木曜日。
診療所の勤務を終えたあと、桜はいつもの部屋でリーゼと向かい合っていた。
読み書きの練習用の紙が、机の上に並んでいる。
最近は、発音の練習もその中に加わるようになってきた。
とはいえ、話せるのはまだ十文字ほどだ。
日本人の桜にとって、この言語はやはり難しい。
「……ここは、もう大丈夫そうですね」
リーゼがそう言って、紙を重ねた。
「ありがとうございます。発音は全然ですけど、読み書きはだいぶ慣れてきました」
桜は息を吐き、肩の力を抜く。
少しの沈黙。
仕事でも、勉強でもない間。
「……こっちにいる時間が、前より長くなったからかもしれませんけど」
桜が、ぽつりと言った。
「たまに、日本の料理が食べたくなるんです」
「たまに、ですか」
リーゼが聞き返す。
「はい」
桜は頷いた。
「金曜の夜から日曜のお昼までは、日本に戻っているので」
「まったく食べられない、というわけじゃないんです」
少し間を置いて、続ける。
「それでも……こちらにいる朝は、パンが多いので」
「ふと、ご飯だったらな、って思うことはあります」
リーゼは、ふうん、と小さく相槌を打った。
「実際に朝ごはんを作るのは、無理ですし」
桜は苦笑する。
「時間もありませんし」
「そうですね」
リーゼは現実的に頷いた。
「なので……もし作るとしたら、水曜日のお昼かな、と」
桜は言葉を選びながら続ける。
「そもそも、自炊できるような台所って、あるんですか?」
「場所自体は、ありますよ。台所」
「診療所の近くにも、小さなものが」
「本当ですか」
桜の声が、少しだけ明るくなった。
「ただし、護衛上、使うなら許可は必要ですね」
「まあ、護衛はその日の部屋付き担当で問題ないと思いますが」
「もちろんです」
桜はすぐに頷く。
「勝手にやるつもりはありません」
「調味料も、こちらには限りがありますよね」
リーゼが続ける。
「はい」
桜は頷いた。
「この世界に持ち込めるなら、少しだけ、日本から……」
「だめなら、こちらのもので工夫しないとですね」
次々と言葉が出てくる桜が可笑しかったのか、
リーゼは、ふっと笑った。
「まずは、師団長に相談ですね」
「ですよね」
桜も、少し話し過ぎたことに気づいて、照れたように笑う。
「許可が下りたら、とりあえず一度だけ、やってみたいです」
リーゼは少し考えてから、言った。
「次の水曜日は、ちょうど私が担当です」
「もし、よろしければなんですが……」
「出来たら、私もお味見させていただいてもいいですか?」
「もちろんです。あ、でも……」
桜は念を押すように言う。
「口に合うとは限らないので、そこは正直に言ってくださいね」
「はい」
リーゼは素直に頷いた。
「サクラ様の世界の料理、一度食べてみたいと思っていたんです」
「時々、お話を聞いていましたから」
桜は、少しだけ照れたように微笑む。
「では……無理でしたら、その時は遠慮なく言ってください」
「あまり皆さんに迷惑はかけたくないので」
この間の出来事は、
彼女の中に、確かな危機感を残していた。
――――――――――
■食材の選択
月曜日。
昼休憩。
診療所の片隅で、
桜はヘンリエッタと向かい合っていた。
「……ちょっと、相談があって」
そう切り出してから、桜は少し間を置いた。
「私の住んでる国の料理を作ろうかと思って」
「診療所の近くに台所があるって聞いたので」
「へえ」
ヘンリエッタは、興味深そうに続きを促す。
「調味料だけは、持ち込めたんです」
「調味料だけ?」
「はい。食材は全部、結界に止められました」
「そういうものなのね」
「みたいです」
桜は苦笑する。
「なので、こちらの食材で作るしかなくて」
「……ただ、私、そんなに料理が得意じゃないんです」
「そうなの?」
「実家暮らしなので」
「基本的には、母が作ることの方が多くて」
言い訳みたいだな、と思いながらも、
桜は正直に続けた。
「母の代わりに作ることはありますけど」
「レシピを見ないで作れるものって、そんなに多くなくて」
