(あっつい!)
麗麗はしたたり落ちる汗を手の甲でぬぐった。
茶話会から数週間。季節は移り、すっかり夏の様子である。日差しは照りつけ、ただでさえ日当たりのいい洗い場は熱気が立ち込めていた。
女官たちはその中で水を使うのが唯一の涼を感じる瞬間らしく、手足を水桶に入れて涼んでいたり、隙を見て互いに水をかけ合ったりしている。微笑ましい光景である。
焱国の夏は暑い。しかし、前世の夏と比べて湿度が低くからっとしているのが特徴である。あのむしむしがないだけだいぶ過ごしやすいが、人類の英知が詰まった箱がない夏は過酷だ。ちょっと動くだけで汗が噴き出るし、食べ物もすぐにだめになってしまう。
「胡粉宮の院子ってそんなに広いの!?」
「ええ。私、こないだ尚寝局の手伝いで掃除に伺ったのだけれど、驚いたわ。掃除しても掃除しても終わらなくって、夜までかかったのよ」
「へえ~。そんな中で宴だなんて楽しそうだね」
話しているのは尚服局の女官たちだ。
かしまし女官たちの噂は、玲沙妃の院子で行われる例の宴でもちきりだった。あっちでぴいぴい、こっちでもぴいぴい、さえずり声が聞こえてくる。
少し離れたところで麗麗は洗濯物を取り込みながら耳をそばだてていた。玲沙妃の話なら、ぜひ前もって情報を仕入れておきたい。なにしろ宴は今日なのだ。
(女官ネットワークは頼りになるなあ)
えらい人が来ないとわかっているので、こういう場所では女官たちも遠慮がない。それを裏付けるかのように、先ほどまで朗らかにしゃべっていた女官が眉をひそめて言葉を落とした。
「楽しそうだなんてとんでもない。すっごく怖かったんだから……!」
院子に掃除をしに行ったという女官である。彼女は桶に入った布を踏む足を止め、青ざめた顔をしながら両手で自分の体を抱いた。
「まさか、あの噂を信じてるの? 玲沙妃の院子に幽鬼が棲んでるってやつ!」
「信じてるんじゃないわ。本当にいるのよ、あの院子……。鬼作楽って人を道に迷わせるんでしょう? 私、院子で何度も道に迷ったの。確かに広い院子だったけれど、道に迷うなんておかしいわよ」
(へえっ……)
麗麗の目が光る。こんなところで具体的な話が聞けるとは思わなかった。
(お願い、もうちょっと声大きく!)
「あんたが方向音痴なだけでしょ~?」
「違うったら!」
願い叶ったり。女官たちの話はどんどん白熱していく。
「私、怖いわ。院子に幽鬼を棲まわせるだなんて普通じゃないもの。……宴は本当に大丈夫なのかしら。そんな場所に主上をお招きするだなんて」
「まあ、心配したって意味ないわよ。どうせ私たちみたいな下級女官には関係ないことなんだから」
そう言ってきゃらきゃらと笑う女官仲間たちに励まされ、当の彼女も「そうよね、私たちには関係なかったわ」と笑みをこぼした。
(道に迷う……ねえ)
取り込んだ洗濯物を籠に突っ込み、よいしょと背負いながら麗麗は考える。脳裏に、先日ちらっとだけ見た院子の様子を思い出し、口元がふふっと笑みにゆがんだ。
(多分、それって、きっとそう)
早く院子に行ってみたいなあとわくわくそわそわが止まらず、鼻歌が飛び出した。
突然歌い出した麗麗に驚いたらしい女官たちは、ぎょっとした顔で口を閉ざしてしまった。もうちょっと話が聞きたかったのに、残念である。
さて、では、そろそろ宮に帰ろうか。今日も早く戻るようにと厳命を受けている。もちろん、宴に向けて準備をするためだ。すっかり自信を取り戻したおしゃれ番長こと香鈴が張り切って準備をしているらしい。急ごう。
