が取り替えるわよ。
無くす頻度が高いようなら
オーナーに叱られるけれど、
無くしたままにする方が危ないわね。
防虫剤の取り替えは定期的にやるから、
従業員かレナにでも聞きなさい。
さぁ、一度部屋に行くわよ。」
背を向けたサンサに従い、
わたしは衣装室を出て、
その扉の鍵をかけた。
――なんだか、ニースだわ…。
言い包められたわたしは、
キャシュクの帯紐に衣装室の鍵を下げた。
◆
フランジの寝室棟にある南端の部屋は、
教育室と呼ばれている。
「遅くなったわね。」
部屋に入ってすぐ、
大勢の目がサンサとわたしに集中する。
階段状に盛り上がった床に、
フランジの顔があった。
彼女達の後ろにはドレイプも居る。
「みんなニクス目当てなんでしょ。
呆れるわね。」
わたしは屈み、
抱えていたアルを床に下ろす。
入り口から正面奥の椅子にサンサが座り、
その隣の椅子にアルが座った。
彼女は抱えていた本をテーブルに広げる。
部屋から持ってきた厚い本は、
マルフ総督から貰った本だった。
初めて入ったこの部屋に、
わたしの居場所はない。
みんなの正面に立って、好奇の目を向ける
フランジやドレイプに困惑させられる。
わたしに微笑するフランジ、
隣のドレイプに囁いて笑い、
その言葉に頷く女達。
正面にスーとレナタを見かけた。
二人は手元に夢中で、
わたしに気付いていない。
レナタは隣に座るメノーを見て、
板に嵌めた布に木炭で絵を描いている。
「さて、改めてわたしから軽く、
みんなを紹介しましょうか。
ニクスはそのままそこに立ってて。
奥に座ってるのがドレイプね。
館を支えてくれる姉達よ。
あなた達は背筋を伸ばして、
胸を張って飾緒を見せて。
左奥からレデとジールの姉妹、
カーミャ、ハーリャ、ボーシュの三姉妹、
戒めのミュパと、好奇心の塊のセセラね。
メノーは紹介する必要ないでしょ。
この勉強会の常連よ。」
部屋の奥に座るドレイプは手を振り、
目立つのに存在感をさらに主張している。
化粧をして、鮮やかなキャシュクに飾り布。
豊かな胸元に金糸の飾緒を垂らしている。
「フランジはもう覚えたかしら。
シリィ、テミニン、ポワン。
それとサャーミ、スレマ、カサドラの
新入り3人組ね。」
労働体験で一緒に働いた子達以外に、
館で見かけない女達の姿もあった。
「せっかくだから、
館の賑やかな従業員3人も、
紹介しておきましょうか。」
3人共に、淡いピンク色のリボンで
髪をまとめて化粧までしているので、
下働きの彼女達に気付かなかった。
「キーア、ナディ、メグ。
彼女達は元はフランジで
この棟の上の階に住んでるわ。
これで全員紹介したかしら。」
「ボナとファウナは?」メノーが言った。
「セセラ、知ってる?」
サンサが、奥に座っている
黒髪のドレイプに呼び掛けた。
「あのひとのことだもの、
部屋に籠もって、大陸の本でも
読んでるんですよぉ。
女でも子供には興味ないもの。」
「わたしも興味ないわよぅ。
立派なお髭と胸毛の豊かなひとが
いいわね。」
セセラが横目にして言うと
隣に座る金髪のドレイプ、
円な瞳のミュパが冗談を言って笑う。
「あの二人は趣味で忙しいから、
こんな見世物小屋に
来る必要もないわよ。」
みんな微笑して頷き、同意した。
「見世物小屋って。」
サンサの表現で、彼女達の正面に
立たされた見世物のわたしは、
不満に近い呟きが漏れ出た。
「来るものは選び、去るものは追わず。
って聞いたことあるわよね。」
スーが言っていた館の決まりに、
わたしは首を縦に振った。
サンサが続ける。
「夜の館というのは
娼館とは名前が違うだけで、
貴族や上流階級の資産家を
相手にする公娼館よね。
でもお金を払えば、
誰でも入れる場所ではないの。
この館はお客さんに対し、
なにを標準に選別するか、
知らない子も居るわね。
ニクスはその標準を考えて、
言ってみなさい。」
彼女に問われて考える。
「資産を持っている前提なんだよね?
