君のつづる文字に、恋をした

 七音は、唯があの字が的場のものではないと、ようやく気づいたことに密かに安堵していた。
 けれど同時に、的場から「この字は誰のものか」と問われた瞬間、胸の奥に小さな反感のような感情が芽生えたのも確かだった。
 唯に尋ねられたのなら、答えはまた違っていたかもしれない。だが、別の誰かにその秘密を明かされるのは、どうしても嫌だった。
これは、小さな嫉妬だ。
 ――気づくなら、唯自身に気づいてほしい。
そんな身勝手な願いが胸の奥に残っている。
 その欲張りな思いが、七音にもう一度、静かに嘘をつかせたのだった。

でもあの時、唯がほんの少しだけ寂しそうに見えたことで、七音の中の均衡は静かに崩れた。
独占したい。けれど、傷つけたいわけじゃない。
その相反する想いが、ようやく一つの答えへと形を変えていく。
 もう、隠し続ける意味はない。
守りたいのも、独り占めしたいのも、どちらも自分の本音なら――明かしてもいいのかもしれない。
理想の相手ではないかもしれない。
今まで隣で知らないふりをしてきたことを、咎められるかもしれない。
からかわれていたのだと、怒られる可能性だってある。
それでも、もうこれ以上、唯を困らせたり、試すような真似はしたくなかった。
勘違いをしたまま、自分ではない別の人の隣へ行ってしまうかもしれない――そんな未来を想像するだけで、胸の奥でが苦しくなる。
たとえ嫌われても、幻滅されても、その時は、もう一度、こちらを見てもらえるように、いくらでもやり直せばいい。
そう思えた瞬間、胸の奥にあった迷いは、不思議なほど静かに消えていった。

「さて、どうやって打ち明けようか」

 七音は、困りながらも、少しだけ胸が弾んでいた。

 ―――

 昼の委員活動があったその日。
唯の頭の中は、ぐしゃぐしゃだった。
今となっては、的場への想いも、ただの憧れとして静かに終わっている。あの気持ちは、きちんと過去になったはずだ。
――それなのに。交換日記の相手が、的場ではなかったと分かってから、心のどこかに小さな引っかかりが残ったままだった。
交換日記を打ち切られたとき、これで区切りがついたのだと思った。けれど、また相手が分からなくなってしまった。答えが出ないまま終わったせいか、ときどき、その疑問が胸の奥に浮かび上がる。

 もし、あの文字の向こうにいたのが――。
そこまで考えて、唯はそっと思考を止める。
曖昧なままの疑問を抱えていても、時間は淡々と過ぎていく。唯の小さな戸惑いも、他には知られないまま、静かに日々の中へ溶けていった。

 午後の業間休み。数名のクラスメイトが、七音の机の前に自然と集まっていた。

「七音って、見た目によらず字がめっちゃ綺麗だよね」

 女子のひそやかな感心の声に、男子たちも興味深げに覗き込む。

「でも、絵がちょっと、な……」

 笑いを必死にこらえる男子の視線は、七音のノートに釘付けになっていた。

「そんなことねぇーだろ。絵も上手いだろうが」

 七音は軽く笑いながら、ちらりと唯を見た。その瞬間、唯の胸は少しだけ跳ねた。
どれほど字が上手いのか、確かめてみたい――でも、あの人混みの中に紛れ込む勇気はなかった。
そして、業間休みはあっという間に過ぎ、次の授業のチャイムが鳴った。
教室の空気がゆっくりと学習モードに切り替わる中、英語の授業が始まった。
この日の英語の授業では、クラス全員に黒板に好きな単語のスペルを書かせるという珍しいものだった。
普段は静かに授業を受けるだけの時間に、少しだけ緊張感とざわめきが生まれる。
生徒たちが、どの単語を書こうか迷いながら順番を待ち、教室の空気はいつもとは違う、小さな興奮で満たされていた。
 普段は手を挙げることもまばらな生徒たちが、少しざわめきながら順番を待つ。
生徒たちがどの単語を書こうかと迷い、隣同士で小声で相談したり、ちらりと黒板を見てうずうずした表情を浮かべたりしている。
教室全体に、緊張と好奇心が入り混じった独特の空気が漂っていた。
 そんな中、ついに七音の番が回ってきた。
少しざわつきながらも、皆の視線は黒板の前に立つ七音に集まった。
七音は、軽くチョークを手に取り、黒板の前に立つ。
何か面白いことを言うでもなく、ただ落ち着いた手つきで文字を書き始める。
その動作は無駄がなく、自然でありながら、どこか存在感があった。

