文芸部の一匹狼は、美術部の王子様を放っておけない


 左神はそわそわと授業を聞いていた。
 合同誌の〆切前日とはいえ、左神の作品はすでに提出してあり、何も焦ることは無い。しかしどうにも落ち着かなかった。昨日、右堂が描いているものの進度が気になるのだ。

 右堂は、絵は出来上がっても破棄すると言い放った。その通りにすることは容易に想像がつく。
 左神自身も、自分の言葉に嘘は無い。右堂が勝手に描いているものを、頼み込んで見たいとは思わない。

 しかしそれはそれとして、気になりはする。自分の小説をモチーフに描いた作品がどんなものか。せめて盗み見ることが出来ればと、ずる賢い気持ちを抱えたまま、左神は昼休みに購買のパンを買いに一階へ下りた。

 生クリームの挟まったパンとウインナーパンを手に二階のフロアに戻ったときだった。旧校舎へと繋がる渡り廊下を進む、長躰の生徒の後ろ姿が見えた。強風が、彼の――右堂の柔らかそうな髪を吹き荒している。
 ずんずんと歩んでいく足取りには、一寸の迷いも無かった。

 旧校舎に消えた右堂の姿に、左神は眉をひそめた。右堂があちら側へ行く理由など、一つしか思い浮かばない。
 左神は廊下で立ち呆けたままでいた。爪先がどこに向かえばいいのか悩んでいた。教室に戻って何事も無かったようにパンを頬張るのが一番よいに決まっている。なのに『右堂の様子を見てくる』という最も恥ずべき選択肢が入り込んでいた。

 左神は旧校舎の三階の窓を見上げた。
 強風が窓ガラスを不穏に揺らしている。
 右堂の皮肉げな笑顔が浮かび上がる。

 ――心配なんてするだけ無駄だ。

 思い直し、左神は教室へ戻った。席につき、クラスメイトの喋り声を聞くともなしに聞きながら、静かに腹を満たした。

 ――右堂は何を食べたのだろう。

 頭の中が浸食されつつあった。
 左神は気を紛らわすために、次の授業の教科書を開いて、羅列した文字を目で追った。厚い雲からはいくつもの雫が落ち始めた。



***



 雨足は早まり、強風を伴って、外に出るのも躊躇われるほどのひどい有様となった。

 左神は自転車で帰ることを断念し、置きっぱなしの傘を引っ張り出して昇降口で立ち止まった。何となく振り返り、まだ照明のついた下駄箱を見つめる。右堂の外履きはすでに無かった。風雨がマシなうちに出て行ったのかもしれない。そうだったらいい、と左神はぼんやりと思った。

 学校からほど近いバス停に立つ。多くの学生が並んでいた。左神もその列に入り、バスを待つ。スマホのニュースには、川の水位が大きく上昇しているという情報が流れていた。

 ――嫌な予感がする。

 左神はスマホの画面を睨みながら唾を飲み込んだ。どうしても、右堂の姿が脳裏に浮かぶ。

 左神は人の列を抜け、傘を揺らしながら川辺へと駆けた。茶色く濁った川の流れは激しく、水位は確かに上がっていたが、幸いにも河原までは届いていなかった。息を切らしながら橋のそばへと辿り着くと、その下に、ずぶ濡れの人影を見つけた。左神は悪い予感が当たっていたことに愕然としながらも、その人物を保護できる距離にいることに、ひそかに安堵した。

 注意して土手を下りながら、左神は右堂の名を呼んだ。
 煙草を指で弄んでいた右堂が左神のほうを向く。濡れ鼠だったが、意に介さないように煙を吐き出していた。

「やあ。こんなひどい天気の下にいるなんて、君も随分物好きな人だね」

 柔らかく笑う右堂の顔に、濡れそぼった前髪が貼り付いている。
 左神は雨を防げる橋の下に潜り込みながら、「それはてめえも一緒だろ」と袖で顔を拭った。

「ああ、くそ。気持ち悪ィ」

「君には迎えに来てくれる人がいるだろうに」

「バスでなら自分で帰れると思ったんだよ」

「バス停はこっちの方向じゃないだろう」

「人が多くて乗れなかったんだ」

 へえ、と右堂が興味なさそうに煙草を咥えた。
 ガサガサと、何かが擦れ合う乾いた音がした。振り返ると、昨日右堂が描いていたキャンバスが、ビニールに巻かれてバッグの下敷きになっていた。左神はそれを親指で指しながら、右堂の横顔に問いかけた。