金額の話ではなくて?」
「お金を持っているのは当然よ。
その程度なら銀行が調査するわ。
他には?」
「他? 血統とか?」
サンサは頷いて肯定する。
「手紙のやり取りで相手を決めるの。」
「違うのになんで頷いたのさ。」
彼女はわたしを捓う為に、
ただ頷いただけだった。
「わたし達の下の10番部屋、
ドレイプのボナは、認証管理という
仕事をしてるのよ。
フランジのファウナはその補佐ね。
彼女達は届く手紙の振り分けや、
内容の検閲なんかをしてるわ。
不快な手紙を渡されても困るものね。
文字の読み書き程度は、
ドレイプになる子は必修だけれど、
認証管理になるにはドレイプ以上に、
大陸語の教養が無ければ務まらない。
字の汚い手紙は論外ね。
お客さんの品性は、館の品格に繋がる。
偽貨が混ざらないように、
見分ける大事な仕事ね。
ニクスの知識で務まるかしら。」
わたしは首を横に振った。
「認証管理がやりたいのなら、
やらせてあげるわよ。」
サンサはわたしの考えなど
受け入れたりしない。
「サンサはわたしに、なにをさせたいの?」
「さて、お姫様はお勉強をご所望なのね。
みんなが待ちに待っていた、
勉強会をしましょうか。」
「待っ…。」
――お姫様って!
わたしの出自を明かすのかと思ったのに、
みんなは笑って聞き流している。
「ニクスの紹介がまだだわ。」
「サンサは二人も独り占めして狡いわ。」
「たまにはアルを貸しなさいよ。」
それぞれ不満の声を放つドレイプの中、
最後に言ったのはミュパになる。
「意見があるのなら、
前に出て立ちなさい。
わたしの代わりに、
この勉強会を取り仕切れる子なら
耳を貸すわよ。」
サンサがテーブルを指先で小突くと、
奥に座るドレイプは一斉に黙ってしまった。
こうしたやり取りを冗談と受け取り、
ドレイプの顔は笑っている。
「この勉強会はもう10年もやってるけれど、
初回から出席してるのは、館に残ってる
メノーとレナくらいになったわね。」
――10年も…?
10歳のレナタは生まれた時から、
この館に居たのかしら?
わたしは思い浮かんだその疑問を
広く、深く考える。
サンサは持ってきた本を、
細い指で優しく撫でるように捲り語る。
アルは後ろ足だけで立ち、
テーブルには前足を置いて、
サンサの持ってきた本を横で見つめていた。
「みんなに良いお知らせがあるわよ。
わたしが休養日に勉強会を開いて、
みんなの前に立って教えることは、
もう辞めようと思うの。」
「えぇーっ!」
真先に驚きの声を放ったのは、
前に座っていたメノーだった。
他のドレイプも顔を見合わせて、
サンサの真意を測りかねている。
「ありがと、メノー。
勉強会そのものを無くすと、
ルービィもいい顔はしないわね。
一人のドレイプが無知や無学を晒せば、
その子だけではなく、館全体の評判に
傷がつくのは、想像できるでしょ?
そこでわたしは、
信頼できる後任を立てることにしたわ。」
わたしの背筋が震えた。
――なんだか、嫌な予感がするわ。
「賛成っ! 賛成ぇ!」
そんな中、目の前で挙手して、
同意する主張の激しいメノー。
「勉強熱心で、勉強会に顔を見せない、
レデとジールでもいいのだけれど…。
照れなくていいわよ。褒めてないもの。
ミュパでもないわよ。座りなさい。
あなた達が辞退する前に、
指名しないから先に詫びておくわね。
この中でも奇妙な方向に研鑽を積んだ、
1番部屋のドレイプ、メノーに頼むわ。」
「賛…はっ、反対っ! 反対ぃ!」
立ち上がって騒ぎ出すメノー。
肉付きの良い身体を揺らし、
跳ねて抗議する。
「異議ある者は前に出なさい。」とサンサ。
指名されずに安堵する他のドレイプ。
館で人気のドレイプから教わることになり、
歓声が湧くフランジが思い思いに喋った。
――サンサは人望がないのかしら?
