十二月二十四日、晴れ。
今日も空は青く、屋上の手すりは朝というのにすでに熱い。
屋上から見下ろす景色も、ずいぶん変わってしまった。
あの日の地震は、津波を発生させなかったものの、水位はあがったままで、今やおばあちゃんの家まで海に浸されている。
町の下のほうは半壊状態で、海に瓦礫が溜まっている。港も海に沈んだため、小学校の校庭が臨時の港になった。
本土にそびえる南山は、昨日から黒い煙を吐いていて、噴火が近いことを知らせている。
「風岡さん」
声にふり返ると、クラスメイトの佐々木さんが立っていた。いわば一軍に所属する佐々木さんとは、これまであまり話したことがなかった。私が『地球がこわれる』と言ったあと、誰よりも陰口を叩いていたのが彼女だ。
「あの……ね。さっきご飯もらったの。ありがとう」
スクールメイクをしておらず、メガネまでかけているせいで違う人に思える。
「佐々木さんのご家族は大丈夫だったの?」
そう尋ねと、佐々木さんは顔をゆがめた。
「お父さんが単身赴任で東京にいて……。こないだの地震の日から連絡が取れなくって……」
あの地震で通信塔に障害が出たらしく、スマホや電話が使えなくなった。テレビによれば、東京も海抜の低い地域は水のなかに沈んでしまったとのこと。
「お父さんって東京のどこにいるの?」
「中野区って聞いてる」
「中野区は海抜が高い地域だから、建物の崩壊とかに巻きこまれてなければ、大丈夫じゃないかな。はっきり答えられなくてごめん」
首を横にふる佐々木さん。その頬に涙が音もなく伝った。
「私こそごめんなさい。九条くんと風岡さんのこと、信じなかったから……」
「こんなことになるなんて、誰も想像できないよ。私だって、お父さんが学者じゃなかったら信じなかっただろうし」
少し安心した顔になった佐々木さんが、もう一度頭を下げ、校舎に消えた。
ほとんどの住民が島の外に避難したらしく、この高校にいるのは全部で八十名程度。半数以上がひとり暮らしのお年寄りだ。
熱い風が髪を躍らせる。
こんな状況なのに悲壮感がないのは、冬吏が戻ってきてくれたから。
溺れながらつかんだ手の感触。青空をバックに見おろす冬吏の顔。
思い出すたびに、うれしくて泣きそうになる。
「お、いたいた」
桜輔があくびをしながら登場した。Tシャツとデニムという軽装ながら、両手に軍手をはめている。
「おはよう。よく眠れた?」
「布団が足りなくってさ、これから冬吏と探しに行く。逃げるときにケガした人がいるから、夏海は薬局に薬を取りに行くってさ」
「千秋は?」
「まだ家に居座ってる人がいるから、説得しに行くんだって。俺も昨日行ったけど、追い払われちまってさ」
昨日の夜、桜輔とふたりきりになれたら告白すると、千秋は決意を語ってくれた。
「悪いんだけど、冬吏とゴミについて話し合いたいの」
「ゴミ? 一階にまとめてるけど」
「しばらくここで暮らすことになるから、生ゴミとかの処理をどうするのか決めておきたい。そのあとで、家にいる人たちの説得に行くから、桜輔は千秋と布団を探しに行ってもらっていい?」
「おう。じゃあ、千秋誘って行ってくるわ」
背中を向けて手をあげる桜輔に、
「気をつけてね。千秋を守ってあげて」
そう言うと、横顔でニッと笑った。
「俺のほうが守られそうだけどな」
千秋の想いが届きますように。明日、地球がこわれるときにふたりがそばにいられますように。
柵に手を置き、校庭を眺める。小学生の男の子ふたりがサッカーをしている。
あ、冬馬くんが合流した。元気な声をあげ、ボールを追う姿を見てホッとした。
校舎に戻り、二階へおりた。家族ごとに教室がふり分けられていて、ひとり暮らしの人たちは五人でひとつの教室に入ってもらっている。
二年三組にいるのがうちの家族だ。教室のドアを開けると、机と椅子はうしろに下げられ、教壇前に畳んだ布団が置いてある。昨日のうちに軽トラで運んできたらしく、テーブルや食器棚、ソファまで設置されていて、まるで家のリビングだ。
今、いるのはお父さんだけ。
「お母さんとおばあちゃんは?」
「調理室に行ったまま帰ってこない。いつもの長話、ってやつだろう」
お父さんはソファに座り、テーブル広げた地図を難しい顔で見ている。