「なるほどね」
ヘンリエッタは、責めるでもなく頷いた。
「じゃあ、簡単なものがいいわね」
「はい」
桜は少し考えてから、
料理名ではなく、やり方で説明した。
「野菜と肉を一緒に煮る料理と」
「それから、肉と野菜をたくさん入れた、温かいスープを」
「煮込みと、汁物ね」
「そんな感じです」
「それなら、失敗しにくいわね」
「はい……それが一番で」
桜は、少し安心したように息を吐いた。
「魚も、塩を振って焼くだけのものを考えてます」
「これ以上、味付けを増やすと混乱しそうで」
「分かるわ」
ヘンリエッタが、からりと笑う。
「一品だけ少し頑張って、あとはシンプルにするのよね」
「まさに、それです」
「それで、野菜は?」
「見た目は、日本のものと似てるのが多いんですけど」
「名前が分からなくて……」
「それなら、任せて」
ヘンリエッタは、自分の胸元を軽く叩いた。
「普段、診療所の食事に出てる野菜よね?」
「“この料理に入ってたやつ”って言ってくれれば、分かるから」
「あ……それなら」
桜は、少しほっとする。
「魚も同じよ」
ヘンリエッタは続ける。
「塩だけなら、癖がなくて、身が崩れにくいのがいいわ」
「はい」
「じゃあ」
ヘンリエッタは、当然のように言った。
「私が食材、買ってくるわ」
「え、でも……」
「私も食べたいから」
即答だった。
「サクラの国の家庭料理でしょう?」
「すごく気になるもの」
「……ありがとうございます」
桜は、少し照れたように頭を下げた。
「じゃあ、水曜日のお昼よね」
「明日、買ってくるから、詳しく教えてちょうだい」
「分かりました。じゃあ……お願いします」
そう言ってから、
桜は、思いつく限りの食材の特徴を、
ひとつずつ説明し始めた。
――――――――――
■言えなかった言葉
結界修正を終え、
桜は王宮の回廊を歩いていた。
進行方向側、
半歩ほど前をクロトが歩く。
いつもの配置だった。
しばらく歩いたあと、
クロトがふと思い出したように口を開く。
「……そういえば」
わずかに歩調を緩める。
「本日、料理を作られるそうですね」
「あ、はい」
桜は一瞬驚いてから、頷いた。
「そうなんです」
「護衛も大変なのに、わがままを聞いていただいて……」
そう言って、
半歩前にいるクロトに向かって、
ぺこっと頭を下げる。
「ありがとうございます」
クロトは足を止めないまま答えた。
「いえ。問題ありません」
淡々とした声だった。
「問題ない範囲です」
「……そう言っていただけると、助かります」
桜は、小さく息を吐いた。
やがて、
桜の部屋の前に差しかかる。
クロトは自然に一歩前へ出て、
扉に手を掛けた。
一瞬だけ中の気配を確かめ、
そのまま扉を開ける。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
桜はそう答えて、中へ入った。
――あの。
言いかけて、
言葉が喉で止まる。
いつか、
クロトにも桜の国の料理を食べてもらえたら。
ふと、そんな考えが浮かんだだけだった。
けれど、
自分は料理が得意なわけでもないし、
好みだって分からない。
桜が言葉に詰まっているのを、
クロトは急かすこともなく、
ただ静かに待っていた。
「……いえ、なんでもありません」
「ごめんなさい、引き止めてしまって」
クロトは少しだけ桜を見てから、
穏やかに答える。
「いえ。大丈夫です」
それ以上は何も言わず、
一礼して、扉の外へ下がる。
扉が静かに閉まり、
廊下の音が遠ざかった。
――――――――――
■初めての異世界での料理
火曜日。
診療所の昼過ぎ。
ヘンリエッタから受け取った食材は、
桜の部屋に備え付けられた冷却庫――
魔法石で温度を下げる、小さな冷蔵庫に入れて保管していた。
水曜日。
昼の時間帯。
台所にあるのは、
魔法石を使った簡単なコンロが二つ。
調理器具は、鍋が二つと、フライパンが一つだけだ。
「まず、ご飯を炊きます」
桜はそう言って、
米を研ぎ、鍋に水と一緒に入れる。
