君のつづる文字に、恋をした

 昼休みになると、校内は、天城七音と校内で名の知れた美貌の女子生徒の「カップル誕生」の噂で騒めいていた。
窓際の席に座る唯の視界にも、校舎の外を並んで歩く二人の姿が映り込む。
笑い合うその様子は、そこだけが別の季節に変わったかのように、やけに明るく見えた。
 様子を確かめようと、クラスメイトたちがわざわざ窓際まで集まってくる。
そのざわめきの中で、唯は居心地の悪さを覚えた。

「マジで付き合ってんだな」

 男子の何気ない一言が、妙に耳に残った。
 整った容姿の七音の隣に、同じくらい華やかな女子生徒が並んで歩く。
その光景は、あまりにも自然で、違和感なく釣り合っている。
どう見てもお似合いの二人の姿に、唯の胸の奥が、じくりと痛んだ。

 ――あれは夢だったのだろうか。あのキスも、あの告白も――。

 唯はそっと視線を逸らす。少しでもこの痛みをやり過ごすには、七音を見ないことが一番だと思ったからだ。

「おい、あれ」

 再び男子の声が上がる。
驚きの混じった声だったが、唯は振り向かないまま、次の授業の準備を始めた。

 手でも繋いだのだろうか。抱き合ったのか、それとも――。
その先を想像しかけて、唯は慌てて思考を断ち切る。
 見たくない。
胸の奥で確かにそう呟いた自分に、ふいに疑問が差し込んだ。なぜ、見たくないのか。
まさか――。失恋したばかりだというのに、もう別の感情に心を揺らしているのだろうか。
そんなはずはない。そう言い聞かせるように、唯は芽吹きかけた思いを、指先で摘み取るようにして否定した。

「やべぇだろ。誰か止めて来いよ」

 再び上がった声には、先ほどとは明らかに違う緊張が混ざっていた。
今度は、焦りを帯びた切迫した声。
その異様な響きに、唯もさすがに顔を上げ、窓の外へ視線を向ける。
そこには、男子生徒へ向かって拳を振り上げている七音の姿があった。

「え……どうして?」

 思わず声が漏れる。状況を理解するよりも早く、唯の心臓が大きく跳ね、唯は咄嗟に走り出した。
何が起きているのか考えるより先に、体が動いていた。止められないかもしれない。何もできないかもしれない。
それでも、七音のもとへ行かなければならない――そんな衝動が、唯の足を突き動かしていた。

「なにしてるの!」

 ようやく辿り着いたときには、七音は教師や周囲の生徒たちに体を押さえつけられていた。
まるで、狂犬でも扱うかのような光景だった。
その目は、凍るように鋭く、はっきりと殺意を帯びているように見える。
口元にわずかに血を滲ませてはいたが、七音の傷は軽いようだった。
一方、相手の男子生徒は地面に横たわり、自力では立ち上がれない様子だった。
 唯はふと、倒れている生徒に気づいた。

「的場くん!」

 倒れている相手が的場だと分かった瞬間、唯は迷わず駆け寄った。たとえ知らない生徒であっても、怪我をしている人を放ってはおけなかっただろう。だが、それが顔見知りの相手だったことで、唯はためらうことなく身を屈め、その体を支え起こした。

「どうして、こんなことに……」

 体を起こすのを手伝った、その時。

「唯は、そいつを選ぶんだな」

 七音の、悲しみを滲ませた声が届く。
違う、と言おうとして振り向いた瞬間、唯は初めて見る七音の表情に息をのんだ。
口角は上がっているのに、泣きそうな、どうしようもなく寂しそうな顔だった。

 その顔を、頭から追い払うことができないまま、昼休みは静かに終わりを告げた。
あの表情が、何度も胸の奥で繰り返される。
唯の心は、午後の授業が始まっても落ち着かなかった。
 授業は自習となり、教室のあちこちで生徒たちは七音の行動について口々に語り合っていた。
低く交わされる声は途切れることなく、教室の空気をどこかざわつかせている。
七音がケンカが強いという噂は以前からあったが、実際にその場面を見た者はいない。彼の中学時代の同級生が語ったのは、空手をしていたという、それだけの事実にすぎなかった。その話が広がるにつれ、これまで半ば冗談のように扱われていた噂が、急に現実味を帯びていく。あれほどの騒動を目にしたあとでは、誰もがその強さを疑おうとはしなかった。
一方で、的場も柔道をしていたらしいという話が広まっていた。空手をしていた相手に一発でもやり返せたのだから、何かを習っていたに違いない――そんな憶測が、静かに教室へと広がっていく。確かな根拠のないまま、空気だけが妙な熱を帯びていった。

 やがて、終業のチャイムが鳴る。それを合図にしたかのように、教室の扉が開いた。
教師に付き添われ、七音が入ってくる。
頬には湿布が貼られ、口元にはまだ消えきらない赤みが残っていた。
その痛々しい姿に、教室のざわめきが一瞬で止む。

「お前ら、天城は一ヶ月の謹慎だ」

 教師の声が、静まり返った空間に落ちた。大きな騒動になった以上、隠してはおけないと判断したのだろう。

 一ヶ月――。
七音は、そのあいだ学校に来ることができない。
日数でいえば、夏休みの直前、あるいはちょうど重なる頃だった。もしかしたら、夏休みが終わるまで会えないのかもしれない。
その時間の長さを思った瞬間、唯の胸がひどく重くなる。
 七音は何も言わなかった。
視線を伏せたまま自分の机へ向かい、淡々と帰り支度を始める。
その横顔には、昼休みに見たあの表情の名残が、まだ消えずに残っているように見えた。

「天城くん!」

 唯は思わず声を上げた。けれど、七音は振り向かない。そのまま教師に促されるように、ひと言も発することなく教室を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
 七音の背中が扉の向こうに消えたあとも、唯はしばらく動けなかった。
教室のざわめきが徐々に戻っていくのに、耳に届く音はどこか遠く、現実感が薄い。
さっきまで確かにそこにあった存在が、ぽっかりと抜け落ちたようだった。

 ――どうして、あんな顔をしていたのだろう。

 怒りでも、苛立ちでもなく、ただ取り残されたような、寂しさを滲ませた表情。
あの一瞬が、胸の奥に棘のように残り続ける。
的場を支えた自分の行動は間違っていなかったはずなのに、それでも七音に何かを突きつけてしまったのではないかという思いが、じわじわと胸に広がっていった。
 唯は手をそっと握りしめる。一ヶ月という時間の長さを改めて意識し、七音の席が空くことが、今になって胸にずしりと迫った。
胸の奥に生まれた、言葉にできない感情の正体を、まだ掴めないまま、唯は静かに俯いた。