「なにしてるの?」
「学会で発表した資料だ。このあたりで起きることを予測して地図にまとめたんだ。学会を辞めるときに、こっそり持ってきたんだが、なんせ古い資料だから、どこまで信用していいのかわからん」
本土の地図は、ほとんどの部分が赤く塗りつぶされている。私の住む町と、海北町だけはかろうじて緑色のままだ。
「赤いところが海に沈むの?」
「当時の予測だから、どこまで当たってるのかはわからん」
二十五日の地震で、大きな被害が出てしまう。この島も海北町も、半分くらいまで水に沈むと記してある。
真剣な表情のお父さんに、どうしても伝えたいことがある。これまでも、何度か言おうとしたけれど、素直になれなかった。
「あの、ね……」
「これから荷物を運びたい人の家を順番に回ってくる。軽トラがあってよかったよな」
地図を手にお父さんは立ちあがった。
「うん」
「食料もいつか足りなくなるだろうから、空き家を物色してみる。缶詰くらいはあるだろう」
「お父さん」歩き出す背中に声をかけた。私は今、『私との約束』のひとつを言葉にする。
「あの、ね……ごめんなさい」
「ほえ?」
驚いた顔でふり返るお父さんから視線を落とす。
引っ越しをしたこと、ピアノをあきらめたこと、自分に仮面をつけたこと。全部、お父さんのせいにしてきた。そうすることで、自分を守ろうとしてきた。
「お父さんに冷たくしてごめんなさい。あと……ちゃんと信じてあげられなくてごめんなさい」
佐々木さんだけじゃなく、私だってお父さんの主張をちゃんと信じてこなかった。
「今は信じてくれてるんだろ? だったら問題なし」
日に焼けた顔でお父さんは笑う。
「もっと早く信じて行動していれば、町から出ていく人を止められたかもしれない。ニュースで、たくさんの人が亡くなったり、行方不明になってるって……」
今日までの準備期間をもっとうまく使えていたら、この町に留まってくれる人が増えたはず。
「そんなのお父さんだって同じだ。ソーラーパネルをつけながら説明はしてきたけど、誰ひとり信じてくれなかった。自分に不都合な真実から目を逸らすのが人間なんだから気にするな」
そう言ったあと、お父さんは私に一歩近づいた。
「雪音はよくやってるよ。ここにたくさんの物資があるのも、雪音と友だちのおかげだってみんな言ってくれてる」
「そうよ。雪音は自慢の娘よ」
いつの間にか、教室の前方の扉にお母さんが立っていた。
「それに、お父さんも自慢の夫よ」
エプロンを外しながらお母さんは笑った。
照れくさそうに鼻の頭をかいたお父さんが、
「おばあちゃんは?」
と尋ねたとたん、お母さんの顔色が曇ってしまった。
「家に帰りたいって何度も言うの。もう水に浸かってしまったと言っても聞いてくれなくてね。田後さんが、『屋上から見れば状況を理解してくれるだろう』って、連れていってくれてる」
「落ちこんじゃうよね……」
家には思い出が染みついている。長い間暮らしてきたからこそ、水のなかに沈んだなんて受け入れられないよね……。
ピアノも、もう二度と音を奏でない。縁側に座って話をすることもない。
「いいんだよ」とお父さんが明るい声で言った。
「命より大切なものなんてない。雪音、おばあちゃんを助けてくれてありがとう」
お父さんとお母さんも屋上へ行くらしく、三人で教室を出た。
階段の踊り場で別れたあと一階へおりると、昇降口に冬吏がいた。
「ゴミのことで話があるって聞いたけど」
そう言うと、冬吏は両手に持っているペットボトルの一本を渡してくれた。
「冷えてるね」
「直前まで冷凍庫に入れておいた。ここにも予備が入ってる」
リュックを揺すってみせたあと、冬吏は靴を履き替えて外に出ていく。
「雪音ちゃん!」
大声で叫びながら、冬馬くんが駆けてきた。
「おはよう。サッカーやってるの上から見てたよ」
「まだほかの子はやってるけど、ママに呼ばれちゃって。引っ越しの準備をするんだって」
冬馬くんのお母さんは、すぐにでも都会に避難すると言って聞かなかった。お父さんが何度説得しても聞き入れてもらえず、折衷案として二十六日以降に町を出ることになっている。
「動いていいのは今日だけだからね。明日は絶対に学校にいてね」