「あれ、持って帰ってどうすんだよ」

 右堂は煙を吐いて、ガラス玉のような瞳を左神に向けた。

「絵を描くほかの用途があるのかい?」

「ふざけたこと言うわりには熱心じゃねえか」

「君の頭の中にはあんこが詰まっているのかな」

 右堂は血色の悪い唇で弧をつくり、「最後までは描ききると言ったじゃないか」と、荒々しい風を受けながら穏やかに言った。左神が畳んだ傘の先で石をつつきながら返す。

「別に急ぐ必要ねえんじゃねえの。どうせ合同誌のために描いてるんじゃねえんだろ?」

 皮肉げに訊いた。
 右堂は長い睫毛で目元に影を作る。

「そうだね。明日までっていうのは、僕が勝手に作った〆切だ」

「はあ? 明日までに描き上げるってのかよ」

「でないと張り合いが無い」

 右堂は火の消えた煙草を指から落とした。

「だから本当は、こんなところで油なんか売っている暇は無いんだ。君が来たから仕方なく相手をしてやってるが、残念ながら僕は忙しい。そろそろお暇させて頂く」

 言いながら右堂はバッグを肩を持ち上げ、キャンバスをわきに抱えた。

 思わず左神が、
「傘は?」
と尋ねると、「無い」と簡潔な言葉が返ってきた。

 確かに右堂の濡れ方は尋常じゃなかった。
 左神は驚愕し、急いで傘を開いた。

「ちょっと待て。送ってやる。家どこだ」

「別にいい。そんなに遠くないんだから」

「そのままだと絵も濡れるぞ。いいのか」

 右堂は無表情で言葉を詰まらせた。
 何か言いたげだったが左神のほうが先に口を開いた。

「傘だけ貸してやってもいい。俺は濡れて帰ることになるが、どうする?」

 左神の剣幕に圧され、右堂は息をついた。

「好きにしてくれ。ついてきたって何も無いからな」

 左神は土手を上っていく右堂の傍に立ち、二人の頭上に傘をかかげた。
 風が強く吹きつける。
 傘を叩く雨音がうるさい。
 そんな状況が、左神の落ち着かない鼓動を隠すための救いになった。



***



 右堂が帰ったのは五階建てのマンションだった。
 その三階の角部屋に、一人で暮らしていた。

 足を踏み入れて驚いたのは、リビングダイニグとなっている十畳ほどの部屋に、壁と掃き出し窓が隠れるほど多数のイーゼルとキャンバスが並んでいることだった。その中央にはダイニングテーブルだったと思われる四つ脚の台が、ひどい汚れを伴いながら、さまざまな絵具とパレット、絵筆を乗せて配置されていた。

 床にまで散った絵の具を踏まないように歩くのに難儀した。
 そのまま案内された寝室には、ワイシャツや私服が山になっていた。それはシングルサイズのベッドのうえまで浸食し、身体を横たえるという本来の機能を奪っているように見えた。

 左神は呆気にとられ、濡れた身体の気持ち悪さも忘れて右堂を凝視した。

「お前、整理整頓苦手なタイプか?」

 右堂は中に詰め込んだものが崩れ落ちてきそうなクローゼットを探りながら平然と、「それでも困ってないから」と言い放った

 渡されたバスタオルを手に、風呂を借りた。
 右堂はずぶ濡れのまま、持ち帰ってきたキャンバスを見つめていた。
 シャワーを浴びた左神が髪を拭きながら、右堂の足元を見つめる。

「床、濡れてるぞ」
「仕方ないさ。このざまだからね」

 キャンバスから視線を離さない右堂に圧をかけ、何とか風呂場に向かわせた左神は、目の前に佇む描きかけの絵を見た。昨日の抽象画に更に色が塗られ、輪郭が現れ始めていた。

 雲の隙間から零れる光の下で、後ろを振り向きながら飛ぶ、黒い羽の子ども。両手を伸ばした先には、見切れてはいるが、天使と同じように、伸ばした腕が一対ある。――そう、ぼんやりとわかるくらい、鮮明になっていた。

 左神の脳裏に、自分の書いた物語が浮かぶ。


 ――天使にはたったひとりだけ、友人と呼べる人間がいた。

 ――天使の心の支えは彼だった。天使は、親身に弱音を聞いてくれる彼を、誰よりも信頼していた。

 ――しかし、天使は少しずつ狂っていった。寄り添おうとする彼の言葉も届かなくなっていった。

 ――堕天される天使。人間は神に告げた。

 ――『自分も彼と一緒に堕として下さい』と。

 ――そして悪に堕ちたふたりは、その命が絶えることを許されるまで、心を満たし合いながら幸福に過ごしたのだった。


「君に芸術がわかるのかい?」

 いつの間にか背後にいた右堂に呼びかけられ、左神ははっとして振り返った。

「一晩で仕上げる。邪魔だから帰ってくれ」

 雫の垂れる髪の毛をそのままに、右堂は冷たい声で告げる。
 左神は溜息を吐いた。

「俺がお前に押しつけたのが悪ィんだ。徹夜するなら手伝う」

 右堂は鼻で笑った。

「手伝うって何を? これを描く以外、何も無いよ」

「諸々何かあるだろ。なにより、俺のせいでお前が無理すんのはばつが悪ィ」

「ちゃんちゃらおかしい正義感だ。しかし君は頑固そうだからな。仕方ないから自由にしたまえよ。でも僕の邪魔だけは絶対にするなよ」

 右堂は部屋の一角にあった丸椅子をずるずると引き摺ってきて、キャンバスの前に座った。見たことも無い真剣な顔で絵と向かい合う。

 左神は、脱ぎっぱなしだった二人分の学生服を、寝室のカーテンレールに干した。確かにやることが無い。手持ち無沙汰になり、散らばっている衣服を畳み始める。寝室の外は不安になるほど静かだった。
 閉めたカーテンから見える窓には、束になった雨水が流れていた。