その首飾り、僕にください――のはずが求婚になった伯爵庶子は、魔法学院で秘密を隠す

 会議室にノックが一度だけ響いた。
 返事を待たずに扉が開く。

 入ってきた人物を見た瞬間、背筋が固まった。

 深い紫の上着。縁を彩る金糸。男物に仕立てた服装。見覚えがあるどころではない。忘れられるはずがない。

「エカチェリーナ様、お召しに応じ、オニキス商会のアーデルハイト、参上いたしました」

 入学前日の夜がよみがえる。
 毒酒を飲まされて路地に倒れていた僕を助けてくれた人。
 闇の紋を持つ宝石商の女主人であり、同級生リーゼロッテのお母さん。

 ——どうして、この人まで?

 僕の秘密を知っている人がもう一人、ここにいる。
 とても偶然だとは思えない。

 アーデルハイトが僕を見る。目元がかすかにゆるんだ。

「ジャスパー様、ご無沙汰しております」

「ごきげんよう。いつぞやはお世話になりました」

 声は出た。けれど、自分でも驚くほど硬かった。

「あら、お二人は旧知なのですね。ならば、都合がよろしいですわ」

 エカチェリーナは机の向こうで、座ったまま微笑んだ。

 アーデルハイトが僕の左横に立つ。僕は席についたまま。
 彼女に椅子は勧められない。商人として呼ばれているのだから、それは当然のこと。

 分かってはいる。伯爵家庶子の僕でさえ、王女との同席は恐れ多い。

 それでも、立たせたままなのが少し嫌だった。

「では、早速ですが」

 エカチェリーナが指先を上げると、護衛のクララが羊皮紙を一枚、机に広げた。

「一枚目は、借財の条件です」

 ―――
 ジャスパー・フライブルクが卒業するまでの二年間、オニキス商会は可能な限りの宝石を提供すること。
 利率は年利五十パーセント。担保はなし。
 返済期限は卒業後十年以内。元利を完済すること。
 ―――

 二年間、可能な限りの宝石。

 その一文だけで、心が強く揺れた。

 宝石が足りない。
 それが、ここ数日の僕を縛っていた鎖だった。

 火の実習を窓の向こうに眺めながら、碧玉(ジャスパー)のかけらを数えていた。使いすぎると卒業までに足りなくなると計算して、魔法を諦めた朝。

 フォルテに勝てるかもしれないのに、資源がないせいで手を出せない。
 その鎖を、目の前の羊皮紙は断ち切れると言っている。

 〈ご、五十パーセント!? ボッタクリもいいところじゃない!〉

(……担保なしだから)

 瑠璃さんに返しながら、担保なしの意味を考えていた。

 つまり、僕が返せなければ、損をかぶるのは全部オニキス商会だ。
 この契約は、僕を助けるために、アーデルハイトさんの商会を差し出せという命令に等しい。

 さっきまで救いに見えた条件が、一気に苦いものに変わった。

「エカチェリーナ様、この条件ではアーデルハイトさんの商会が一方的に危険(リスク)を負うことになります」

 宝石は欲しい。
 でも、受け取れない。

 その二つが胸の中でぶつかって、声が少し硬くなった。

「安心なさい。契約書は三枚あります」

 クララが二枚目の羊皮紙を広げる。

「二枚目は、庇護(ひご)条項です」

 ―――
 エカチェリーナ・リプシェ・プシェルミスルは、契約成立の日より二年間、オニキス商会を庇護する。
 ―――

「アーデルハイト様は一年前にご主人を亡くされました。その後、同業者および商工ギルドから営業妨害を受けています。エカチェリーナ様の庇護により、それらを排除し、貴族階層への販路拡大を支援します」

 僕は思わず、アーデルハイトの横顔を見た。

 夫を失ったこと。
 商会を守ってきたこと。
 その上で、王女の庇護を受けると決めて、この場い立っていること。

 さっきまで、僕はこの人を巻き込まれた側だと思っていた。
 でも違う。

 この人は、自分の意思でここにいる。

「ジャスパー様、お気になさらないでください。商いを続けると決めたのは、私ですから」

 その声はやわらかいのに、不思議なくらい揺らぎがなかった。
 慰めじゃない。言い聞かせでもない。
 損も危険も勘定した上で、それでも前へ出ると決めた人の声だった。

 〈強い人ね〉

(……うん)