わたしはこの疑問を広く深く考え、
口には出さなかった。
▶
掠れた子猫の声がする。
瞼の向こう側を影が横切り、
わたしは昼寝から目を覚ました。
昼食の後、わたしは日陰の庭で
メノーから借りた難しい本を読み、
椅子に座ったまま疲れて寝ていた。
「あら、起きたわね。」
胸元にあった毛布を膝に落として、
サンサの声のした方向を見た。
「こんな場所でずっと寝てたら、
レナみたいに日焼けするわよ。」
彼女が北側の椅子から立ち上がり、
その冷たい瞳でわたしに呼び掛ける。
「案内するわ。
もう暖かくなってきたから、
あなたのコートを片付けるのよ。
衣装室にはまだ入ったことないでしょ?」
サンサは青銅の鍵を摘んで見せる。
彼女の白く細い腕には、
総督のマルフから貰った、
白羊毛のコートがあった。
「暑い…。」
わたしは呟いてから、
毛布を折り重ねて椅子に掛けた。
庭の日陰が短くなっていて、
外の空気は汗が滲むくらいに暑い。
足先に触れたなにかを見ると、
テーブル下の玉石にアルが居た。
「分水街って夏は暑いし、
冬も雪は降らないのに寒いのよね。」
業者に洗って貰ったコートを押し付けられ、
わたしはそれを両腕で重ねる。
黄色く、毛が硬くなっていたコートは、
以前より白く柔らかさがあるように感じた。
分水街を見て歩き、気付いたことがある。
2階建ての夜の館は、
この街では比較的低い建物になる。
川沿いにある中流階級の住宅地になると、
4階建ての建物が雑多に密集していた。
夜の館はあくまで娼館であって、
王の住む城でもなければ、
貴族や上流階級の邸宅でもない。
建物は高過ぎず、敷地は広過ぎず、
部屋は多過ぎない。
塀と低い建物に囲まれた庭は明るく、
居住性に優れ、調度品は品格があり、
常に清潔さが求められる。
孤児と女達が働く環境で見ても、
この館は程良い収まりになっていた。
サンサの後ろを歩き、
貯蔵室の横の階段を上って、
近くにある南西側の部屋に案内された。
アルが尻尾を立ててわたしを見上げる。
「ここがわたしとメノーの衣装室ね。
フランジが侵入して遊ぶから、
ドレイプが管理するように、
オーナーのルービィに言われてるのよ。」
言いながら鍵を開けた。
スーでもこの部屋の鍵は持っていない。
館の南側と北側の2階には、
ドレイプが使う衣装室が並ぶ。
「なにこの臭気…。」
鼻腔に微かな痛みを覚える刺激臭。
「防虫剤の香りよ。
小さな生物が嫌うこの匂いの成分で、
虫が糸のあいだに入るのを防ぐの。」
衣装室は窓もなく暗く、
サンサに指示されながら、
扉から入る光だけを頼りに、
コートをハンガーに掛けた。
アルは部屋に入らず、
外廊下でお腹を床に当てて伸びている。
「貯蔵室と同じ理由なんだ。
食べ物や調味料が無いから、
匂いが違うのかな。」
「貯蔵室は木炭で除湿しつつ、
食べ物に防虫剤の臭気が付かないように
脱臭してるのよ。
こちら側がわたしとスーが使ってる列。
ニクスも服を買うようになったら、
好きに使っていいわよ。
あちら側はメノーとレナの列ね。
ウラの服もまだ残ってるわね。
どれか着てみる?」
東側のメノーとレナタ達の服は、
この部屋の半分を占めている。
サンサ達の服はスーの服を含めても、
壁側の一列も埋まっていない。
「メノーとレナタって、
こんなに服を持ってるんだ。」
「お姫様のものではないから、
許可もなく触ってはダメよ。」
「サンサが選ぶように誘導したのよね。」
東側の服の袖を摘んだわたしを、
唆したサンサが諫む。
彼女もスーも
わたしをお姫様と呼んで捓うので、
そこは好ましく思わない。
それでもサンサの指摘した通りで、
勝手に服に触れた行為をわたしは反省する。
「これ全て着てるの?」
「メノーより以前にノーラという子が居て、
その子が置いていったのよ。
メノーが着られるようにって。
他は養母のベリーからの頂戴物ね。
エルテル領の。」
暗くても服の種類や色の豊富さが分かる。
「はい、これ。」
コートの次は、紺色の紐の付いた
青銅の鍵を押し付けられた。
この衣装室の鍵だった。
「この部屋の管理は、
これからニクスがしなさい。」
「えっ? なんで?」
「責任者は、仕事を下の者に
委ねることができるのよ?」
「下の者の責任を取るのが、
責任者の仕事だよね?」
サンサの言い分に反論した。
「ニクスは失敗を恐れているのね。」
「…失敗は想像できるよ。
だからスーに任せたら?」
「想像できるのなら聞くけれど、
あの子にこの部屋の管理を
期待しても良いのかしら。」
