控室の扉が、きちんと閉まりきらずに半分ほど開いていた。そこから細い灯りが廊下へこぼれている。
そっと覗くと、鏡の前にレンジくんが立っていた。
演奏会のために用意された装束は、飾り気の少ない木綿の直垂に袴だった。下級武士にでもなったみたいな格好で、ふだんの制服姿とも私服とも、まるで印象が違う。人は着るものひとつでここまで別人になるのかと、少し感心した。
思わず、息をのむ。
やっぱり、絵になるなと思う。
別に派手なわけじゃない。むしろ地味なくらいなのに、鏡の前に立っているだけで、そこだけ一枚の絵みたいだった。肩にはまだいくらか緊張が残っていて、背筋はやたらとまっすぐで、そのぎこちなささえ、舞台の光の下ではきっと武器になるはずだ。そう思えるほどに、彼は戦国の世界観の中にその姿を落とし込んでいるように見えた。
「……よく似合ってるよ、レンジくん」
声をかけると、レンジくんは肩越しにこちらを振り返った。それから少しだけ気まずそうに目をそらす。
「……悪かったな、マドカ。金はちゃんと返すから」
やっぱり、彼ならそう言うだろうと思った。
この衣装は演奏者の自費負担だった。ほかの子たちにとってはともかく、彼には重すぎる出費だったらしい。困っているのがわかったとき、私はつい手を出してしまった。つい、というより、見ていられなかったのだと思う。
幸い、私の方はある程度は融通が効く立場なのだから。
「ううん。気にしないで」
私はできるだけ力を抜いて首を振った。
「その代わり、少し時間もらっていい?」
「ああ、いいよ。演奏会まで、まだ余裕あるしな」
いつもの彼なら、僅かばかり面倒そうな顔をするだろうに。今回ばかりは、あっさり承諾されて、私の胸の奥がじんわりと熱くなるのがわかる。
よかった、と思った。
これで、まだ進めることができるから。
唇の内側をそっと噛む。胸の奥で、小さく言い聞かせる。
私が橋をかける。
龍神みたいに、とまではいかなくても。いや……龍神のように。
この手で、きっとレンジくんを救ってみせる。
*
「すごい人だね。今年は外国人も多いし」
「いい迷惑だよな。こんな小さい街に」
露店の並ぶ通りは、見事なくらい人でいっぱいだった。
提灯の灯りが頭の上で揺れて、金魚すくいの声や射的の乾いた音が、夜の空気をぱちぱち弾いている。綿菓子の甘い匂いがふわりと漂ってきて、ああ祭りだな、という感じがした。
そんなふわふわした雰囲気の中。
私はレンジくんと肩を並べて石畳の上を歩いている。
彼は、衣装の借りがあるから仕方なく付き合っている、という顔をしていた。実際たぶん、その通りなのだろう。でも、かまわなかった。大事なのは、いまこの時間を繋ぎとめることだ。私の計画のために。いや、計画なんて言うと聞こえが悪いけれど、要するに、今日こそちゃんとした形にしたかった。
そのときだった。
雑踏の向こうに、見慣れた後ろ姿が見えた。さっきまでチギリさんの握手会のあたりにいた、あの子だ。
オミトくん。
彼は浴衣の袖を引きながら、隣の女の子を人混みからうまく庇うように歩いていた。
アメリだった。
アメリは少し照れたみたいに笑っていて、オミトくんは、どういうわけか少し誇らしそうな顔をしていた。祭りのざわめきの中なのに、そこだけ妙に輪郭がはっきりして見える。ふたりだけ、別の灯りで照らされているみたいだった。
胸の奥に、冷たい棘が一本、すっと入った。
────あの和歌。
君ととも 祭りの夜を 歩む夢 灯の下に咲く わが恋心
数日前に届いた贈歌が、ふいに頭の中によみがえる。
思えば、前から気づいていたのだ。
比喩の置き方が素朴で、言葉の端々に風とか走る感じとか、そういうものが滲んでいた。勢いのある語尾も、どこか聞き覚えがあった。あの歌の中には、たしかにアメリらしさがあった。
いま見てしまって、とうとう確信に変わる。
やっぱり、私の傘はアメリのところにある。
そしてあの子は、オミトくんへの気持ちを詠んでいたのだ。
あの子はきっとわかってやっている。私への“あてつけ”のつもりか。
私は小さく笑った。笑ったつもりだったけれど、たぶんあまりうまくできていなかった。
「……私も、レンジくんと向き合わなきゃ」
独り言みたいに呟く。
今夜、母子を会わせる。うまくいけば、レンジくんは少しは私のことを見てくれるかもしれない。少なくとも、ただの同級生よりは、意味のある存在になれるかもしれない。
でも、もし駄目だったら。
胸の底で、ひとつの覚悟みたいなものが静かに固まった。
そのときは────今度こそ、オミトくんの方を向こう。
恋なのかと問われると、たぶん少し違う。