 一枚目は借金だった。
 けれど二枚目で、それだけでは済まないとわかった。

 これは僕だけを助ける契約じゃない。
 僕とアーデルハイトさんを、同じ側に立たせる契約だ。

 そう分かったはずなのに、胸は少しも軽くならなかった。
 僕ひとりが引けば済む話では、もうなくなっていた。

「そして三枚目」

 クララが最後の羊皮紙を広げる。

「三枚目は、婚姻条項です」

 嫌な予感がした。
 でも、その予感は、読み上げられた一文で即座に上書きされた。

 ―――
 フォルテ・フライブルクが上級神の加護を得た場合、ジャスパー・フライブルクはアーデルハイトを妻とする。
 ―――

「……は?」

 間の抜けた声が漏れる。

 借金や庇護と同じ調子で、僕の結婚が読み上げられた。
 羊皮紙の上では、僕の一生が他の条件と同じ重さで並べられていた。

 次いで、相手の名を理解した瞬間、背筋が冷えた。

 アーデルハイトさん。

 さっきまで一蓮托生の相手と見ていた人が、今度は敗北条件の相手として羊皮紙に載っている。

「エカチェリーナ様、いったい何を考えているんですか?」

「この契約の目的を思い出しなさい。フォルテが上級神の加護を得れば、私はあの男と結婚することになります」

 それは理解している。でも、それとこれとは話が違う。

「それが、この条項にどう繋がるのですか」

「簡単なことですわ。あなたが止められず、わたくしがフォルテと結婚する羽目になったら、あなたを許せませんもの」

 さらりと告げる。

「ですから罰です」

 あまりに堂々と言い切られて、言葉に詰まった。

「それに、夫婦になれば借金も帳消しになります。とても合理的ではありませんか」

 口元に、いかにも楽しそうな笑みが浮かぶ。

 〈悪役令嬢そのものじゃない!〉

 合理的。
 その言葉に、胃の奥が重く沈んだ。

 理屈は分かる。分かってしまうから、余計に気分が悪かった。

 僕の人生が、エカチェリーナに踏み潰されていく。しかも、そこにアーデルハイトさんまで含まれている。

 けれど……。

(あれっ?)

 これって僕への罰になるのかな。

「この条件では、アーデルハイトさんへの迷惑にはなっても、僕への罰にならないのでは?」

 借金が帳消しになる。
 その上、頼もしくて美しい女性との結婚。

 しかも、しかも宝石商。そう、宝石!

 視線が、アーデルハイトさんの胸元へ吸い寄せられる。
 大粒のルビーが、灯りを受けて深く燃えていた。

 あんな首飾りを普段から身につけているなら、商会の奥にはどれほどの宝石が眠っているんだろう。

 研ぎの違い。留め方の違い。地金の違い。
 同じ石でも、組み合わせ一つでまるで別の顔になる。

 裸の石を机いっぱいに並べて、角度を変えて、光を当てて、一日中うっとり眺める。
 そんな毎日が待っている。

 ああ、なんて最高なんだ!

「いっそ今すぐアーデルハイトさんと結婚したい!」

 〈ちょ、ちょっとジャスパーくん!?〉
(あっ!)

 しん、と部屋が静まり返る。

 エカチェリーナは口を半開きにしたまま固まっている。

 そしてアーデルハイトさんは、穏やかに僕を見ていた。

「ゴホン」

 クララの咳払いが大きく響き、エカチェリーナが小さく息を吐いた。

「罰として出した条項に、魅力を見出されるとは思いませんでしたわ」

 その声には呆れがあった。
 でも、切り捨てる響きではなかった。

「本当に、あなたという人は、期待を裏切ってくださいますわね」

 ぞくりとした。

 けれど彼女は、それ以上は何も言わなかった。
 小さいため息のあと、何事もなかったように視線をアーデルハイトに移す。

「まあ、よろしいでしょう。そこまで呑気でいられるのなら、文面はこのままで結構ですわ」

 それから、優雅に問いかけた。

「アーデルハイト、あなたは?」

「エカチェリーナ様の庇護がいただけるのです。異存はございません」

 短く、よどみなく答える。商いの場で腹を決めた人の返事だった。

 クララが三枚の羊皮紙を重ねた。

「では、文面を整えたのち、正式な公証へ回します」

 その一言で、契約書の重みがぐんと増した気がした。

 借金の条件だけじゃない。
 王女の庇護も、あの結婚条項も、全部まとめて公の約束になる。

 あとから冗談でしたでは済まないのだ。

 〈おっそろしい契約ね。借金も庇護も結婚も、まとめて縛るんでしょ? 逃げ道がないじゃない〉

(……でも、破らなければいいんだ)

 〈本当は、怖がってるふりして、ちょっと喜んでるでしょ?〉

(そ、そんなことないよ)

 自分にそう言い聞かせたところで、契約の重さは少しも軽くならない。

 その沈黙を破るように、アーデルハイトがふと顔をあげた。

「仮の話ですが」

 その声で、全員の視線が彼女へ向いた。

「ジャスパー様が上級神の加護を授かった場合は、どうなるのでしょうか?」

 エカチェリーナが、きょとんとした。

「……それは考えていませんでしたわね」

 短い沈黙。

 クララがちらっとエカチェリーナを見る。
 エカチェリーナは机の上の契約書に目を落とし、少しだけ考える。
 やがて、ゆっくりと笑った。

「そうですね」

 その笑みが浮かんだ瞬間、自分が獲物に回ったのだと分かった。

「私と結婚してもらいましょうか」

 喉がひくりと鳴った。
 さっきまで都合よく眺めていた婚姻条項が、今度はまっすぐ僕を見ていた。

(僕が? エカチェリーナ様と?)

 〈今度こそ、ちゃんと罰になったわね〉