スーは仕事を手伝っては、
レナタに迷惑を掛けていた。
スーのベッドはいまも羊皮紙に埋もれ、
上着が脱ぎ散らかされている。
サンサの言葉になにも返せない時点で、
ここに居ないスーに悪い気がする。
「手燭は持ち込まない。
ランタンも部屋の奥には入れない。
外廊下にある消火用の瓶には、
水を入れて、蓋をしておくこと。
つまり注意する点は火の扱いくらいね。
服で遊ばないこと、と言っても、
もう幼い子供ではないのだから、
あなたに言う必要ないでしょ。
鍵は無くしてしまっても、
従業員に言えば鍵屋が取り替えるわよ。
無くす頻度が高いようなら
オーナーに叱られるけれど、
無くしたままにする方が危ないわね。
防虫剤の取り替えは定期的にやるから、
従業員かレナにでも聞きなさい。
さぁ、一度部屋に行くわよ。」
背を向けたサンサに従い、
わたしは衣装室を出て、
その扉の鍵をかけた。
――なんだか、ニースだわ…。
言い包められたわたしは、
キャシュクの帯紐に衣装室の鍵を下げた。
◆
フランジの寝室棟にある南端の部屋は、
教育室と呼ばれている。
「遅くなったわね。」
部屋に入ってすぐ、
大勢の目がサンサとわたしに集中する。
階段状に盛り上がった床に、
フランジの顔があった。
彼女達の後ろにはドレイプも居る。
「みんなニクス目当てなんでしょ。
呆れるわね。」
わたしは屈み、
抱えていたアルを床に下ろす。
入り口から正面奥の椅子にサンサが座り、
その隣の椅子にアルが座った。
彼女は抱えていた本をテーブルに広げる。
部屋から持ってきた厚い本は、
マルフ総督から貰った本だった。
初めて入ったこの部屋に、
わたしの居場所はない。
みんなの正面に立って、好奇の目を向ける
フランジやドレイプに困惑させられる。
わたしに微笑するフランジ、
隣のドレイプに囁いて笑い、
その言葉に頷く女達。
正面にスーとレナタを見かけた。
二人は手元に夢中で、
わたしに気付いていない。
レナタは隣に座るメノーを見て、
板に嵌めた布に木炭で絵を描いている。
「さて、改めてわたしから軽く、
みんなを紹介しましょうか。
ニクスはそのままそこに立ってて。
奥に座ってるのがドレイプね。
館を支えてくれる姉達よ。
あなた達は背筋を伸ばして、
胸を張って飾緒を見せて。
左奥からレデとジールの姉妹、
カーミャ、ハーリャ、ボーシュの三姉妹、
戒めのミュパと、好奇心の塊のセセラね。
メノーは紹介する必要ないでしょ。
この勉強会の常連よ。」
部屋の奥に座るドレイプは手を振り、
目立つのに存在感をさらに主張している。
化粧をして、鮮やかなキャシュクに飾り布。
豊かな胸元に金糸の飾緒を垂らしている。
「フランジはもう覚えたかしら。
シリィ、テミニン、ポワン。
それとサャーミ、スレマ、カサドラの
新入り3人組ね。」
労働体験で一緒に働いた子達以外に、
館で見かけない女達の姿もあった。
「せっかくだから、
館の賑やかな従業員3人も、
紹介しておきましょうか。」
3人共に、淡いピンク色のリボンで
髪をまとめて化粧までしているので、
下働きの彼女達に気付かなかった。
「キーア、ナディ、メグ。
彼女達は元はフランジで
この棟の上の階に住んでるわ。
これで全員紹介したかしら。」
「ボナとファウナは?」メノーが言った。
「セセラ、知ってる?」
サンサが、奥に座っている
黒髪のドレイプに呼び掛けた。
「あのひとのことだもの、
部屋に籠もって、大陸の本でも
読んでるんですよぉ。
女でも子供には興味ないもの。」
「わたしも興味ないわよぅ。
立派なお髭と胸毛の豊かなひとが
いいわね。」
セセラが横目にして言うと
隣に座る金髪のドレイプ、
円な瞳のミュパが冗談を言って笑う。
「あの二人は趣味で忙しいから、
こんな見世物小屋に
来る必要もないわよ。」
みんな微笑して頷き、同意した。
「見世物小屋って。」
サンサの表現で、彼女達の正面に
立たされた見世物のわたしは、
不満に近い呟きが漏れ出た。
「来るものは選び、去るものは追わず。
って聞いたことあるわよね。」
スーが言っていた館の決まりに、
わたしは首を縦に振った。
サンサが続ける。
「夜の館というのは
娼館とは名前が違うだけで、
貴族や上流階級の資産家を
相手にする公娼館よね。
でもお金を払えば、
誰でも入れる場所ではないの。
この館はお客さんに対し、
なにを標準に選別するか、
知らない子も居るわね。
ニクスはその標準を考えて、
言ってみなさい。」
彼女に問われて考える。
「資産を持っている前提なんだよね?
