後宮のガリレオ2

 春が終わり、雨期が過ぎた。

 焱国の雨期は短い。体感で言うとほんの数日、まとまった雨が降ったあとはすぐに夏の到来である。夏といってもまだ太陽は本気を出しておらず、準備運動を始めたくらいか。昼は暑いが、まだ風はひんやりとしており過ごしやすい。本格的な暑さの到来はもう少し後だ。

 (じめじめが少ないのはいいよねえ)

 窓の外を見ようと視線をずらすと、すかさず香鈴から「動かないで!」とお叱りの声が飛んできた。

 深藍宮の女官たちは、ただいま絶賛おめかし中である。なぜならこれから一大行事に赴かなければならないのだ。

 茶話会──という名の、玲沙妃のお披露目会は今日の午後から開催される。

 そんなわけで、衣装の着付けから始まり、髪結いと化粧で朝からばたばたしているのである。日頃からこういったこと(オシャレ)に疎い麗麗は、着飾る方法がわからない。ゆえに、髪は雪梅、化粧は香鈴が担当してくれている。本当に、頭が上がらないとはこのことである。

 先日、ついに玲沙妃の宮が完成したとの連絡を受け、日程が正式に決定した。それからはもう準備で大わらわだ。花里は持参する予定の菓子の最終調整に入り、見事復帰した香鈴は衣装や化粧品の調達に走る。一方、雪梅は情報収集に事欠かなかった。今も麗麗の髪をいじりながら、その情報を皆に伝えている。

 「玲沙妃の宮は、白蓮妃の宮を一度解体してから再築されたんですって。床も柱も最高級の紅木を使っていて、ものすごく贅沢な造りなんだそうよ」

 ぐいっと髪を引っ張られる。頭が動きそうになるが、目の前には香鈴の真剣な顔があるのだ。今ちょうど、筆で目尻に紅を乗せてもらっているところなので、身じろぎするとえらい目に遭う。この国の化粧品は、前世のものと比べると落とすのが大変なのだ。一度の失敗は、すべて最初からやり直しを意味する。

 「宮の名前は『(フー)(フェン)宮』ですって。まあ妥当な線よね」

 徳妃は白を基調とした色を使わねばならない。宮の名前も同じように、それぞれの四夫人を象徴する色が名になることが多いのだという。

 「あの、ひとつ疑問なんですけど。適切な色の名がなかった場合はどうなるのでしょう?」

 四夫人とて長い歴史のうえでは入れ替わりも多かろう。その都度、宮の名を変えるのであれば同じ色の名が出てしまうのではないかと変なところが心配になってしまう。

 雪梅は呆れたように息をついた。

 「いいのよ、別に同じ名を使っても。あくまでも宮の名前は妃様方のお好みで決めるんだから。今回だって白蓮様のときと同じ『(ユェ)(プオ)宮』でもよかったのよ」

 「へえ。なら、なんで名を変えたんでしょうね」

 「あのねえ。そんなの前の妃の気配を消したいからに決まってるでしょ。主上がお渡りになるときに、前の女を思い出させたくないじゃない」

 なるほどなあ、わかるようなわからないような、というところである。

 雪梅は話しながら熱がこもってきているようで、ぐいぐいと麗麗の髪を引き上げて結い上げていく。

 「それにしてもあの毒婦……っ、今度は主上と花園で楽しそうに笑い合ってたっていうじゃない。本当に、許せないわ……! 毎晩のお相手だけでも許せないのに、昼の逢瀬だなんて。そういうのはこっち側への挨拶が終わってからやることでしょうが!」

 (あー、あれねえ……)

 麗麗は花園で現場に居合わせたのを思い出す。あの皇帝のお相手が玲沙妃と知ったのは、噂になってからのことだ。

 (だからあの宦官が変な顔してたんだなあ)

 凍りついたような表情の冥焔を思い出し、麗麗はため息をついた。

 正直、挨拶云々の件はピンと来ていない。皇帝の寵愛を得るために入内している妃なのだから、毎晩やることやってようが花園でいちゃこらしていようがかまわないのではないかと麗麗は思うのだが。おそらくなにかしらの礼節などがあるのだろう。

 ただ不思議なのは、玲沙妃の悪行(ということにしておこう)に激怒し、頻繁に噂をしているのはもっぱら上級妃の女官たちである。意外にも中級妃以下の妃たち、女官たちからは好感を得ているようなのだ。悪い噂というのは普通、下の方から広まっていく。しかし、麗麗は外でそういう話をほとんど聞かない。それどころか、お優しくて親しみやすく、慈悲深い方であるともっぱらの噂なのである。()(かつ)のように嫌われてもおかしくないことをしているにもかかわらず、好感度が高いとはこれいかに。

 そんなことを考えていると、顔に出ていたらしい。雪梅が不満そうに鼻を鳴らした。

 「まーたなにか考えてるわね。何か言いたいなら言いなさいよ。聞いてあげるから」

 「では、遠慮なくお伺いしたいのですが。玲沙様は中級妃や下級妃と仲がよろしいという噂を聞きました。あの妃の悪い話をほとんど聞かないのです。(ちまた)では好意的に受け入れられているのではと思うのですけれど、なぜなのでしょう」

 「……それ聞いちゃうのね」

 雪梅の声の温度が一段下がった。

 「あの輿の一件のせいよ」

 「輿の一件とは」

 おうむ返しをすると、雪梅が信じられないとばかりに声をあげた。

 「あんた、まさか忘れたの!? あんな屈辱的な扱いを受けたのに!」

 輿、輿……と記憶を反芻して、思い出した。

 (あれか。瑛琳様が玲沙様に道を譲ったときの)

 「そういえば、ありましたねそんなことが」

 あのときは麗麗も一緒にぶち切れたが、実は忘れかけていた。次々起こる怪異で、それどころではなかったのだ。

 実を言うと、最近、冥焔に連れ出される率が格段に上がった。以前は少し落ち着いていた怪が、ここにきてなぜか爆増しているのだ。

 やれ池に不気味な人影が映っただの、天井から鈴の音が聞こえるだの、枚挙に暇がない。しかもそのほとんどが稚拙ないたずら──人影は木につるされた人形だし、鈴の音は殿舎の屋根に本当に鈴がぶっ刺さっていたし──といった代物なので、いい加減にしていただきたいという気持ちでいっぱいなのである。

 (たちが悪いんだよなあ)

 そんな麗麗の心中はいざ知らず、雪梅はぶつぶつと文句を言いながら麗麗の髪を手早くまとめている。

 「あの輿のせいで、瑛琳様は落ち目で、次は玲沙様!みたいな噂が立ってんのよ。それで、中級妃以下の妃たちは玲沙妃のご機嫌取りで忙しいの!」

 ははあ。それで悪い噂を聞かないのか。

 「だからね、今日の茶話会はいつも以上に気合い入れていかないと! ここらでびしっと、瑛琳様を盛り立てていかないと!」

 と、そんなわけで、茶話会に繰り出した深藍宮ご一行である。