君のつづる文字に、恋をした

 朝の日が差し込む教室に、生徒たちの笑い声が飛び交う。
唯と七音は、その教室の中の一部だった。

「おい、そこは俺の席だぞ」

 低い声が、朝の騒がしい教室に混じって落ちた。怪訝な表情を浮かべた男――的場が、唯の前の席に当然のように座っている七音を見下ろしている。

「よお、的場」

 七音はちらりと視線を向けただけで、そこからどける気配すら見せない。椅子の背に体を預け、いかにも自分の席であるかのように、ゆったりと脚を組んでいる。

「おはよう、的場くん」

 その緊張をやわらげるように、唯が朗らかな笑顔を向けた。柔らかな声が差し込むだけで、その場の空気に温度が柔らかくなる。

 唯たちは、三年生になった。
進級と同時に行われたクラス替えで、生徒たちは進路によって二つに分けられた。
大学への進学を目指すクラスと、就職を目指すクラス。
唯と七音は、別々の教室になった。
 互いの教室は、わざわざ足を運ばなければ顔を合わせることが出来ないほどに離れてしまった。
それでも七音は、業間休みになるたび、ほとんど欠かさず唯のクラスに現れ、こうして当たり前の顔で席に居座っていた。
色の異なる二人が並んで過ごす光景に、いまだ違和感を覚える者は少なくない。だが二人の間では、周囲の視線も空気も、ただ通り抜けるだけで、すでに互いの距離を深く縮めていた。

「おい、どけ」

 的場が手にしたカバンで七音の肩をぐいと軽く押す。
七音は小さく息を吐き、「仕方ないな」とでも言いたげな表情でようやく腰を上げた。
唯と的場は同じクラスで、席は前後に並んでいる。唯の席は、的場の後ろだった。

「今でも意外だな。お前が就職希望だったなんて」

 七音は唯の席の横にしゃがみ込み、机に頬杖をつきながら、下から的場を見上げるように視線を送った。

「俺も意外だったな」

 その言葉を引き取るように、唯が微笑みを崩さぬまま静かに続ける。
唯は、就職希望者の集められたクラスだった。
家庭を少しでも支えようと、進学を断念したのだ。

「中川も意外だったよ。頭、いいだろう?」
「そんなことないよ。家のために、特進でいなきゃないし、上位を維持しなきゃいけなかっただけで」

 控えめな口調とは裏腹に、その言葉には長く積み重ねてきた努力の重みが滲んでいる。

「それでも、上位を保つ努力ができるのは、すごいと思うぞ」

 的場は穏やかな声でそう言い、まっすぐに唯を見た。
唯は一瞬だけ視線を伏せ、「ありがとう」と小さく笑う。照れくさそうにする唯の耳が、わずかに赤くなっていた。

「はい、ストップ。唯を誘惑しないでくれるか?」

 微かに和んだ空気を裂くように、七音が口を挟む。どこか不機嫌そうな声と表情をしていた。
七音は当然のような顔で唯の肩を引き寄せ、そのまま横から腕を回す。所有を告げるように、ためらいなく主張をした。
的場は肩をすくめ、七音から立ち上る嫉妬心の塊に、思わず笑みを漏らした。

「お前たちが、そういう関係だったとはな。それこそ意外だったよ」

 呆れたようで、どこか納得もしている――そんな微妙な表情が、的場の顔に浮かんだ。

 的場が唯と七音の関係を知ったのは、二年生の後半だった。それまでは、ただ仲の良い二人だと思っていた。
当時、七音に彼女がいるらしいという噂があることも知っていたし、唯に恋愛をしている気配は感じられなかった。
しかしある日、人気のない裏校舎で、二人が互いの唇を寄せ合うのを偶然目にしたのだ。

 そこには、二人だけの世界が広がっていて、他者である的場の存在など、届いていなかった。
その時に、二人が秘密の関係にあることはすぐに分かった。しかし、関係が外に漏れるのは時間の問題にすぎない――それほどまでに、二人は自分たちだけの世界に浸っていたように見えた。
そこで的場は、あえてその世界に割って入り、二人に向かって、周囲に気づかれぬよう、場所や時間に気をつけるようにと促したのだ。
その一歩があったからこそ、今の三人の関係が築かれたのだった。
とはいえ、七音が的場に対して抱く警戒心は、明らかだった。