あの肖像画の一件で味わった敗北感を、どこかで塗り替えたいだけなのかもしれない。ずいぶんみみっちい話だ。でも私は、私だけをちゃんと見てくれる人がほしかった。彼なら、オミトくんなら、それをくれそうな気がしていた。
私は振り返って、レンジくんの歩幅に合わせた。
人波を抜けて、会場の裏手へ向かう。
橋をかける役目は、もうすぐ果たせる。
そう信じていた。
*
裏手の通路へ差しかかったところで、私は立ち止まった。
レンジくんが、不審そうにこちらを見る。
「……レンジくん、ちょっと待っててくれる?」
彼は眉をひそめたけれど、すぐに肩をすくめた。
「わかったよ」
ぶっきらぼうな返事だった。けれど、衣装の借りがあるせいか、そこで強く突っぱねたりはしなかった。
私は小走りでその場を離れる。
祭りの音が少しずつ遠ざかって、提灯の明かりもまばらになっていく。ひんやりした夜気の中、通路の先に、中年の女の人がひとり立っていた。
落ち着かない様子でハンカチを握りしめ、目だけが右へ左へと忙しく動いている。
レンジくんのお母さんだった。
私は一度息を整えて、そっと近づく。
「お待たせしました。……もうすぐですから」
女性は、はっとしたように顔を上げた。
目尻には、もう涙のあとが滲んでいる。
「本当に……本当に会ってくれるのかしら」
声が震えていた。期待と不安が一緒くたになって、どちらの色ともつかない声だった。
私は、できるだけ力強く頷いた。
「大丈夫です。誤解が解けたら、きっとちゃんとうまくいきます」
そう言った瞬間、胸の奥がまた熱くなった。
私が橋をかける。
龍神みたいに、なんてずいぶん大げさだけれど、それでも。
私の手で、この親子を繋げてみせる。
*
レンジくんのところへ戻ると、彼は見知らぬ女性を連れた私を見て、露骨に訝しげな顔をした。
「……マドカ、これは?」
私は胸を張って言った。
「レンジくん。ほら……お母さんだよ」
彼の肩が、ほんの少し揺れたのがわかった。
「ふざけんな。俺に母親はいねえよ」
低くて硬い声だった。
お母さんは、おそるおそる近づいてきて、バッグの中から小さな包みを取り出した。指先で丁寧にほどかれたそれは、紫色のヴァイオリンの弦だった。
「……傘をなくさないように、これを結んでおきなさいって。あなたにそう教えたのは、私よ。覚えてるでしょう?」
その瞬間、レンジくんの目が大きく開いた。
ずっと無表情の仮面みたいに固まっていた顔に、一気に血の気がさして、すぐに引く。握りしめた拳がわずかに震え、視線が落ちた。強がって立っていたものが、いまにも音を立てて崩れそうに見える。
「レンジ……元気にしてた?」
お母さんの声は、薄い紙みたいに頼りなかった。
「……まぁな」
レンジくんの返事は短かった。喉の奥に何かが詰まっているみたいな声だった。
「ご飯は……ちゃんと食べてる?」
「……まぁ」
ぶっきらぼうで、ぎこちない。
でも、会話にはなっていた。
私は少し離れたところでそれを見ながら、胸を撫でおろす。
大丈夫。
ちゃんと話せてる。
私の橋渡しは、成功したんだ。
心臓のあたりが、じんわりとあたたかくなった。
「……飲み物、買ってこようかな」
そう呟いて、私は小さく笑い、その場を離れた。
胸の中は、妙な誇らしさでいっぱいだった。
私は善いことをした。
これで、きっと全部うまくいく。
*
アイスラテの紙コップをふたつ、両手に持って戻る。
足取りが、さっきより少し軽い気がした。
よかった、と思っていた。
私は橋をかけた。生き別れた母子を、ちゃんと会わせた。
善いことをしたのだと、胸の内で何度も確かめていた。
近づきながら、ふたりがどんな話をしているのか少し気になった。
部活のことだろうか。友だちのことだろうか。あるいは、年ごろの息子に恋のひとつもあるのかしら、なんて、お母さんらしい詮索でもしているのかもしれない。
でも、耳に入ってきたのは、そういうものではなかった。
「────お金。いくらなら用意できるの?」
足が止まった。
背筋を、冷たいものがゆっくり這い上がる。
「才能があるんでしょう? 音大に特待で行けるくらいなんだから、稼げるでしょ?」
「いま、いくらあるの? 少しくらいなら出せるんじゃないの?」
紙コップから雫がこぼれて、指先を冷たく濡らした。
鼓動が急に早くなって、息がうまく吸えない。
いま、なんて言ったのだろう。
聞こえてくる声には、懐かしさも、愛情もなかった。
ただ、追いつめられた人間の金を欲しがる声だけがあった。
違う。
これは和解の場面じゃない。
私が思い描いた、善意物語なんかじゃない。
視界が、少し揺れた。
あたたかく満たされていた胸の中に、黒いひびが一本、くっきり走る。
そのとき、夜空に花火が上がった。
腹に響く音と、遠くの歓声。
みんな笑っている。祝祭の音ばかりが派手に鳴っているのに、ここだけ別の夜みたいだった。
