■訓練2日目
病室に入ったのは、桜、看護師ロッテ、介護人が一名だった。
昨日と同じ顔ぶれだが、空気は少し違う。
「今日は、少し進めますね」
桜はそう言ってから、グンターを見る。
「歩く、ではありません。
立った状態で、一歩出して、戻す。
それだけ行いましょう」
グンターは短く頷いた。
昨日と同じ手順で、上体を起こす。
足を下ろし、間を取る。
腹部の様子を確認してから、立位になる。
「問題ありません」
「では、右足を」
ほんの一歩。
腹に力が入りかけた瞬間、桜が声をかけた。
「戻します」
足を戻す。
「張りは?」
「昨日より、軽いです」
桜はすぐには次へ進まなかった。
呼吸、表情、姿勢を確認する。
「今日は、ここまでです」
グンターは素直に頷いた。
「立てただけでも、十分です」
桜は彼の方を見て頷いてから、記録を取った。
ロッテは、その一連の流れを静かに見ていた。
――――――――――
■訓練3日目
この日、桜はいない。
病室に入ったのは、ロッテと介護人一名だけだった。
「昨日と同じ内容でいきます」
立位。
一歩出して、戻す。
動作は、昨日より滑らかだった。
「痛みは?」
「ありません。違和感が少しある程度です」
「では、今日はここまで」
回数は増やさない。
進めない。
「今日は、できたことを確認する日です」
グンターは、それを当然のように受け止めた。
――その日の午後。
ロッテは簡単なメモをまとめ、医師に共有した。
立位と一歩動作は安定。
疼痛の増悪なし。
翌日、歩行開始は可能。
判断はすぐに返ってきた。
――――――――――
■訓練4日目
この日は、桜が戻ってきた。
病室には、桜と介護人一名。
「今日は、歩きましょうか」
迷いのない声だった。
「病室の中だけ。数歩ですけど」
立位は、すでに安定している。
一歩。
二歩。
「ここまでです」
「もう少し、いけそうです」
「分かっています。でも、焦らずにいきましょう」
気持ちには同調するが、譲ることはない。
「歩けるかを見る日です。
距離を伸ばす日ではありませんから」
桜は記録に目を落とす。
「大丈夫です。順調ですから」
「はい」
短いやり取りだった。
一息置いて、桜が続ける。
「明日からは、歩きましょう。
少しずつ、距離を伸ばしていきます」
グンターは、安堵の息を吐いた。
「……分かりました」
それだけで、十分だった。
――――――――――
■訓練5日目
午前中の診療所は、普段と変わらない動きだった。
桜は看護人一名とともに、病室を訪れる。
「今日は、歩行距離を少しだけ伸ばします」
前置きは短い。
「診療所の外周まで。
二十メートルほどです」
グンターは頷いた。
「今日は、私と彼女が付き添いますね」
立位は、すでに安定している。
一歩、踏み出す。
これまでの「数歩」とは違う。
歩行としての動きになる。
「姿勢、いいです」
「お腹は?」
「張りはありますが、問題ありません」
速度は一定。
早めない。
外周の角で、桜が止める。
「今日は、ここまでです」
グンターは、素直に足を止めた。
「これで十分です」
「はい」
無理をしなかったことを、互いに確認するだけだった。
それは、患者と医療者のあいだに、すでに信頼関係ができている証でもある。
桜は続ける。
「明日、明後日は介護人のみ付き添います。
経過が良ければ、その後は自由に歩いて、体力を戻していきましょう」
一拍置いて、念を押す。
「ただ、約束してください。
違和感が出たら、必ず終わりにすること。
無理をすれば、逆戻りする可能性もあります」
「分かりました」
桜は頷き、記録を取る。
それで、この日のリハビリは終わった。
――昼過ぎ。
詰所の一角で、桜は資料をまとめていた。
これから帰る準備だ。
「サクラ様」
声をかけられて、顔を上げる。
クロトが立っていた。
「これから、私に護衛が交代となり、
部屋へ付き添います」
「分かりました」