「七音、苦しい……」

 唯は、ぎゅっと抱き寄せられた腕の圧迫に息を詰まらせ、声にして訴えた。
七音の不安や、複雑に入り混じる感情のひとつひとつを、唯は理解していた。
「誠実そうな人が好き」という唯の理想に当てはめれば、的場は完璧にその条件を満たしている。
しかし、七音は見た目からしてその真逆だった。
唯は七音の不安を取り除きたくて、何度も思いを伝えていた。けれど、どれだけ七音に「好き」と伝えても、心の奥底の不安は拭えず、まだ残っているように見えた。

 緩んだ七音の腕の力を感じ、唯はそっとその腕を撫でた。
大丈夫だよ。と、伝えるかのように。

「安心しろ、俺は彼女一筋だ」
「そのための、就職活動だもんね」

 的場の言葉に、唯は笑みを返し、自然に言葉を重ねた。
的場は、卒業したら結婚をするつもりらしい。彼女を養うために就職をするのだと、以前そう言っていた。
卒業してすぐに結婚するのは早すぎるのでは、と一瞬思ったこともあった。だが、的場の揺るぎない決心は本物だった。
手をつないだその瞬間に、結婚を決めたというのだから。

 七音は「重すぎる」と茶化すこともあった。それでも、唯にとっては、羨ましいと思うほどの真剣さだった。
その気持ちを察してか、七音は当初、進路は就職を考えていたようだったが、やがて進学を目指し始めた。

 七音が言った。
男同士、結婚はできない。だから、これからのため、二人の未来のために大学を目指し、唯を一生養えるように、自分を磨くために進学するのだと。
ちゃんと考えていると。
 唯はそれを聞いたとき、恥ずかしさと嬉しさが入り混じり、言葉にできないほどの幸福感に包まれた。
その感覚は、今でも鮮明に心に残っている。

「そうだ、唯。これ、欲しがってたやつ」

 七音はポケットから、そっと何かを取り出した。唯の趣味で集めているシールだ。

「これ、なかなか見つからないやつなのに……」

 唯は驚きの表情を浮かべ、手渡されたシールをじっと見つめる。
少し風変わりなキャラクターの小さなシール。それを受け取ると、唯は自分のシール帳に一枚一枚丁寧に貼り、ページを埋めていった。
七音がその様子を眺めることで、胸にある独占欲が、静かにほぐれていくのを唯は知っていた。
そして唯もまた、七音からもらったシールで埋まったページを見て、心の奥までじんわりと幸せを感じるのだった。

「あと、これ」

 次に手渡されたのは、二冊目に突入した交換日記だった。
スマホでの連絡を取り合うのは日常となったが、交換日記は、二人だけの小さな世界として今も健在だった。

「お前ら、まだそれやってたのか」

 的場は呆れたような口調で言った。

「それにしても、見た目によらず天城は字がきれいだよな」
「見た目によらずで悪かったな」

 的場の、嫌味にも関心にも聞こえる言葉に、七音は反応する。軽く言い返したその声には、親しみが混じっていた。

「絵も可愛いんだよ」
「中川の好みは独特だな」

 唯が自慢げに七音の描いた絵を的場に見せる。自慢された絵を目にすると、的場は苦笑いを浮かべる。

その時、ホームルーム開始の予鈴が鳴り響いた。

「唯、またな」

 七音の長い指が、そっと唯の頬を撫でる。その指は柔らかく、確かな温もりがある。

「うん、また」

 名残惜しさを込め、指を絡めて返すと、愛おしさが胸に押し寄せる。

 この手が綴る文字が好き。
その文字の向こうにいる七音の姿、声、指先の温もりまでもが、唯の心に「好き」を満たして深く刻まれている。

唯はそっと微笑み、言葉にできない幸福を胸に抱いた。

 ――今日は何を綴ろうか。

ノートを静かに広げ、唯はペンを握る。この手で綴るのは、文字で想いを繋ぐ、柔らかな幸福だった。