「炊飯器がないので、鍋で炊きます」
「水で炊くだけです。少し柔らかめでいいので」
「火加減は、私が見ますね」
「助かります」
リーゼが鍋のそばにつき、
桜はもう一つの鍋に向かった。
次は、煮物だ。
切った野菜と鶏肉、
それから乾燥昆布を鍋に入れる。
だしのつもりだった。
水を加えて、火にかける。
「これは……煮込み料理?」
「はい」
「野菜と肉を一緒に煮て、味を含ませる感じです」
鍋の中を覗き込みながら、
リーゼは興味深そうに頷く。
煮立ってきたところで、
桜は丁寧にあくをすくった。
「ここで、先にお酒を入れます」
そう言って、
ゼフィーリアの酒を回し入れる。
「臭み消しみたいなものです」
一度、少し強めに火を入れてから、
次に、みりん。
桜が器に少量取り分けると、
リーゼが不思議そうに覗き込む。
「これが……甘い調味料?」
「はい」
リーゼは指先にほんの少し付けて、舐めた。
「……甘いですね」
「でも、砂糖とは違う」
「お酒が入っているので」
次は、しょうゆ。
こちらも少しだけ器に取る。
リーゼは慎重に味見して、
すぐに表情を引き締めた。
「……しょっぱいですね」
「でも、塩とも違う」
「なので、最後に入れます」
そう言って、
桜は鍋にしょうゆを加える。
「全部一緒に入れないんですね」
「はい」
「順番で、味の入り方が変わるので」
具材が浮かないよう、
鍋の中に軽い板を乗せ、
しばらく静かに煮る。
味が全体に回ったところで、
火を止め、煮物を器に移した。
「これで一品、完成です」
「さめても、大丈夫なので」
リーゼは、
茶色く艶の出た煮物を見て、素直に言った。
「……なんだか、茶色いですね」
「ですよね」
桜は苦笑する。
次に、空いた鍋でみそ汁を作る。
肉と野菜を入れて火にかけ、
具材にしっかり火を通す。
「これは、さっきのとは違うんですか?」
「はい」
「汁物です。温かいスープみたいなものですね」
桜は最後に味噌を溶き入れ、
器に少量取り分けてリーゼに渡した。
リーゼはまた味見をする。
「しょっぱいけど……全然違いますね」
「匂いも」
その頃、
ご飯の鍋から、ふわっと湯気が立った。
「いい感じです」
リーゼが火を弱め、
しばらくして鍋を火から下ろす。
「炊けました」
「ありがとうございます」
最後に、フライパン。
薄く油を引き、
塩を振った魚を並べる。
「味付けは、塩だけ?」
「はい。それだけです」
「思い切りがいいですね」
焼ける音が、
台所に心地よく響く。
必要なものを器に盛り付ける。
煮物。
みそ汁。
白いご飯。
焼き魚。
リーゼは一通り眺めてから、
もう一度、正直に言った。
「やっぱり、全体的に茶色いですね」
「そうなんです」
「でも、味は悪くないはずです。好みに合えばですが」
「匂いは、すごくいいです」
その一言に、
桜は少しだけホッとした。
料理が一通りできあがる頃、
台所の外から、パタパタと走る音が聞こえた。
「そろそろかな、と思って」
顔を出したのは、ヘンリエッタだった。
あらかじめ、
「このくらいの時間になると思います」と伝えてあった。
ほぼ、その通りだった。
「ちょうど今、できたところです」
桜はそう言って、
煮物とみそ汁の鍋を示す。
「思ったより……量が多くて」
少し困ったように笑いながら、
桜は用意していた大きめの容器を取り出した。
煮物とみそ汁を、
それぞれ分けて入れていく。
「お昼に食べる分だけ、と思ってたんですけど」
「作りすぎちゃって」
「全体的に茶色いけど、いい匂いね」
ヘンリエッタも、
中を覗き込みながら素直な感想を口にする。
「口に合うか分からないんですけど……」
桜は少し言い淀んでから続けた。
「興味がある人がいたら、少しずつどうぞ、って感じで」
「味見、ってことね」
「はい。無理にじゃなくて」
ヘンリエッタは頷き、
容器を受け取った。
「みんな、興味津々だから大丈夫よ」
ヘンリエッタが去るのを見送ったあと、
桜はあらかじめ用意していた運搬用のワゴンを引き寄せた。
