後宮のガリレオ2

 「大家。いったいなにをお考えなのですか!」

 玲沙妃の茶話会が終わり、意気揚々と外廷へと戻った皇帝・恩雲の後ろに付き従いながら、冥焔は前を歩く皇帝に声をかけた。周囲に人はいない。それでも十分に気をつけて声をひそめる。

 「玲沙妃の院子で宴ですか。しかも、夜に。これは少々やりすぎだと思いますが」

 「やりすぎって、どういうこと?」

 皇帝の声は朗らかである。

 「力関係が変わります。拮抗(きっこう)しているどころではない。明らかに玲沙妃に入れ込みすぎている」

 思いきって進言すると、恩雲は軽い笑い声を放った。そのまま外廷の廊下を渡りきり、もっと奥へと足を向ける。ここから先は皇帝の個人的な生活空間(プライベートゾーン)だ。限られた人物しか入ることが許されないその場所は、今はとても静かである。

 「まあ、冥焔。そんなに目くじらを立てないで」

 のらりくらりと言葉を発する皇帝に、冥焔は軽い苛立ちを覚える。

 最近の恩雲はどうにもおかしい。

 軽いようでいて、この皇帝は意外と思慮深い。十七という年齢で登極したという環境が彼をそうさせるのか否かは別として、精神の成熟具合は年上である冥焔も目を見張るものがある。

 普段ならこのような軽率な行為は取らないはずだが、また悪い(・・・)が出ているのかもしれないと気を引き締めた。

 恩雲は自分の房の入り口まで来ると、見張りをしていた側近たちに下がるように声をかけた。

 彼らは冥焔にちらりと視線を向けるとあからさまに嫌な顔をする。だがしかし、皇帝の命には逆らえない身の上である。おとなしくその場をあとにした。

 彼らの気持ちはわかる。なぜ宦官である冥焔を重用するのかと不満なのである。

 こういったとき、冥焔はよく考える。自分のような愚かな存在はこの場にはそぐわないのだと。皇帝のそばに侍るのはよい結果を生まないのではないかと思ったことは一度や二度ではきかなかった。

 宦官は人にあらず。本来であれば畜生と同じ扱いを受けても文句は言えない立場でありながら、冥焔の存在は内廷、外廷でも影響力が高い。その事実に不満を覚える官吏は決して少なくないだろう。

 冥焔が宦官として彼のそばに侍る際、かなりの反発があったと聞いている。特に冥焔の場合は出自が出自である。その存在が隠されていたため冥焔の正体を知る者はほとんどおらず、来路不正の、しかも宦官を(ちょう)(しん)にするとは何事かと喧々諤々(けんけんがくがく)だったようである。

 だが、その反発を押しきって、恩雲は冥焔を取り立てた。それこそ竜のひと声で、反対する者は死罪とまで言いきったのだと後に聞いた。

 恩雲は情に厚い。だからこそ冥焔を重用する。冷徹であってなおよしとされる統治者において、情に厚いのは諸刃の剣であり、悪癖なのである。

 今回の玲沙妃の件。その情がどうにも悪い方へと傾いているのではないか。

 なれば、それを諫めるのが自分の仕事である。

 周囲の人払いができたことを確認し、冥焔は重い口を開いた。

 「大家、お聞きください。玲沙妃への寵愛をやめよと申し上げているのではございません。むしろ、家柄、性質を鑑みれば、かの妃が子をなし皇后として台頭するのは妥当であると外廷では評価されております」

 皇帝は房に入ると、長椅子に腰を下ろした。目元にうっすらと笑みを残しながら冥焔の言葉を聞くともなしに聞いている。

 「わたくしが言いたいのは、もう少し慎重になられてはということです。後宮では、玲沙妃に取り入ろうとする動きが増えております。中級妃、下級妃にいたってはもはや皇后のように考えている者も出始めており、他の上級妃たちの動向も穏やかではございません。玲沙妃をお守りするためにも、少し行動をお控え──」

 「冥焔」

 皇帝が言葉を落とした。柔らかい響きだが、有無を言わさぬひと声だった。

 冥焔は息を呑む。自分の声が届かなかったという焦りが、彼の胸中にくすぶっている。

 あの件を皇帝に告げるか否か、逡巡(しゅんじゅん)する。

 彼が今、切り札として持っている事実は、取り扱いを間違えると大変なことになる。それは本意ではないが、この皇帝を諫めるには必要なのかもしれないと思い直した。

 (覚悟を決めろ。この方を守ると決めたではないか)

 その信念をもって、冥焔は口を開く。

 「──玲沙妃に気をつけていただきたい」

 恩雲は一度目を見張り、視線だけで先を促す。

 「ここ最近、怪が異様に増えております。白蓮妃の一件より減少傾向にあった訴えが、ある日を境に急増しているのです。その日とは──、玲沙妃の入内です」

 冥焔の言葉を受けて、皇帝は唇に笑みを浮かべた。

 「後宮に大きな出来事があると、皆も混乱や緊張もが大きくなるからねえ。ちょっとしたことでも気になってしまうのだろう」
 違う、そうじゃない。ほのかな焦りを覚えながら、冥焔は言葉を重ねた。