桜が答えた、その直後。
クロトの視線が、ふと別の方向へ向く。
桜は、なんとなくその先を追った。
グンターが、リハビリを終え、ベッドに腰かけている。
「……お知り合いですか?」
その問いに、クロトは一瞬だけ黙り、
「はい。見習い騎士時代の同期です。
経過は、どうですか」
と続けた。
「今日から歩行訓練を始めています。
順調ですよ」
それを聞いて、クロトは小さく息を吐く。
「……少しだけ、
グンターと話してもよろしいでしょうか」
言い回しは丁寧だった。
だが、確認の色が強い。
「私の都合で、
お待たせしてしまうかもしれません」
「大丈夫です。
できれば、もう少し資料をまとめたいと思っていましたから」
「ありがとうございます」
クロトは一礼し、グンターのベッドへ向かった。
――ベッドサイド。
「……来たのか」
「護衛のついでだ。様子は聞いている」
形式ばらない声だった。
「歩き始めたそうだな」
「今日からだ」
短いやり取り。
それで、十分だった。
「無理はするな」
「分かってるよ」
「分かっていない顔をしている」
グンターは、わずかに口角を上げる。
「お前には言われたくないな。
一番無理してるのは、お前だろ」
「お互い様か」
「……だな」
沈黙が落ちる。
だが、重くはない。
「傷が治ってくると、暇でさ。
師団長に、雑用の書類仕事でも回してもらおうかと思ってる」
「医師の許可が取れれば、可能じゃないのか?」
「そうだな。聞いてみるよ」
それで話は終わった。
クロトは立ち上がる。
「じゃあ」
「ああ、またな」
グンターが、ひらひらと手を振った。
話が終わるタイミングを見ていたのか、
桜が近づいてくる。
「お待たせしました」
「いえ」
クロトは何事もなかったように、
いつも通り桜を部屋へと送っていく。
廊下を歩きながら、ぽつりと呟いた。
「……順調で、良かったです」
「ええ。思った以上に、回復が早いです」
桜は歩幅を変えずに、思ったことを口にする。
「やはり、騎士の方は鍛え方が違うのでしょうね」
一拍置いて、続けた。
「それに、きっと早く体を動かしたかったんだと思います。
それでも、動作訓練は、こちらの指示をきちんと守ってくださいました」
それを聞いて、クロトが、珍しくふっと笑う。
「グンターは、昔から実直な男ですから」
「そうなんですね」
その笑みに、桜は一瞬、胸が跳ねた。
だが、それ以上は何も聞かなかった。
――――――――――
■訓練8日目
この日から、歩行は自由となった。
付き添いはつかない。
診療所の外周を、決まった速度で歩く。
距離は、その日の体調次第。
違和感が出れば、そこで終わり。
入院中は、走行は禁止。
踏ん張る動きも、行わない。
それだけが、共有された約束だった。
グンターは、それを守った。
――――――――――
■訓練10日目
傷の状態は安定していた。
疼痛は、ほとんどない。
「暇でして」
そう言って、第4師団の事務室に顔を出すようになった。
もちろん、数時間程度の事務仕事であれば、医師から許可が出ている。
密偵任務に関わらない、
第4師団の雑用と呼ばれる事務仕事だけ。
記録の整理。
報告書の写し。
形式的な確認。
「無理はするなよ」
そう言われれば、
「分かっています」と答える。
立場は、あくまで補助だった。
――――――――――
■訓練12日目
歩行距離は、自然と伸びていた。
息は乱れない。
腹部の違和感も、ほとんど消えている。
それでも、走らない。
線は、越えなかった。
――――――――――
■訓練14日目
診察は短かった。
創部良好。
感染兆候なし。
全身状態、問題なし。
クラウス医師から、
「退院でいいだろう」
と、許可が出た。
それだけだった。
書類を受け取り、
簡単な説明を受ける。
次は、一か月後。
訓練再開の判断のため、診療所へ来るよう言われる。
診療所を出るとき、
足取りは軽かった。
だが、前線には、しばらく戻れない。