鍋を二つ。
煮物を盛った器。
焼き魚の器。
それらを順に載せていく。
「私が運びますね」
桜がそう言うと、
リーゼはすぐに頷いた。
「ええ。そうしてもらえると助かります」
「両手を塞ぐわけにはいかないので」
申し訳なさそうにしながらも、
リーゼは護衛という任務を忘れない。
ワゴンを押す桜の横を、
リーゼが少し距離を取って並ぶ。
部屋に入ると、
桜はワゴンを止め、
リーゼと協力して、あらかじめ用意していた器を並べた。
ご飯をよそい、
みそ汁を注ぐ。
煮物と魚は、
取り皿で分けることにする。
「……立派な、昼ご飯ですね」
並んだ料理を見て、
リーゼが率直に言った。
「ですかね?」
桜は少し照れたように笑う。
「もし、口に合わなかったら……」
「大丈夫です」
そう言って、
リーゼは先に箸を取った。
まず、みそ汁。
一口含んで、
リーゼは少しだけ考えるような顔になる。
「……不思議ですね」
「不思議、ですか?」
「はい」
「塩味なのに、こちらのスープとは全然違う」
「でも、嫌じゃない。私は結構好きな味です」
もう一口、
確かめるように飲む。
次に、煮物。
具材を一つ取り、
ゆっくり噛んでから言った。
「これも……」
「味がしっかりしていて、おいしいです」
「煮込みもスープも、こちらにはない味ですね」
「でも、癖になりそう」
どうやら、
リーゼは日本の調味料が大丈夫なタイプらしい。
焼き魚にも箸を伸ばし、
リーゼは小さく頷いた。
「良い、組み合わせですね」
「……よかったです」
桜は、安堵のため息をついた。
自分の世界の料理を、
おいしいと食べてくれることが、
こんなにも嬉しいとは思わなかった。
――――――――――
その後、
診療所で分けた煮物とみそ汁の味はどうだったか。
木曜日の出勤日に聞いてみると、反応は実にさまざまだった。
「おいしい」と素直に喜ぶ声もあれば、
「少し独特だ」と首を傾げる者もいる。
けれど、
どれも“初めての味”への、正直な反応だった。
診療所の勤務を終えたあと、桜はいつもの部屋でリーゼと向かい合っていた。
読み書きの練習用の紙が、机の上に並んでいる。
最近は、発音の練習もその中に加わるようになってきた。
とはいえ、話せるのはまだ十文字ほどだ。
日本人の桜にとって、この言語はやはり難しい。
「……ここは、もう大丈夫そうですね」
リーゼがそう言って、紙を重ねた。
「ありがとうございます。発音は全然ですけど、読み書きはだいぶ慣れてきました」
桜は息を吐き、肩の力を抜く。
少しの沈黙。
仕事でも、勉強でもない間。
「……こっちにいる時間が、前より長くなったからかもしれませんけど」
桜が、ぽつりと言った。
「たまに、日本の料理が食べたくなるんです」
「たまに、ですか」
リーゼが聞き返す。
「はい」
桜は頷いた。
「金曜の夜から日曜のお昼までは、日本に戻っているので」
「まったく食べられない、というわけじゃないんです」
少し間を置いて、続ける。
「それでも……こちらにいる朝は、パンが多いので」
「ふと、ご飯だったらな、って思うことはあります」
リーゼは、ふうん、と小さく相槌を打った。
「実際に朝ごはんを作るのは、無理ですし」
桜は苦笑する。
「時間もありませんし」
「そうですね」
リーゼは現実的に頷いた。
「なので……もし作るとしたら、水曜日のお昼かな、と」
桜は言葉を選びながら続ける。
「そもそも、自炊できるような台所って、あるんですか?」
「場所自体は、ありますよ。台所」
「診療所の近くにも、小さなものが」
「本当ですか」
桜の声が、少しだけ明るくなった。
「ただし、護衛上、使うなら許可は必要ですね」
「まあ、護衛はその日の部屋付き担当で問題ないと思いますが」
「もちろんです」
桜はすぐに頷く。
「勝手にやるつもりはありません」
「調味料も、こちらには限りがありますよね」
リーゼが続ける。
「はい」
桜は頷いた。
「この世界に持ち込めるなら、少しだけ、日本から……」