うなずきながら、冬馬くんはあどけない瞳を冬吏に向けた。
「お兄ちゃんが冬吏くん?」
「そうだけど」
「やっぱり。雪音ちゃんが教えてくれたんだ。僕たち冬の名前三人組だ、って」
そう言うと、冬馬くんはブカブカの上靴を履き駆けていった。
「元気だな」
苦笑する冬吏の横顔を見ていると、胸が鼓動を速めるのがわかった。ごまかすように外に出ると、空をキャンバスに白い入道雲が描かれていた。
「こないだは助けてくれてありがとう」
「何回言ってるんだよ。約束を守っただけだから気にしないで」
最初はどちらかが死んでいて、幽霊になったんじゃないかと何度も疑った。前以上に好きな気持ちが大きくなっている。
あの入道雲みたいにどんどん大きくなる気持ち。ブレーキをかけたいのに、どうやればいいのかわからない。
今はそれどころじゃない、と自分に言い聞かせても、一秒後には冬吏のことを考えている。
二十五日を無事に終えるまで、ううん、この町が正常に戻るまでこの気持ちは封印しないと。
裏庭に回り、ゴミの処理について話し合った。
生ゴミと燃えるゴミは焼却炉で燃やし、燃えないゴミについては駐車場に積み重ねることとなった。
「ここでしばらく暮らすなら、役割分担を決めないとな。食事や片づけも、今は気づいた人がやってくれてる状態だから」
「シャワーを使う順番も決めたほうがいいよね。地球がこわれても、水とか電気は使えるのかな……」
「田後さんがプールを掃除して水を張ってくれるから、いざとなれば生活用水にできる。電気が止まったとしても自家発電機があるし、ソーラーパネルもあるから生活に大きな支障は出ないと思う」
スマホにメモしたあと、校門から外に出た。
坂道をくだりながら冬吏と並ぶ。
「冬吏のお父さんとお母さん、今ごろ心配してるだろうね」
「置き手紙しか残してこなかったけど、たぶん母親のほうは気づいてた。パスポートと一緒にお金を置いてくれてたし」
「え、そうなの?」
「メッセージの返信できなくてごめん。スマホ、まだ没収されたままでさ……。今ごろ後悔してるかもよ。って、通信がダメになったから意味ないか」
やさしくほほ笑む冬吏。きっと私も同じ表情をしているのだろう。
「一緒にみんなを助けよう。冬吏はヒーローだもんね」
これから家に残っている人を説得して、ここへ連れてくる。把握している限り五軒あるが、今のところ耳を貸してくれる人はいない。
テレビでは世界中がパニックになっていると報じている。
北極だけでなく、山岳地帯などの標高が高い場所が安全区だと報じられ、飛行場に多くの人が駆けつけているそうだ。
まるで映画を観ているみたい。地球がこわれてしまうなんて、あまりにも現実味がない。
「まずは誰を説得しに行くんだっけ?」
そう尋ねると、冬馬はなぜかいたずらっぽい顔で私を見た。
「ちょっと寄り道しようか」
そう言うと、冬吏は歩き出した。
旧校舎沿いの舗装されていない道をのぼっていく冬吏。セミの声が遠ざかり、しだいに風の音が大きくなった。
木立を抜けると、視界がふわっと開けた。
南山の稜線がくっきりと空を切り取っていた。青い風が草原をわたってゆく。
「お気に入りの場所を見つけたから教えたくって。君沢湖というベストな場所がなくなってしまったから」
視界いっぱいにひろがる空と山に圧倒されていると、冬吏が転落防止の柵の前まで連れていってくれた。見下ろすと眼下に海が広がっている。足がすくむ恐怖よりも、風景の美しさのほうが上回っている。
「すてきな場所だね。すごく……きれい」
「だろ?」
得意げに冬吏は笑った。景色も一緒に笑っているように見えた。
限りなく静かな世界に、ふたりきり、取り残されたみたい。
不意に、胸の奥がきゅっとした。
この時間が、静けさが、どこか夢のように感じられて――壊れてしまうのが、こわかった。
「戻ってこられてよかった。雪音と約束しておいてよかった」
満足げに冬吏は言った。
「……ねえ、冬吏」
風にまぎれるように、口を開いた。
「私もね、冬吏がいない間に、『私との約束』をしたの」
「自分と約束した、ってこと?」
そうだよ、と小さくうなずいた。
「まずは……お父さんに謝ること。これは、できたよ。ちゃんと謝ることができた」
