ふと、唯は一年の頃のことを思い出した。辛いことがあったあの頃のやり取りのページが、今ちょうど目の前に開かれている。
「大丈夫」
そう書かれた整った文字は、読むたびに不思議と心を落ち着かせた。
丁寧に書かれた線の一つひとつに、見知らぬ相手の気遣いが滲んでいるように感じられる。
ページの端に描かれた、少し不格好な絵。それを見ているだけで、胸の奥に張りつめていたものがゆっくりほどけていく。
名前も、顔も、声も知らない相手なのに。このノートの中の人は、唯を「可哀想な生徒」としてではなく、「今ここにいる自分」として見てくれている――そんな気がした。
そういえば、あの日――。
唯は、当時の出来事をゆっくりと思い返す。
あの日、昼休みの教室はいつも通り騒がしかった。
笑い声や机を引く音、誰かが購買のパンを開ける袋の音が混ざり合い、落ち着きのない空気が教室いっぱいに広がっていた。 唯は一人、弁当を広げながら、ふと視線を感じて顔を上げた。
――気のせいか。
見回しても、特別に目が合う相手がいるわけでもない。それでも、なぜか落ち着かない。視線を向けられているような、そうでないような、曖昧な感覚だけが、胸の奥に小さく残った。
体育の授業。走るのは得意ではない。それでも休むわけにはいかない。
走らなければ単位にならないからだ。息が上がり、足が重くなる。肺が焼けるように苦しく、呼吸が乱れる。
それでも前を見る。前だけを見て、ただ足を動かし続けた。
ようやく最後の周を終えたとき、肩に腕が回された。驚いて横を見ると、クラスの男子が笑っている。
「お、完走じゃん。すげーな」
周囲からも声が上がる。唯は曖昧に笑い、小さく礼を言って、そっとその腕から離れた。
応援されること自体は嫌いではない。それでも、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。
――さっきから、ずっと。
視線を感じる。
振り返っても、それと分かる相手の姿はない。人影はいくつもあるのに、その中の一つだけが判別できない。その曖昧さが、かえって落ち着かない。
放課後、教室に戻る。机に座る前に、無意識に机の中を確かめていた。
ノートは、そこにある。
それだけで、今日一日の疲れが少し抜けた気がした。
ページを開き、唯はペンを手に取る。
『今日の体育はマラソンだった。走るのは本当に苦手。けどね、応援してくれる人もいて嬉しかったよ』
そこで、ペンが止まった。静かにペンを置き、考える。
正体の分からない視線と気配。
それでも、不思議と嫌な感覚はなかった。
唯は、この頃のことを二年になった今でも覚えていた。
『よかったね。よく頑張ったね』――そう書かれた返事を目に入れる。
(きっと優しい人なんだろうな)
唯はこのとき、いつも以上にノートの相手を意識した。
どんな人だろうと、一年のときに探したこともあった。
選択授業の時間、唯の席にはどんな人がいるのかをそれとなく確かめようとしたこともあった。だが、タイミングは合わず、結局、正体は分からないままだった。
ノートの最後に目を配る。そこに書かれている、相手に好きな人がいるという事実。
どう返そうか。
恋愛相談という形に変わったノートの内容。
なぜか、唯にはその言葉を見たくなかった。
「どうしたの?」
隣の席の七音が声を掛けてくる。憂鬱そうに見える、と言われて、唯は今の気持ちが憂鬱なのだと初めて自覚した。
「あ、うん。えっと……大丈夫」
こんなことを相談するわけにはいかないと、唯は言葉を濁した。
その時だった。
ぺたっ。
唯の頬に、ひんやりとした硬い感触が触れた。
「元気出して」
そう言って七音が唯の頬に何かをつけたのだ。
可愛らしい、指先サイズのぷっくりとしたシール。
唯の好みをよく分かっている、少しおかしな表情のキャラクターだった。
元気づけようとしてくれたのだろう。
「話したくないのかもしれないけど、少しは俺を信用してもいいと思うよ」
七音のまっすぐな目に、唯は一瞬、吸い込まれそうになった。
「あーでも、俺は唯ちゃんを傷つけたことのある最低野郎だから、無理かもだけど」
「え?なんで?いつ?」
「俺、片親なんて珍しくないって前に言った」
唯はきょとんとした顔をした。そんな前のことを覚えていたのかと、少し意外に思う。
