君のつづる文字に、恋をした

 一年の頃、七音は唯の存在を意識してからというもの、彼のことが気になって仕方がなかった。
 優等生として知られている唯だが、特段目立つ存在というわけでもない。
友人が多いわけでもなく、教室を覗けば、いつも一人で勉強している。

 周囲は当初、彼のことを「がり勉」と呼んでいた。だが、家庭事情が知られるにつれ、その言葉は次第に応援へと変わっていった。
 特進生徒であることは、誰もが知っていた。
父子家庭であることも同様だった。

「お、今日も頑張ってるよ、がり勉くん」

 唯の教室前の廊下を通ったとき、クラスメイトの男子が、教室の中を覗きながら言った。

「なんかさ、父親が工場勤務で激務なんだって。小学生の妹の学校行事に行ったり、風邪をひいたら看病したりで、学校を休むこともあるらしいよ」
「聞いたことある~!お母さんが病気で亡くなったんだでしょ?その医療費が何だかの制度が使えないし金額が膨大だったとかで、借金まみれなんだってね~」

 隣で、名前も覚えていない女子たちが、当たり前のように唯の事情を語る。

「そうそう。だから、お父さんが仕事を休むと生活が厳しいとかで、あの子がやるんだって。あの子のクラスの子が言ってた」
 ある女子は自分の爪を見つめながら話を続けた。
「泣ける~。応援したくなっちゃう」
 別の女子が、長めの袖で口元を隠しながら言う。
「わかるわかる!俺もあの子気になる。応援したくなるよな」
 別の男子も話に加わった。
「妹のことで休みがちだから、成績が上位なら出席が足りなくても大丈夫っていう特進制度なんでしょ? あと、交通費も出るんだっ
け?」
「ああ、なるほど。だからいつも勉強してるのか」

 生徒たちが、好き勝手に唯について語り合う。
その様子に、七音はわずかな嫌悪感を覚えていた。

「でもさ」

 七音は、あえて笑顔を浮かべたまま、棘のある言葉を投げる。

「片親って、あの子だけじゃないでしょ」

 好奇の目で見るな――そんな牽制のつもりだった。
気軽に、気安く唯のことを語られるのが、なぜか七音には腹立たしかった。

「だよねぇ」

 周囲の反応は、良くも悪くもなく、ただ軽く流されただけだった。

「あっ……」

 教室の前を通り過ぎようとしたとき、教室から出てきた唯と鉢合わせた。

 ――聞かれていたかもしれない。
焦りと不安が、一気に胸の中へ押し寄せる。

「え、聞かれてた?」

 女子が、小声で不安そうに呟いた。
 唯はその場に立ったまま、こちらを見ている。
威嚇するでもなく、恐怖に怯えているわけでもない。ただ、鉢合わせた事に気まずさを抱えているようだった。
その様子を見て、七音は表情を変えなかったが、内心では押しつぶされそうなほどの緊張を感じていた。

「あ、あのね!悪い意味じゃなくてね!」
 女子が慌てて弁明する。
「応援してるから!」
 必死に言い募る女子に、唯はにこりと微笑んだ。
だが、その笑顔は晴れではなく、曇りの天気の様だった。

「……ありがとうございます」

 そう言って、参考書らしい分厚い本を抱えたまま、唯は廊下を歩き去っていった。
聞かれていたのかどうか、それはわからなかった。
――ノートを開くまでは。

『ちょっと嫌なことがあったんだ。家の事情を噂されて落ち込んだけど、このノートのおかげで楽しい気持ちになるよ』

 そう書かれた文字を目にした瞬間、七音は胸の奥を強く締めつけられるような思いに襲われた。
自分の不用意な言動を思い出し、思わず深く反省する。
天城七音という男の印象は、唯にとって最悪のものになってしまったに違いない。

 唯の書いた文字から、細い矢印が伸びている。
その先には、七音が描いた拙い絵があり、「この絵のおかげ」と小さく添えられていた。
七音はしばらくその文字を見つめたまま動けなかった。どう返事を書けばいいのか、七音には正解が分からない。
そして、全くの別人を装うように、ノートの片隅へ小さな絵を描き添え、「大丈夫だよ」とだけ書き残した。
それ以来、廊下ですれ違うだけでも、七音は居たたまれない気持ちになっていた。

 ***

 全校朝会の日。
七音は人混みの中で、偶然にも唯の姿を見つけた。
 クラスが離れていることもあり、普段はなかなか視界に入らない。だが、その日に限って、なぜかよく目に入った。
長い校長の挨拶は、聞いている側に退屈さをじわじわと広げていくものだった。けれど七音にとっては、唯を観察しているだけで、その時間は不思議なほど短く感じられた。

 女子よりは背が高いが、それでも小柄な唯。
前に立つ男子の背が高く、前が見えないのだろう。つま先立ちになってみたり、体を左右に揺らしたりしながら、必死に前を覗こうとしている。
 何をそんなに見ようとしているのかと、七音も視線を前へ向けた。
校長が紙を一枚取り出し、生徒に何かを紹介しているところだった。

(あれが見えないのか)

 思わず小さく笑みが漏れ、再び唯へと視線を戻す。

 そのとき、唯の後ろにいた男子が、唯に話しかけているのが目に入った。
楽しげに言葉を交わす二人の様子に、七音の胸がわずかに騒がしくなる。
自分に向けられることのないその笑みに、チクリとした痛みが走った。