私はその場に立ち尽くしたまま、指先から紙コップの水がじわじわ滴るのを見ていた。
*
母親の声は、だんだん熱を帯びていった。
「ねえ、レンジ。すぐ出せる額でいいの。お母さんのために、ね?」
目を血走らせて、身を乗り出すようにして言う。
レンジくんは無表情のまま、ひどく冷たい声で返した。
「金なんかあるわけねぇだろ。ボロアパートでその日暮らししてんだ。……知ってるだろ」
「嘘よ!」
母親は声を荒げた。
「レッスンにも通えてるじゃない。貯めてるに決まってる!」
その声音には、追いつめられた刃物みたいな鋭さがあった。
次の瞬間には、言葉が雨みたいに降りかかる。
「この親不孝者!」
「誰がヴァイオリンを教えてやったと思ってるの!」
「私のおかげで生きてこられたんでしょう!」
その手が振り上げられて、乾いた音がした。
レンジくんの頬に、赤みが走る。
「や、やめてください!」
気づいたときには、私は飛び出していた。
紙コップが地面に落ちて、中身が派手に跳ねる。
「暴力なんて……やめてください!」
「邪魔するんじゃないよ、このクソガキ!」
怒鳴りながら振り下ろされた手は、けれど途中で止まった。
レンジくんが掴んでいた。
「……よくわかった。俺に母親はいねえ。ほんとによくわかったよ」
ぽつり、と雨が落ちた。
それがすぐに本降りになっていく。
レンジくんの声は、雨音の中でも妙にはっきりしていた。
「ち、違うのよ……」
母親の声が一転して震え出す。次の瞬間には、彼の腕にすがりついていた。濡れたまま、爪を立てるみたいに袖を掴み、必死の顔で泣き叫ぶ。
「お願いよレンジ! お母さん、苦しいの。お金が……どうしても要るの。ね、助けて? それで一緒にやり直しましょう。私ね、あんただけが頼りなの。ねぇ、レンジ……」
涙と雨が混ざって、顔はすっかり崩れていた。
レンジくんは、その手を冷たく振り払った。
「今回だけは見逃してやる。だが次は許さねえ」
母親はその場に崩れ落ちた。濡れた石畳に膝をついて、それでもまだ声を絞り出す。
「レンジ……お願い。そ、そうだ、倍に……お金は倍にして返すから! ね、レンジぃ……!」
でも、彼は振り返らなかった。
レンジくんは私の手を掴んで、短く言った。
「行くぞ」
引かれるまま歩きながら、私は一度だけ後ろを振り返った。
土砂降りの雨の中、泥に濡れた膝で崩れ落ちたまま、必死に腕を伸ばす母親の姿があった。頭の上では花火が夜空を裂くみたいに弾けていて、祝祭の光と音の真ん中で、その人だけがひどく取り残されて見えた。
*
「レンジくん! ねえ、聞いて!」
雨は本気で降っていた。
私たちはその中を歩いていた。手を引かれながら、私はどうにか声を張り上げる。
「レンジくん……誤解だよ。きっと誤解。すれ違っただけで……ちゃんと話せば……」
自分でも、だんだん何を言っているのかわからなくなる。
「だって……だってお母さんだよ? 子どもを愛してない母親なんて────」
そのとき、レンジくんが急に立ち止まった。
私の手を離して、ゆっくり振り返る。
届いたのだろうかと思った。
まだ間に合うのかもしれないと、ほんの一瞬だけ思った。
でも違った。
その目は、雨雲の底みたいに暗く、冷たかった。
私を黙らせるには、それで充分だった。
「……マドカ」
雨脚が、さらに強くなる。
「親に殴られたことはあるか?」
私は目を見開いた。
頬に当たる雨粒が痛い。
「タバコ押しつけられたことは?」
「熱湯かけられたことは?」
「飯をもらえなかったことは? 給食だけじゃ足りなくて……他人の残飯まで食ったことは?」
言葉がひとつずつ、胸に刺さっていく。
刃物みたいに、きちんと痛い。
唇が震えた。
でも、何も言えなかった。
雨音だけが、私の沈黙をまるごと包んでしまう。
レンジくんはしばらく黙って、それから低く言った。
「……お前の気持ちも、知ってた」
雨に紛れそうなくらい、小さな声だった。
「なのに俺は、恋を教えてくれ、なんて……半分遊びみたいに、お前を弄んだ……ほんとに悪かった」
目を逸らさずに、私を見る。
「だからもう……これで許してくれるか?」
それだけ言って、彼は背を向けた。
土砂降りを切り裂くみたいに歩いていく背中は、あっという間に雨の向こうへ溶けていった。
私は、その場に立ち尽くしていた。
遠くで花火が開く。歓声が上がる。
なのに私のいる場所だけ、暗くて、冷たい雨ばかりだった。
龍神になれると思っていた。
善意は人を救うのだと、ずいぶん疑わずにいた。
その思い込みが、音を立てて砕けていく。
膝から崩れそうになるのを、なんとか堪えた。
私はただ、その場で雨に打たれていた。
ほかに、できることがなにも見つからなくて。