そして、ふっと小さく笑った。
「気にしてたんだ」
「んー、まあね」
「俺の方こそ、あの時素っ気なかったし」
「そうか?」
「そう思ってなかったなら良かったよ」
二人は、どちらからともなく視線を外しながら、少し照れくさそうに言葉を交わした。
まるで一年の頃の小さな行き違いを、今になってそっと埋め合わせているような、不思議な空気だった。
「俺、怖がられてたのかと思ってたよ」
「そうなの? んー……まあ、一年生の頃は怖かったかな。でも今は怖くないよ」
唯はそう言いながら、七音からもらったシールを自分のシール帳に丁寧に貼った。
ページはすでにかなり埋まっていて、空いているスペースを探すのに少し時間がかかった。
そろそろ新しいシール帳を用意しないといけない。そんなことをぼんやり考えた。
「唯ちゃん、もうシール貼るとこないじゃん」
「そうだね。新しいの買わなきゃ」
「……」
七音は一度黙り、何か思いついたように、ふっと微笑みを浮かべた。
「今日、放課後。一緒に行かない?」
誘われた事に驚いて、唯は目をぱちくりとさせ、七音を見返した。
どこか熱を帯びた視線が向けられ、心臓が一瞬強く跳ねる。
期待しているような、少し照れているような。そんな表情の奥に、ほんのわずかな切なさの色も混じっている気がした。
「妹ちゃん、迎え行かないとだっけ? その前には終わらせるからさ」
「あ……今日は父さん休みで……今日は迎え行かなくていいんだ」
正直に今日の家庭状況を話すと、七音は機嫌の良い猫のような表情を浮かべた。
「じゃ、決まりだな!」
にかっと明るく歯を見せて笑う七音に、唯の胸がまた少し騒がしくなる。気分屋で掴みどころのない七音が、こんなふうに無邪気な笑みを見せることが、なぜだか少し嬉しかった。
放課後は、思っていたよりもあっという間に訪れた。
きっと他の生徒も連れてくるのだろうと考えていた唯は、七音が一人で待っていたことに少し驚く。
下校時、何人もの生徒が七音を誘っていたが、七音はそれを軽く手を振って断っていた。唯の方へ歩み寄ってくる姿を見て、胸の奥がわずかに落ち着かなくなる。
唯と七音、二人だけ。そんな組み合わせが、まだどこか現実味を持たず、唯自身も少し不思議な気持ちでいた。
「これどう?」
店の棚の前で、七音が振り返る。若い女の子が多く、可愛らしい色合いに囲まれた店内は、男二人で立っていると少しだけ浮いているような気がした。
唯は突然、理由の分からない恥ずかしさを覚える。
「あ、うん……」
焦る気持ちが先走り、七音が手に取ったシール帳を受け取ると、唯はほとんど反射的にレジへ向かった。
いつも妹と来ていたときは、こんなふうに意識したことなどなかったのに。
会計を済ませながら、自分の耳まで熱くなっているのが分かる。
何に緊張しているのか、自分でもよく分からなかった。
七音は、周囲の視線などまるで気にしていない様子で、いつもと変わらない飄々とした態度を崩さなかった。
店の中では気づかなかったが、どんな柄なのかをはっきりと知ったのは、店を出てしばらく歩いた後だった。
それは、どこか芸術作品のような、何の動物なのか一目では分からない不思議なイラストが表紙に描かれたシール帳だった。色使いも独特で、可愛いとも奇妙とも言える、少し癖のあるデザイン。
――自分の好みだ。
そう、唯ははっきりと感じ取った。わざわざ伝えたことなど一度もないはずなのに、どうして分かったのだろうと、胸の奥が小さく混乱する。
「せっかくだし、何か飲んで帰ろうか」
七音が軽く指をさした先には、ガラス越しに色とりどりのドーナツが並ぶ店があった。
「甘いの好きでしょ?」
当然のように言われ、唯は思わず目を瞬かせる。
「え?なんで知って……」
「あ……顔が、好きそう」
曖昧な答えだったが、唯は反射的に自分の頬へと手を当てた。
そんな顔をしていただろうか、と少しだけ恥ずかしくなる。
店に入ると、七音は迷う様子もなくショーケースの前に立ち、次々とドーナツを選び始めた。
「これどう?こういうの好き?」と軽く問いかけながら、唯の反応を確かめては注文していく。その様子はどこか手慣れていて、自然に主導権を握っていた。
