君のつづる文字に、恋をした

 天城七音(あまぎなおと)は、移動教室先で、一番前の席しか空いていないことに気づいた。
教卓の前という、最悪な机の立地に、心の中で舌打ちする。
もっと早く来ていれば、窓際の一番端に座れたかもしれないのに。
仕方なく七音は腰を下ろした。
内心では気が進まなくても、表情だけは変えない。にこりと、いつも通りの優しい笑みを浮かべる。

 ――こうしておけば、誰も何も言わない。

 表情ひとつで場の空気を保つこと。それが、七音がいつの間にか身につけた処世術だった。

 この学校では、週に二、三回、選択授業を受けることができる。
自分の選んだ科目を学ぶために教室を移動する――それを「移動教室」と呼んでいた。
生徒は、予め指定された教室に移動し、それぞれの授業を受けるのだ。
この授業方法で懸念されるのは、生徒のいたずらだ。
案の定、教室に入ると、誰のものかわからない机の中にゴミを詰め込む生徒がいる。その様子を見て、七音は小さく息を吐いた。

 ――くだらない。

 怒りというほどでもなく、ただ、滑稽に思えた。
退屈しのぎにしては、あまりに幼稚だった。だから七音は、関わろうとは思わなかった。

 七音が座った机の中は、きれいに整えられていた。
教科書は揃えられ、ノートもきちんと重ねられている。
丁寧な性格の持ち主なのだろう。そう思いながら、七音は心の中で呟く。

 ――座ったのが俺で、よかったな。

 授業が始まって数分足らず。
適当に選んだ英語の授業は、驚くほど退屈だった。
板書をしても眠気は飛ばず、七音はノートに英語で書き殴る。

I’m(アイム) really(リアリー) bored(ボアード) in(イン) this(ディス) class(クラス). (この授業はとても退屈だ)」 と。

 もう、授業を真面目に受ける気はない。
見た目を不真面目にしていたことで、授業を真面目に受けるよりも「らしい」姿を周囲に印象づけた。

七音はノートを閉じ、無意識のまま席にしまい込んだ。
そしてその存在を、下校時刻になるまで、すっかり忘れていた。

 名前の記されていないそのノートは、持ち主だけが知っている。

忘れ物として届けられているかもしれないと思い、七音は職員室を訪ねた。だが、教師は首を振るだけだった。

もしかしたら、机の主が気づかずに持ち帰ってしまったのかもしれない。
そう思いながらも、七音は軽い気持ちで、移動教室のときに使ったあの机へ向かった。

 もうないかもしれない。無くなってしまったなら、また買えばいい。

そう思いながら机の中を覗くと、ノートはきちんとそこに置かれていた。
教科書も何もかも片づけられていたのに、七音のノートだけが丁寧に置かれている。
教師に渡したり、捨てたりすることもできただろう。
けれど、この机の主はまるで七音が取りに来ることを予期していたかのように、自然とそこに置いてあった。

 ふとした温もりを覚え、七音はノートを手に取った。
落書きされたり破かれているかもしれないと一瞬思ったが、そんな不安はすぐに消える。
 付箋に書かれた文字が目に入った。

 ――覘いてごめんね。eが抜けているよ。

 愚痴で書いた英語。そのスペルミスに、そっと指摘が添えられている。
さらに、「綺麗な字だね」との言葉と、可愛らしい小さなシール。

「本当だ……」

 bored(ボアード)のeが足りなかった。わざわざ指摘する必要はないことだが、その文字から優しさが滲んでいるのがわかる。

 ――教えてくれてありがとう。

 七音は持ち帰ることもできたのに、返事を書いて、また机の中に戻した。今度は忘れたのではなく、意図的に置いたのだ。
ほんの少しだけ、自分は、返事を期待しているのかもしれないと思いながら。
 次の移動教室の日、ノートはやはりそこにあった。

 ――このノートは、どうするの?

 その問いに、七音は思わず口元を緩めた。
この字の主と、もっと話してみたい――いつの間にか、そう思っていた。
七音は返事を書いた。シールは持っていないために、猫のイラストを添えた。

 ――友達になろう。

 自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
理由はうまく説明できない。ただ、文字越しにやり取りをしているこの相手のことを、もう少し知ってみたいと思ったのだ。
顔も声も分からない相手と、言葉を交わしている――その不思議な距離に、七音はわずかな高揚感のようなものを覚えていた。
七音は、文字にした本音をそのまま、机の中にしまった。
 たった数分時間を置いて、ふと、七音は興味に突き動かされるように、机の中の教科書を少しだけ引っ張り出した。
教科書には「中川唯」と名前が書かれていた。
七音は、この机の主の名前を初めて知った。

 翌日から、七音は無意識に中川唯を探すようになった。
けれど、一年生になったばかりで、顔と名前が結びつかない。
授業を抜け出して覘くこともできず、また移動教室の日を待つ。
次の移動教室。ノートには、短い問いが書かれていた。

 ――名前は?