洗い場をあとにする。道行く人々は額に汗をし、それぞれの仕事に精を出していた。
それにしても暑い。
(こんな中で宴だなんて、尋常じゃないよ)
心の中で文句を言いながら、建物の角を曲がったときである。
「女官」
聞き覚えのある声に呼び止められた。振り返ると、やはりである。
「こんにちは、冥焔様」
相変わらず無駄に整った顔が不機嫌そうにこちらを見ていた。冥焔は軽くうなずくと、すっと麗麗の隣に立った。当たり前のように隣を歩く宦官を、麗麗は軽く見上げる。
「あの、なにかご用ですか」
「いや、特に用はない」
「ではなぜ隣に?」
純粋な疑問を述べると、冥焔は不機嫌そうな顔をさらにしかめた。
「深藍宮に戻るのだろう? 俺もそちら方面に用があるのだ」
なるほど、旅は道連れ、世は情け。いやそれは違うか、とうだうだ考える。どうせ一緒に歩くなら洗濯籠を持ってくれてもいいものを、この宦官はそういうことをしないのだ。
(まあ、へたに手伝ってもらっても困るからいいんだけどさあ)
ただでさえくそ暑いのに、隣を歩く宦官の袍の色を見ると体感温度が上がる気がする。青灰色の服は太陽の熱をさぞ吸収することだろう。麗麗の女官服も青なので、大差ないかもしれないが。この国は、夏服という概念を覚えたほうがいいと思う。
隣を歩いているのに、会話がないのもなんである。麗麗はしたたる汗を忘れるためにも話題を振った。
「冥焔様も今日の宴に出られるんです?」
「当たり前だ。曲がりなりにも大家が関わっているのだぞ」
「ですよねえ」
それにしてもこの宦官、汗ひとつかいていない。暑さを感じさせない涼やかな佇まいは、羨ましいを通り過ぎてもはや腹立たしくもある。
「そうだ、冥焔様。気になっていたんですけど、”鬼作楽”ってどんな幽鬼なんです?」
そう問うと、ぎょっとしたように冥焔が目を見開いた。
「お前、知らなかったのか」
「まあ、はい。人を迷わす幽鬼だってことくらいしか」
「なぜ宴の当日まで誰にも聞かぬのだ」
「聞こうと思ったんですけどね……」
とてもそんな雰囲気ではなかったのだ。なにせ、あの玲沙妃個人の院子で宴をやるという話である。
深藍宮の三女官は、それはもう大変な荒れようだった。雪梅は『贔屓だわ!』と憤慨するし、香鈴は目の光を消して『宣戦布告ってことで合ってる?』と小首をかしげ、おっとりしている花里でさえ、『しっかり準備しないとね』と含み笑いをする始末。
こうなったときの三女官は恐ろしい。下手につついて、火事になるのは避けたいところだ。
かといって、他の女官に聞くわけにもいかなかった。麗麗が瑛琳妃付きの女官であることは周知の事実である。その麗麗が『鬼作楽ってなんですか』と尋ねたという事実が、どのようにゆがんで噂されるのかわかったものじゃない。
冥焔はため息ひとつつくと、口を開いた。
「鬼作楽は、別名“鬼打牆”とも言う。夜に現れる幽鬼で、人を物理的に迷わす。その幽鬼に魅入られると、道を見失うような場所でもないのに道に迷い、四方を壁に囲まれている感覚を覚えるのだという。昔からよく知られている幽鬼だな」
「へえええ」
前世に住んでた国で考えるなら、ぬりかべだろうか。確かあれも人を前に進めなくする妖怪だったような気がする。
「ただし、逆を言うとその程度の幽鬼なのだ。しかも今回の件は玲沙妃の軽口から始まっているのだし、本当に幽鬼がいるという話ではない。たちの悪い冗談だ。お前が張り切って正体を暴こうするほどのものではない」
(おやあ?)