最後に飲み物を聞かれ、唯が炭酸飲料を選ぶと、七音はアイスコーヒーをブラックで頼んでいた。
トレーの上には、いくつもの甘いドーナツが並ぶ。
会計のとき、唯は財布の中身を確認し、三分の一ほどしか支払えなかった。父子家庭であることもあり、小遣いは多くない。 そんなに食べられないから、と断ろうとしたが、七音は「自分が一口ずつ食べたいだけだから」と軽く言って、残りをあっさり支払ってしまった。
席についてからも、七音はドーナツを一つつまんだだけで、あとは砂糖も入れないままアイスコーヒーをゆっくり飲んでいる。
「甘い物、苦手なんだ?」
「んー……嫌いではないけど、あまり食べない」
そう言えば、ノートの相手も同じことを書いていたな、と唯は一瞬だけ思い出す。
だが、目の前でストローを回す七音の仕草に意識を引き戻され、唯は小さく瞬きをした。
自分のために店を選んだのだと気づいたとき、唯の胸の奥に小さな戸惑いが生まれた。普通なら、気を使われていると感じて落ち着かなくなるはずなのに、七音の自然すぎる振る舞いのせいか、不思議と嫌な感じがしない。
「なら、なんでここ選んだのさ」
少し笑いながら尋ねると、七音は肩をすくめ、猫のような気ままな表情を浮かべた。
「今日の気分」
それだけ言って、残ったドーナツを指さす。
「残り、持ち帰っていいよ」
「え、いいよ。天城くんが持ち帰って」
「どうせ妹に食われるなら、唯ちゃんにあげる」
にっこりと笑い、店員に持ち帰り用の袋を頼むと、七音は再びコーヒーに口をつけた。その余裕のある仕草に対して、唯の胸の中だけが、少しずつ鼓動を早め、落ち着かなくなっていく。
「で、気持ちは晴れた?」
何気ない調子で、七音が切り出す。
「別に、落ち込んでたわけじゃないよ」
そう答えながら、唯は一瞬だけ言葉に詰まった。
ノートの内容のことを、さっきまで完全に忘れていたことに気づいたからだ。
思い出した途端、胸の奥にわずかな重さが戻ってくる。
「ちょっと、友達に悩み相談されてて……考えてただけ」
正直に、しかし全てを教える事にためらいを抱きながら、唯は答えた。
「ふーん」
七音の返事は短かったが、その視線はゆっくりと、しかし確かに唯を捉えていた。
逃げ場を与えないような、静かなまなざしだった。
「好きな子がいるっていう相談だったんだけど。俺には、恋愛とかよく分からなくて」
「唯ちゃんは、好きな人いないの?」
「考えたこともないかな」
そう答えながら、唯はふと、ノートのやり取りの時間がどれほど心地よかったかを思い出していた。
恋愛とは違うはずなのに、あの存在が自分の中で広い範囲を占めていることを、どこかで自覚する。
「強いて言うなら、恋愛かどうか分からないけど……気になる相手は、いる。かな」
その言葉に、七音の指先がほんのわずかに止まった気がした。
「……え?どんな子」
七音の声音は変わらないのに、視線だけが少し鋭くなる。
「あ、えっと……誠実そうな、真面目そうな、人」
本当は姿も知らない。ただ、文字から想像しただけの、曖昧で不確かな人物。
それでも口にした瞬間、なぜか少しだけ後ろめたい気持ちになる。
「ふーん……そういう人が好きなんだ」
七音は軽く頷いたが、その周囲の空気が、わずかに重く沈んだように唯には感じられた。
「天城くん?」
「んー?唯ちゃんの好みは、そういうのが好きなんだなぁって」
笑ってはいる。けれど、その笑みの奥に、ほんのわずかな温度の低さが混じっているように見えて、唯の胸の奥が小さく不安を抱える。
「天城くんは?そういう……好みとか、好きな子とか居るの?」
会話が途切れてしまうのが怖くて、唯はとっさに言葉をつないだ。聞くつもりなどなかった質問が、口をついて出てしまった。
「……」
七音はすぐには答えず、ただじっと唯を見つめた。逃げ場のないほどまっすぐな視線に、唯の胸の奥がドクンと跳ねる。
「秘密」
少し間を置いて、七音はにっこりと微笑んだ。
「分かったら、面白くないだろ?」
いつもの軽い調子のはずなのに、どこか含みを持たせた言い方だった。冗談のようで、どこまで本気なのか分からない。そんな曖昧な距離感に、唯は小さく戸惑う。
「帰ろうか」
唯がジュースを飲み終えるのを待っていたかのようなタイミングで、七音は立ち上がった。
椅子を引く音が、店内のざわめきの中でわずかに大きく響く。
