悪い予想が当たり、冷蔵庫のなかは空だった。いつからそこにあるのかわからないイチゴジャムとマヨネーズだけが、広々とそのスペースを使っていた。仕方なく、左神はシステムキッチンの戸棚を物色し始めた。カップラーメンと種々の栄養補助食品が詰め込まれている以外、食材の類は見つからない。
左神はケトルで湯を沸かしながら、カウンター越しに右堂の背中と書きかけのキャンバスを見ていた。少しずつ形になっていく絵は、まるで魔法がかけられているみたいに見える。
ぶくぶくと湯が湧く音がした。
左神はふたつのカップラーメンに湯を注いだ。
「なあ、メシ食わねえ? 勝手に作ったんだけどよ」
左神が声をかけると、右堂は振り向きもせず「要らない」と呟いた。
「腹減るだろ」
「描いてる間は気にならないんだ。勝手に食べてていい」
「少しは健康的な生活しろ」
「それが健康的な食べ物か?」
「とりあえず三食食うのが基本だろうが。どうせ昼飯も抜いてんだろ?」
「君、まさかストーカーかい?」
「いいから、ほら」
左神が差し出したカップラーメンと割り箸を、右堂はしぶしぶ受け取った。彩りゆたかに汚れたテーブルの上で麺をすする姿が、気品のある美貌にひどく不似合いだった。
ごちそうさま、と礼儀正しく手を合わせたわりに、食べ残しの浮かぶカップを置いたまま、右堂は作業を再開した。左神はそれを片付け、手持ち無沙汰なままカウンターの上を整頓し始めた。ほとんどが煙草の箱とフィルムで、中身はあったり無かったりする。それも終えてしまうと、本格的にやることが無くなり、散らばった床のゴミを拾い集め、右堂の傍に腰を下ろした。
「帰ってくれて構わないのに」
右堂が絵筆を動かしながら冷たい目をする。
左神は目を半分閉じたまま、
「寂しいだろ。夜中にひとりだと」
と唇の先だけで呟いた。
「そんな気持ちはとうの昔に捨ててきた。要らぬ心配痛み入るよ」
「お前さ、結構性格悪いよな」
「それは受け取る側の問題だろう。もともと誰かに親切にした覚えは無い」
「……邪魔して悪かったな」
「全くだ」
パレットの上でぬるぬると絵具が混ざる。
左神はそのさまをぼうっと見ていた。
***
物が崩れるような音がして、左神は目を覚ました。
自分が床で片膝を抱えたまま眠っていたのだと気づいた左神は、慌てて音のしたほうを向いた。開け放たれたドアの向こうで――廊下に膝をついて、壁に凭れ掛かった右堂が項垂れていた。
「おい、大丈夫かよ」
左神が駆け寄る。
右堂はふらつきながら立ち上がり、「何でも無い」と青白い顔を上げた。
左神が肩を支えようとするのを、右堂は嫌がった。
「ただの貧血だから」
そう言って、部屋へ戻る。
健常者の顔色では無かった――右堂は深呼吸を繰り返しながら、震える手で描き始める。
すでに零時を過ぎていた。
雨音は変わらず続いている。
立ち竦んだままの左神を無視したまま、右堂は生命を削るように、絵に向かう。白いパーカーに色が移っていた。そんなことも気にせず、右堂は絵筆を動かす。
あまりの痛々しさに、左神の胸は締め付けられた。
キャンバスに描かれた天使は、もうじゅうぶんに形をもっていた。これ以上の描きこみを、自分を犠牲にしながらする必要があるのか? ――左神にはわからなかった。
時折、右堂が手のひらで目元を押さえる。
ふらふらと頭が揺れ、左神はそのたびに彼に手を貸そうとしたが、跳ねのけられるかもしれないという恐怖心が勝り、ただ傍にいることしかできなかった。
右堂がまたのろのろとパレットの上を混ぜる。繊細な手つきで絵筆の先をキャンバスに走らせる。その一筆で、――天使が明るい微笑みを浮かべた。
まるで地獄みたいな部屋の中で、その優しい面立ちだけが、尊い救いのように思えた。
***
雨は四時をまわった頃にやんだ。
休憩無しで作業をしていた右堂の手により、絵の全貌はより明瞭になり、これ以上のものを期待する気なんて起きないような出来栄えになっていた。
「そろそろ完成か?」
左神が、椅子から離れない右堂を見下ろす。
徐々に顔色を取り戻していった右堂は、淡々と返した。
「そんなわけ無いだろう。時間が許す限り描くんだ」
「そこまでするか? ただの合同誌に」
左神は言ってから、『しまった』と思った。右堂のナイフのように鋭い眼差しが、左神に投げられた。
「『ただの合同誌』のために、君は一度書き上げた作品をわざわざ書き直したのか? そしてそれを僕に押しつけたのか? 無責任なことをしてくれる。君がはっきり『要らない』と言わないから僕は徹夜をしてまで描いてしまった。言いたまえよ、要らないなら『要らない』って。ああ、無駄なことをした。しかし、ここでやめるのは僕の沽券にかかわる。君はもう帰れ。僕の邪魔をするな」
右堂は眉を寄せたまま一息に言って、冷徹に左神を睨んだ。
左神は表情にこそ出さないが、当惑していた。
自分が言われても嫌な気持ちになるとわかっていたはずなのに、つい口に出してしまったことの後悔と自己嫌悪が、左神の目の前を暗くさせた。何も言い返せずにいる左神に、右堂は冷ややかな視線を送り、ふんと鼻を鳴らした。