宦官のその発言に、麗麗は軽い違和を覚えた。
「冥焔様、この件、なにかあるんです?」
そう問うと、冥焔は動揺したように立ち止まり、麗麗の顔を見返した。
「なぜそう思う?」
「いえ。いつもの冥焔様なら、『とはいえ、幽鬼だという妃の主張は無視できん。念のため調べろ』とか言うんじゃないかな~って」
今までの冥焔ならそうだったはずだ。どんな小さな疑いだとしても麗麗を引っ張り出していたではないか。だからこその問いだったのだが、思いのほか冥焔は驚いたらしい。目を見開き、そして視線をすっとそらせた。
「……そんなことはともかく」
いや、ともかくではないでしょうよ。と心の中で突っ込む麗麗である。
麗麗の疑問には答える気がないようで、冥焔は再び歩き出した。
「絞鬼のときにも感じたが、お前はあまり幽鬼には詳しくないのだな。絞鬼も、鬼作楽も古来から中央近辺ではびこる怪のひとつだぞ。名前くらいは知っていてもおかしくないだろうに」
「私は辺境の出なんですよ。中央の文化には詳しくありません。養子になってからは読み書きの訓練で刻がありませんでした。基本的に、外出も許されていませんでしたし」
嘘ではないが真実でもない。麗麗の生家ではその日暮らしに明け暮れ、生きるだけで精いっぱいだったはずだ。切り詰められた生活の中では怪の入る隙間すらなく、常に食べ物のことだけを考えていたような記憶がうっすらと残っている。
養家に売られたあとの記憶も正直おぼろげで、よほど詰め込まれた教育を受けていたのだろう、思い出そうとすると、とにかく『しんどい』という感情が先に立つ。不快な記憶であるのは間違いないので、麗麗も積極的に思い出そうとはしなかった。
(別に、過去とか正直どうでもでもいいしね)
過去どころか前世の記憶には大変お世話になっている身ではあるが、基本的に麗麗は刹那主義だ。楽観的とも言う。一度死んだことも影響しているのかもしれない。
そんな事情は、さておき。もう深藍宮はすぐそこである。
「では、冥焔様。また後ほど」
麗麗はぺこりと頭を下げた。もう日が頂点を超えている。そろそろ本気で香鈴に怒られてしまう。そうして改めて宮へと向き直り、歩く速度を速めようとした、そのとき。
「女官」
不意に、後ろから腕をつかまれる。
(んっ!?)
振り返ると、こちらを見る冥焔の瞳とかち合った。切れ長の瞳が麗麗を捉え、なにかをこらえるように細まっていく。
まただ。またあの、置いていかれるのを恐れているような子どもの目で、冥焔は麗麗を見つめていた。
「冥焔様?」
「──ああ、いや、なんでもない」
冥焔は自分の行動に驚いたようである。目を見開き、熱いものに触れたときのように勢いよく手を離すと、そのままくるりと踵を返した。
「ではまた、院子で」
そう言い残すと、冥焔はその場をあとにする。
(変なの)
なにか言いたそうにしていたような気もするが、よくわからない。それにしても。
(自分でつかんでおいて、なんであんな顔すんだろね)
麗麗の腕は危険物かなにかなのか。自分から触れておいて、あんなに驚くこともないだろうに。
(まー、なんかあったら言ってくるでしょ)
おっといけない、急がなければ。つかまれた腕の余韻を感じながら、麗麗は今度こそ深藍宮へと走った。
麗麗はしたたり落ちる汗を手の甲でぬぐった。
茶話会から数週間。季節は移り、すっかり夏の様子である。日差しは照りつけ、ただでさえ日当たりのいい洗い場は熱気が立ち込めていた。
女官たちはその中で水を使うのが唯一の涼を感じる瞬間らしく、手足を水桶に入れて涼んでいたり、隙を見て互いに水をかけ合ったりしている。微笑ましい光景である。
焱国の夏は暑い。しかし、前世の夏と比べて湿度が低くからっとしているのが特徴である。あのむしむしがないだけだいぶ過ごしやすいが、人類の英知が詰まった箱がない夏は過酷だ。ちょっと動くだけで汗が噴き出るし、食べ物もすぐにだめになってしまう。
「胡粉宮の院子ってそんなに広いの!?」
「ええ。私、こないだ尚寝局の手伝いで掃除に伺ったのだけれど、驚いたわ。掃除しても掃除しても終わらなくって、夜までかかったのよ」
「へえ~。そんな中で宴だなんて楽しそうだね」
話しているのは尚服局の女官たちだ。
かしまし女官たちの噂は、玲沙妃の院子で行われる例の宴でもちきりだった。あっちでぴいぴい、こっちでもぴいぴい、さえずり声が聞こえてくる。
少し離れたところで麗麗は洗濯物を取り込みながら耳をそばだてていた。玲沙妃の話なら、ぜひ前もって情報を仕入れておきたい。なにしろ宴は今日なのだ。
(女官ネットワークは頼りになるなあ)
えらい人が来ないとわかっているので、こういう場所では女官たちも遠慮がない。それを裏付けるかのように、先ほどまで朗らかにしゃべっていた女官が眉をひそめて言葉を落とした。
「楽しそうだなんてとんでもない。すっごく怖かったんだから……!」
院子に掃除をしに行ったという女官である。彼女は桶に入った布を踏む足を止め、青ざめた顔をしながら両手で自分の体を抱いた。
「まさか、あの噂を信じてるの? 玲沙妃の院子に幽鬼が棲んでるってやつ!」
「信じてるんじゃないわ。本当にいるのよ、あの院子……。鬼作楽って人を道に迷わせるんでしょう? 私、院子で何度も道に迷ったの。確かに広い院子だったけれど、道に迷うなんておかしいわよ」
(へえっ……)
麗麗の目が光る。こんなところで具体的な話が聞けるとは思わなかった。
(お願い、もうちょっと声大きく!)
