王女殿下は下級官吏を婚約者に選ぶ

 翌朝は宣言通り、俺は早朝から兄にたたき起こされた。

「おら! 出戻りしてきた野郎に、無駄に寝てる時間なんかねぇぞ! しっかり働け!」
「俺は疲れてんだよ! ゆっくり寝かせろやバカ兄貴!」
「うるせぇ! 昨日から一晩ゆっくり寝ただろう!」

 兄の手が俺の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
その顔は、真に邪悪な鬼か悪魔そのものだった。

「この家へ戻ってきた以上、現当主である俺が正義でありルールだ。俺に従え」

 ベッドの上に放り投げられる。
クソッ。
なんて野郎だ。
戻って来たら戻って来たで、ここも地獄だ。

「さっさと行くぞ。ついてこい!」

 だけど、他に行くところも思いつかない。
ひたすらムカつきながら、俺はベッドの上から渋々降りた。

「朝飯くらいくわせろや!」
「ならさっさと食ってこい! 待たねぇぞ!」

 小さい頃から、弟に対し容赦ない兄だった。
俺がどれだけ突っかかっても、勝負は全て互いの拳で解決してきたし、俺が負けてばかりだったワケでもない。

「仕事手伝ってほしけりゃ、頭ぐらい下げてみろや!」

 これでも俺は、王女殿下の婚約者だったんだぞ。
偽物だったし、もう終わった話だけど……。

 朝食に置いてあった水をグラスに移しそれ飲み干すと、籠にあった大きなパンを一つ手に取った。
それを口にくわえたまま上着をはおり、馬小屋へ移動する。
干し草の臭いのする厩舎に、俺の可愛がっていた愛馬アルシオンがいた。

「おー。元気にしてたか」

 アルシオンはまだ俺のことを覚えているようだった。
俺が近づくと鼻を鳴らし、顔を近づけてくる。
美しい焦げ茶の毛並みはつやつやと輝き、よく手入れされたたてがみは綺麗に編み込まれていた。
殿下にも、見せてあげたかったな。

「俺、帰ってきちゃった。しばらくここにいるから、またよろしくな」

 馬にまたがり、兄と数人の従者と共に領地の視察に出かける。
そういえば、自分で馬に乗るのも久しぶりだ。
王都の借間では馬なんかとうてい飼えるわけないし、遠乗りなんてしなくても買い物に困ることはなく、駅馬車も整備されている。
そもそも、王女さまと付き合い始めてからは、移動は全部用意された馬車ばかりで、いく先々では、常に前もって予定された……。

「お前のアホ面、しっかりお日さまに晒しとけ。ただでさえ根暗な顔が、ますます暗くなっちまったら、見せられる俺の気分が悪くなる」
「あ? テメーに言われる筋合いはねぇ」

 俺と似たような顔をしといて、何がアホ面だ。
俺がアホ面なら、お前はマヌケ面だ。
山の奥まで行くというから馬を走らせるのかと思いきや、兄貴はのんびりと歩かせ始めた。
村の中心地から外れた脇道を通り、数ヶ月前の大雨で氾濫しかけたとかいう川へ出る。
小さな橋は新しくかけ替えられていたものの、確かに土手は痛んでいるようだった。

「お前、城で建築士やってたんだろ。しっかり働け」

 フン。
土木工事の知識なら、確かに兄貴には負けない。
馬を下り、大雨で一度削られた地面から、新しく草の生えた土手を下る。
下から橋を見上げると、ちゃんとした技士に仕事を依頼したのか、作りは悪くなかった。

「橋は悪くないよ」
「そうか」
「だけど氾濫を防ぎたいなら、川上の様子を見に行かないと」
「だからこれからそれをしに行くんだろーが」

 兄貴はさも当然と言ったように、顎で俺を指した。

「おい。早く馬に乗れ。行くぞ」

 相変わらず人使いの荒い奴だ。
俺は一度舌を鳴らすと、もう一度馬に乗り込んだ。
天気は薄曇りでわずかに風が吹く程度。
のんびり馬の背に揺られてはいるものの、仕事だと思うとピクニック気分にもなれない。
それでも視察という名目だけあって、久しぶりにゆっくりと領内を見ることが出来た。

 俺がこの村を出て王城に勤め始めてから、気づけば五年が経っている。
途中で父からこのバカ兄に当主がうつって、村は今まで通りのところもあれば、変わったところもある。
主要道路は、どこも若干道幅が広くなっているような気がした。
新しく縫製工場を誘致したとかで、人口も増えている。

 俺が城にいる間にも、世界は変わっていた。
王城で俺が殿下と過ごしていた日々は、ほんのわずかではあったけど、その間にもこうして様々なものが……。
殿下はいま、どうしているのだろう。
継承の儀を終えたのだから、次は戴冠式だ。
王の葬儀に、婚約者である俺は呼ばれなかった。
偽物なんだから当たり前だ。
そもそも婚約というのは、王族にとって特別な意味はなかったらしい。
俺たち下級貴族と違ってエラい貴族というのは、恥をかくくらいなら死を選ぶほどプライドの高い人種だと思っていたけど、そうでもなかったみたいだ。
恥や外聞より自分たちの血統だとか血筋を守ることを大切にしていた。
あぁ、だから俺みたいな平民貴族は選ばれなかったのか。
俺の血に貴さなんて、ない。

 それに、殿下にとって国葬とは父の葬儀だ。
俺だってもし親父が死んだとしても、彼女を呼んだりはしないだろう。
結婚の約束はしていたとしても、あくまで予定であって「まだ」なんだから。
のこのこ親族面して出て行く方がおかしい。
だからそこに呼ばれなかったことくらいで、俺はなにもこんなに……。

「おいマヌケ!」

 突然の兄の声に、我に返る。
目に見えていた風景が華やかな王城から、森の木々と薄曇りの空に変わった。

「あ? なんだアホ面が」
「お前まさか、王女との婚約ごっこに、本気だったとかないだろうな」

 馬四頭の隊列は、山道にさしかかっていた。
常に川を左手に見ながら、森の入り口までたどり着く。
曇りがちだった空に青い切れ目が走り、太陽が顔をのぞかせた。

「……。アホか。さすがにそこまで低脳じゃねーよ」
「そうか。俺の想定より、少しはマシなバカだったか」

 腹が立つ。
汗が噴き出てきたのは、日が出て少し気温が上がったせいだ。
城勤めの間に、体力まで落としてしまった。
隣で自分の愛馬に乗る兄は、汗一つ流さず真っ直ぐに前を向いている。