刈り取られたあとの稲が根元だけ残る田んぼ、低い建物が軒を連ねる住宅街、個性豊かな形をしたビルが立ち並ぶ商業区。
 俺は下がりそうになる瞼になんとか抵抗しながら、ガタンゴトンというのんきな音と共にゆっくりと変わっていく景色を眺めていた。
 どれだけ背景が変わっても、朝日に照らされる街はどこも眩しくて、寝不足の目にはあまり優しくない。思わず、あくびが一つ漏れた。

「眠いんですか?」
「ん~」
「ふっ、めっちゃ眠そう」

 降りる駅は終点だから、このまま寝てしまっても全然問題ない。それに、何かあれば隣に座っているこいつ――佐久間(さくま) 晃成(こうせい)が起こしてくれる。
 それでも、家から約20分の通学時間の間、俺が眠気と仁義なき戦いを繰り広げるのは、もうすぐなくなってしまう、この時間を惜しんでしまっているからだ。

 出会ってあと少しで二年。部活の後輩である晃成とは、家が近かったこともあってすぐに仲良くなった。
 朝、同じ駅のホームで立っている晃成に気がついた俺が声をかけて以来、毎朝一緒に登校している。放課後だって、部活が同じだと行動パターンが似てくる。だから、いつの間にか毎日一緒に帰るようになっていた。

 くだらないことをたくさん話して、笑って、何事もないまま楽しく一緒に過ごしてきた。それがもうすぐ終わると気付いたのは、ほんの少し前。
 俺が大学の推薦入試の合格通知を受け取った後だった。

「受かった~!」
「……おめでとうございます」

 暢気に報告した俺は、思ったよりも喜んでくれなかった晃成に少しむっとしたことを覚えている。

「喜びが足りなくない?!」
「……喜べないですよ。だって、先輩が大学行っちゃったら、もう一緒の電車に乗れないじゃん」

 その時俺が受けた衝撃は、頭の上にたらいが落ちてきた程度のものじゃなかった。
 晃成は年下とは思えないほどしっかりとしていて、どちらかというとおっちょこちょいな俺のほうがいつも世話を焼かれていた。
 だから、あんな寂しそうで、拗ねた子供のような顔を見たのは初めてで。なぜか心臓がぎゅんって変な音を立てて縮まった。

 その日以来、俺はよく眠れない。せっかく受験勉強から解放されて、晴れて自由の身だというのに。来るべき卒業が全然楽しみじゃなくなってしまった。

「昨日も徹夜してたんですか?」
「してない~」
「ふふっ、何で嘘つくの。つくまで寝ててください。起こしてあげるから」

 嘘じゃないし――。
 なかなか寝付けなくて、気付いた時にはいつも午前二時を回ってるだけ。
 言い返したくても、触れあう肩から伝わる温もりに自然と体の力が抜けていく。

「おやすみ、智也先輩。……はぁ、ほんとかわいーんだから」

 最後に晃成が何を言ったのかよくわからないまま、俺は夢の中へと落ちて行った。


 ◇◇◇◇

「おい、中野(なかの)! 起きろ~! もう放課後だぞ!」
「ふがっ!」
「余裕だよな~! 推薦組はぁ!」
「うぅ~ん、ごめん。って、瀬良(せら)だって推薦じゃん」
「ひひっ、ばれたか」

 隣の椅子にドカリと座り、いたずらっぽい顔をこちらに向けるこの男は、瀬良 火月(かつき)。同じクラスで部活も同じ、俺の数少ない友人の一人だ。
 髪は派手なピンク色だし、耳にはずらりとピアスが並ぶその外見から、一見近寄りづらく見えるけど、人の気持ちに聡くて、ぼんやりした性格の俺をいつも気にかけてくれる優しいやつでもある。

「最近ずっと眠そうだよな」
「うん。最近、うまく眠れなくて……」
「大学、合格したのに?」
「……合格したせいというかなんというか……」

 瀬良がキョトンと目を丸くする。余計なことを口走ったことに気が付いた俺は、気まずさに視線をそらして、机の上に置いてあったノートを鞄に押し込んだ。
 今日は部活のある日だから、部室に顔を出しに行こう。そんなふうに話題から逃げようとしていたせいで、俺は一つ大事なことを忘れていた。瀬良は無駄に察しがいいのだ。

