猫かぶり君の、愛しい沼男君

 「絶対いらないこと言うなよ」
 玄関を出る前、俺は母に同じことを何回も言って、牽制していた。だが、「はいはい」と返事をして、まったく響いた様子はなさそうだ。母を見張ってくれないか、と父を見たが期待できそうにない。玄関の鏡でネクタイを直している父の前に割り込んで、前髪を整えた。いつもより念入りに整えた髪を父が撫でそうになったので、慌てて逃げた。
 「卒業おめでとう」
 両親は共働きで、とにかく忙しい人たちだ。今回、珍しく二人ともそろって卒業式に参加できることになった。三人で行動するなんて、いつぶりだろう。卒業後は家を出るから、この高校最後のイベントを大事にしてくれたのだろう。
 「ありがとう?」
 両親は目を見開いた後、口元をほころばせた。
 両親はことあるごとに、俺のこの態度を「藤野効果」と言う。きっと今も、藤野効果と口には出さないだけで、そう思っているのだろう。

 校門の前で藤野たちと合流する。母が「せっかくだから」と、藤野とおばあちゃんの写真を撮っている。二人はよく似た笑顔でカメラに収まる。うちの家族も撮ってもらった。

 「四月からお世話になります」
 藤野はそう言って、うちの両親に丁寧に頭を下げた。
 「こっちも助かるから」
 そう母が言った直後。
 「合格発表まだだろ?」
 父の言葉に、藤野は目をぱちぱちさせたまま固まる。次の瞬間、母の肘が父の脇腹に入っていた。
 止めるべきだったのは、父のほうだ。
 「それだけ自信があるんだよ」
 俺はこれ以上何も言うなと、父をにらみながらフォローした。藤野は目を丸くして笑っていた。

 藤野に続いて教室に入ると、三好がこちらに気付いてにやりと笑う。
 「おはよう」
 手を上げて答えると、三好は黒板を指さす。その視線を追って、黒板を見ると、合唱で歌った歌詞が抜粋されていた。白石と藤野は目をウルウルさせている。
 「あの板書きはやられたって感じたな」
 三好君はそう言って目を細める。
 「三好って、そういうのを感じる心があったんだな」
 そう言いながら俺もなんだか、じんと来ていた。
 「何言ってんだよ。俺はいつだって愛にあふれてる。な、藤野」
 藤野は何かに思い当たったらしく。真っ赤になってうなずいていた。しゃくだが俺も三好は愛にあふれていると思う。この三年を振り返ると、間違いなく今の俺があるのは三好のおかげだ。
 黙ってうつむくと、なんだかいろいろあった三年間が胸に積もってくる。あれ? 卒業式で泣きそうなんて……。
 「よし写真撮ろう!」
 三好がそう言いだして、いつものメンバーでわいわい写真を撮り始める。三好たちは卒業後、大阪だ。俺たちも隣の県。でもなんだろうな、卒業後も会ってこうしてくだらない話をしていそうだ。

 担任がクラスに入ってきて、皆、各々席に着いた。
 急に空気が変わって、卒業式らしい緊張感が教室の隅まで満たしていった。
 卒業式は滞りなく行われた。

 俺たちの三年間が、思い出になった。

 運動場に出ると、後輩に囲まれて花束や記念品を受け取った。サッカー部はそれなりに楽しかったなと思い返す。元カノも来て少しだけ会話をした。「本当に好きだった」なんて言われた。
 彼女を利用したこと、自分のやったことが最低だったこと。俺は誠心誠意謝った。彼女は少し困ったように笑って『じゃあ』って去っていった。
 これが区切りなんだなと、しみじみ実感した。

 落ち着いて、校庭を見回すと、皆が別れを惜しんでいる。
 あれ? 藤野がいない。
 血がサアッと下りて行った。
 俺と藤野の関係って何だろう。友達だ。
 藤野が合格すればルームシェアして、同居人になる。それはすごく環境に依存していて危うく脆い。なんでだろう、当たり前のことが今日はすごく身につまされる。
 これからも続く……当たり前だ。ずっと続く日々だと、その根拠はどこにある?
 でも、今ここには藤野がいない。
 こんな特別な日に、藤野は俺と一緒にいたいと思ってくれないのか。

