「すまなかった」
的場が頭を下げたとき、唯は思わず目を見開いた。
あの日のケンカの原因を知ったのは、それから数日が過ぎてからだった。
「俺が軽率だった」
それは、的場なりの精一杯の謝罪だった。
「深く考えずに話してしまったんだ。あんな形で広まるとは思っていなかった」
あの日、唯が的場に告白したという噂が流れ、軽蔑されている――そんな話が広まっていたのだという。
唯が的場に懐いていることは、以前からたびたび話題に上がっており、やがて「ゲイなのではないか」という冗談まで飛び交うようになっていたらしい。
その話を聞いたとき、唯はうまく言葉を返せなかった。
的場は、唯から向けられている好意のようなものを感じ取りながらも、周囲の目もあり、どう受け止め、どう対処すべきか分からなかったという。
「人として好きだと中川から言われたが、どうも周りはそう受け取ってくれない。中川と距離を取るべきかどうか――」
そんな戸惑いを、軽い気持ちで友人に打ち明けてしまった。それが、噂の発端だったらしい。
だが、その真意は置き去りにされたまま、面白半分の話だけが一人歩きした。噂はいつの間にか余計な色を重ね、真実とは異なる形へと歪んでいったのだと、的場は静かに語った。
その言葉を聞きながら、唯はただ、胸の奥がわずかに締めつけられていくのを感じていた。
痛みの理由を、まだうまく言葉にできないまま。
「最近、そういう噂が出やすいだろ?それで、あの日、天城に中川との関係について聞かれて答えたんだ……」
その表情からも、自分の軽率さを深く悔いていることが伝わってくる。
的場は一度言葉を区切り、視線を落とした。
「誤解されたくなくて、つい強い言い方をしてしまった。『好意を向けられても気持ちが悪い』と……あんな言い方をするつもりじゃなかったんだ」
誤解を否定しようとするあまり、好意そのものを拒絶する形になってしまったこと。そのことを、的場ははっきりと後悔しているようだった。
「天城は、噂の出所を知って俺に声をかけてきたんだと思う。あのときは理由もわからずに殴られて、正直戸惑ったが、あとになって噂のことを知って……あいつが怒った理由も、理解できた」
理由もわからないまま一方的に殴られ、困惑していたが、事情を知ってからは七音の激しい怒りにも納得がいった――的場は、そう語った。
「……そうだったんだ」
ケンカの理由が自分にあったことに、唯は驚きこそしたものの、どこかで察していた気もした。
的場を怪我させたことは決してよくない。それでも、自分のために行動してくれていたのだと思うと、わずかに胸が温かくなる。
「友達が変な噂を流されたとなったら、嫌なのは当然だろ。けど、あんなに怒ってくれるなんて、いい友達だな」
そう言われた瞬間、唯の胸に小さな引っかかりが残った。
――友達。
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
確かに、そうなのだと思う。そうでしかないのだと分かっている。けれど、なぜかその響きは、思っていたよりもずっと痛かった。
「……うん。そうだね」
唯は、小さくうなずいた。
胸の奥に生まれたこの感情に、まだ名前をつけられないまま。
七音の横顔が脳裏に浮かんだ。
それからも、七音の席は空いたままだった。
あと少しで一ヶ月になる。教室は、ひとつの空席を除けば、これまでと変わらない平凡な日々を重ねていた。
七音のいない寂しさは、誰もがどこかで感じているようだったが、連絡先を知っている生徒たちは、ときおり近況をやり取りしているようだった。
しかし、唯は七音の連絡先を知らなかった。
聞かれたこともなければ、席が離れてからは、こちらから尋ねる機会もなかった。
「そういえば昨日、七音が――」
クラスメイトの男子が、何気なく交わしたやり取りを話している。そのたび、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚があった。近くなれた間柄だと思っていたのに、連絡先ひとつ知らないのだと気づくたび、言いようのない虚しさが広がっていく。
「夏休みまでに戻ってこれねぇんだって」
日差しがいっそう強まり始めた七月の半ば。学校は、夏休みを目前にしていた。
その言葉を耳にした瞬間、唯の胸に、静かな寂しさが押し寄せる。
それでも教室のざわめきは止まらなかった。
「いいなぁ、学校休みまくりじゃん」
「でも課題すげぇらしいぜ。毎日、先輩が届けてるって」
「彼女の?」
「そうそう。毎日一緒に課題やってるって、七音も言ってたし、先輩も自慢してたのを見たぜ」
「彼女が自宅に?……ってことはさ」
「つまり、そういうことだろ?」
「ああ、いいなぁ……俺も彼女ほしい」
下世話な笑い声が広がる。
その会話を耳にし、唯の胸は、じわじわと冷えていった。
――好きって言ってたくせに。
心の中で、周りに聞こえない声がこぼれる。
唯はシール帳をそっと開き、ページいっぱいに貼られたシールを見つめた。そこに残る七音とのやり取りをたどることだけが、離れてしまった距離を少しでも埋め、彼の存在を近くに感じるための、たったひとつのささやかな方法だった。
それでも、触れられない距離だけが、確かなものとして、胸の奥に静かに残っていた。
連絡先を知っていたなら、どんなやり取りをしていただろうか。
ケンカをしたことを、責めてしまったかもしれない。
――会いたい、と言ってしまったかもしれない。
その言葉を胸の奥で噛みしめると、唯は思わず息をのんだ。
自分の気持ちが、今どこにあるのか。初めて、はっきりとわかってしまったのだ。
唯は、心の中で、ほんの少しだけ七音の隣にいる自分を想像してしまう。
七音が戻らないまま、夏休みが静かに始まった。