どこか、ほんの少しだけ機嫌が悪いようにも見えた。
テーブルに残されたアイスコーヒーの氷が、合図かのように、溶けかけたグラスの中でカラン、と乾いた音を立てる。
「あ、あの!天城くん」
先を歩き出した背中を、唯は慌てて呼び止めた。
「これ」
小さな袋を差し出す。
お礼になるかどうかも分からない。それでも、何も渡さず別れるのがどうしても落ち着かなかった。
「今日はありがとう」
七音は一瞬、意外そうに目を瞬かせた。
唯が手渡したのは、急いで会計をしていたときに見つけた、レジ横に並んでいた男性向けのステッカー。女の子向けの商品が多い店だったが、男物も置いてあるのかと思い、慌てて包んでもらったものだった。
「買ってくれたんだ」
「うん、お礼になるかは分からないけど。天城くんに似合いそうかなって」
「ふーん。これ、知ってた?」
「え?」
「彼氏へのプレゼントにって、ポップが飾られてたの」
七音はニヤニヤと笑いながら、ステッカーに軽く口づけするような仕草をしてみせた。
「へっ⁈」
心臓が跳ね上がる。急いで手に取ったせいで、そんなポップがあったことなど全く気づいていなかった。
身体の奥から一気に熱が上がり、顔がみるみる赤くなるのが自分でも分かる。
「じゃあ、また明日」
七音は急に機嫌を取り戻したように、軽い声でそう言って歩き出した。その背中はどこか楽しそうで、さっきまで感じていたわずかな不機嫌さが嘘のようだった。
取り残された唯は、しばらくその場に立ったまま、まだ熱の引かない頬をそっと手で押さえていた。
―――
次の日、唯が登校するなり、七音がいきなり背後から抱きついてきた。あまりにも突然の出来事に、唯は驚きで声が出ない。
「……っ!」
声にならない息が漏れる。
何が起きたのか分からないまま固まる唯の耳元で、聞き慣れた声が弾んだ。
「おはよう」
先に声をかけたのは七音だった。いつも通り、いや、いつも以上に機嫌がよさそうな声だった。
「あれ?そんなに仲良かったっけ?」
近くにいたクラスの男子が、目を丸くして言う。
「そりゃあ、デートしたくらいですし?」
七音はさらりと言った。昨日は一緒に買い物をしただけで、唯にとってはデートなどという認識はまったくなかった。
「案外仲良くしてるよね~?シール交換したりしてるし」
今度は女子が割って入ってくる。
「まあ、俺は彼氏だからな」
「なっ⁈」
にこっと笑って言う七音に、唯は昨日のステッカーのことかと、弁明しようとして言葉を探す。
「え?なになに?どういうこと?」
さらに別の女子も加わり、周囲が一気に騒がしくなった。
「これを見よ」
まるで印籠を掲げるかのように、七音は昨日のステッカーを得意げに見せる。
「あ、それ、彼氏にプレゼントってやつだ」
「シール流行ってるからねぇ。彼氏にも~って、今話題のやつだぁ」
「え?あの店行ったの?いいなぁ!」
女子たちは面白がるように声を上げ、さらに場を盛り上げていく。唯は事情を知らないまま、お礼のつもりで買っただけだったのに、状況はどんどん思わぬ方向へ転がっていった。
「どうせ何かのお礼でしょ」
助け舟のようにそう言ってくれた女子の一言に、唯は小さく息をつく。けれど、その隣で七音は肩をすくめるだけで、否定も肯定もしなかった。
「これからは、 “ちゃん”付けじゃなくて名前で呼ぶ。だって、俺は、彼氏だから」
「ウケる」
七音の言葉は、誰もが冗談として笑い飛ばした。
「な?唯」
初めて、呼び捨てで名前を呼ばれた瞬間、胸が大きく跳ねた。
その瞬間だけ、教室のざわめきが遠のき、唯の耳には自分の鼓動だけが響いていた。
まるで太陽を独り占めしたかのような笑顔を向けられ、優しく名を呼ばれたその一瞬だけで、全身がじわりと熱を帯びていく。
騒がしい教室。明るい生徒たちに囲まれ、その輪の中に自分が自然と溶け込んでいる。どこか現実感の薄い、不思議な感覚だった。
天城七音と出会ってから、いろいろなことが、少しずつ、けれど確実に自分の中へ入り込んできている。
肩を抱いたまま笑う七音の横顔を見上げながら、唯は胸の奥がきゅっと締め付けられるような、甘い痛みを覚えた。
あたたかなその感覚に、唯はまだ名前のつけられない感情の芽生えを、かすかに自覚し始めていた。
