君のつづる文字に、恋をした

 夏休み。
唯は短期のアルバイトを始めた。
家計を少しでも助けたい――そんな思いから、一年の頃から世話になっているローカルチェーンのカフェで働いている。
店長は気さくで、店の空気もやわらかい。妹を学童に預けられる時間帯、唯はほとんど毎日のようにシフトに入り、夏の光が濃くなるにつれ、働く時間もまた、静かに積み重なっていった。
 今日は町がやけに浮き立っている。
昼過ぎだというのに、浴衣姿の女たちがそぞろ歩き、どこか甘い熱をまとっている。
 夏祭りだ。
夜の花火の時間には、妹を連れていく約束をしている。けれど、こういう日は決まって店が混む。
まだ時間に余裕はあるが、定時はすっかり超えていた。
途切れない客足を前に、時間になったからといって帰るとは言い出しにくい。
胸のどこかで焦りがくすぶる。
 それでも、忙しさはありがたかった。
手を動かしている間だけは、余計なことを考えずに済む。
仲睦まじい男女が手をつないで通りを歩いていくのが視界に入ると、七音もきっと、ああしているのだろうと思ってしまう。
彼女と並んで、祭りへ向かうのだろうか――そんな想像が、勝手に胸の奥を重くする。
数日前、祭りのポスターを目にしてから、気持ちはずっと沈んだままだった。
だから、この忙しさは、どこか救いでもあった。

 テイクアウトの注文を次々と受け、会計を済ませる。
顔を覚える余裕もないまま働き続け、ようやく波がひと息ついた、そのときだった。

「いらっしゃいま……せ」

 声が、わずかに詰まった。
顔を上げた瞬間、時間が止まったように感じた。
 七音と、その隣に立つ彼女。
二人は、祭りのざわめきを背負うように、そこにいた。
彼女の浴衣姿を見るかぎり、これから祭りへ向かうのだろう。
唯は七音と目が合った瞬間、呼吸を忘れた。胸の奥が小さく跳ね、そのまま息の仕方を見失う。

「あ、七音と同じクラスの子でしょ」

 七音の彼女が、唯のことを知っている様子で先に声をかけてきた。
一方、七音は、ここで唯が働いているとは知らなかったのだろう。
ほんの一瞬、まばたきが止まる。

「……ここで働いてるんだ」

 少し遅れて、七音が声をかけた。その声を久しぶりに耳にした途端、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

「うん。夏休みだけね」

 自然と笑みがこぼれる。話しかけてもらえたことが、思った以上に嬉しかった。
けれど、その感覚は長く続かなかった。
七音の彼女が、にこにことしたまま、何事もない顔でメニューに目を落とす。

「わたし、これ!七音は?」
「あぁ……えっと、コーヒーかな」

 七音は、わずかに視線を泳がせてから、メニューを見た。

「お店で飲んでく感じでいいよね?」
「テイクアウトじゃダメなの?」
「足疲れちゃったもん」
「あぁ……下駄っすもんね」

 目の前で、恋人同士の何気ない会話が続いていく。そのやり取りを、唯はただ、レジ越しに聞いていた。

「じゃあ、これとこれ、店内で。よろしくね」

 彼女が、軽やかな明るい声で唯に言った。
唯は、うまくレジのキーを押せないほど、指先が冷えていることに気づく。小さく打ち間違え、もう一度、押し直した。

「ちょっと、大丈夫ー?疲れてるー?」

 彼女が、唯の数回の押し間違いに苦笑いを見せる。

「すみません……大丈夫です」

 深呼吸をして、改めてキーを押す。
落ち着いて、冷静に。
唯は自分に言い聞かせながら、会計を済ませた。

「お品物は隣のカウンターからお受け取り下さい。ごゆっくりどうぞ」

 震えそうになる声を抑え、マニュアル通りの言葉を二人にかける。

 ――どうしよう。
目の前にいる七音に話しかけたいのに、うまく思考が回らない。胸の奥だけが、落ち着かない速さで脈打っていた。

「あの、天城くん!」

 気がつけば、何も考えないまま声を掛けていた。
七音はピタッと足を止め、唯を見た。

「んー?どうしたの、唯ちゃん」

 返された言葉に、唯は今までにない距離を感じ取る。
敬称が戻っている――そのことが、思った以上に胸に引っかかった。

「あ、いや……えっと……元気そうで良かった」

 絞り出した言葉を七音にかけると、七音はニコッと笑みを見せ、「そっちもね」と一言返し、彼女の元へと歩いていった。
出来てしまった距離は、なぜなのか。考えるより先に、胸の奥が重く沈む。

「ごめん、中川くん。もう少しだけ残業頼める?」

 店長の言葉に、唯は一瞬戸惑った。
店内には、まだ七音とその彼女がいる。視界の端にその姿が入るだけで、息が浅くなる。
しかし、唯の性格上、断ることなどできなかった。

「……はい、大丈夫です」

 そう答えた瞬間、逃げ道がひとつ閉じた気がした。
新しい注文を受け、トレーを拭き、空いたテーブルを整える。身体を動かしていれば、余計なことは考えずに済むはずだった。
それでも、視界の端に入ってしまう。
窓際の席。向かい合って座る二人。彼女が身振りを交えて話し、七音がそれに笑う。
グラスに触れる指先。テーブル越しに、わずかに縮まる距離。
見ないふりをしても、ふとした拍子に目が向いてしまう。コーヒーを運ぶ途中で、危うく足を止めそうになる。

七音が、何気なくこちらを見た――気がした。
反射的に目を逸らす。遅れて、心臓が強く鳴る。

気にしない。気にしちゃいけない。
そう言い聞かせながら、唯は空になったカップを下げた。

 店内には、祭りのざわめきとは違う、やわらかな笑い声が続いている。
その輪の外側に、自分だけが立っているような気がした。

 やがて、窓際の席の二人が立ち上がった。
レジ越しに、唯の視線が無意識にそちらへ向く。胸の奥の騒音が、なかなか収まらない。
見ていたくなかったはずなのに、行かないでほしい、と思ってしまう。
せめて、何か一言でも。七音の声を、もう一度だけ聞きたかった。
 気がつくと、メモ用紙を一枚ちぎっていた。
震える指で連絡先を書くと、文字はわずかに歪んでいた。
今を逃したら、きっともう渡せない。
唯は小さく息を吸い、レジを離れた。

「あの……天城くん」

 声をかけると、七音が振り向いた。隣で彼女が、不思議そうにこちらを見る。
喉がうまく開かないまま、それでも握りしめていた紙を唯は七音に差し出した。

「これ」

 七音は紙に目を落とし、それからゆっくりと視線を上げる。その目とぶつかった瞬間、胸の奥が一度、大きく跳ねた。

「……連絡、待ってるから」

 言い終えた途端、遅れてさらに心臓が強く鳴った。
七音の指先が、そっと紙を受け取る。
一瞬だけ触れた温度が、やけに鮮明に残った。

彼は小さく「うん」と答えた。その意味を確かめる前に、彼女に呼ばれ、七音はすぐに視線を戻す。
自動ドアが開き、祭りのざわめきが流れ込む。
七音は紙をポケットにしまい、彼女とともに人の波の中へ消えていった。

 唯は、しばらくその場から動けなかった。自動ドアが閉まり、店内に静けさが戻っても、心臓の速さだけが、なかなか元に戻らなかった。

 ――返事が来なかったとき、自分はどこまで平気でいられるのだろう。

その夜から、唯は携帯を手放せなくなった。