「あっ、もしかして晃成?」

 ガシャンッ――。

 次に鞄に入れようとしていた筆箱を、俺は思いっきり床に落とした。
 盛大な音に、勉強していた生徒達が迷惑そうにこちらへ視線を向ける。

「おっ、当たり?」

 周囲の空気をもろともしない瀬良はにやりと楽しそうに笑って、俺のほうへと人差し指を突き出した。

「人に指をさすな。……っていうか、ここ邪魔になるから」

 差された指を掴んで押しのけ、早く出ようと瀬良を促す。その間も瀬良はニヤニヤしっぱなしだ。

「なんだよその顔」
「ようやく付き合い始めたのかと思って」
「はぁ?! な、何言ってんの?!」
「えっ、違うの?」
「違うに決まってるだろ!」

 つい大きな声を出してしまった俺は悪くない。でも、非難の視線をこれでもかと浴びた俺たちは、足早に図書館を出た。

 俺と瀬良が所属していたeスポーツ部の部室は、今までいた校舎から体育館をはさんだ奥――旧校舎にある。
 北風が吹き荒れる渡り廊下には今は誰もいない。
 とりあえず、部室に着くまでに瀬良の誤解を解いておく必要がある。俺は少しだけ速度を緩めた。

「さっきの、違うからね」
「なんだよ、面白くないの」
「人を面白がらないでくれる?」

 俺たちが通う鳳沢学園高校は中高一貫の男子校。確かに男子同士のカップルも少なからずいる。実際、瀬良も一つ下の学年に恋人がいるのだ。
 だからといって俺と晃成は、そういうやつ(・・・・・・)じゃない。
 そのはずなのに――。

「じゃー何に悩んでんの?」
「それは……」

 あの日(・・・)から、ベッドに入って目を閉じると、拗ねたみたいな晃成の顔が瞼の裏に浮かんで、離れなくなるのだ。
 それを消そうとして、ゲームの話をするときの楽しそうな顔とか、試合に負けたときの悔しそうな顔とか、いつも電車で隣に座ってる時の優しい顔を思い出して見るけど、見事に逆効果。結局、晃成のことばかりを考えて眠れない。
 どうしてなのか、自分でもよくわからない。というか、わかったらいけない気がして、思考をストップしているのかもしれない。

「……まぁなんでもいーけどさ。後悔だけはしないようにしろ、よ!」
「いったぁ!!」

 俯いた俺の背中を思いっきり叩き、瀬良は前を歩いて行った。
 するとちょうど体育館ドアが開き、背の高い男たちがずらずらと出てくる。
 その中のひとりが、こちらに気が付いて顔を輝かせた。

「火月さん!」
「おっ、柊哉。おつかれ~」

 確か彼は、瀬良の恋人だ。
 二人の関係は、わざわざ公言しないけど、隠してもいないというスタンスらしい。
 知っている人は知っているが、知らない人からすれば、仲のいい先輩後輩にしか見えない。でも、”知っている”俺からしてみれば、なぜわからないのだろうかと思うほど、二人の間には甘い空気が漂っている。お互いが全身で『好きだ』と言い合っているように感じるほどだ。

 ――羨ましいな。
 ふと浮かんだ気持ちに、俺は内心驚いた。
 これは、恋人がいることに対する羨望だ。ただ、それだけのはず。

「瀬良。俺、先に行ってるから」
「ん、わかった。俺もすぐ行く」

 二人から目をそらすように少しだけ駆け足になると、北風が運んできた一枚の落ち葉がかさかさと音を立てて足元にまとわりついた。
 何となく踏むのはためらわれて、ひょいっと飛び越して部室を目指してまた歩き出す。
 あの落ち葉は仲間の元を離れてどこまで飛んでいくのだろう。一人ぼっちの旅路は寂しくないだろうか。
 ――俺はさみしい。一人は、さみしいよ。

 そんなセンチメンタルな気分のまま、部室のドアを開ける。すると、パッとこちらに顔を向けた晃成と目が合った。途端に、心臓がドクンと大きな音を立てた。

「智也先輩!」

 だって、俺に気づいた晃成の表情が、さっき瀬良を見つけた時の彼の恋人の顔と重なって見えたのだ。
 電気がパッとついた時のような、明るく、嬉しそうな笑顔。
 二人とも整った顔はしているけど、クールな雰囲気の瀬良の恋人と、人懐っこい晃成ではタイプが全く違うのに。

 意味が分からなくて、ドアの前で立ち尽くしていると、いつの間にか晃成が俺の目の前まで来ていた。

「どうかしました?」
「……ん-ん、なんでもない」

 そんなに近くで顔を覗き込まれたら、ドコドコ鳴る心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
 俺は晃成を押しのけるように部屋の中に入り、いつもと同じように窓際の席に座る。
 少しでも心を落ち着けようと窓の外へ視線を逃がすと、こちらに向かって歩いてくる瀬良と彼の恋人の姿が目に入った。
 外は一桁台の気温のはずなのに、二人の周りだけは温かそうに見える。漫画だったら、ハートが周りに飛びまくってるやつ。
 少し白けた気持ちでぼんやりと見ていると、ふいに瀬良が立ち止まった。そして彼の恋人が腰をかがめ、二人のシルエットが重なる。
 何してるんだろう――首をかしげた瞬間、急に視界が影に覆われた。反射的に見上げると、俺の真上から晃成が窓の外を乗り出してみている。
 驚いて飛びのくよりも先に、晃成の口が動いた。