――唯は、この日、初めてノートに返事を書くのを忘れていた。
「大丈夫」
そう書かれた整った文字は、読むたびに不思議と心を落ち着かせた。
丁寧に書かれた線の一つひとつに、見知らぬ相手の気遣いが滲んでいるように感じられる。
ページの端に描かれた、少し不格好な絵。それを見ているだけで、胸の奥に張りつめていたものがゆっくりほどけていく。
名前も、顔も、声も知らない相手なのに。このノートの中の人は、唯を「可哀想な生徒」としてではなく、「今ここにいる自分」として見てくれている――そんな気がした。
そういえば、あの日――。
唯は、当時の出来事をゆっくりと思い返す。
あの日、昼休みの教室はいつも通り騒がしかった。
笑い声や机を引く音、誰かが購買のパンを開ける袋の音が混ざり合い、落ち着きのない空気が教室いっぱいに広がっていた。 唯は一人、弁当を広げながら、ふと視線を感じて顔を上げた。
――気のせいか。
見回しても、特別に目が合う相手がいるわけでもない。それでも、なぜか落ち着かない。視線を向けられているような、そうでないような、曖昧な感覚だけが、胸の奥に小さく残った。
体育の授業。走るのは得意ではない。それでも休むわけにはいかない。
走らなければ単位にならないからだ。息が上がり、足が重くなる。肺が焼けるように苦しく、呼吸が乱れる。
それでも前を見る。前だけを見て、ただ足を動かし続けた。
ようやく最後の周を終えたとき、肩に腕が回された。驚いて横を見ると、クラスの男子が笑っている。
「お、完走じゃん。すげーな」
周囲からも声が上がる。唯は曖昧に笑い、小さく礼を言って、そっとその腕から離れた。
応援されること自体は嫌いではない。それでも、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。
――さっきから、ずっと。
視線を感じる。
振り返っても、それと分かる相手の姿はない。人影はいくつもあるのに、その中の一つだけが判別できない。その曖昧さが、かえって落ち着かない。
放課後、教室に戻る。机に座る前に、無意識に机の中を確かめていた。
ノートは、そこにある。
それだけで、今日一日の疲れが少し抜けた気がした。
ページを開き、唯はペンを手に取る。
『今日の体育はマラソンだった。走るのは本当に苦手。けどね、応援してくれる人もいて嬉しかったよ』
そこで、ペンが止まった。静かにペンを置き、考える。
正体の分からない視線と気配。
それでも、不思議と嫌な感覚はなかった。
唯は、この頃のことを二年になった今でも覚えていた。
『よかったね。よく頑張ったね』――そう書かれた返事を目に入れる。
(きっと優しい人なんだろうな)
唯はこのとき、いつも以上にノートの相手を意識した。
どんな人だろうと、一年のときに探したこともあった。
選択授業の時間、唯の席にはどんな人がいるのかをそれとなく確かめようとしたこともあった。だが、タイミングは合わず、結局、正体は分からないままだった。
ノートの最後に目を配る。そこに書かれている、相手に好きな人がいるという事実。
どう返そうか。
恋愛相談という形に変わったノートの内容。
なぜか、唯にはその言葉を見たくなかった。
「どうしたの?」
隣の席の七音が声を掛けてくる。憂鬱そうに見える、と言われて、唯は今の気持ちが憂鬱なのだと初めて自覚した。
「あ、うん。えっと……大丈夫」
こんなことを相談するわけにはいかないと、唯は言葉を濁した。
その時だった。
ぺたっ。
唯の頬に、ひんやりとした硬い感触が触れた。
「元気出して」
そう言って七音が唯の頬に何かをつけたのだ。
可愛らしい、指先サイズのぷっくりとしたシール。
唯の好みをよく分かっている、少しおかしな表情のキャラクターだった。
元気づけようとしてくれたのだろう。
「話したくないのかもしれないけど、少しは俺を信用してもいいと思うよ」
七音のまっすぐな目に、唯は一瞬、吸い込まれそうになった。
「あーでも、俺は唯ちゃんを傷つけたことのある最低野郎だから、無理かもだけど」
「え?なんで?いつ?」
「俺、片親なんて珍しくないって前に言った」
唯はきょとんとした顔をした。そんな前のことを覚えていたのかと、少し意外に思う。
そして、ふっと小さく笑った。