 「香炉の事件ですが、覚えていらっしゃいますか」

 「もちろん」

 「その香炉の窯元が、玲沙妃の実家と繋がっています」

 皇帝の視線が冥焔を貫く。不敬であるという気持ちをねじ伏せ、冥焔は皇帝の瞳を真正面から見返した。

 「また、先日の水鬼の件。……玲沙妃が、供養を口実に獣の死骸を集めているという噂はお聞きになられましたか」

 皇帝は答えない。ただ黙って冥焔の瞳を見つめている。

 負けてはならぬと見返した目線はしかし、皇帝によって外されてしまう。どうやら声は届かなかったようである。

 「……失礼いたしました。口が過ぎたようです」

 仕方ない。日を改めてまた言葉を尽くしてみようと、冥焔が再び揖礼を捧げ、退出しようとしたときである。

 「……そうか」

 そうひと言呟(つぶや)いた皇帝は、突如笑い始めた。いつもの朗らかな笑みではない。もっと凶悪な、内に秘めた黒い感情があふれ出るかと思われるような獰猛(どうもう)な笑いだった。

 尋常ではない様子に、冥焔は息を呑んだ。

 「大家……?」

 「──冥焔。あれがなにかわかるか」

 皇帝はそう言うと、視線を少し横にずらし、壁に寄せてあった卓子の上を示した。

 そこには、一対の皿が置かれている。

 「皿、ですか。ずいぶん立派な」

 大きさは手のひらにのる程度。縁が少し盛り上がっており、汁気のあるものを入れるのにちょうどよさそうだ。目に鮮やかな花の絵付けが艶やかで──。

 「……っ!? まさか、これは」

 皿の上に大輪に咲く牡丹の花は、赤く色づいている(・・・・・・・・)

 「辰砂……」

 ──『辰砂は熱と酸に弱いです』。

 頭の中で、以前聞いた女官の声が木霊した。

 一気に血の気が引いた。冥焔の様子を一瞥しながら、恩雲はさらにおもしろそうに笑う。

 「香炉事件のすぐあとだ。念のためにと身の回りの調度品すべての点検を行った際に、その皿が厨から見つかったのだ。厨の人間、調度品をあつらえている者すべてに聞いて回ったが、この皿に誰も心当たりがない。確認した帳簿にも、追加で頼んだという記録は残っていなかった。それなのに、規格だけはわたしの使う食器にそろえてある。なぜそんなものが厨に紛れ込む?」

 皇帝の使用する食器はすべて規格が決まっている。使う材、(ゆう)(やく)、形状には細かな決まりがあり、逸脱することはありえない。この皿も、その規格約に沿って作られているのだ。ただし──、絵付きであるという点を除いて。

 「使っている釉薬の特徴で、どの窯元だか判断できるのだそうだ。調べさせたところ……つい先日、玲沙妃の実家と大いに繋がりがある窯元だと、報告が上がってきた」

 「なんですって」

 冥焔は目をむいた。

 「なぜ、すぐにわたくしに知らせてくださらなかったのですか」

 恩雲はその問いには答えず、目を細めて虚空を見つめている。

 「皿だけなら疑惑ですんだのだ。そういうこともあるのだろうと。名家の名を使い、品物を宮城で取り扱おうとする窯元は多かろう。今回の皿の件も、どこぞの()(ほう)な官吏が窯元から受け取った賄賂と引き換えに、厨に潜ませたのではないかと思っていたのだ。皇帝の愛用品という実績を作るために」

 残念なことに、官吏の袖の下は恒常的に行われている。発覚次第取り締まっているものの、追いつかないのが現状である。名声が欲しい窯元が名家との繋がりを匂わせ、官吏に融通を利かせてもらうという図は十分に想像できる。

 「しかし、香炉や水鬼の件にまで玲沙妃が出てくるとなると、途端にきな臭くなる」

 恩雲はさらに言葉を重ねた。

 「わたしはずっと考えていた。先日の香炉の話だが──、上級妃が高級な品を手に入れたらどうするか。誰かの機嫌取りに献上するか、一緒に楽しもうと誘おうとするか、功のある者に下賜するか。今の上級妃であればおそらく、下賜よりも献上、または誘いを選ぶだろう。珍しい香炉を手に入れた、一緒に香りを楽しみましょうと。そしてその対象はおそらく──、このわたし」

