あめ ときどき うた


 雨が勢いを増したようだ。けれど知ったことではない。

 雨粒が頬を打ち、走るたびに髪にまとわりつこうとも、その度に蒸発してゆくのだから。
 なにせ、いまは戦いの渦中だ。
 私────虹又アメリは後方集団の中にいて、トラックを強く踏み込んでいる。

 呼吸は荒い。肺に焼けるような空気が入り込むたび、喉がひりついた。
 けれど脚はまだ軽い。雨に濡れたシューズが赤土を叩く音が、一定のリズムを刻んでいて乱れはない。

 
《連日の殺人的猛暑が襲う日本列島。その熱源はまさしくここ、女子10000m決勝であります。ご覧ください、スタンドを埋める観客が総立ちです!解説の蘇我さん、この序盤、どう見ますか?》
《はい。大きく動くのはここからですね。いまは各々が出方を伺っている状況です。さて、誰が先に仕掛けるか……!》
 

 実況の声がスピーカー越しに響くたび、観客席からは大きな声援が巻き起こる。
 でも、そのざわめきはどこか遠くに感じられた。

「オミトはもういない……」

 喉の奥で小さくつぶやいた。
 絆は潰えた。その事実が、雨よりも冷たく胸に突き刺さっていた。
 それでも私は走る。走るしかない。

 残りの距離。
 ────8000m
 ────7000m

 胸の鼓動が速くなる。勝負の時が近づいているのを、全身で感じていた。


 *
 

 足元に視線を落とす。
 雨に濡れて黒光りするシューズの上、靴ひもはまだきゅっと結ばれたまま。
 
「大丈夫。ほどけない……いける」
 
 心の中で何度も唱えるように、私は唇を噛んだ。

 残り6000m
 ────まだ早い。
 いつもの私なら、ここで仕掛けたりはしない。末脚はラスト2000でこそ光る武器。
 でも、今日は違った。

「勝つんだ。勝って証明するんだ。オミトがいなくても私は大丈夫だって。私はひとりで────」

 胸の奥で叫んだ瞬間、脚が勝手に弾けた。
 踏み込みが深くなり、腕の振りが速くなる。
 雨を切り裂いて────加速する!

 
《おぉっと!きたきたきたぞ、きたぞきた!ゼッケン7番、門倉私学館高校のトリックスター・虹又アメリだ!風に乗って集団を抜き去っていく!ここは幕末の京都と言わんばかりに、バッサバッサと切り捨ててゆく!その姿はさながら、七色の羽織を纏う壬生の狼だぁッ!》
《ダメだ!まだ早いですよ!》
《蘇我さん────!?》
《彼女は末脚の選手です。これでは脚がもたない……何か考えがあるのでしょうか?》
《むぅぅ……言われてみれば、後方に構える選手たちが、まるでほくそ笑んでいるかのようにさえ見えます。これは波乱の序章となりそうです……》

 
 観客席がどよめく。
 その声の渦を背中で浴びながら、私は前へと飛び出した。
 ひとり、またひとりと抜いていく。
 息が荒くなっても、脚は止まらない。

 ────そして、次の瞬間。
 私は先頭に立っていた。

 並び立つ一人の選手と、トップの奪い合いがはじまる。
 この子は逃げの選手だ。私とは正反対のタイプ。自分の走りを邪魔された気分なのだろう、彼女は敵意をむき出し、肩をぶつけてくるが私も一歩も引かない。

 その時、彼女が大きく足を前に出した。
 ────それは私のルート上。
 妨害だ。しかし、今の私には関係ない。足が踏まれそうになる寸前で、私は体をかわして、勢いそのままに追い抜いた。

 雨の粒が頬を叩く。弾け飛ぶ。
 全身を駆け抜ける歓声の熱を受けながら、胸の奥ではただひとつの言葉が繰り返されていた。

「証明するんだ……!」


 *


 雨を切り裂き、私は先頭を突っ切っていた。
 歓声が波のように押し寄せる。
 誰もが私を見ている────薪をくべたように熱が上がってゆく。

 でも、胸の奥で響いていたのは観客の声じゃなかった。
 自分に言い聞かせるような、必死な叫びだった。

「勝つ……勝つんだ。勝って証明するんだ」
「オミトがいなくても、私は大丈夫」
「ひとりでやっていけるって、寂しくなんかないって……!」

 歯を食いしばり、腕を振る。
 雨に濡れた髪が頬に張り付き、喉が焼けるように熱い。
 でも脚は止まらなかった。
 このまま走り抜ければ────私は……!