「気にしてたんだ」
「んー、まあね」
「俺の方こそ、あの時素っ気なかったし」
「そうか?」
「そう思ってなかったなら良かったよ」
二人は、どちらからともなく視線を外しながら、少し照れくさそうに言葉を交わした。
まるで一年の頃の小さな行き違いを、今になってそっと埋め合わせているような、不思議な空気だった。
「俺、怖がられてたのかと思ってたよ」
「そうなの? んー……まあ、一年生の頃は怖かったかな。でも今は怖くないよ」
唯はそう言いながら、七音からもらったシールを自分のシール帳に丁寧に貼った。
ページはすでにかなり埋まっていて、空いているスペースを探すのに少し時間がかかった。
そろそろ新しいシール帳を用意しないといけない。そんなことをぼんやり考えた。
「唯ちゃん、もうシール貼るとこないじゃん」
「そうだね。新しいの買わなきゃ」
「……」
七音は一度黙り、何か思いついたように、ふっと微笑みを浮かべた。
「今日、放課後。一緒に行かない?」
誘われた事に驚いて、唯は目をぱちくりとさせ、七音を見返した。
どこか熱を帯びた視線が向けられ、心臓が一瞬強く跳ねる。
期待しているような、少し照れているような。そんな表情の奥に、ほんのわずかな切なさの色も混じっている気がした。
「妹ちゃん、迎え行かないとだっけ? その前には終わらせるからさ」
「あ……今日は父さん休みで……今日は迎え行かなくていいんだ」
正直に今日の家庭状況を話すと、七音は機嫌の良い猫のような表情を浮かべた。
「じゃ、決まりだな!」
にかっと明るく歯を見せて笑う七音に、唯の胸がまた少し騒がしくなる。気分屋で掴みどころのない七音が、こんなふうに無邪気な笑みを見せることが、なぜだか少し嬉しかった。
放課後は、思っていたよりもあっという間に訪れた。
きっと他の生徒も連れてくるのだろうと考えていた唯は、七音が一人で待っていたことに少し驚く。
下校時、何人もの生徒が七音を誘っていたが、七音はそれを軽く手を振って断っていた。唯の方へ歩み寄ってくる姿を見て、胸の奥がわずかに落ち着かなくなる。
唯と七音、二人だけ。そんな組み合わせが、まだどこか現実味を持たず、唯自身も少し不思議な気持ちでいた。
「これどう?」
店の棚の前で、七音が振り返る。若い女の子が多く、可愛らしい色合いに囲まれた店内は、男二人で立っていると少しだけ浮いているような気がした。
唯は突然、理由の分からない恥ずかしさを覚える。
「あ、うん……」
焦る気持ちが先走り、七音が手に取ったシール帳を受け取ると、唯はほとんど反射的にレジへ向かった。
いつも妹と来ていたときは、こんなふうに意識したことなどなかったのに。
会計を済ませながら、自分の耳まで熱くなっているのが分かる。
何に緊張しているのか、自分でもよく分からなかった。
七音は、周囲の視線などまるで気にしていない様子で、いつもと変わらない飄々とした態度を崩さなかった。
店の中では気づかなかったが、どんな柄なのかをはっきりと知ったのは、店を出てしばらく歩いた後だった。
それは、どこか芸術作品のような、何の動物なのか一目では分からない不思議なイラストが表紙に描かれたシール帳だった。色使いも独特で、可愛いとも奇妙とも言える、少し癖のあるデザイン。
――自分の好みだ。
そう、唯ははっきりと感じ取った。わざわざ伝えたことなど一度もないはずなのに、どうして分かったのだろうと、胸の奥が小さく混乱する。
「せっかくだし、何か飲んで帰ろうか」
七音が軽く指をさした先には、ガラス越しに色とりどりのドーナツが並ぶ店があった。
「甘いの好きでしょ?」
当然のように言われ、唯は思わず目を瞬かせる。
「え?なんで知って……」
「あ……顔が、好きそう」
曖昧な答えだったが、唯は反射的に自分の頬へと手を当てた。
そんな顔をしていただろうか、と少しだけ恥ずかしくなる。
店に入ると、七音は迷う様子もなくショーケースの前に立ち、次々とドーナツを選び始めた。
「これどう?こういうの好き?」と軽く問いかけながら、唯の反応を確かめては注文していく。その様子はどこか手慣れていて、自然に主導権を握っていた。
最後に飲み物を聞かれ、唯が炭酸飲料を選ぶと、七音はアイスコーヒーをブラックで頼んでいた。
