文芸部の部室には、僅かだが美術部員が混じっていた。
左神は彼らを横目で見ながら、創作用のノートを取り出す。
『天使の結末』のプロットが書かれている頁を開き、親指でシャーペンをノックした。
――孤独な天使。
――見捨てられた天使。
――誰にも知られぬまま、死んでゆく天使。
改めてみれば、救いの無いストーリーに、読者の心を揺り動かす要素があるとは到底思えなかった。そのことを執筆時に気づけなかったのは、やはり、天使のモデルにした右堂に対する悪意が、少なからずあったからだろう。
左神は、ひとりきりで煙草の煙を吐き出す右堂の姿を想像した。
あいつは、本当に、大丈夫なのだろうか。
ひとりで、寒さに震えながら、毒を吸い込んで――――……。
ぐしゃり、と手の中で一頁がひしゃげた。
眼球の裏側が熱い。
噛み締めた奥歯がギリッと音を立てた。
左神は机上に出していたすべての道具をリュックに詰め込み、校舎を飛び出していた。
自転車で川辺を駆ける。
しかし、いつもの橋の下に、右堂はいなかった。
息を弾ませながら、今度は自宅へ急いだ。
〆切まであと一週間しか無い。
原稿を全文書き換えるには時間が掛かり過ぎる。
新しいエピソードを、自然なかたちでさし仕込んでいくしかない。
左神は脳内で『天使の結末』のストーリーを組み直しがらシャワーを浴びた。慣れない徹夜は彼の体力を奪ったが、必死の思いが集中力を持続させた。
天使は決して悪い奴じゃなかった。
己の生命を削ってでも、人間を幸福にしようと働いた、尊い存在だ。
誰が彼を傷つけた?
何が彼を狂わせた?
どうしたら彼を幸せにしてやれる――――?
左神は五日間悩み続け、大幅に改稿した小説を完成させた。
その朝、真っ先に駆けて行ったのは二年四組の教室だった。生徒の半分は来ていたが、目的の右堂はバッグさえ無かった。傍にいた女子に声をかける。
右堂の机を教えてもらい、その上に、初稿より分厚くなった紙の束を乗せた。
読んでもらえなくてもいい。ただ、あの初稿が右堂を傷つけたなら、書き直すという行動で謝罪の意を表したかっただけだ。
左神はすぐにその場所を離れた。
うすい雲に隠れてはいるものの、徹夜後の朝日は目に沁みた。
***
仄暗い放課後。
数日の徹夜がたたり、机につっぷし眠りこけていた左神ははっとして目を覚ました。
急いで帰宅の準備を済ませ、二年教室があるフロアの廊下を歩く。その間に、なにげなく見た旧校舎の窓に照明が灯っているのを見つけてしまい、左神は反射的に立ち止まった。
前面に見えているのは暗闇に包まれた音楽室だが、光の出所は、廊下を挟んだ奥側にある美術室に違いなかった。
時刻はもう十九時を過ぎている。
合同文芸誌の〆切もあと二日というところまできたが、周囲の様子を窺うと、余裕をもって描き(書き)終え、暇を持て余している部員が大半のようだった。
こんな時間まで残って制作作業をしている熱心な部員がいるのだろうか。
左神は胸騒ぎがして足早に歩を進めた。
二階の渡り廊下を過ぎて、うす暗い旧校舎へ向かう。三階のフロアへ足を踏み入れれば、最奥の美術室からは、蛍光灯の眩しい光が溢れていた。
左神は足音を立てないように近づいて、ドアに嵌められたガラスの小窓から中をのぞいた。室内にいたのは一人だけだった。
色素の薄い頭髪に、袖をまくった真っ白いシャツ。学生服の黒いズボンをまとう脚は驚くほど長い。――右堂は左神の存在にも気づかず、手元のパレットに絵筆の先を擦りつけている。