「あんたが方向音痴なだけでしょ~?」
「違うったら!」
願い叶ったり。女官たちの話はどんどん白熱していく。
「私、怖いわ。院子に幽鬼を棲まわせるだなんて普通じゃないもの。……宴は本当に大丈夫なのかしら。そんな場所に主上をお招きするだなんて」
「まあ、心配したって意味ないわよ。どうせ私たちみたいな下級女官には関係ないことなんだから」
そう言ってきゃらきゃらと笑う女官仲間たちに励まされ、当の彼女も「そうよね、私たちには関係なかったわ」と笑みをこぼした。
(道に迷う……ねえ)
取り込んだ洗濯物を籠に突っ込み、よいしょと背負いながら麗麗は考える。脳裏に、先日ちらっとだけ見た院子の様子を思い出し、口元がふふっと笑みにゆがんだ。
(多分、それって、きっとそう)
早く院子に行ってみたいなあとわくわくそわそわが止まらず、鼻歌が飛び出した。
突然歌い出した麗麗に驚いたらしい女官たちは、ぎょっとした顔で口を閉ざしてしまった。もうちょっと話が聞きたかったのに、残念である。
さて、では、そろそろ宮に帰ろうか。今日も早く戻るようにと厳命を受けている。もちろん、宴に向けて準備をするためだ。すっかり自信を取り戻したおしゃれ番長こと香鈴が張り切って準備をしているらしい。急ごう。
洗い場をあとにする。道行く人々は額に汗をし、それぞれの仕事に精を出していた。
それにしても暑い。
(こんな中で宴だなんて、尋常じゃないよ)
心の中で文句を言いながら、建物の角を曲がったときである。
「女官」
聞き覚えのある声に呼び止められた。振り返ると、やはりである。
「こんにちは、冥焔様」
相変わらず無駄に整った顔が不機嫌そうにこちらを見ていた。冥焔は軽くうなずくと、すっと麗麗の隣に立った。当たり前のように隣を歩く宦官を、麗麗は軽く見上げる。
「あの、なにかご用ですか」
「いや、特に用はない」
「ではなぜ隣に?」
純粋な疑問を述べると、冥焔は不機嫌そうな顔をさらにしかめた。
「深藍宮に戻るのだろう? 俺もそちら方面に用があるのだ」
なるほど、旅は道連れ、世は情け。いやそれは違うか、とうだうだ考える。どうせ一緒に歩くなら洗濯籠を持ってくれてもいいものを、この宦官はそういうことをしないのだ。
(まあ、へたに手伝ってもらっても困るからいいんだけどさあ)
ただでさえくそ暑いのに、隣を歩く宦官の袍の色を見ると体感温度が上がる気がする。青灰色の服は太陽の熱をさぞ吸収することだろう。麗麗の女官服も青なので、大差ないかもしれないが。この国は、夏服という概念を覚えたほうがいいと思う。
隣を歩いているのに、会話がないのもなんである。麗麗はしたたる汗を忘れるためにも話題を振った。
「冥焔様も今日の宴に出られるんです?」
「当たり前だ。曲がりなりにも大家が関わっているのだぞ」
「ですよねえ」
それにしてもこの宦官、汗ひとつかいていない。暑さを感じさせない涼やかな佇まいは、羨ましいを通り過ぎてもはや腹立たしくもある。
「そうだ、冥焔様。気になっていたんですけど、”鬼作楽”ってどんな幽鬼なんです?」
そう問うと、ぎょっとしたように冥焔が目を見開いた。
「お前、知らなかったのか」
「まあ、はい。人を迷わす幽鬼だってことくらいしか」
「なぜ宴の当日まで誰にも聞かぬのだ」
「聞こうと思ったんですけどね……」
とてもそんな雰囲気ではなかったのだ。なにせ、あの玲沙妃個人の院子で宴をやるという話である。
深藍宮の三女官は、それはもう大変な荒れようだった。雪梅は『贔屓だわ!』と憤慨するし、香鈴は目の光を消して『宣戦布告ってことで合ってる?』と小首をかしげ、おっとりしている花里でさえ、『しっかり準備しないとね』と含み笑いをする始末。
こうなったときの三女官は恐ろしい。下手につついて、火事になるのは避けたいところだ。
かといって、他の女官に聞くわけにもいかなかった。麗麗が瑛琳妃付きの女官であることは周知の事実である。その麗麗が『鬼作楽ってなんですか』と尋ねたという事実が、どのようにゆがんで噂されるのかわかったものじゃない。
冥焔はため息ひとつつくと、口を開いた。
「鬼作楽は、別名“鬼打牆”とも言う。夜に現れる幽鬼で、人を物理的に迷わす。その幽鬼に魅入られると、道を見失うような場所でもないのに道に迷い、四方を壁に囲まれている感覚を覚えるのだという。昔からよく知られている幽鬼だな」
「へえええ」
前世に住んでた国で考えるなら、ぬりかべだろうか。確かあれも人を前に進めなくする妖怪だったような気がする。
「ただし、逆を言うとその程度の幽鬼なのだ。しかも今回の件は玲沙妃の軽口から始まっているのだし、本当に幽鬼がいるという話ではない。たちの悪い冗談だ。お前が張り切って正体を暴こうするほどのものではない」
(おやあ?)