「すごいな。俺は逆に親には謝ってほしいくらい」
冗談めかせる冬吏に、少し笑ってから残りの約束を言葉にする。
「それから、『ラ・カンパネラ』を最後までちゃんと弾くこと」
くだらないことかもしれない。でも……冬吏には知ってほしかった。
「あとひとつ。……みんなで生き残ること。誰ひとり、欠けずに」
言い終えると、ふと、胸の奥がひんやりした。
口にするたびに、それがどれだけ難しいことか、突きつけられるみたいで。
――冬吏に、想いを伝えること。
言葉にしたら、なにかが終わってしまいそうな気がして、それだけは言えなかった。
それに、今の私は、そんな資格も勇気も持っていない。
だから、私は三つの約束を言葉にした。 残りひとつは、自分だけにした約束だ。
しばらく沈黙が流れた。風が、草を揺らしていく。
「俺も、みんなで生き残りたいって思ってる」
知ってるよ。冬吏がそう思っているからこそ、この約束は生まれたのだから。
「でもね……本当は怖い。ずっと笑顔の仮面をつけてきたから、みんなで生き残るためになにができるか、本当にそんなことができるのか、自信がない」
冬吏の視線を感じながら、心の奥を覗いてみると、そこにあるのは忘れたはずの不安。
「がんばってるつもりなの。でも、最近、これで本当に大丈夫かなって……。誰かを助けたいと思えば思うほど、自分の足元がふらついてくる」
冬吏に二度と会えないと覚悟していたから、必死でがんばってきた。だけど、再会したとたん、また弱い自分に逆戻りした気もする。
こんなこと言うつもりじゃなかったのに。地球がこわれる日までがんばると言いたかっただけなのに。
冬吏がいると、強くなれる気がする。
でも同時に、張りつめていた糸がほどけてしまいそうになる。
「……ちょっと座る」
その場にしゃがみこまないと、風景に呑みこまれそうな気がした。
情けないな……。結局私は、強い自分の仮面をつけていただけなのかもしれない。
目の奥がじんとして、膝を抱える手がぼやけて見える。
冬吏が「なあ」と私の隣にしゃがみこみ、目線の高さを合わせた。
「俺がいない間に物資を運んだり、みんなを説得したり――雪音はすごいよ。でも、弱音を口にできる雪音は、もっとすごいと思う」
「……え?」
「俺だって実は怖い。だってこんなこと一生に一度のことだし」
やさしい声が直接脳裏に流れこんでくるようだった。
「怖くていい。自信がなくったっていい。似たもの同士の俺たちが力を合わせれば、きっと困難を乗り越えられる」
頬が、かすかに熱を持った。
やっぱり冬吏は、私を強くしてくれるんだ。そう思った。
立ちあがり、もう一度景色を見渡してからニッと笑いかけた。
「ありがとう。なんか、スッキリした」
「俺も」
告白は、まだしない。そのときが来たら、きっと抑えようとしても言葉があふれ出すはず。
「それよりも、まずはみんなを助けなきゃ」
もとの道に戻り、スマホのメモ帳アプリを開いた。
「水に近いところからだから、ええと――森内さんだね」
「自治会の?」
「元副会長さん。奥さんが亡くなったのをきっかけに退任したみたい。息子さんたちは何十年も前に実家を離れ、ひ孫さんまでいるみたい。森内さんは今でも、小学校の登下校の見守りは続けてくれてるんだって」
この情報は、ほとんどお父さんから聞いて作った。
住民とコミュニケーションを取り続けているお父さんだからこそわかる情報ばかり。そんなお父さんでも、まだ家に残っている住民を説得できなかったそうだ。
森内さんの家は、平屋建てでおばあちゃんの家とよく似た外見だった。チャイムを鳴らすけれど、先日の地震で壊れてしまったらしく音が鳴らない。
庭へ回ると、森内さんは小さなベンチに座っていた。白髪をオールバックに流し、家にいるのにワイシャツとスラックス姿でネクタイもつけている。情報によると、今年八十歳になったそうだ。
私たちに気づくと、困った顔になりながらも招いてくれた。
「この数日は客ばかり来るな」
森内さんとはあまり関わったことがない。小六のときに登下校の見守りをしてくれていたのは覚えているけれど、挨拶を交わす程度だった。
久しぶりに見た顔には、たくさんのシワがあって、体もひと回り小さくなったように見える。
