君のつづる文字に、恋をした

 七音は、教室に戻るなり無言で身支度を始めた。

「おい、七音。帰るのか?」
「今日はもう、そんな気分じゃない」
「うわ、サボりだ」

 クラスメイトが笑いながら、自由に振る舞う七音を茶化す。

 天城七音という男を言葉にするなら、軽い空気のように掴みどころのない人間。そうやって生きてきた。
他人に興味はない。好意も憎悪も、向けられたところで気にしない。
誰にも執着せず、固定の仲間も作らず、ましてや恋人など一度もいたことがない。
人に興味を示すことも、人を好きになる感覚も知らなかった。
それを教えてくれたのは、中川唯。彼が初めてだった。

 どうしようもない衝動を抑えきれず、同意も得ないまま唇を奪った自分を、唯はどう思うだろう。
七音は、生まれて初めて「他人から向けられる感情」が気になった。
 今、唯に会うことが怖い。
その気まずさが、七音をこの場から逃げ出させようとしているようだった。

「また明日な」

 そう言い残し、七音は教室を後にする。
明日、話せばいい。隣の席なのだから、すぐそこにいるのだから。
そう自分に言い聞かせながら、七音は姿を消した。
明日までに、この混乱した頭と心を整理すればいいと。

あの日、七音は確かに委員の日誌に記入していた。
廊下を歩いていた他のクラスの委員が、当番だからと日誌を七音に渡してきたのだ。
いつも唯が記入してくれているその日誌を目にして、七音は、これは巡ってきたチャンスだと思った。
急に正体を明かす勇気はない。
それでも唯に気づいてほしい気持ちは捨てきれず、小さなヒントとして日誌に日付と天気だけを記入した。
しかし、それを委員室に置き忘れてしまった自分を、後になって後悔した。
的場がその日誌を唯に届けたことで、勘違いの連鎖が生まれたのだから。

 七音は自宅に戻るなり、適当な言い訳を口にして自室へ逃げ込んだ。
体調が悪いと言ってみたものの、顔色の良い息子の様子に、ただ機嫌が悪いだけだと母親にはすぐ見抜かれてしまう。
それでも、思春期真っただ中の男子高校生に根掘り葉掘り聞くような親でないことが救いだった。

 これで、思う存分、気持ちの整理ができる――そう思ったのに。
先ほど唯にした行為を思い出した途端、身体の奥がじわりと熱を帯びる。
 咄嗟の行動だった。一瞬の出来事だった。
けれど、触れた唇の感触は、まだ鮮明に残っている。

「あーッ……くそっ」

 七音は無造作に鞄を床へ放り投げた。
自分らしくない、と自分でも思う。
 あの時、唯を慰めるつもりだったはずが、先に立ったのは怒りだった。怒りだと思った次の瞬間には、どうしようもなく唯に触れたくなった。
 ――自分がいるだろう、と諭すように。

 今まで感情の起伏とは無縁だった自分は、いったいどこへ行ったのか。
唯が絡むたび、本来閉じていたはずの何かが殻を破り、顔を出してくる。
文字だけの関係で満足していた頃は、どれほど穏やかだったことだろう。
 少し丸みを帯びた、どこか可愛らしい字。けれど芯の強さが滲む、唯の文字。
それを愛おしいと思うだけで、十分だったはずなのに。
恋心に気づいてからも、遠くから見守るだけで満足していたはずなのに。
 二年生になり、唯に近づきすぎた。
その分、自分の欲も、気づけば大きく膨れ上がっていた。

「……はぁ」

 深く息を吐き、七音はベッドに身を投げ出す。

 明日、唯はどんな顔をしているだろう。
いつも通り挨拶してくれるだろうか。あのキスについて触れてくるだろうか。告白に対して、どう答えが返ってくるだろうか。
不安が幾重にも絡まり、七音の思考を掻き乱す。
 持ち帰ったノートを気怠げに鞄から取り出し、ページを開く。
 もう、正体を明かしてもいいだろうか。
どうして言ってくれなかったのかと責められるかもしれない。
知らないふりをして過ごしてきた日々を、裏切りだと責められるかもしれない。
許してもらえないかもしれない。

 正解が見つからないまま、時間だけが過ぎていった。

 ―――

「席替えしただって?」

 翌朝、登校してすぐ、七音は違和感に気づいた。自分の席が、唯から離れている。
昨日の最後の授業で、急に席替えが行われたらしい。
確かに、そろそろだという話は出ていた。
 それでも――なぜ、よりにもよって、このタイミングで。

 出来てしまった距離に、七音は心の中で舌打ちする。
どうして自分の選択は、こんなにも裏目に出るのか。
自分を責めることしかできないまま、七音は新しく割り振られた席に腰を下ろした。