トレーの上には、いくつもの甘いドーナツが並ぶ。
会計のとき、唯は財布の中身を確認し、三分の一ほどしか支払えなかった。父子家庭であることもあり、小遣いは多くない。 そんなに食べられないから、と断ろうとしたが、七音は「自分が一口ずつ食べたいだけだから」と軽く言って、残りをあっさり支払ってしまった。
席についてからも、七音はドーナツを一つつまんだだけで、あとは砂糖も入れないままアイスコーヒーをゆっくり飲んでいる。
「甘い物、苦手なんだ?」
「んー……嫌いではないけど、あまり食べない」
そう言えば、ノートの相手も同じことを書いていたな、と唯は一瞬だけ思い出す。
だが、目の前でストローを回す七音の仕草に意識を引き戻され、唯は小さく瞬きをした。
自分のために店を選んだのだと気づいたとき、唯の胸の奥に小さな戸惑いが生まれた。普通なら、気を使われていると感じて落ち着かなくなるはずなのに、七音の自然すぎる振る舞いのせいか、不思議と嫌な感じがしない。
「なら、なんでここ選んだのさ」
少し笑いながら尋ねると、七音は肩をすくめ、猫のような気ままな表情を浮かべた。
「今日の気分」
それだけ言って、残ったドーナツを指さす。
「残り、持ち帰っていいよ」
「え、いいよ。天城くんが持ち帰って」
「どうせ妹に食われるなら、唯ちゃんにあげる」
にっこりと笑い、店員に持ち帰り用の袋を頼むと、七音は再びコーヒーに口をつけた。その余裕のある仕草に対して、唯の胸の中だけが、少しずつ鼓動を早め、落ち着かなくなっていく。
「で、気持ちは晴れた?」
何気ない調子で、七音が切り出す。
「別に、落ち込んでたわけじゃないよ」
そう答えながら、唯は一瞬だけ言葉に詰まった。
ノートの内容のことを、さっきまで完全に忘れていたことに気づいたからだ。
思い出した途端、胸の奥にわずかな重さが戻ってくる。
「ちょっと、友達に悩み相談されてて……考えてただけ」
正直に、しかし全てを教える事にためらいを抱きながら、唯は答えた。
「ふーん」
七音の返事は短かったが、その視線はゆっくりと、しかし確かに唯を捉えていた。
逃げ場を与えないような、静かなまなざしだった。
「好きな子がいるっていう相談だったんだけど。俺には、恋愛とかよく分からなくて」
「唯ちゃんは、好きな人いないの?」
「考えたこともないかな」
そう答えながら、唯はふと、ノートのやり取りの時間がどれほど心地よかったかを思い出していた。
恋愛とは違うはずなのに、あの存在が自分の中で広い範囲を占めていることを、どこかで自覚する。
「強いて言うなら、恋愛かどうか分からないけど……気になる相手は、いる。かな」
その言葉に、七音の指先がほんのわずかに止まった気がした。
「……え?どんな子」
七音の声音は変わらないのに、視線だけが少し鋭くなる。
「あ、えっと……誠実そうな、真面目そうな、人」
本当は姿も知らない。ただ、文字から想像しただけの、曖昧で不確かな人物。
それでも口にした瞬間、なぜか少しだけ後ろめたい気持ちになる。
「ふーん……そういう人が好きなんだ」
七音は軽く頷いたが、その周囲の空気が、わずかに重く沈んだように唯には感じられた。
「天城くん?」
「んー?唯ちゃんの好みは、そういうのが好きなんだなぁって」
笑ってはいる。けれど、その笑みの奥に、ほんのわずかな温度の低さが混じっているように見えて、唯の胸の奥が小さく不安を抱える。
「天城くんは?そういう……好みとか、好きな子とか居るの?」
会話が途切れてしまうのが怖くて、唯はとっさに言葉をつないだ。聞くつもりなどなかった質問が、口をついて出てしまった。
「……」
七音はすぐには答えず、ただじっと唯を見つめた。逃げ場のないほどまっすぐな視線に、唯の胸の奥がドクンと跳ねる。
「秘密」
少し間を置いて、七音はにっこりと微笑んだ。
「分かったら、面白くないだろ?」
いつもの軽い調子のはずなのに、どこか含みを持たせた言い方だった。冗談のようで、どこまで本気なのか分からない。そんな曖昧な距離感に、唯は小さく戸惑う。
「帰ろうか」
唯がジュースを飲み終えるのを待っていたかのようなタイミングで、七音は立ち上がった。
椅子を引く音が、店内のざわめきの中でわずかに大きく響く。
どこか、ほんの少しだけ機嫌が悪いようにも見えた。