「だめなら、こちらのもので工夫しないとですね」
次々と言葉が出てくる桜が可笑しかったのか、
リーゼは、ふっと笑った。
「まずは、師団長に相談ですね」
「ですよね」
桜も、少し話し過ぎたことに気づいて、照れたように笑う。
「許可が下りたら、とりあえず一度だけ、やってみたいです」
リーゼは少し考えてから、言った。
「次の水曜日は、ちょうど私が担当です」
「もし、よろしければなんですが……」
「出来たら、私もお味見させていただいてもいいですか?」
「もちろんです。あ、でも……」
桜は念を押すように言う。
「口に合うとは限らないので、そこは正直に言ってくださいね」
「はい」
リーゼは素直に頷いた。
「サクラ様の世界の料理、一度食べてみたいと思っていたんです」
「時々、お話を聞いていましたから」
桜は、少しだけ照れたように微笑む。
「では……無理でしたら、その時は遠慮なく言ってください」
「あまり皆さんに迷惑はかけたくないので」
この間の出来事は、
彼女の中に、確かな危機感を残していた。
――――――――――
■食材の選択
月曜日。
昼休憩。
診療所の片隅で、
桜はヘンリエッタと向かい合っていた。
「……ちょっと、相談があって」
そう切り出してから、桜は少し間を置いた。
「私の住んでる国の料理を作ろうかと思って」
「診療所の近くに台所があるって聞いたので」
「へえ」
ヘンリエッタは、興味深そうに続きを促す。
「調味料だけは、持ち込めたんです」
「調味料だけ?」
「はい。食材は全部、結界に止められました」
「そういうものなのね」
「みたいです」
桜は苦笑する。
「なので、こちらの食材で作るしかなくて」
「……ただ、私、そんなに料理が得意じゃないんです」
「そうなの?」
「実家暮らしなので」
「基本的には、母が作ることの方が多くて」
言い訳みたいだな、と思いながらも、
桜は正直に続けた。
「母の代わりに作ることはありますけど」
「レシピを見ないで作れるものって、そんなに多くなくて」
「なるほどね」
ヘンリエッタは、責めるでもなく頷いた。
「じゃあ、簡単なものがいいわね」
「はい」
桜は少し考えてから、
料理名ではなく、やり方で説明した。
「野菜と肉を一緒に煮る料理と」
「それから、肉と野菜をたくさん入れた、温かいスープを」
「煮込みと、汁物ね」
「そんな感じです」
「それなら、失敗しにくいわね」
「はい……それが一番で」
桜は、少し安心したように息を吐いた。
「魚も、塩を振って焼くだけのものを考えてます」
「これ以上、味付けを増やすと混乱しそうで」
「分かるわ」
ヘンリエッタが、からりと笑う。
「一品だけ少し頑張って、あとはシンプルにするのよね」
「まさに、それです」
「それで、野菜は?」
「見た目は、日本のものと似てるのが多いんですけど」
「名前が分からなくて……」
「それなら、任せて」
ヘンリエッタは、自分の胸元を軽く叩いた。
「普段、診療所の食事に出てる野菜よね?」
「“この料理に入ってたやつ”って言ってくれれば、分かるから」
「あ……それなら」
桜は、少しほっとする。
「魚も同じよ」
ヘンリエッタは続ける。
「塩だけなら、癖がなくて、身が崩れにくいのがいいわ」
「はい」
「じゃあ」
ヘンリエッタは、当然のように言った。
「私が食材、買ってくるわ」
「え、でも……」
「私も食べたいから」
即答だった。
「サクラの国の家庭料理でしょう?」
「すごく気になるもの」
「……ありがとうございます」
桜は、少し照れたように頭を下げた。
「じゃあ、水曜日のお昼よね」
「明日、買ってくるから、詳しく教えてちょうだい」
「分かりました。じゃあ……お願いします」
そう言ってから、
桜は、思いつく限りの食材の特徴を、
ひとつずつ説明し始めた。
――――――――――
■言えなかった言葉
結界修正を終え、
桜は王宮の回廊を歩いていた。
進行方向側、
半歩ほど前をクロトが歩く。
いつもの配置だった。
しばらく歩いたあと、
クロトがふと思い出したように口を開く。