彼の前に立つ木製のイーゼルには三〇センチ四方の大きさのキャンバスが置かれ、それには三色をつかった、大胆な抽象画のようなものが描かれていた。
やや屈みぎみでキャンバスに向かう右堂の白い腕と腰の細さに、左神は何故かどきりとした。
古い校舎の埃くさい空気を吸い込み、気を紛らわす。
右堂は時折、絵のバランスを見るようにキャンバスから離れる。イーゼルの背後にある暗い窓に、鏡のようにその顔が映っていた。唇を引き結び、真剣な表情を浮かべる右堂は、同性から見てもやはり美しかった。
曖昧な輪郭の絵は、まだ何を描いているのか判然としない。
多分、下書きのような段階なのだと思うが。
どうしても気になり観察していると、右堂が時折、わきに寄せた机の上で紙束を捲っていることに気づいた。パラパラと捲っては、手を止めてじっと見つめる。また描きだして、再び紙に視線を落とす。
それの正体が何なのか、左神は瞬時に理解した。
解かると同時に、ドアの引き手に指をかけていた。
ガラガラと滑りの悪い音に気づいた右堂が、驚きも無い顔で振り返る。唇が白い。
教室内は想像よりもずっと寒かった。
「やっぱり、君は僕に用事があったんだね」
右堂が、指揮棒を振るように絵筆を上下させながら言う。
左神は右堂に近づきながら、
「やっぱりって何だよ。まるで俺が来るのを知ってたような口ぶりじゃねえか」
と眉を顰めた。
「この窓に映っていたのは僕だけじゃないんだよ。気づかなかったかい?」
鼻で笑う右堂を見て、羞恥が込み上げる。鏡同様になった窓は室内をまんべんなく映している。
舌打ちをすると、右堂が微笑して「こんな時間まで学校にいるなんて暇なんだな」と首をかたむけた。耳にかけていた右堂の横髪が、一束こめかみに落ちる。
「お前は何してんだよ」
左神はわざと訊いた。
返事は一つしかないだろうと踏みながら。
右堂は両手を肩の高さで開いて、わざとらしく溜息をついた。
「原稿を〆切ギリギリで渡されたものだからさ、必死で描いているんだよ」
奴が視線をやったのは、左神の書いた改稿作だった。ところどころに付箋や折り目がついている。左神は目元をひくつかせて「描かねえんじゃなかったのかよ」と剣のある声を出した。
「読んでくれ、描いてくれ、とばかりに置いていったくせに今更何を言っているんだい? こうしてほしかったんだろう?」
「別に……ただ直したってわかってくれりゃよかったんだ、俺は」
「じゃあそう言えばいいじゃないか。それも知らず描き始めてしまったばかりに、僕はもうやめることが出来ない。ひどく滑稽だ」
「何だよ、俺が悪ィみてえに。てめえが勝手に描いてんだろうか」
「じゃあ描き上がっても君には見せてやらないし、これはすぐに破棄する。だが、最後までは描ききる。それが僕の矜持だ。君は早く帰って温かい布団で赤ん坊のようにぐっすり眠るといい」
「ムカつくことばかり言いやがる。こんな寒ィ中、そんな薄着で描いて風邪引いても知らねえぞ」
「くだらない心配してないでさっさと帰りたまえよ。君がいると作業が進まない」
「勝手にやってろ」
左神は吠えるように言って、乱暴にドアを閉めて美術室を出て行った。
数歩進んで振り返ると、蛍光灯の白い光が明るい白波のように廊下に届いていた。
校舎を出て、マフラーに口元を埋める。呼吸をすると、毛の立った布地に熱と湿気が籠った。右堂の白い顔が脳裏に浮かぶ。
ほんとうに、――大丈夫なのだろうか。
減らず口を叩く右堂の、どこか自虐的な危うさが目につく。
見上げた空にはまだらな雲がかかり、僅かに欠けた月を覆って光を遮っていた。
溜息が、白いもやとなって鼻先に浮かんだ。