病室に入ったのは、桜、看護師ロッテ、介護人が一名だった。
昨日と同じ顔ぶれだが、空気は少し違う。
「今日は、少し進めますね」
桜はそう言ってから、グンターを見る。
「歩く、ではありません。
立った状態で、一歩出して、戻す。
それだけ行いましょう」
グンターは短く頷いた。
昨日と同じ手順で、上体を起こす。
足を下ろし、間を取る。
腹部の様子を確認してから、立位になる。
「問題ありません」
「では、右足を」
ほんの一歩。
腹に力が入りかけた瞬間、桜が声をかけた。
「戻します」
足を戻す。
「張りは?」
「昨日より、軽いです」
桜はすぐには次へ進まなかった。
呼吸、表情、姿勢を確認する。
「今日は、ここまでです」
グンターは素直に頷いた。
「立てただけでも、十分です」
桜は彼の方を見て頷いてから、記録を取った。
ロッテは、その一連の流れを静かに見ていた。
――――――――――
■訓練3日目
この日、桜はいない。
病室に入ったのは、ロッテと介護人一名だけだった。
「昨日と同じ内容でいきます」
立位。
一歩出して、戻す。
動作は、昨日より滑らかだった。
「痛みは?」
「ありません。違和感が少しある程度です」
「では、今日はここまで」
回数は増やさない。
進めない。
「今日は、できたことを確認する日です」
グンターは、それを当然のように受け止めた。
――その日の午後。
ロッテは簡単なメモをまとめ、医師に共有した。
立位と一歩動作は安定。
疼痛の増悪なし。
翌日、歩行開始は可能。
判断はすぐに返ってきた。
――――――――――
■訓練4日目
この日は、桜が戻ってきた。
病室には、桜と介護人一名。
「今日は、歩きましょうか」
迷いのない声だった。
「病室の中だけ。数歩ですけど」
立位は、すでに安定している。
一歩。
二歩。
「ここまでです」
「もう少し、いけそうです」
「分かっています。でも、焦らずにいきましょう」
気持ちには同調するが、譲ることはない。
「歩けるかを見る日です。
距離を伸ばす日ではありませんから」
桜は記録に目を落とす。
「大丈夫です。順調ですから」
「はい」
短いやり取りだった。
一息置いて、桜が続ける。
「明日からは、歩きましょう。
少しずつ、距離を伸ばしていきます」
グンターは、安堵の息を吐いた。
「……分かりました」
それだけで、十分だった。
――――――――――
■訓練5日目
午前中の診療所は、普段と変わらない動きだった。
桜は看護人一名とともに、病室を訪れる。
「今日は、歩行距離を少しだけ伸ばします」
前置きは短い。
「診療所の外周まで。
二十メートルほどです」
グンターは頷いた。
「今日は、私と彼女が付き添いますね」
立位は、すでに安定している。
一歩、踏み出す。
これまでの「数歩」とは違う。
歩行としての動きになる。
「姿勢、いいです」
「お腹は?」
「張りはありますが、問題ありません」
速度は一定。
早めない。
外周の角で、桜が止める。
「今日は、ここまでです」
グンターは、素直に足を止めた。
「これで十分です」
「はい」
無理をしなかったことを、互いに確認するだけだった。
それは、患者と医療者のあいだに、すでに信頼関係ができている証でもある。
桜は続ける。
「明日、明後日は介護人のみ付き添います。
経過が良ければ、その後は自由に歩いて、体力を戻していきましょう」
一拍置いて、念を押す。
「ただ、約束してください。
違和感が出たら、必ず終わりにすること。
無理をすれば、逆戻りする可能性もあります」
「分かりました」
桜は頷き、記録を取る。
それで、この日のリハビリは終わった。
――昼過ぎ。
詰所の一角で、桜は資料をまとめていた。
これから帰る準備だ。
「サクラ様」
声をかけられて、顔を上げる。
クロトが立っていた。
「これから、私に護衛が交代となり、
部屋へ付き添います」
「分かりました」
桜が答えた、その直後。