「えっ────?」

 刹那、霧に覆われたように視界が真っ白になった。
 次いでひとつの“影”が視界に浮かび上がる。

「なん……で?」

 ランナーズハイ……だろうか。迫り上がった興奮状態で脳が白昼夢を見せているのだろうか。
 私はこの時、コース上に“あるはずのないもの”を見ていた。
 それは、昔の私。いつも泣いていたあの頃の私……うずくまって、ひとりぼっちで……”あの人“が現れるまで……そうだ。そうだった。私は……!

 無意識に手を伸ばした。膝を抱えて泣いている小さな私に手を差し伸べる”あの人“に。ぼんやりと浮かび上がっている、その人影に向かって────

 その瞬間。
 強く踏み込んだ右足に、嫌な感触が走った。
 同時にさっと霧が晴れたように幻影は消え、崩れゆく高層ビルのように世界が均衡を失ってゆく。
 視界が大きく揺れ、体が横に流れる。

「────ッ!?」

 次の瞬間、私のカラダはトラックに叩きつけられていた。
 雨水が跳ね上がり、観客席から大きなどよめきが起こる。
 

《あーーっと!虹又アメリ、転倒ォ!先頭を走っていたゼッケン7番が、無念のスリップダウン!雨のトラックに足を取られたか!?会場がざわついております!》


 痛みで膝が熱い。掌に砂が食い込む。
 唇を噛みしめ、足元を見た。

「あぁ……」

 ───解けていた。
 靴ひもが、びしょ濡れで泥にまみれ、だらりと伸びていた。

「あ、あの時……!」

 先頭をめぐってやりあった時、妨害を躱したつもりだったけれど、おそらくは紐を僅かに踏まれて────

 目の前が暗くなる。
 どんなに走っても、逃げても、やっぱり私はここで立ち止まってしまうのか。


 *


 痛みに顔を歪めながら、私は膝を押さえて立ち上がった。
 
「まだ……まだ終わってない……!」
 
 声にならない声で自分に言い聞かせ、足元に視線を落とす。
 靴ひもが、泥と雨に濡れて、だらりと垂れている。
 私は震える手でそれを掴んだ────その刹那、脳裏に蘇るのは“あの光景”だった。
 いつもそうだ。靴紐に触れて、ひとたび結ぼうとしたならば頭の中を駆け巡るのは……寒々しい病院の気配、アルコールのニオイと、立ち尽くす大人たち……冷たくなったお母さん……

「ッ────!」

 かぶりを振った。首が取れてしまいそうなほどに。
 そして焦りに駆られて、震える手を噛み殺すかのように力を込めると、私はシューズの中にひもをぐいっと押し込んだ。

「お願い、大人しくして……!」

 祈るようにして、再び走り出した。

 だが────数十メートル。
 たったそれだけで、靴が緩んだ。まるで亡者に足を掴まれたようにして重心が傾き、視界が揺れる。

「────ッ!」

 ずしゃり、と音を立てて、私はまたトラックに叩きつけられた。
 膝が焼けるように痛い。掌は擦りむけ、泥がにじむ。


《二度目の転倒ォ!なんということでしょう。虹又アメリ、アクシデントか!?会場からは諦めにも似たため息が漏れ聞こえてきますッ!》
《うーむ、負傷……ですかね。どうにも脚がおぼつかない》
 

 立ち上がろうともがく間に、軽やかな足音をたてて後続の選手たちが次々と私を追い抜いていく。

「お疲れ様」
 
 誰かが捨て台詞を置いていった。クスクスと笑いながら。

 私は歯を食いしばり、再び靴ひもを掴む。でも、結ぶことはできない。
 ただ靴に押し込み、走り出す────そしてまた転ぶ。

 二度、三度。
 そのたびに順位は落ち、観客席からは失望と嘲笑の声が降り注ぐ。
 「もう無理だ」「何をやってるんだ」そんな野次が矢のように胸に突き刺さる。

 私は膝をつき、ほどけた靴ひもを握りしめた。
 再びフラッシュバックする。あの日の私が、お母さんの姿が。
 手が……震える……。

「私は……私は……!」

 指は震え、視界はぼやける。結べない。走れない。立ち上がる力すら、もう残っていやしないんだ……!

