灯を継ぐ人0【本編】

2 過ぎ行く先の行方
<ep-1>

 瞼の裏に明るさを感じてふわりと浮上した意識。
 薄ら瞼を開けると、カーテンを閉め忘れた窓からやや斜めに陽が射し込んでいた。
 俺の部屋の窓は南西を向いているから、もう昼はとうに過ぎたらしいことが陽射しの角度で知れた。
 のそり、起き上がって身体をひとつ震わせる。
「さむ……」
 十月も半ばを過ぎた季節だ。ジャケットを脱いだシャツ一枚で毛布も被らずに寝ていれば、昼でも幾らか冷えるのは当然だろう。
 クローゼットからパーカーを引っ張り出して袖を通す。
 廊下に出てリビングの扉を開けたら、朝と同様仄かな暖気が身を包んだ。
「おう、起きたか」
 奥のソファからダイニングテーブルに移動して本を読んでいた父さんに欠伸混じりで頷く。
「ん……父さん、飯は?」
「雑炊ならさっき作ったのがある。お前も食うなら好きに温めてよそえ」
「なら、遠慮なく……」
 コンロの前に立って鍋の蓋を持ち上げると、雑炊の具は卵とシラス。多分あの朝出会った少年でも食べやすいように、だろう。
 あぁそうだ……あの少年は……? と。
 コンロの火を点けてから振り返る。
 ダイニングテーブルの向こう、奥のソファに視線を流せば、その上に毛布の塊。
 どうやら少年はソファで毛布を被って眠っているらしい。
「……空いてる部屋に布団くらい敷いてやれよ」
「今、日干し中だ」
「…………っそ」
 雑なようで丁寧。父さんの人柄がよく出ている言動そのものだ。
「……で? 改めて訊くけど、あのガキ、どこのどいつ?」
「知らん」
「知らん、って……」
 はぁあ、と思わず額に手を当てる。
「仕方がないだろう。本人も自分のことが分かってないらしいからな」
「……は? どういうことだ?」
 くつくつと音を立て始めた鍋の中身をぐるりと掻き回してから火を止める。
 適当な器に雑炊をよそって父さんの向かいの席に座れば、父さんは本を閉じてソファの方を一瞥した。
「名前も家も分からんらしい。昨晩職場に行く途中の路地でぶっ倒れてるのを見付けた」
「……そんで、そのまま拾ってきたって訳か」
 犬猫じゃねーんだぞ、と。また朝と同じ台詞が口の中で転がる。
「警察案件だろ」
 もぐ、と口に運んだ雑炊の塩気は薄い。
「警察は駄目だ、と。やたら怯えたもんだからな」
「捜索願でも出されてたら……」
「そりゃ後で確認はする。昨日欠勤した代わりに今夜出勤になったんでな。そのついでに寄るさ」
「…………そ」
 父さんには父さんなりの考えがあるなら俺はこれ以上口を挟まないでおく。
「今夜仕事になったんなら、流石に少しは寝てくんだろ?」
「あぁ……そうだな。二、三時間くらい仮眠したいとこだ」
「んじゃ、俺がこれ食い終わって風呂上がるまで待っててくれ。その後ここ、変わる」
 ここ、というのは、少年を見守るポジションのこと。
「理解ある息子で助かるな」
「父さんの拾い癖は今に始まったことじゃねーし」
 嫌味のつもりで云ってみたものの、こんな皮肉は父さんにな何の痛手にもならない。
 その証拠に、父さんの表情は平素と何ら変わらない。
 俺は残りの雑炊を掻き込んで食器を軽く洗ってから、シャワーを浴びに浴室へと向かった。