クロトの視線が、ふと別の方向へ向く。
桜は、なんとなくその先を追った。
グンターが、リハビリを終え、ベッドに腰かけている。
「……お知り合いですか?」
その問いに、クロトは一瞬だけ黙り、
「はい。見習い騎士時代の同期です。
経過は、どうですか」
と続けた。
「今日から歩行訓練を始めています。
順調ですよ」
それを聞いて、クロトは小さく息を吐く。
「……少しだけ、
グンターと話してもよろしいでしょうか」
言い回しは丁寧だった。
だが、確認の色が強い。
「私の都合で、
お待たせしてしまうかもしれません」
「大丈夫です。
できれば、もう少し資料をまとめたいと思っていましたから」
「ありがとうございます」
クロトは一礼し、グンターのベッドへ向かった。
――ベッドサイド。
「……来たのか」
「護衛のついでだ。様子は聞いている」
形式ばらない声だった。
「歩き始めたそうだな」
「今日からだ」
短いやり取り。
それで、十分だった。
「無理はするな」
「分かってるよ」
「分かっていない顔をしている」
グンターは、わずかに口角を上げる。
「お前には言われたくないな。
一番無理してるのは、お前だろ」
「お互い様か」
「……だな」
沈黙が落ちる。
だが、重くはない。
「傷が治ってくると、暇でさ。
師団長に、雑用の書類仕事でも回してもらおうかと思ってる」
「医師の許可が取れれば、可能じゃないのか?」
「そうだな。聞いてみるよ」
それで話は終わった。
クロトは立ち上がる。
「じゃあ」
「ああ、またな」
グンターが、ひらひらと手を振った。
話が終わるタイミングを見ていたのか、
桜が近づいてくる。
「お待たせしました」
「いえ」
クロトは何事もなかったように、
いつも通り桜を部屋へと送っていく。
廊下を歩きながら、ぽつりと呟いた。
「……順調で、良かったです」
「ええ。思った以上に、回復が早いです」
桜は歩幅を変えずに、思ったことを口にする。
「やはり、騎士の方は鍛え方が違うのでしょうね」
一拍置いて、続けた。
「それに、きっと早く体を動かしたかったんだと思います。
それでも、動作訓練は、こちらの指示をきちんと守ってくださいました」
それを聞いて、クロトが、珍しくふっと笑う。
「グンターは、昔から実直な男ですから」
「そうなんですね」
その笑みに、桜は一瞬、胸が跳ねた。
だが、それ以上は何も聞かなかった。
――――――――――
■訓練8日目
この日から、歩行は自由となった。
付き添いはつかない。
診療所の外周を、決まった速度で歩く。
距離は、その日の体調次第。
違和感が出れば、そこで終わり。
入院中は、走行は禁止。
踏ん張る動きも、行わない。
それだけが、共有された約束だった。
グンターは、それを守った。
――――――――――
■訓練10日目
傷の状態は安定していた。
疼痛は、ほとんどない。
「暇でして」
そう言って、第4師団の事務室に顔を出すようになった。
もちろん、数時間程度の事務仕事であれば、医師から許可が出ている。
密偵任務に関わらない、
第4師団の雑用と呼ばれる事務仕事だけ。
記録の整理。
報告書の写し。
形式的な確認。
「無理はするなよ」
そう言われれば、
「分かっています」と答える。
立場は、あくまで補助だった。
――――――――――
■訓練12日目
歩行距離は、自然と伸びていた。
息は乱れない。
腹部の違和感も、ほとんど消えている。
それでも、走らない。
線は、越えなかった。
――――――――――
■訓練14日目
診察は短かった。
創部良好。
感染兆候なし。
全身状態、問題なし。
クラウス医師から、
「退院でいいだろう」
と、許可が出た。
それだけだった。
書類を受け取り、
簡単な説明を受ける。
次は、一か月後。
訓練再開の判断のため、診療所へ来るよう言われる。
診療所を出るとき、
足取りは軽かった。
だが、前線には、しばらく戻れない。