 その日は、やけに唯が目に入る日だった。
授業中、何気なく窓の外へ目を向けると、ジャージ姿の唯が校庭を走っているのが見えた。体育の授業なのだろう。
いかにも運動が得意そうには見えない唯は、一周するだけでも辛そうな表情を浮かべている。
それでも、先を行く生徒たちに少しでも追いつこうと、必死に足を動かしていた。

 頑張れ。と心の中でそう呟きながら、七音はその姿をどこか微笑ましい気持ちで見つめていた。
ようやく一周を走り切ろうとしたそのとき、彼と同じクラスの男子が唯の肩に腕を回しのが目に入る。

 ――触るな。

 咄嗟に浮かんだのは、そんな感情だった。
 唯の周りには生徒が集まり、完走を労うような空気が広がっている。
和やかな光景のはずなのに、七音にはそれがひどく不快に感じた。

「お?がり勉くん完走した!」

 前の席の男子が、窓の外を見ながら声を上げる。

「すげーじゃん。応援しただけあるわ」

 なんでお前が唯を見ていたんだ、と胸の奥からじわりと怒りがこみ上げる。

「何でお前が応援してんだ」

 感情を表に出さないよう抑えながら、七音は訊ねた。

「俺さぁ、あの子が気になっててさぁ」
「はあ?」

 思わず、焦りに似た声が漏れた。

「天城、うるさいぞ」

 教師の注意が飛ぶほど、声は思った以上に大きかったらしい。

「何そんな驚いてんだよ」
「気になるって、なんだよ」
「ん? なんか頑張ってる子を応援したくなる、慈善事業的な?」

 軽い答えに、七音はますます苛立ちを覚えた。

「見るな!」
「え? なんで?」

 思わず、パシッと男の肩を叩く。

 見るな。気にかけるな。
ましてや、触ったり関わるなんて、絶対に許さない。

膨れ上がる感情を、七音自身もはっきりと自覚した。

「なになに~? 七音くんは恋でもしちゃってるのかな~?」

 最近流行りの、男子同士の同性愛疑惑をかける冗談。
いつもなら聞き流していたはずの言葉が、今日はなぜか胸の奥に引っかかった。

 ――この気持ち、もしかしたら。

 そう思った瞬間、思考は止まらなくなった。
 その日を境に、七音はまるで確かめるように、以前にも増して唯を目で追うようになった。
他の生徒が唯に話しかけているのを見るたびに、胸の奥に小さな嫉妬が灯る。
触れられているのを見るたび、理由のわからない苛立ちが込み上げる。

 唯を隠しておきたい。だれの目にも触れない場所に、閉じ込めてしまいたい。
自分だけが唯を知っていたい。見ていたい。

 もう、この感情は誤魔化しようがなかった。

 ――ああ、俺は。

 七音は静かに、胸の内に芽生えたその感情の名前を、ゆっくりと受け入れたのだった。

 ――中川唯に恋しているんだ。


 ***


 二年生になり、クラス替えが行われた。
張り出された名簿を、半ば祈るような気持ちで目で追った七音は、思わず小さく息をのむ。

 唯と、同じクラスだ。

 奇跡のようだった。
胸の奥に、じんわりと熱が広がっていく。

 どうやって近づこう。
何をきっかけに話しかければいいのか。
そんな思いは、日を追うごとに少しずつ、けれど確実に強くなっていった。

「席替えしまーす」

 担任の軽い一言に、教室がざわめく。
その声を聞いた瞬間、七音はわずかに姿勢を正し、無意識に息を整えた。

 ――これは、チャンスだ。

 くじ引き式の席替え。
紙を引く前から、七音の心はすでに決まっていた。
狙うのは、ただ一つ。唯の隣の席だけだった。

 だが、運命はそう都合よくは動かない。
開いた紙に書かれていた番号は、唯の席から大きく離れた場所を示していた。
窓際の後ろ、条件だけを見れば当たりと言える席だ。
けれど、七音が欲しかったのは、そんな席ではなかった。

「いいなぁ、七音。めっちゃいい席じゃん」

 近くにいた男子生徒が、自分の番号を見せながら羨ましそうに言う。
何気なく視線を向けた七音は、その番号を見た瞬間、わずかに息を止めた。
 唯の隣の席だった。
奇跡としか思えない現状に、七音の胸の奥で、小さく嬉しさが跳ねる。

「交換してやるよ」

 できるだけ自然に、穏やかな笑みを浮かべながら、七音は自分の紙を差し出した。
 こうして、唯の隣の席に座ることができた。
七音の浮き立つ気持ちとは裏腹に、唯は関わりを避けているのか、一度もこちらを見ようとしなかった。
その横顔を、七音は視界の端でそっと追った。
 唯の手元には、見慣れたノートがある。

 ――その相手、俺だよ。

 そう言ってしまいたい衝動を、かろうじて飲み込みながら、七音は静かにきっかけを探した。
 ふと目に入ったのは、机の端に貼られた小さなシール。一年のとき、この席だと分かるように唯が貼った、大切な目印だった。
それを知っていながら、七音は何も知らないふりをして、さりげなく口を開く。

「それ、好きなの?」

 ようやく唯に話しかけることができた。
その事実だけで、胸の奥がわずかに熱を帯びる。
七音は、その高揚感を噛みしめるように、次の言葉を待った。