 父さんが寝ている間、少年も目を覚ますことはなかった。目を覚まさないどころか、小さな身動ぎひとつすらしない。
 ちゃんと生きてるのか、と思わず二回くらい鼻先に手を翳して呼吸の有無を確かめてしまった程だ。
 仮眠から起きてきた父さんがコーヒーを啜っている間に、俺は日干しされていた布団を取り込んで空き部屋に敷いておく。因みに、空き部屋は俺の部屋の向かいの扉だ。
 そうして夕方、陽も殆ど落ちた頃。
「何かあったら、すぐに連絡して来い」
 玄関口でそう告げられ、云われなくとも、と軽く肩を竦める。
「それより、父さん。めんどくせぇ、とかなって警察寄らないとかはナシだからな?」
「分かってる。親子の立場を逆転させるな」
「させてんのは誰だよ」
 やれやれと大仰に溜息を吐いて見せたら、父さんは微かに苦笑しながら家を出て行った。
 シンとしているリビングで俺は先日仕上げたレポートの最終確認をすることにした。明かりはキッチンの小さなものだけにして、ダイニングテーブルでノートパソコンを開く。
 どれだけ画面と睨めっこしていたか、不意にもぞ、と微かな衣擦れ。
 その音を耳聰く拾って顔を上げれば、毛布の塊がゆるゆると高さを増すのが見えた。
 小さな頭がゆるりゆるりと左右に動く。
 まるで、ここはどこだろう……と確認するように。
「目ぇ、覚めたか?」
 大きくなり過ぎないよう声量を控えて声を投げる。ダイニングテーブルからは動かない。
「…………ぁ、」
 恐る恐ると云わんばかりに振り返った少年の顔には緊張と疲労の色が濃い。
「腹、減ってないか?」
 俺の問い掛けに答えない少年は瞬きひとつすらしないでいる。
「雑炊、父さんが作ったやつある。少しで良いから食っとけ」
 父さんの存在を仄めかしたところで、漸く少年の肩が動いた。こくん、と小さく頷いたのを見て、俺はノートパソコンを閉じてから雑炊を温める為に立ち上がった。
「飯食う時は、こっちのテーブル。来れるか?」
 首だけで振り返った俺に、少年はまたひとつ頷いてからそろりとソファから下りてダイニングテーブルに近寄って来た。
 座る位置を教えるよう、自分が座っている席の斜向かいに箸と麦茶のグラスを置いてやる。
「今あっためてるから少し待ってろ。寝起きは水分飛んでるから、麦茶。ちびちびでも飲んどけ」
 そう落としたら、椅子に座った少年は素直に頷いて麦茶のグラスを両手で持ち上げた。
 小さい手だな、と。ぼんやり自分の手と見比べながら思う。
 淡く湯気が立ち上りはじめたところで火を止める。
 茶碗によそった雑炊の量は少なめ。
「ほら、熱いから気を付けて食えよ」
 俺が茶碗を置くと、少年はグラスを置いて何かを窺うように視線を揺らした。
 何だ? と思いながら座ると少年の肩が少し下がって、あぁ俺が座るのを待っていたのかと知る。
 おずおず箸を手に取った少年はちゃんと手を合わせてから殆ど唇を動かさずに「いただきます」と小さく呟いた。
 食べているところをジッと見られていると食い辛いだろうか、とノートパソコンをまた開く。
 画面を見ている振りをしながら少年が雑炊を食う様子を観察する。
 箸を握る指は細い。未発達な手に大人用の箸は扱いにくいのか雑炊を掬うのに苦戦を要していたが、すぐにただ箸の持ち方がヘタクソなのだと悟る。
 そっと立ち上がった俺にびくりと身体を硬直させる少年は一体何に怯えているのだろうか。
 洗いカゴからスプーンを取って、麦茶のグラスの横にそれを置く。
「悪かった。つい癖で先に箸出したけど、雑炊って箸だと食いにくいよな。俺もさっきスプーンで食ってたわ」
 多分、箸よりスプーンの方が食いやすいだろう。
 食事に余計なストレスを抱えるのは良くない。
 俺もスプーンを使っていた、と付け足したところで少年はやっと箸を下ろしてスプーンに持ち替えた。
 さっきよりスムーズに運ばれていく雑炊。
 それでもひと口は小さい。咀嚼も嚥下もゆっくり。それ故に、食うのが遅い。
 にしても、音、全然立てないな……。
 ノートパソコンの画面に視線を戻した振りをしながら、また少年の観察を続ける。
 不揃いに伸びた髪の毛にツヤはない。
 薄い唇も頬も血色が薄い。
 伏し目がちな瞼から伸びる松葉のような睫毛だけが少年の存在感を主張している。
 ゆっくりと、それでもちゃんと雑炊を完食した少年は、スプーンを置くとまた唇を殆ど動かさずに「ごちそうさまでした」を唱えた。
「もう良いか? まだあるから食えるならよそうぞ?」
 ノートパソコンの画面を僅かに下げて視線を絡ませれば、少年は小さく頭を左右に振っただけだった。
「そんなら、片付けるぞ」
「ぁ……や、りま……」
「麦茶、残ってるの飲み切るのが先」
 茶碗を持ち上げた瞬間立ち上がろうとした少年を椅子に留め、俺はさっさと食器を洗ってしまう。
「これ……も、ぁりがと、ござぃました……」
 すぐにグラスを持ってきた少年からグラスを受け取り、あぁ、とリビングの扉を指差す。
「お前の部屋だけど、トイレの並びにあるドアの部屋使え。布団は敷いてある。あと、その向かいが俺の部屋。俺はリビングかその部屋にいるから、何かあったら遠慮せずに叩いて良い」
 暫くリビングに居るのは良いけど寝るのはソファじゃなくて布団でな、と付け足したら、少年は一歩足を引いてからぺこりと頭を下げてリビングを出て行った。
 その後ろ姿が空き部屋の中に消えるのを確認してから、俺は思わず大きく息を吐く。
「何か……ガキにあんな緊張されてると、こっちも気ぃ張るな……」
 小さく言ちながら、少年から受け取ったグラスを持ったままの手に視線を落とす。
 受け取った瞬間、僅かにだけ触れた少年の指先の冷ややかさがまだ残っている気がした。