宦官のその発言に、麗麗は軽い違和を覚えた。
「冥焔様、この件、なにかあるんです?」
そう問うと、冥焔は動揺したように立ち止まり、麗麗の顔を見返した。
「なぜそう思う?」
「いえ。いつもの冥焔様なら、『とはいえ、幽鬼だという妃の主張は無視できん。念のため調べろ』とか言うんじゃないかな~って」
今までの冥焔ならそうだったはずだ。どんな小さな疑いだとしても麗麗を引っ張り出していたではないか。だからこその問いだったのだが、思いのほか冥焔は驚いたらしい。目を見開き、そして視線をすっとそらせた。
「……そんなことはともかく」
いや、ともかくではないでしょうよ。と心の中で突っ込む麗麗である。
麗麗の疑問には答える気がないようで、冥焔は再び歩き出した。
「絞鬼のときにも感じたが、お前はあまり幽鬼には詳しくないのだな。絞鬼も、鬼作楽も古来から中央近辺ではびこる怪のひとつだぞ。名前くらいは知っていてもおかしくないだろうに」
「私は辺境の出なんですよ。中央の文化には詳しくありません。養子になってからは読み書きの訓練で刻がありませんでした。基本的に、外出も許されていませんでしたし」
嘘ではないが真実でもない。麗麗の生家ではその日暮らしに明け暮れ、生きるだけで精いっぱいだったはずだ。切り詰められた生活の中では怪の入る隙間すらなく、常に食べ物のことだけを考えていたような記憶がうっすらと残っている。
養家に売られたあとの記憶も正直おぼろげで、よほど詰め込まれた教育を受けていたのだろう、思い出そうとすると、とにかく『しんどい』という感情が先に立つ。不快な記憶であるのは間違いないので、麗麗も積極的に思い出そうとはしなかった。
(別に、過去とか正直どうでもでもいいしね)
過去どころか前世の記憶には大変お世話になっている身ではあるが、基本的に麗麗は刹那主義だ。楽観的とも言う。一度死んだことも影響しているのかもしれない。
そんな事情は、さておき。もう深藍宮はすぐそこである。
「では、冥焔様。また後ほど」
麗麗はぺこりと頭を下げた。もう日が頂点を超えている。そろそろ本気で香鈴に怒られてしまう。そうして改めて宮へと向き直り、歩く速度を速めようとした、そのとき。
「女官」
不意に、後ろから腕をつかまれる。
(んっ!?)
振り返ると、こちらを見る冥焔の瞳とかち合った。切れ長の瞳が麗麗を捉え、なにかをこらえるように細まっていく。
まただ。またあの、置いていかれるのを恐れているような子どもの目で、冥焔は麗麗を見つめていた。
「冥焔様?」
「──ああ、いや、なんでもない」
冥焔は自分の行動に驚いたようである。目を見開き、熱いものに触れたときのように勢いよく手を離すと、そのままくるりと踵を返した。
「ではまた、院子で」
そう言い残すと、冥焔はその場をあとにする。
(変なの)
なにか言いたそうにしていたような気もするが、よくわからない。それにしても。
(自分でつかんでおいて、なんであんな顔すんだろね)
麗麗の腕は危険物かなにかなのか。自分から触れておいて、あんなに驚くこともないだろうに。
(まー、なんかあったら言ってくるでしょ)
おっといけない、急がなければ。つかまれた腕の余韻を感じながら、麗麗は今度こそ深藍宮へと走った。