金額の話ではなくて?」
「お金を持っているのは当然よ。
その程度なら銀行が調査するわ。
他には?」
「他? 血統とか?」
サンサは頷いて肯定する。
「手紙のやり取りで相手を決めるの。」
「違うのになんで頷いたのさ。」
彼女はわたしを捓う為に、
ただ頷いただけだった。
「わたし達の下の10番部屋、
ドレイプのボナは、認証管理という
仕事をしてるのよ。
フランジのファウナはその補佐ね。
彼女達は届く手紙の振り分けや、
内容の検閲なんかをしてるわ。
不快な手紙を渡されても困るものね。
文字の読み書き程度は、
ドレイプになる子は必修だけれど、
認証管理になるにはドレイプ以上に、
大陸語の教養が無ければ務まらない。
字の汚い手紙は論外ね。
お客さんの品性は、館の品格に繋がる。
偽貨が混ざらないように、
見分ける大事な仕事ね。
ニクスの知識で務まるかしら。」
わたしは首を横に振った。
「認証管理がやりたいのなら、
やらせてあげるわよ。」
サンサはわたしの考えなど
受け入れたりしない。
「サンサはわたしに、なにをさせたいの?」
「さて、お姫様はお勉強をご所望なのね。
みんなが待ちに待っていた、
勉強会をしましょうか。」
「待っ…。」
――お姫様って!
わたしの出自を明かすのかと思ったのに、
みんなは笑って聞き流している。
「ニクスの紹介がまだだわ。」
「サンサは二人も独り占めして狡いわ。」
「たまにはアルを貸しなさいよ。」
それぞれ不満の声を放つドレイプの中、
最後に言ったのはミュパになる。
「意見があるのなら、
前に出て立ちなさい。
わたしの代わりに、
この勉強会を取り仕切れる子なら
耳を貸すわよ。」
サンサがテーブルを指先で小突くと、
奥に座るドレイプは一斉に黙ってしまった。
こうしたやり取りを冗談と受け取り、
ドレイプの顔は笑っている。
「この勉強会はもう10年もやってるけれど、
初回から出席してるのは、館に残ってる
メノーとレナくらいになったわね。」
――10年も…?
10歳のレナタは生まれた時から、
この館に居たのかしら?
わたしは思い浮かんだその疑問を
広く、深く考える。
サンサは持ってきた本を、
細い指で優しく撫でるように捲り語る。
アルは後ろ足だけで立ち、
テーブルには前足を置いて、
サンサの持ってきた本を横で見つめていた。
「みんなに良いお知らせがあるわよ。
わたしが休養日に勉強会を開いて、
みんなの前に立って教えることは、
もう辞めようと思うの。」
「えぇーっ!」
真先に驚きの声を放ったのは、
前に座っていたメノーだった。
他のドレイプも顔を見合わせて、
サンサの真意を測りかねている。
「ありがと、メノー。
勉強会そのものを無くすと、
ルービィもいい顔はしないわね。
一人のドレイプが無知や無学を晒せば、
その子だけではなく、館全体の評判に
傷がつくのは、想像できるでしょ?
そこでわたしは、
信頼できる後任を立てることにしたわ。」
わたしの背筋が震えた。
――なんだか、嫌な予感がするわ。
「賛成っ! 賛成ぇ!」
そんな中、目の前で挙手して、
同意する主張の激しいメノー。
「勉強熱心で、勉強会に顔を見せない、
レデとジールでもいいのだけれど…。
照れなくていいわよ。褒めてないもの。
ミュパでもないわよ。座りなさい。
あなた達が辞退する前に、
指名しないから先に詫びておくわね。
この中でも奇妙な方向に研鑽を積んだ、
1番部屋のドレイプ、メノーに頼むわ。」
「賛…はっ、反対っ! 反対ぃ!」
立ち上がって騒ぎ出すメノー。
肉付きの良い身体を揺らし、
跳ねて抗議する。
「異議ある者は前に出なさい。」とサンサ。
指名されずに安堵する他のドレイプ。
館で人気のドレイプから教わることになり、
歓声が湧くフランジが思い思いに喋った。
――サンサは人望がないのかしら?
わたしはこの疑問を広く深く考え、
口には出さなかった。
▶