 気付けば走っていた。

 藤野の家のチャイムを鳴らす。出てくるのが待てなくて玄関を開けて部屋にどかどかと入っていった。藤野が驚いた顔でこちらを見ていた。
 「藤野!」
 ハッとした表情の後、俺にいちご牛乳を手渡した。あまりに普段の藤野らしくて、急に不安になったのが情けなくなった。
 いちご牛乳は藤野の好物だ。高校の自販機で出会って、好きになって、日常になった。

 もらったいちご牛乳を一気に飲んで、口をぬぐう。
 藤野は俺の手元を見て、顔を赤くした。
 なんで言葉がないくらいで、不安になったんだろう。藤野はたぶん、俺を日常に置いたからこそ、さっさと帰ってしまったんじゃないか。このいちご牛乳のように。
 「ありがとう」
 その目や、態度はいつも俺を特別だって言ってくれていた。じゃあ、俺が返せたものって何だろう。

 パックに手を伸ばした藤野の手をつかみ、強引に抱き寄せた。俺と同じくらいドキドキしていた。

 「藤野……好きだ」

 いつからだろう、抱き着いても藤野は強張らなくなった。ほっと力を抜いて寄り掛かってくる藤野がかわいくて。そうだ……ずっと、特別だったじゃんか。
 俺は伝えられたことに満足して、離れようとした。
 「……まって」
 藤野がぎゅっとしがみついてくる。
 「……ちゃんと、言うから」
 藤野は決心したように、ぎゅっと目を閉じた。
 「……佐伯君、が……好き、です」
 なんだそれ、かわいすぎる。
 思わず、キスしていた。
 三好が聞いたらがっつきすぎだって笑われそうだ。言い訳できないくらいに理性が飛んだ。

 藤野のペースも考えず負担をかけたようで、彼はその場にへたり込んでしまった。
 「ごめん、息が」
 またキスができるタイミングを狙っていたけど、そう言って困ったように笑う藤野に、無茶はできないと自制した。

 藤野の言葉はまっすぐだった。
 俺の情けなさを木っ端みじんに吹っ飛ばしてくれた。
 好きだなあ。


 一週間後、藤野の合格発表を確認するため、藤野の家で二人、スマホを覗き込んでいた。いつも通り俺が藤野を包み込むように抱え、時計を確認している。ふいに藤野がそわそわし始めた。
 「えっと?僕らは恋人になったけど……この距離感は以前と同じだね」
 なんていまさらなんだろう。
 「好きな子にアピールしてたの」
 「それっていつから?」
 「うーん。たぶんもう一年の時には……」
 「それって……」
 藤野はみるみる耳まで赤くして、見上げてきた。可愛すぎてキスした。
 そんなの、俺だっていつからなんてわからない。でも、ずっと好きだった気がする。
 「はい。手元に集中して。タップして」

 画面には合格の文字。抱えていた藤野の体温がふわりと上がる。藤野にそんなうれしそうな顔をさせるなんて、スマホに嫉妬した。取り上げようとして体勢を崩し、そのまま寝転ぶ形になった。藤野はわたわた慌てている。

 「おめでとう、ともき」
 「ありがとう、しゅんたろ」

 藤野が俺を名前で呼んでくれた。恥ずかしそうだけど慣れてくれ。
 「個室の家具を買いに行こう。俺ベッドはダブルベッドにしようかな。知生たまには泊まりに来てね」
 「うん、お泊まり楽しそう」
 からかうつもりで言ったのに、無邪気な答えが返ってきて、ぐっと息をのんだ。ため息をつかなかっただけ褒めてほしい。
 藤野攻略は始まったばかりだが、前途多難だ。
 振り回されるのはもう慣れている。

 こういう藤野だから好きなんだ。