 気づけば、泣いていた。
「元気印のアメリ」それがみんなの望む虹又アメリ。だから、こんな姿は見せないと決めたのに。

「う……ぅ……うぅ……ッ!」

 はは……笑っちゃうよ。
 でも……いつ以来だっけ、こんな風に人前で泣いたのは。

「私……ちっとも成長してなかったんだね……」

 まただ。また、あの頃の私が出てきた。
 目線の先にいる。ほどけた靴紐を握ったまま、うずくまって泣いている。それは小学生の私。
 そうだ。たしかあれは────

 
 *


 あの日、母を亡くした日。
 小学2年生だった私ははじめて、ひとりで靴紐を結ぶことができた。
 生来のせっかちな性格が災いしてか、小学生に上がっても靴紐をきちんと結べたことがなかった。
 だから私は、病床で苦しむ母を喜ばせたいと思って病院の屋上で幾度も練習していたのだ。絡まっては解いて、また結んで────母の命を、この世に繋ぎとめるかのように。

「あ……できた……できた……!」
 
 やがて、私は辿り着いた。それはそれは綺麗なリボンの形をした蝶結びで、私は母に見せてあげたいと喜び勇んで病室まで駆けていった。
 3月の終わりだというのに、雪がしんしんと降っていて。寒いのだから、家の中に居ればいいのにと、空が促してくれていたのかもしれない。いや、そうすべきだった。
 だってお母さんはもう、こと切れていたのだから。私が病室に駆け込んだ時には。

「PTSDですね。靴紐と母親の死が結びついている。ですが、きっと時間が解決してくれます。どうかお父さん、アメリちゃんを叱ったりなさらないであげてください」

 母を亡くしてすぐのこと。異変に気づいた父が私を病院に連れていった。
 そこで耳にした英語は、子どもだった私にはわからなかったけれど、おおよその意味は汲み取っていた。
 ────“持っていかれた”のだということ。
 いや、私がお母さんに“あげた”のかもしれない。
 今際の際に、手を握ってあげられなかった。どんなに寂しかったことだろう。たったひとりの我が子が側にいないという最後の瞬間は……。
 私はなんて……なんて残酷なことを。

 ────靴紐なんてどうでもよかったのに!

 後悔……いや、そんな2文字では形容できない。
 これは罪なんだ。忘れてはいけない。
 だから私は……靴紐に触れるたびに思い出さなくてはいけない。
 そう自分に言い聞かせていたのだと思う。

 それから父と二人。いままで住んでいた大きな家を引き払い、守矢市に越してきた。
 私は新しい学校に転校することになる。
 8歳になったばかり、寂しくないわけがない。それでも父の前では絶対に泣かなかった。泣いてしまえば、父をもっと悲しませてしまうような気がしたから。
 でも学校では違った。子どもたちに囲まれると、涙が勝手に溢れてきた。
 
 ────いじめられていたからだ。

 転校生というだけで好奇の目にさらされる上に、私には“アレ”があるから。
 靴ひもを結べないという、格好の的が。

「アメリちゃんの靴ひもショー。はじまりまーす!」

 どっと沸くホームルームの教室。みんなの前に立たされた私は、ひもの解けた靴を履かされては毎日のように公開処刑されていた。
 ほどけた靴ひもを前にして、あの光景が蘇るたび泣き出す私を、晒しものにして楽しむ。事情を知らぬとはいえ、それは子どもゆえの、残酷な発想だった。

 苦しかった。つらくて、どうしようもなくて……かなしくて。
 でも、ひとりぼっちで。

 彼が、私に声をかけてくれるまで────
 
 あれは秋の終わり頃だったと思う。
 私は校庭の隅で膝を抱えて泣いていた。
 泥だらけの靴を握りしめて、ほどけたひもをただ見つめながら。

 その時だった。

「いつも泣いてるよね」

 顔を上げると、同い年くらいの男の子が立っていた。ピンと立った寝癖をつけた男の子。
 ────それが、オミトだった。
 クラスは違うけれど名前は知っていた。父とご近所に挨拶にいった時、その場にいたからだ。

「靴ひもが結べなくて泣いてるの?」
「ん……帰りの会で、いつもみんなの前でやれって……でもできなくて……」
「ふーん」

 その翌日のこと。
 オミトは、はじめて私の靴ひもを結んでくれた。

 いつものように始まる、帰りのホームルームでの公開処刑。
 ほどけた靴ひも。今にも泣き出しそうな私の元に、彼は現れた。
 クラスが違うのにも関わらず、さも当然のように教室のドアを開け、私の前まで歩み寄っては膝をついて……靴ひもを結んでくれた。
 そして、何も言わずに去って行ったのだ。

 それからというもの、次の日も、そのまた次の日も。毎日、毎日……
 周囲がどれだけ奇異の目をむけようと、からかおうと、オミトはものともせずに、決まって帰りのホームルームの時間になると、私の靴ひもを結びに来てくれた。
 すると、根を上げたいじめっ子たちが降伏し、公開処刑は終わりを告げたのだ。