「おい、ふざけてるのか天城」

 先生の苦笑いが教室に響くと、クラス全体が笑いに包まれる。
七音は迷うことなく、黒板にこう書いたのだ。

I’m(アイム) really(リアリー) bored(ボアード) in(イン) this(ディス) class(クラス). 」

 七音が書き上げたのは、遊び心を含ませていた。
七音の書いた字はあまりにも誠実で、見る者の目を引きつける。
その言葉の横には、小さな線や丸で描かれた、さりげない落書きも添えられていた。
 唯は胸の奥ではっとした。
見覚えのある文字、見覚えのある丁寧さ、そしてどこか温かみのある線――それは、唯の心に小さな衝撃を与えた。

 ―――この字、知ってる。

 唯は思わず息を呑む。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるようで、体の奥まで熱が巡る感覚を覚えた。まるで、無意識に心の奥に仕舞い込んでいた何かが、静かに揺り動かされたかのようだった。

 教室のざわめきや笑い声が、遠くで霞んでいく。
唯の視線は自然と黒板の文字に釘付けになり、手に持ったノートの端を軽く握りしめていた。
 涙が少し、目の奥で熱く滲む。
嬉しさや驚き、そして胸の奥でくすぶる切なさ――様々な感情が、言葉にできないまま唯の胸を満たしていく。

 教室の賑わいの中で、唯はじっと文字を見つめ、気づけば小さく息をついていた。
胸の奥のざわめきが、少しずつ確かな感情に変わっていく。
その感覚は、もう否定も整理もできないほど、唯の心に根を下ろし始めていた。

「七音、うけるんだけど」
「先生に宣戦布告ってか?」

 クラスメイトたちの笑い声が、教室に軽やかに広がる。

「ギャグにもなってねーぞ」

 七音はにやりと笑みを浮かべ、涼しい顔で黒板を見つめていた。
その余裕さに、教室中がさらに笑いに包まれる。

けれど、唯の視界と心は、その賑やかさとは別のリズムで動いていた。
胸の奥が、甘く騒ぎ、心臓が高鳴る。周りの笑い声も、黒板の文字も、七音の存在の前では遠くに溶けていくようだった。

「俺はな、このスペルだけは自信あるんだ」

 そして、ふと目が合う。
七音のまっすぐな瞳。普段は穏やかで落ち着いた印象のその目が、今は確かに唯を見ている――そのことだけが、唯の全てを支配する。時間が、空気が、教室のざわめきさえも、止まったかのように感じられた。

 次の瞬間、唯は自分が何をしていたのか、何を考えていたのか、まったく覚えていない。
ただ、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚だけが、深く残った。

 授業が終わっても、話しかけるタイミングは、最後まで訪れなかった。
隣の席にいたときとは違い、周囲には七音を囲む人々の輪ができていて、七音から声をかけられない限り、唯が自ら話しかける雰囲気など、いつもなかった。

 そのまま下校時刻を迎え、結局話すことは叶わず、唯は緑化委員の日誌を委員の教室まで届けに来た。

 ――明日こそ、タイミングを見計らって話そう。少しでも話す時間をもらおう。
スマホで連絡すればいい。

頭ではそう分かっている。でも、一度しか連絡したことがない相手に、いきなり話しかけるように送るのは怖かった。
『交換日記、してたよね……?』
『どうして黙ってたの?』
 どの言葉で切り出すのが正解なのか、唯には全く見当がつかない。
どんな文章にすれば自然に聞こえるのか、送ったら変に思われないか、考えれば考えるほど胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
手元のスマホを握るたび、指先が微かに震え、心臓の高鳴りが止まらない。
 気持ちの整理ができないまま、唯は静まり返った委員の教室の扉を押し開けた。
中には、小さな空間に柔らかい光が差し込んでいる。
目の前の大きなテーブルの上には、ひときわ存在感を放つ一冊のノートが置かれていた。

「これ……」

 唯の手が自然と伸びる。
何度も開き、時には閉じていた、見覚えのあるノート。
指先が触れるだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びる懐かしさ。

 そこにあったのは、いつの間にか途切れてしまったはずの、あの交換日記だった。