王女殿下は下級官吏を婚約者に選ぶ

 農園を経営している領民の家に一晩世話になり、女装したまま明け方の町へ出る。
もうすっかりこの格好にも慣れてしまった。
兄貴から受け取ったマントで全身を覆い、駅馬車で王都を目指す。
たった数日離れただけなのに、いつのまにかこの街も俺にとって故郷のような存在になっていた。
アーニングの田舎にはないすり減って平らな石畳も、ごちゃごちゃした乱雑な人混みも、あちこちからあふれる様々な臭いが混ざり込んだほこり臭い空気も、それら全てが一つのものとして肌に馴染んでしまっている。
俺は城勤めの時に気に入って買っていたパン屋に立ち寄ると、酢漬けのニシンを挟んだものを買った。

「おや。お嬢ちゃんこの街は初めてかい?」
「どうして?」
「……。いや、どこかで見たような気がしたから。人違いだったらゴメンね」
「いいえ。大丈夫です。ここのパン、美味しいから好きです」

 見慣れた女将さんからパンを受け取ると、それを布巾で包んで肩から斜めにかけた鞄に入れた。
さて。
問題はここからだ。
殿下の側に行きたいけど、近づく方法が思いつかない。
城内に出入りする知り合いに頼めばアンバーさまの耳にまでは届きそうだけど、いつどこで裏切られるか分からない。
危険が大きすぎる。
どうしたものかと、人通りの多い城壁の裏門近くで立ち止まった。
いつもなら誰も見向きもしない南西の小さな通用門前に、群衆が集まっている。

「楽しみねぇ~! 王女さま大好き!」
「陛下を亡くされてお元気がないって話だったけど、もう大丈夫なのよね」

 人々が王女を話題にしながら、城門前で待機している。
俺は目の前にいるご婦人二人に話しかけた。

「すみません、これからここで、何があるのですか?」
「おや。あんた地方から来たの? なら運がよかったわね」
「これからセオネードさまが、お顔をお見せになるのよ」
「殿下が?」
「そう! ほら、もう門が開くわよ」

 城門に下ろされた鉄格子がゆっくりと持ち上がる。
槍を構え立ち塞がる番兵が脇へ移動したのを合図に、城内へ雪崩れ込む人の波に俺は巻き込まれてしまった。
この場所は知っている。
城内に大型の荷物を出し入れする時に主に使われる通用門だ。
そのため門の内側がちょっとした広間のようになっている。
さほど広さがあるわけではないが、周囲を高い城壁に囲まれ外から見られる心配はない。
殿下が姿を現すというバルコニーから姿を見ることが出来るのは、この門から中に入った人間だけだ。
他へ続く通路には、しっかりと兵士たちが見張りに立ち、警備に怠りはない。

 荷物の搬入か何かという理由で、この門が解放されたのだろう。
普段は閑散とした雑用門前の広場が、市民で埋め尽くされている。

「ほら! お出ましになったわよ!」

 俺は壁から突き出した小さなバルコニーを見上げる。
目の前に、彼女が姿を現した。
薄い黄色のドレスを着て、可憐な姿を見せた彼女は、集まった俺たちをみて嬉しそうに微笑むと、はにかんだような笑顔で手を振り始めた。
少し痩せたみたいだけど、俺の知るにこやかな殿下がそこにいる。
淹れたての紅茶のような琥珀色の髪をかきあげ、彼女のクセである少し右に傾けたお顔が、いつもよりいっそう誇らしげにみえた。
時折上がる歓声に、彼女の笑顔がほころぶ。
よかった。
俺が心配していたより、ずっとお元気そうだ。

 王女さまの立つバルコニーは、ここからはとても高くて遠くて、本来の彼女との距離を思い出させてくれる。
そうだ。
俺は元々、殿下をこうして見上げるだけの存在だった。
俺から彼女はよく見えているけど、殿下は俺になんて気づいていない。
彼女にとって俺は、愛すべき群衆の一部だ。
大切なものではあるけど、決して特別なものではない。
公平に扱う存在で、例外はありえない。
やはり殿下には、俺ではなくもっとそれに相応しいお相手が必要だ。
王女に浴びせられる歓声が、一段と大きくなった。

「まぁ! あれはマクニース公爵家のジェードさま?」
「あれ? 王女には平民出身の恋人がいたよな」
「はは。まぁあれはねぇ。一時の恋のお相手みたいなものだから」
「私、そういう王室関係のゴタゴタ大好き」
「はは。分かる! 王女もやるねぇ」

 ジェードさまは殿下の真後ろに姿を見せると、にこやかに手を振って群衆の声に応えた。
そうか。
殿下は結局、ジェードさまを婚約者に選んだのか。
順当な判断だ。
政略結婚なんて、あの方々にとって常識だ。
そこに疑問を挟むことすらしない。
だから殿下は、恋人契約を結んだんだ。
最初から俺みたいな存在が、心配する必要なんてなかった。

 ジェードさまは殿下を愛おしそうに見つめ、彼女は自分の後ろに立つ恋人に気づくと、まるで驚いたように喜んだ。
それを笑って抱き寄せるジェードさまと、恥ずかしがって照れるセオネードさまに、歓声が一段と大きくなる。

 あれほど彼との結婚を嫌がっていたのに。
結局俺と契約したように、殿下にとって恋愛とは、書面で交わされる条件付きの制約みたいなものだったのだろう。
やはり上級貴族というのは、俺たち庶民とは感覚が違う。
これから殿下は俺としていたように、ジェードさまと夫婦演技を続けるのだろう。
まるで本物の恋人同士みたいに。
そしていつかはきっと……。

 お姿を披露する時間は一瞬で、あっという間に殿下は奥へ引っ込んでしまった。
もうこれで、殿下のお姿を間近に見ることもないだろう。
次に姿を見る時は、陛下であり女王さまだ。
結婚し家庭を築き国を守る決意を固め前に進んでゆく。
過去になった俺には、もうきっと彼女を直視する勇気はない。

「……。返るか」

 こんなところまでわざわざ出てきて、バカみたいだ。
仕事を失い、帰る家もなくしてしまった。
それでも後悔はしていない。
王宮の広間で、初めて間近に彼女を見た時、俺の名を呼んで、手を取り合った。
膝を突き合わせ同じ馬車に乗って甘い言葉を囁き、柱の陰に隠れて昼飯を食った。
彼女に出会ったその瞬間から、俺にはこうなることが分かっていたんだから。

 面会時間が終わって、門の外へ出るよう促される。
俺はその流れに身を任せ、城を出ようと門へ向かって歩き出した。

「おい。そこの女」

 兵の一人が、俺を呼び止める。

「ちょっとこっちへ来い」
「なんでございましょう」

 頭巾は目深にかぶっている。
男の俺ならいざ知らず、女の格好をしていれば、怪しまれるようなことはないはずだ。