 淡々と言葉を落とす皇帝の声に温度はない。どこまでも他人事のような口調で彼は話し続ける。

 「冥焔。どうやらわたしは、命を狙われているらしい」

 思わず揖礼を忘れ、恩雲の竜顔を真正面から見つめた。

 身に染みつき始めた僕としての習慣を忘れるほど、冥焔は動揺していた。

 恩雲は冥焔の無礼を咎めなかった。ゆっくりと体を起こし、事の重大さとは裏腹に、のんびりとした口調で言葉を紡いだ。

 「水鬼の件はおそらく陽動だろうな。後宮が混乱すれば、わたしの暗殺もしやすくなると踏んだか。他の怪の裏にもかの妃が絡んでいる可能性があるやもしれん。……さて、この事実をどうしようかな」

 「大家……」

 冥焔の呟きに、恩雲は口の端に笑みを浮かべてみせる。だがしかし、その目には深い怒りと、紛れもない憂いが同居していた。

 恩雲の心情を思う。

 宮城に入る前、幼い頃から彼は玲沙妃の実家で育った。当然ながらその当主・玄策とも顔見知りであろうし、玲沙妃とも関わりがあったはずだ。

 恩雲が皇帝に登極する際、積極的に盛り立てていたのも玄策だったと聞いているし、恩も情もあるだろう。それなのに、いわば育ての親ともいえる家に命を狙われているのだとしたら、その心中の苦しみはいかほどか。

 そしてもうひとつ、わかったことがある。

 (この状況で、大家を消す理由……)

 かの家からすると、自身が盛り立てた皇帝が登極したのだ。本来であれば不満が出るはずがない。それなのに牙を向いてくるとなると、考えられる理由はおそらく、旨味がなかったからだ。

 恩雲は情を重んじる人格である。しかし、その事情を政に持ち込まない。官吏の重用も慎重かつ適切であり、堅実(けんじつ)で確かな政をする名君であると評判が高い。彼が唯一無理を言ったのは冥焔の登用のみである。

 おそらくは、かの家は皇帝を傀儡(かいらい)にするつもりだったのではないかと思う。育てた恩を振りかざし、情で縛り、まだ若い皇帝の補佐に就き実権を握ろうとしていたのではないか。

 だが、それを許す皇帝ではなかった。寵臣には冥焔が任命され、臣下として頂点に立つこともできなくなった。だから、消す。

 「わたしを消したら、叔父上──玄策が皇帝になるつもりなのだろうな」

 「ですが、それでは外戚による王統転移になります」

 皇帝の叔父であるという事実は確かだが、あくまでも彼は皇帝の母の弟である。そのうえで皇位を望むのであれば、王統の簒奪(さんだつ)として後ろ指を刺されるのは間違いない。けれど、皇帝は苦い顔をする。

 「あの人はやる。温和な顔をしていながら、野心だけは人一倍強い方だ」

 (確かに、あの当主はそうだ……)

 (へび)のような男だ。玲沙妃との面識はないが、玄策とは何度も話したことがある。当時の(・・・)寵臣だったからだ。世渡り上手で敵はなく、朗らかな人柄に見せかけ、その裏で確実にうまい汁を吸う。そういう男だと知ったのは、すべてが終わる直前だった。

 冥焔は心にちくりとした棘を感じる。気づかなければわからないほどの小さな棘はしかし、確実に宦官の心を(むしば)む。

 冥焔の表情を見て、恩雲は軽く笑みをこぼした。どこかあきらめたような笑い方である。

 恩雲は背筋を伸ばし、真正面から彼の顔を見つめた。

 「……罠を仕掛けよう」

 皇帝は冥焔を手招きする。耳打ちされた言葉を聞いて目をむいた。

 「大家。わたくしが言わずともおわかりだと思いますが、敢えて申し上げます。それは危険です」

 自分の耳がなにを聞いたのか理解できず、反射的に顔を上げる。そんなことは絶対にさせてはならない。到底容認できかねる提案に、冥焔は顔を強ばらせ主張する。しかし、皇帝は一切引かなかった。

 「今回の件、玲沙妃自身が()んでいるのかどうかで話が変わる。もっとも確かな方法だ」

 「しかし、大家が自ら出られるなど……!」

 「逆に考えて。わたしがどこかに姿をくらませていたとしても、臣下の誰かひとりでもそれを目撃してしまったら意味がないんだ。(おとり)は囮らしく、一番おいしい場所に置くのが戦の基本だろう」

 恩雲の目は真剣だった。本気でそれを行おうとしているのだ。

 ならば、冥焔のやることはただひとつ。

 「……是、遵命(承りました)

 皇帝が腹をくくるなら、自分は自分の責務を全うするだけだ。例え──、再び命を落とすことになろうとも。

 頭の中で計算をしながら、冥焔の脳裏にあの女官の顔が浮かんだ。

 (俺が死んだら……、あいつは何を思うだろう)

 馬鹿馬鹿しい。このような大切なときに、いち女官のことを考えるなどどうかしている。

 頭の隅に浮かんだその疑問を無理やり押し込めて、美貌の宦官は揖礼を捧げその場をあとにした。