あめ ときどき うた


 県大会は、2日後に迫っている。

 レンジくんの噂。
 マドカさんの不在。
 アメリの、あの曖昧な笑顔。

 どれもこれも胸の中でぐるぐる回っていて、ちっとも落ち着かない。ひとつ片づいたと思う暇もなく、次の心配が顔を出す。梅雨どきの洗濯物みたいに、乾きもしないのに次が溜まっていく。

 僕にできることなんて、たかが知れている。
 それでも、せめてお守りくらいは、と思った。

 そんなわけで放課後、僕は軍神を祀る神社まで足を運んでいた。

 ────御射口(みさぐち)神社。

 昔、蝦夷(えみし)のアテルイ討伐だの、元寇だの、そういう血なまぐさい歴史にも兵を出した好戦的な武士団が建立した神社らしい。とはいえ、祀られている神さまは、もともとを辿れば縄文にまで遡るような、名前もよくわからない古い神だという。

 境内はよく手入れされていた。
 きれいなのに、妙に薄暗い。
 人の気配もなくて、整っているぶんだけ、かえって静けさが際立つ。

 僕は少しびくびくしながら、社務所の戸をそろそろと開けた。すると背後から、やけに尖った声が飛んできた。

「おう、オミトじゃねえか。久しぶりだな」

 振り返った僕の目に飛び込んできたのは、巫女服に包まれた金髪のおかっぱ頭だった。
 ぱっと見は、たいへん人形めいた美少女である。けれど、口を開けば、声はなかなかにガラが悪い。

「ヤ、ヤクモさん……!」

 思わず声が裏返った。

 ────甕雷(みかづち)ヤクモ

 小さいころから顔を知っている、古馴染みの神主さんだ。チギリ叔父さんとは同業仲間で、昔から何かと世話を焼いてくれた人でもある。見た目は美少女にしか見えないが、当然というか無論というか、男性である。

「なんだぁ? チギリのアホに似てきたな。ぶん殴っていいか?」
「だ、だめに決まってるでしょ……」
「けけっ。おめえ、傘ゆらに選ばれたんだってな。そりゃまた、ずいぶん苦労したろ」

 にやりと笑って、いきなり核心を突いてくる。
 僕は、ちょっと面食らった。

「やっぱり……知ってたんだ」
「あったりめぇよ。なんせ龍神をフルボッコにして湖に沈めたのは、うちの神さまなんだぜ? こっちのがつえーんだからよ、ダダ漏れよダダ漏れ」

 何をどこまで本気で言っているのかわからない調子で、ヤクモさんは肩をすくめた。そうして乱暴に引き出しを開け、ひとつ布袋を放ってよこす。

「ほら。勝利祈願のお守りだ。女の子のためだろ? 顔に書いてあんだよ」
「ち、違……そんなんじゃないよ」

 反射で否定したものの、舌がうまく回らない。
 図星を突かれたのは、自分でもわかっていた。

 ヤクモさんは、そういうこっちの動揺が大好物らしい。口の端を上げて、ぶっきらぼうに言った。

「なーにうじうじしてんだよ。恋は気合いだ、おめえ。その頼りねぇ肩に止まってくれてるうちに口説き落とさねえと、すぐ飛んでっちまうぜ?」

 お守りを両手で受け取りながら、胸の奥で何かがじわっと膨らんだ。

 飛んでいってしまう。
 そうだ。
 そうなんだけど。

 「好き」と口に出してしまうには、まだ怖い。
 でももう、アメリを中心にして自分の気持ちが動いていることくらい、さすがの僕にもわかっていた。

「また迷ったら来いよ」

 ヤクモさんは背を向けたまま、ひらひらと手を振る。
 そして捨て台詞を置いて去っていった。

「ああ、そうだ。きょう、これからお前にイイコトが起きるぜ? 神託ってやつだ。よかったな、おい」

 そのとき、頬にひとしずく雨粒が落ちた。
 降ってきそうだ。

 僕は、せっかくのお守りが濡れないように、鞄の奥へそっとしまった。


 *


 神社を出た途端、雨は本降りになった。

 傘を開くと、透明な傘地を細かな粒がいっせいに叩きはじめる。その音が妙にせわしなくて、胸のざわつきと同じ速さで鳴っている気がした。落ち着かない。

 ――──飛んでっちまうぜ?

 ヤクモさんのぶっきらぼうな声が、耳の奥に残っている。

 飛んでいってしまう。
 もう、手の届かないところまで。
 でも……でも、何だというのだろう。
 その続きを考えようとしても、うまくいかない。

 足は坂を下りながら、頭の中では同じところをぐるぐる回っている。
 振り払うように顔を上げれば、街はすっかり梅雨の色をしていた。歩道の端に咲く紫陽花は、雨粒を弾きながら鈍く光っている。商店街のシャッターは早々に閉まり、店先には雨宿りの人が何人かいる。アスファルトの水たまりに街灯が揺れていて、踏み込むたびに形が崩れる。

 人影の少ない通りを歩く僕の傘には、雨の音ばかりが重たく響いていた。

「あれ、ここって、たしか……」

 ふと思い出す。
 この道をもう少し行けば、レンジくんのアパートがある。

 噂の真相を知りたい。
 それから、「生きている」と自分の目で確かめたい。

 興味本位と言われたら否定しきれない、あまり褒められたものではない衝動に背中を押されて、気づけば僕はそちらへ足を向けていた。

 やがて、古びた二階建てのアパートが見えてくる。
 トタン屋根を叩く雨音と、傘を震わせる無数の粒が、心臓の音をいっそう大きくする。握った傘の持ち手が少し滑る。手のひらに汗をかいているのだと思う。

 大丈夫だ。
 きっと生きてる。

 だって、和歌は届いているのだから。

 玄関が見えてきた。
 あとは、もし鉢合わせたら、何て声をかけよう。そんなことが一瞬頭をよぎる。

 そのときだった。

 ぎい、と扉の開く音がした。

 出てきた人影を見て、僕は息をのんだ。

 濡れた髪をタオルで押さえて、買い物袋を提げた少女。
 見間違えるはずがない。

 ――──アメリだった。

 雨の中を、傘を差して小走りで去っていく後ろ姿。
 スカートは履いている。けれど、上に着ているのはセーラー服ではなく、男物らしい大きめの半袖Tシャツだった。

「……え」

 声にならない声が漏れる。
 強く握っていたはずの傘が、手の中でぐらついた。

 なんで。
 どうして、アメリが。
 レンジくんの部屋から……それに……その格好は……?

 傘を叩く雨の音が、急に遠くなる。
 胸の奥には、返しのついた針みたいなものが深く刺さって、心臓のあたりをかき回していた。

 息を吸うことすら、うまくできない。

 雨の中に置き去りにされたみたいに。
 僕はひとり、ただその場に立ち尽くしていた。