的場が頭を下げたとき、唯は思わず目を見開いた。
あの日のケンカの原因を知ったのは、それから数日が過ぎてからだった。
「俺が軽率だった」
それは、的場なりの精一杯の謝罪だった。
「深く考えずに話してしまったんだ。あんな形で広まるとは思っていなかった」
あの日、唯が的場に告白したという噂が流れ、軽蔑されている――そんな話が広まっていたのだという。
唯が的場に懐いていることは、以前からたびたび話題に上がっており、やがて「ゲイなのではないか」という冗談まで飛び交うようになっていたらしい。
その話を聞いたとき、唯はうまく言葉を返せなかった。
的場は、唯から向けられている好意のようなものを感じ取りながらも、周囲の目もあり、どう受け止め、どう対処すべきか分からなかったという。
「人として好きだと中川から言われたが、どうも周りはそう受け取ってくれない。中川と距離を取るべきかどうか――」
そんな戸惑いを、軽い気持ちで友人に打ち明けてしまった。それが、噂の発端だったらしい。
だが、その真意は置き去りにされたまま、面白半分の話だけが一人歩きした。噂はいつの間にか余計な色を重ね、真実とは異なる形へと歪んでいったのだと、的場は静かに語った。
その言葉を聞きながら、唯はただ、胸の奥がわずかに締めつけられていくのを感じていた。
痛みの理由を、まだうまく言葉にできないまま。
「最近、そういう噂が出やすいだろ?それで、あの日、天城に中川との関係について聞かれて答えたんだ……」
その表情からも、自分の軽率さを深く悔いていることが伝わってくる。
的場は一度言葉を区切り、視線を落とした。
「誤解されたくなくて、つい強い言い方をしてしまった。『好意を向けられても気持ちが悪い』と……あんな言い方をするつもりじゃなかったんだ」
誤解を否定しようとするあまり、好意そのものを拒絶する形になってしまったこと。そのことを、的場ははっきりと後悔しているようだった。
「天城は、噂の出所を知って俺に声をかけてきたんだと思う。あのときは理由もわからずに殴られて、正直戸惑ったが、あとになって噂のことを知って……あいつが怒った理由も、理解できた」
理由もわからないまま一方的に殴られ、困惑していたが、事情を知ってからは七音の激しい怒りにも納得がいった――的場は、そう語った。
「……そうだったんだ」
ケンカの理由が自分にあったことに、唯は驚きこそしたものの、どこかで察していた気もした。
的場を怪我させたことは決してよくない。それでも、自分のために行動してくれていたのだと思うと、わずかに胸が温かくなる。
「友達が変な噂を流されたとなったら、嫌なのは当然だろ。けど、あんなに怒ってくれるなんて、いい友達だな」
そう言われた瞬間、唯の胸に小さな引っかかりが残った。
――友達。
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
確かに、そうなのだと思う。そうでしかないのだと分かっている。けれど、なぜかその響きは、思っていたよりもずっと痛かった。
「……うん。そうだね」
唯は、小さくうなずいた。
胸の奥に生まれたこの感情に、まだ名前をつけられないまま。
七音の横顔が脳裏に浮かんだ。
それからも、七音の席は空いたままだった。
あと少しで一ヶ月になる。教室は、ひとつの空席を除けば、これまでと変わらない平凡な日々を重ねていた。
七音のいない寂しさは、誰もがどこかで感じているようだったが、連絡先を知っている生徒たちは、ときおり近況をやり取りしているようだった。
しかし、唯は七音の連絡先を知らなかった。
聞かれたこともなければ、席が離れてからは、こちらから尋ねる機会もなかった。
「そういえば昨日、七音が――」
クラスメイトの男子が、何気なく交わしたやり取りを話している。そのたび、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚があった。近くなれた間柄だと思っていたのに、連絡先ひとつ知らないのだと気づくたび、言いようのない虚しさが広がっていく。
「夏休みまでに戻ってこれねぇんだって」
日差しがいっそう強まり始めた七月の半ば。学校は、夏休みを目前にしていた。
その言葉を耳にした瞬間、唯の胸に、静かな寂しさが押し寄せる。
それでも教室のざわめきは止まらなかった。
「いいなぁ、学校休みまくりじゃん」
「でも課題すげぇらしいぜ。毎日、先輩が届けてるって」
「彼女の?」
「そうそう。毎日一緒に課題やってるって、七音も言ってたし、先輩も自慢してたのを見たぜ」
「彼女が自宅に?……ってことはさ」
「つまり、そういうことだろ?」
「ああ、いいなぁ……俺も彼女ほしい」
下世話な笑い声が広がる。
その会話を耳にし、唯の胸は、じわじわと冷えていった。
――好きって言ってたくせに。
心の中で、周りに聞こえない声がこぼれる。
唯はシール帳をそっと開き、ページいっぱいに貼られたシールを見つめた。そこに残る七音とのやり取りをたどることだけが、離れてしまった距離を少しでも埋め、彼の存在を近くに感じるための、たったひとつのささやかな方法だった。
それでも、触れられない距離だけが、確かなものとして、胸の奥に静かに残っていた。
連絡先を知っていたなら、どんなやり取りをしていただろうか。
ケンカをしたことを、責めてしまったかもしれない。
――会いたい、と言ってしまったかもしれない。
その言葉を胸の奥で噛みしめると、唯は思わず息をのんだ。
自分の気持ちが、今どこにあるのか。初めて、はっきりとわかってしまったのだ。
唯は、心の中で、ほんの少しだけ七音の隣にいる自分を想像してしまう。
七音が戻らないまま、夏休みが静かに始まった。