「……そういえば」
わずかに歩調を緩める。
「本日、料理を作られるそうですね」
「あ、はい」
桜は一瞬驚いてから、頷いた。
「そうなんです」
「護衛も大変なのに、わがままを聞いていただいて……」
そう言って、
半歩前にいるクロトに向かって、
ぺこっと頭を下げる。
「ありがとうございます」
クロトは足を止めないまま答えた。
「いえ。問題ありません」
淡々とした声だった。
「問題ない範囲です」
「……そう言っていただけると、助かります」
桜は、小さく息を吐いた。
やがて、
桜の部屋の前に差しかかる。
クロトは自然に一歩前へ出て、
扉に手を掛けた。
一瞬だけ中の気配を確かめ、
そのまま扉を開ける。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
桜はそう答えて、中へ入った。
――あの。
言いかけて、
言葉が喉で止まる。
いつか、
クロトにも桜の国の料理を食べてもらえたら。
ふと、そんな考えが浮かんだだけだった。
けれど、
自分は料理が得意なわけでもないし、
好みだって分からない。
桜が言葉に詰まっているのを、
クロトは急かすこともなく、
ただ静かに待っていた。
「……いえ、なんでもありません」
「ごめんなさい、引き止めてしまって」
クロトは少しだけ桜を見てから、
穏やかに答える。
「いえ。大丈夫です」
それ以上は何も言わず、
一礼して、扉の外へ下がる。
扉が静かに閉まり、
廊下の音が遠ざかった。
――――――――――
■初めての異世界での料理
火曜日。
診療所の昼過ぎ。
ヘンリエッタから受け取った食材は、
桜の部屋に備え付けられた冷却庫――
魔法石で温度を下げる、小さな冷蔵庫に入れて保管していた。
水曜日。
昼の時間帯。
台所にあるのは、
魔法石を使った簡単なコンロが二つ。
調理器具は、鍋が二つと、フライパンが一つだけだ。
「まず、ご飯を炊きます」
桜はそう言って、
米を研ぎ、鍋に水と一緒に入れる。
「炊飯器がないので、鍋で炊きます」
「水で炊くだけです。少し柔らかめでいいので」
「火加減は、私が見ますね」
「助かります」
リーゼが鍋のそばにつき、
桜はもう一つの鍋に向かった。
次は、煮物だ。
切った野菜と鶏肉、
それから乾燥昆布を鍋に入れる。
だしのつもりだった。
水を加えて、火にかける。
「これは……煮込み料理?」
「はい」
「野菜と肉を一緒に煮て、味を含ませる感じです」
鍋の中を覗き込みながら、
リーゼは興味深そうに頷く。
煮立ってきたところで、
桜は丁寧にあくをすくった。
「ここで、先にお酒を入れます」
そう言って、
ゼフィーリアの酒を回し入れる。
「臭み消しみたいなものです」
一度、少し強めに火を入れてから、
次に、みりん。
桜が器に少量取り分けると、
リーゼが不思議そうに覗き込む。
「これが……甘い調味料?」
「はい」
リーゼは指先にほんの少し付けて、舐めた。
「……甘いですね」
「でも、砂糖とは違う」
「お酒が入っているので」
次は、しょうゆ。
こちらも少しだけ器に取る。
リーゼは慎重に味見して、
すぐに表情を引き締めた。
「……しょっぱいですね」
「でも、塩とも違う」
「なので、最後に入れます」
そう言って、
桜は鍋にしょうゆを加える。
「全部一緒に入れないんですね」
「はい」
「順番で、味の入り方が変わるので」
具材が浮かないよう、
鍋の中に軽い板を乗せ、
しばらく静かに煮る。
味が全体に回ったところで、
火を止め、煮物を器に移した。
「これで一品、完成です」
「さめても、大丈夫なので」
リーゼは、
茶色く艶の出た煮物を見て、素直に言った。
「……なんだか、茶色いですね」
「ですよね」
桜は苦笑する。
次に、空いた鍋でみそ汁を作る。
肉と野菜を入れて火にかけ、
具材にしっかり火を通す。
「これは、さっきのとは違うんですか?」
「はい」
「汁物です。温かいスープみたいなものですね」
桜は最後に味噌を溶き入れ、
器に少量取り分けてリーゼに渡した。