 七音はあえて名前を明かさなかった。

 ――秘密。その方がワクワクするだろ?

ちょっとしたいたずら心と好奇心もあったが、何より正体が明らかになったとき、興味を失われてしまうのではないか――そんな思いが、胸の奥にかすかに残っていたからだ。
次の返事には「わかった」とだけ書かれ、ノートには可愛いシールが貼られていた。
れ以上詮索されることも、不審がられることもなかったことに、胸の奥で小さく息をつく。同時に、このやり取りがまだ続いていくのだと思うと、わずかな高揚が静かに広がった。

 女の子のような丸みがあるが、どこか芯の強さも感じられる唯の字。
その文字を見つめるたび、胸の奥に小さな灯りがともっていたことを、七音はまだ、知らなかった。

七音は、相手の性別など気にしていなかった。どちらにせよ、この交換日記に性別は関係ない――ただ、文字の向こうにいる相手と、もう少し言葉を交わしていたいと思っただけだった。
そこから、些細な質問を交えた、何気ないやり取りが静かに始まった。

 ――君は何が好き?
 ――何が嫌い?

 はじめは短いやり取りにすぎなかったが、次第に、普通の会話へと変わっていった。
メールやチャットとは違う、時間のかかる、もどかしくて、どこか懐かしいやり取り。
一ヶ月も経たないうちに、この関係は、七音にとって静かに心地よいものとなっていた。

 この子は、どんな子だろう。
七音の興味は尽きない。
まだ顔も知らない相手のことを、気づけば考えている自分に、七音は小さく苦笑した。

「中川唯って知ってるか?」

 登校途中、七音は自然と集まった友人たちに、その名前を聞いた。
特に深い意味があるわけでもない、という顔をしながら。

「中川唯?一年の?」
「あー、特進生徒だったかな?」

 思いのほかすぐに名前が返ってきて、七音は小さく相づちを打った。
友人たちは、唯のことを知っている様子だった。

「特進生徒?」
「そうそう、父子家庭だとか」
「なんで父子家庭が特進生徒なんだよ」
「あー、学費免除の条件とかじゃなかったけ?」
「へえ、じゃあ、めちゃくちゃ頭いいのか」

 取り留めのない軽口を交わしながら、友人たちは曖昧な情報を思い出したように口にしていく。
七音は適当に相づちを打ちながら、その話を聞いていた。

 特進生徒とは、特別に選抜された優等生のこと。学業も優秀であることを条件に、授業料やは免除され、出席日数が条件によって配慮されるなどの待遇を受ける。条件を満たすことで、特別に進級を許される生徒の事をこの学校では示している。
そんな生徒だったのか、と、七音はわずかに関心を示した。

「小さい兄弟がいるから?だった気がするよ~」

 制服を自分流に着飾った女が馬鹿っぽく答えた。

「それが何の関係があるんだよ?意味わかんねえ」
「ほら、噂をすれば」

 一人の男子が歩く道の先を指す。そこには赤いランドセルを背負った低学年くらいの小学生と手を繋ぐ男子生徒の姿があった。
柔らかい空気が、そこにあった。
慌ただしい登校のざわめきから、そこだけが切り離されたように、穏やかな時間が静かに流れている。

 中川唯は女だと思っていたが、本当は男だった。
七音は驚きもせず、ただ唯をまっすぐ見つめた。

ほんのわずか、胸の奥にやわらかなぬくもりが広がるような感覚があった。
名前も、姿も、思い描いていたものと違っていたはずなのに、不思議と違和感はない。むしろ、ようやく見えなかったものに手が届いた気がして、七音は小さく納得した。

「……そうか」

 それだけを静かに呟き、七音はもう一度、確かめるように唯の顔を見た。

 妹が近くの小学校に通っているのだろう。手を繋ぐ姿は、どこか和やかで、見ているだけで温かさが伝わってくる。
妹に向けるそのやわらかな笑顔が、なぜか頭から離れない。――もし、あの笑顔が自分に向けられたら。そんなことを、七音は誰にも気づかれないように、ひそかに思ってしまった。

「いかにも真面目くんって感じだね」
「俺らとは正反対だ」
「で、あいつがどうしたんだ?」

 同級生に声を掛けられ、七音は現実に引き戻される。

「あ、いや……なんでもない」

 自分とは正反対に見える唯。交換日記の相手が、不良じみている自分だと知られたら、この関係はきっと、そこで終わってしまうかもしれない。
七音は、固く心に決めた。

――正体を知られてはいけない。

 そう思ったはずなのに、胸の奥には、わずかな寂しさだけが静かに残っていた。