君のつづる文字に、恋をした

 二年教室は、今日も賑やかだった。唯は机の中を確かめる、という動作が、いつの間にか癖になっていた。
朝の教室。鞄をしまう前に、つい、そっと手を伸ばしてしまう。

 今日も、ノートはそこにあった。
それだけで、胸の奥がわずかにあたたまる。今日も一日を、そっと前向きに歩けそうな――そんな力のようなものが、胸に静かに満ちていた。

「唯ちゃん。おはよ」

 机に伏せていた隣の席の、身体の大きな男子生徒が、唯の登校に気づくなり目を覚まし、柔らかな表情で声をかけてきた。

「……天城くん、おはよう」

 見た目に反して穏やかな七音の雰囲気に、唯はくすぐったさを覚える。シャツから覗く長い腕や、広い肩幅。男らしい体つきは、同性から見ても思わず目を奪われるほど整っていた。

 どうして、こんな人が――平凡でしかない自分に、ためらいもなく話しかけてくれるのだろう。
嬉しさと不安が入り混じったその気持ちを、唯はまだ、胸の奥でうまく整理できずにいた。

「そうだ、これ」

 七音がポケットから取り出したのは、透明な袋に入った、ぷっくりとした立体シールだった。

「また妹から」

 そう言って、妹のことは思い出したくもない、とでも言うように舌を出しながら、七音は唯に袋を差し出す。
席替えをしてから、シール交換はいつの間にか日常になっていた。

「あ、うちの妹も、これ」

 唯は鞄から、ペタペタとシールの貼られた剥離紙を取り出し、七音に渡した。
兄を介して、二人の妹はシールを交換している。
最初は、唯が渡したシールを七音の妹が気に入り、そのお礼として別のシールが返ってきた。それを今度は唯の妹が喜び、またお気に入りを返す。そんなやり取りが、いつの間にか続くようになっていた。
 シール集めが趣味の唯は、本当はその輪に加わりたいと思いながらも、女の子たちの小さな友情に水を差すまいと、ただ微笑ましく見守るだけにしている。

「はい、おつかい代」

 唯の趣味を知っているからなのか、あるいは、妹たちのやり取りに混ざりたい気持ちを察したのか。七音は必ず可愛いシールを一枚、唯にプレゼントしてくれる。

「ふふっ、ありがとう。じゃあ、俺からも」

 その気遣いが嬉しくて、唯はシール手帳から一枚選び、七音に渡す。
シール帳を持たない七音は、それを筆箱に貼る。いつの間にか、数枚のシールが貼られていただけのシンプルな筆箱は、色とりどりのシールで賑やかになっていた。
最初は遠慮していたはずなのに、今では七音の方が楽しそうに貼っている。
女子生徒に「それ可愛い」とねだられても、自分の妹からのものは譲っても、唯からのシールだけは決して渡さない。
その様子を見るたび、唯の胸に、小さな特別感が灯った。

「朝から移動教室だね」
「そうだなぁ」

 気軽に話せるようになった七音に、唯は授業の話を振る。
移動教室は、唯にとって待ち遠しい時間だった。このノートに、続きを書いてもらえるから。
唯は、思わず小さく笑みをこぼした。

「唯ちゃんは現国だっけ?」
「うん、そう」
「俺は英語。ずっと英語」
「英語、好きなの?」
「……そう。一年の時に、好きになった」

 七音は、じっと唯を見つめた。

「天城くん?」

 何かを伝えたそうな、けれど言葉にしない視線。唯が問い返すと、七音は誤魔化すように笑った。

「いや、なんでもない」

 その笑みは、どこか含みのある優しさを帯びていて。
知りたければ自分で気づいてごらん、とそっと促されているような気がして、唯は小さく首をかしげた。

「唯ちゃんはどこのクラスまで移動だっけ?」
「G組だよ。天城くんは隣だっけ?」
「そう、隣のB組」

 短い会話を交わし、唯は移動教室の準備をした。このクラスからG組は別の階で遠い。
移動を済ませ、もう席についていなければならない時間が迫っていた。

「じゃ、天城くんまたね」

 そう言って、唯はあのノートを机の中の一番上に置き、急いで教室を出た。ひらひらと蝶のように手を振る七音に、軽く手を振り返しながら。
唯は心のどこかに、さっきのやり取りのあたたかさがふわりと残ったまま、教室を後にする。
教室の窓から差し込む光や、廊下を行き交う生徒たちの声の中で、唯は何度も七音の笑顔を思い出していた。

 ―――

 移動教室の授業を終え、唯は自分の席に戻ると、真っ先にノートがあることを確認する。

「唯ちゃんお疲れ~」

 ノートを開く前に、七音がふらっと気怠そうに教室に戻ってくるなり、声をかけてきた。

「お疲れ様」

 にこりと笑みで返す。

「も~マジ眠いわ。朝からあのセンコーのウィスパーボイス……あれアスマーにでもなればいいんじゃねぇ?」

 ぐったりと愚痴を零す七音に、唯はクスリと笑った。
隣の席になるまでは、七音がこんなにも素直で柔らかく、話しやすい人だとは思っていなかった。
唯は、心を許した無防備な七音の姿を、ときおり可愛いと感じていた。
そんな様子を横目に、唯は静かにノートを開いた。
今日は、何が書かれているのか。

「……え」

 唯は、思いもしない言葉に、息を詰まらせた。

「唯ちゃん、どうしたの?」

 七音の問いに、慌ててノートをパタンと閉じ、何でもないと答える。

「ふーん」

 七音は何かを含んだ口調だったが、幸い、それ以上詮索されることはなかった。

 授業開始のチャイムが鳴り、生徒たちがぱたぱたと席につく。
教師も入ってきて、いつも通りに授業が始まる。
けれど唯の耳には、内容はほとんど入ってこない。ただ音だけが、上滑りするように流れていった。

 ノートには、こう書かれていたのだ。

 ――好きな人がいるのだけれど、相談に乗ってくれる?

 相手からの言葉は、恋愛相談だった。
不安や焦りに似た、名づけられない感情が胸に広がる。

 どんな子なのか、どうして好きなのか。
姿も声も知らない相手のことばかりが、頭の中をぐるぐると巡っていた。
文字しか知らない相手なのに、思考は止まらず、唯の心を掻き乱す。

 恋愛なんて、したことがない。ましてや、今の自分が、人の恋の悩みに応えられるような人間だとは思えなかった。
唯は、この胸のざわめきを、相談相手としてはまだ頼りなく、自分が心を預けるには十分ではない存在だから、自信がないからだと、必死に言い聞かせていた。

「好きな子……か」

 肩を落とすように、ノートを見つめ、その綺麗な文字を指でなぞりながら、唯は小さく呟いた。
隣で七音が、頬杖をつきながらじっと見ていることに、気づく余裕もなく。