リーゼはまた味見をする。
「しょっぱいけど……全然違いますね」
「匂いも」
その頃、
ご飯の鍋から、ふわっと湯気が立った。
「いい感じです」
リーゼが火を弱め、
しばらくして鍋を火から下ろす。
「炊けました」
「ありがとうございます」
最後に、フライパン。
薄く油を引き、
塩を振った魚を並べる。
「味付けは、塩だけ?」
「はい。それだけです」
「思い切りがいいですね」
焼ける音が、
台所に心地よく響く。
必要なものを器に盛り付ける。
煮物。
みそ汁。
白いご飯。
焼き魚。
リーゼは一通り眺めてから、
もう一度、正直に言った。
「やっぱり、全体的に茶色いですね」
「そうなんです」
「でも、味は悪くないはずです。好みに合えばですが」
「匂いは、すごくいいです」
その一言に、
桜は少しだけホッとした。
料理が一通りできあがる頃、
台所の外から、パタパタと走る音が聞こえた。
「そろそろかな、と思って」
顔を出したのは、ヘンリエッタだった。
あらかじめ、
「このくらいの時間になると思います」と伝えてあった。
ほぼ、その通りだった。
「ちょうど今、できたところです」
桜はそう言って、
煮物とみそ汁の鍋を示す。
「思ったより……量が多くて」
少し困ったように笑いながら、
桜は用意していた大きめの容器を取り出した。
煮物とみそ汁を、
それぞれ分けて入れていく。
「お昼に食べる分だけ、と思ってたんですけど」
「作りすぎちゃって」
「全体的に茶色いけど、いい匂いね」
ヘンリエッタも、
中を覗き込みながら素直な感想を口にする。
「口に合うか分からないんですけど……」
桜は少し言い淀んでから続けた。
「興味がある人がいたら、少しずつどうぞ、って感じで」
「味見、ってことね」
「はい。無理にじゃなくて」
ヘンリエッタは頷き、
容器を受け取った。
「みんな、興味津々だから大丈夫よ」
ヘンリエッタが去るのを見送ったあと、
桜はあらかじめ用意していた運搬用のワゴンを引き寄せた。
鍋を二つ。
煮物を盛った器。
焼き魚の器。
それらを順に載せていく。
「私が運びますね」
桜がそう言うと、
リーゼはすぐに頷いた。
「ええ。そうしてもらえると助かります」
「両手を塞ぐわけにはいかないので」
申し訳なさそうにしながらも、
リーゼは護衛という任務を忘れない。
ワゴンを押す桜の横を、
リーゼが少し距離を取って並ぶ。
部屋に入ると、
桜はワゴンを止め、
リーゼと協力して、あらかじめ用意していた器を並べた。
ご飯をよそい、
みそ汁を注ぐ。
煮物と魚は、
取り皿で分けることにする。
「……立派な、昼ご飯ですね」
並んだ料理を見て、
リーゼが率直に言った。
「ですかね?」
桜は少し照れたように笑う。
「もし、口に合わなかったら……」
「大丈夫です」
そう言って、
リーゼは先に箸を取った。
まず、みそ汁。
一口含んで、
リーゼは少しだけ考えるような顔になる。
「……不思議ですね」
「不思議、ですか?」
「はい」
「塩味なのに、こちらのスープとは全然違う」
「でも、嫌じゃない。私は結構好きな味です」
もう一口、
確かめるように飲む。
次に、煮物。
具材を一つ取り、
ゆっくり噛んでから言った。
「これも……」
「味がしっかりしていて、おいしいです」
「煮込みもスープも、こちらにはない味ですね」
「でも、癖になりそう」
どうやら、
リーゼは日本の調味料が大丈夫なタイプらしい。
焼き魚にも箸を伸ばし、
リーゼは小さく頷いた。
「良い、組み合わせですね」
「……よかったです」
桜は、安堵のため息をついた。
自分の世界の料理を、
おいしいと食べてくれることが、
こんなにも嬉しいとは思わなかった。
――――――――――
その後、
診療所で分けた煮物とみそ汁の味はどうだったか。
木曜日の出勤日に聞いてみると、反応は実にさまざまだった。
「おいしい」と素直に喜ぶ声もあれば、
「少し独特だ」と首を傾げる者もいる。
けれど、
どれも“初めての味”への、正直な反応だった。