 解放された日。夕焼けに染まる湖畔の道をふたりで歩きながら、私はオミトに尋ねた。
 どうして助けてくれるの?って。すると彼は真顔でこう言った。

「好きだから。靴ひも結ぶの」

 ────予想外すぎて。
 もっとこう、王子様みたいな“イケメン”なセリフを少しばかり期待していた私は吹き出して、お腹を抱えて笑った。

「あっははは!オミトくん、すごい……変態っぽい!」
「冗談に決まってるだろ」
「そんなに好きなの?靴ひも結ぶの」
「だから冗談だってば」

 私はイタズラっぽく、ほくそ笑んで言ったのを覚えている。
 
「ねぇ、オミトくん。結ばせてあげようか?これから毎日」
「……冗談通じないタイプぅ?」

 ほんとうはわかっている。
 私が毎日、泣いていたのをみて、助けてくれたのだということを。
 どれだけ笑われようと、バカにされようと、私の元に駆けつけてくれたことを。

「毎日、結んでくれないと泣いちゃうから!」
「ぐぅぅ……ヤバイのにひっかかったなァ……」

 彼にとっては、些細なことかもしれない。
 靴紐を結ぶことなんて。
 でも、私にとってそれは────

「どうするの?ねぇオミトくん、どうするの?」
「わかったよ。じゃあこれからは毎日、僕が────」

 ────きみの靴ひもを、結んであげる。

 
 *

 
 そうだ。
 そうだった。
 私のヒーローは、いつだって……

 
 ────アメリ

 
 ────────アメリ

 
「────────────アメリ!」

 スタジアムのざわめきとは違う声が、まっすぐに耳を打った。
 涙で霞んだ視界が晴れると……目の前に彼の姿があった。膝をついて屈み、目線を私に揃えている。

「オミト……?どうして…………」
 
 震える声で問いかける。

「約束したろ?アメリの靴ひもは、僕が結ぶって」

 はっとして足元を見た。
 いつの間にか、ほどけていたはずの靴ひもは、きれいに結ばれて……いや、靴そのものが違うものに変わっている。これは────

「昨晩、アメリが置いていった靴だよ。それを履くつもりだったんだろ」

 石舞台の上で、私が落としたあの靴だ。

「一旦、それを取りに戻ってたもんだから遅れちゃってさ。ごめん、アメリ。待たせたね」

 
《むぅー!?これはいけません。乱入者が選手に接触しているぅー!虹又アメリのファンでしょうか?》
《危険ですね。逮捕しましょう》
《おぉーっと!警備員です。警備員が向かっております!》


「えぇ!?うわ、まずい!えーっと……アメリ、じゃあ僕はこれで!」

 コメディ映画の間抜けな泥棒みたいな慌てぶりで、オミトは明後日の方向へ駆け出した。と思ったのも束の間、こちらを振り返って、両手の指で靴ひもを結ぶサインを作ってこう言った。

「おまじない。できてるよ。さ、走れアメリ!」

 再びウサギのように駆け出してゆくオミト。その後を警備員が追う。

 私は目線を落として足元を見る。
 白亜のシューズが雨の雫を弾き、結ばれた靴紐はまるで蝶がそこで羽を休めているかのようで……綺麗だった。

 いまいちど、あの人の姿を目で追う。

「……ばか」

 遠ざかる背中を見つめながら、私は涙と一緒に笑みをこぼした。
 
「来るのが遅いよ……私のヒーロー」

 ────思い出した。
 いまはっきりと思い出した。
 昨夜、雨の中で詠んだ歌。オミトのことを思って詠んだ、一首の和歌のことを。


 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
 傍人(はたびと)と 人は言ふとも わが君は
 かぎろひのごと 忘るべからず

「観客なんかじゃない。あなたはいつだって私のヒーローだった。
 どうか、忘れないで」
 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼


「さて……いきますか」

 私は、泥にまみれた脚で立ち上がった。
 そして大きく息を吸って、熱を冷ますように細くほそく体から抜いた。


《なんということでしょう!虹又アメリが立ち上がりました!自らの灰の中から再び飛び立つと言う不死鳥の如く、虹又アメリがいま、その七色の翼を広げようとしているゥ!》
《折れてませんよ。彼女の闘志は折れてませんよ!》
 

 実況アナウンスに煽られて、スタジアムが総立ちとなり、歓声が雷鳴のように轟いた。

 出し惜しみはしない。倒れたって構わない。
 そうだよ、だって。
 ゴールしたその先に、彼が……オミトが待っていてくれるのだから。

「走れ……!」
 
 雨上がりの空にいま、鮮やかな虹が二重(ふたえ)にかかっている。
 そこに向かっていま、私は大きく一歩を踏み出した。
 もう決して解けることはない、白い蝶の結び目とともに。