テーブルに残されたアイスコーヒーの氷が、合図かのように、溶けかけたグラスの中でカラン、と乾いた音を立てる。
「あ、あの!天城くん」
先を歩き出した背中を、唯は慌てて呼び止めた。
「これ」
小さな袋を差し出す。
お礼になるかどうかも分からない。それでも、何も渡さず別れるのがどうしても落ち着かなかった。
「今日はありがとう」
七音は一瞬、意外そうに目を瞬かせた。
唯が手渡したのは、急いで会計をしていたときに見つけた、レジ横に並んでいた男性向けのステッカー。女の子向けの商品が多い店だったが、男物も置いてあるのかと思い、慌てて包んでもらったものだった。
「買ってくれたんだ」
「うん、お礼になるかは分からないけど。天城くんに似合いそうかなって」
「ふーん。これ、知ってた?」
「え?」
「彼氏へのプレゼントにって、ポップが飾られてたの」
七音はニヤニヤと笑いながら、ステッカーに軽く口づけするような仕草をしてみせた。
「へっ⁈」
心臓が跳ね上がる。急いで手に取ったせいで、そんなポップがあったことなど全く気づいていなかった。
身体の奥から一気に熱が上がり、顔がみるみる赤くなるのが自分でも分かる。
「じゃあ、また明日」
七音は急に機嫌を取り戻したように、軽い声でそう言って歩き出した。その背中はどこか楽しそうで、さっきまで感じていたわずかな不機嫌さが嘘のようだった。
取り残された唯は、しばらくその場に立ったまま、まだ熱の引かない頬をそっと手で押さえていた。
―――
次の日、唯が登校するなり、七音がいきなり背後から抱きついてきた。あまりにも突然の出来事に、唯は驚きで声が出ない。
「……っ!」
声にならない息が漏れる。
何が起きたのか分からないまま固まる唯の耳元で、聞き慣れた声が弾んだ。
「おはよう」
先に声をかけたのは七音だった。いつも通り、いや、いつも以上に機嫌がよさそうな声だった。
「あれ?そんなに仲良かったっけ?」
近くにいたクラスの男子が、目を丸くして言う。
「そりゃあ、デートしたくらいですし?」
七音はさらりと言った。昨日は一緒に買い物をしただけで、唯にとってはデートなどという認識はまったくなかった。
「案外仲良くしてるよね~?シール交換したりしてるし」
今度は女子が割って入ってくる。
「まあ、俺は彼氏だからな」
「なっ⁈」
にこっと笑って言う七音に、唯は昨日のステッカーのことかと、弁明しようとして言葉を探す。
「え?なになに?どういうこと?」
さらに別の女子も加わり、周囲が一気に騒がしくなった。
「これを見よ」
まるで印籠を掲げるかのように、七音は昨日のステッカーを得意げに見せる。
「あ、それ、彼氏にプレゼントってやつだ」
「シール流行ってるからねぇ。彼氏にも~って、今話題のやつだぁ」
「え?あの店行ったの?いいなぁ!」
女子たちは面白がるように声を上げ、さらに場を盛り上げていく。唯は事情を知らないまま、お礼のつもりで買っただけだったのに、状況はどんどん思わぬ方向へ転がっていった。
「どうせ何かのお礼でしょ」
助け舟のようにそう言ってくれた女子の一言に、唯は小さく息をつく。けれど、その隣で七音は肩をすくめるだけで、否定も肯定もしなかった。
「これからは、 “ちゃん”付けじゃなくて名前で呼ぶ。だって、俺は、彼氏だから」
「ウケる」
七音の言葉は、誰もが冗談として笑い飛ばした。
「な?唯」
初めて、呼び捨てで名前を呼ばれた瞬間、胸が大きく跳ねた。
その瞬間だけ、教室のざわめきが遠のき、唯の耳には自分の鼓動だけが響いていた。
まるで太陽を独り占めしたかのような笑顔を向けられ、優しく名を呼ばれたその一瞬だけで、全身がじわりと熱を帯びていく。
騒がしい教室。明るい生徒たちに囲まれ、その輪の中に自分が自然と溶け込んでいる。どこか現実感の薄い、不思議な感覚だった。
天城七音と出会ってから、いろいろなことが、少しずつ、けれど確実に自分の中へ入り込んできている。
肩を抱いたまま笑う七音の横顔を見上げながら、唯は胸の奥がきゅっと締め付けられるような、甘い痛みを覚えた。
あたたかなその感覚に、唯はまだ名前のつけられない感情の芽生えを、かすかに自覚し始めていた。
――唯は、この日、初めてノートに返事を書くのを忘れていた。