「あっ、キスしてる」
「んえぇっ?!」

 どこに驚けばいいのかわからない。咄嗟に窓の外を見るともう二人は離れていて、体育館へと戻って行く恋人を瀬良が名残惜しそうに見送っていた。

「相変わらず仲良いなぁ。羨ましい。ね?」
「うん? そ、そうだね」

 ――羨ましいって、晃成も思うんだ。

 なぜか、勝手に気まずくなって、そらすようにして視線を下げてしまった。ちょっと感じが悪かったかもしれない。
 でも、仕方ないじゃん。せっかく収まりかけていた動悸がまたぶり返してるんだから。
 収まれ! と念じながら、ぎゅっとシャツの胸元を握った。

 それなのに――。

「先輩? どうしたんですか? 調子悪い?」

 晃成が固くなった俺の手をほどくように掴むから。体の内側が一気に熱をもって、絶対に顔は真っ赤だ。
 そんな俺の顔を見て、晃成は驚いたのか、一瞬だけ目を丸くする。でも、次の瞬間には嬉しそうに笑って、ぎゅっと手を強く握りなおした。

「かわいー顔してる」
「はっ、はぁ?!!」

 そのあとすぐに瀬良が来て、晃成は何事もなかったように元通り。俺はその後、何をしていたかほとんど覚えていない。気がついたら晃成に手を引かれて駅のホームに立ち、そのまま電車に押し込まれていた。

 夕方の電車は混んでいて、いつも席には座れない。だから、ドアの横にあるスペースに二人で向かい合って立つのがお決まりのパターン。俺は壁にもたれて、晃成はその前に立つ。
 いつものこと。いつものことなのに、俺は気が付いてしまった。
 電車は揺れる。俺は背中が壁に着いているおかげで結構安定しているからまだいい。
 でも、位置的に掴まるところのない晃成は、俺がもたれている壁に手をついて立つんだ。
 つまり――これ、壁ドンじゃん!
 しかも、車内は駅に止まるたびにどんどん人が増えていく。晃成との距離は近づく一方で、逃げ場もない。
 ちょうど俺の目線の高さにある晃成の唇が、電車が揺れるたびに俺に触れそうになる。
 心臓が痛いほど打ち鳴っていた。

 どうしてこんなことになっているのか、本当にわからない。
 わからないのに、目はそらせないし、体も動かない。
 それに――嫌では決してないんだ。
 むしろ、どこか喜んでいる自分がいて、また戸惑いが生まれる。

 結局、晃成とはろくに会話もできないまま、その日は別れた。

「ほんとにどうしちゃったんだよ、俺ぇ……」

 ベッドの中で、芋虫のように丸まりながら頭を抱える。手にあるスマホには、晃成から届いたメッセージが表示されたままだ。

『具合、大丈夫ですか?』

 やっぱり、俺の様子がおかしいことに晃成はちゃんと気が付いていた。
 心配してくれて優しいな――別に今まで通りなのに、妙に胸が暖かくなる。
 なんだよこれ。
 勢いでAIにでも相談してやろうかと思って検索画面を開いたけど――結局、やめた。
 だって、聞かなくても、もう答えは分かり切っているから。
 むしろ、言葉にして断定されたら、後戻りできなくなる。
 俺はスマホの画面を消して、頭から布団をかぶった。

 あと二カ月もしないうちに俺は高校を卒業する。進学先の大学は、今の通学路とは反対の路線だ。
 もう、毎朝一緒の電車には乗れない。帰りだって、今までみたいに何となく並んで帰ることも、きっとできなくなる。
 それだけじゃない。高校生と大学生じゃ、生活リズムも違う。
 今みたいに、何もしなくても会えるなんてことはなくなって、ちゃんと時間を作らなければ顔を見ることすらままならない。

 たまに遊ぶくらいなら、きっとできると思う。仲の良い”先輩と後輩”なら、そのくらいは普通だ。
 でも、それ以上を望んで、もし、うまくいかなかったら――。二度と晃成には会えなくなってしまうかもしれない。
 俺はそれが怖い。
 そんなことになるくらいなら、今まで通り仲の良い先輩と後輩でいたほうがましだ。

 もう一度スマホの画面を見ると、表示された時間は、AM 01:54。
 晃成からのメッセージに返信を打ち込む。

『明日は学校行くのやめとく』

 そのまましばらく画面を眺めて――ようやく送信ボタンを押した時には2時を回っていた。