「初めまして。九条冬吏と申します」
丁寧に頭を下げた冬吏に遅れて、私もお辞儀をした。
「風岡雪音です。突然押しかけて申し訳ありません」
「雪音ちゃん、大きくなったね」
「え……覚えていてくれたんですか?」
「もちろん。きちんと挨拶できる子だったね。小学校を卒業してからは、たまに見かける程度だったから会えてうれしいよ。九条くんは去年越してきたばかり。こないだお父さんを初めて見たよ。普段は一緒にいないのかい?」
「事情がありまして……。それより森内さん――」
「説得に来たんだろう?」
返事を聞く前に、森内さんは顔を前へ向けた。
「ここからは君沢湖が見えてね。海水が上昇したときからは、海と湖の両方が見えたんだ。でも、今では海しか見えない」
冬吏が一歩前に出た。
「明日二十五日に大きな地震が起きます。さらに水位があがり、ここも海になってしまうんです」
「そうらしいね」と、森内さんは人ごとのように答えたあと、ベンチの隣に目を向けた。
「ばあさんが生きていたころは、ふたりでここに座って君沢湖を眺めていた。昔は今ほど気温も高くなくてね、読書をしたり世間話をしたりしてたんだ」
森内さんの奥さんのことは覚えていない。スーパーで森内さんを見かけたことはあるけれど、いつもひとりだった。
「ばあさんはここに座るが好きだった。リウマチを患い、家から出られなくなってからは、日中のほとんどをここで過ごしていた」
過去を見るように目を細める森内さん。穏やかな口調の片隅に、深い悲しみが存在していると思った。
「森内さん、一緒に避難してください」
冬吏の言葉に答えず、森内さんはネクタイをキュっと上にあげた。
「雪音ちゃんのお父さんも同じことを言っていた。避難すれば助かるのはわかるよ」
「だったら――」
「君たちは逃げなさい」
冬吏の言葉を遮り、森内さんがはっきりとそう言った。
「わたしはここにいるって決めたんだ。ばあさんとの思い出の場所にいたいんだよ」
「ダメです」思わずそう言っていた。
「二十五日だけは高校にいてください。ここにいたら、海に呑みこまれてしまいます」
「わかった上で決めたことなんだ」
周りの酸素が急に薄くなった気がした。大きく息を吸ってから「でも」と続ける。
「それじゃあ命を投げ出すようなものです。森内さんの奥さんだって、そんなこと望んでいないと思います」
しんとした時間が流れた。
森内さんが膝の上で自分の手を握った。
「夫婦ってのは不思議なものでね。そばにいるときは、どれほど大切かということを忘れてしまうんだ」
なんて言えばいい? どう説明すれば伝わるの?
「結婚当初は仕事のことで頭がいっぱいだった。家のことを任せっきりだったせいで、子どもたちはわたしに懐かなかった。ばあさんが亡くなったあと、息子たちは寄りつかなくなり、もう何年も会っていない。自業自得という言葉を実感しているところだ」
こんな話なのにどうして笑みを浮かべているの?
小学生の登下校を見守っているのは、ひょっとしたら森内さんなりの懺悔なのかもしれない。
冬吏はキュッと頬を締め、森内さんの話に耳を傾けている。
「定年を迎え、やっとばあさんとふたりきりの生活がはじまったと思ったら、病気が発覚した。リウマチだけじゃなく、認知症も発症してしまってね。ある夜、気づくとばあさんがベッドにいなかった。慌てて探すと、ベンチに座るばあさんのうしろ姿が見えたんだ」
そこにおばあさんがいるかのように、森内さんはベンチの座面に右手を置いた。
「月がきれいな夜だった。白い光がばあさんだけを照らしているように見えて、幻想的な光景だったよ。そのときに、わたしはこれまでばあさんにやさしくしてこなかったことを思い知ったんだ。病気になってからは特にそうだった。イライラをぶつけることも多かった」
ふいに森内さんが私を見た。後悔と悲しみが、森内さんの瞳を潤ませていた。
「願いごとがひとつ叶うのなら、早くばあさんに会いたい。会って、これまでのことを謝りたい」
「なんでだよ。なんで、そんな考えになるんだよ。精いっぱい生きて、生きて、生き抜いてから会いに行けよ!」
怒りを抑えられずに怒鳴る冬吏。腕をつかむと、ハッとしたようにあとずさった。
「……すみません。でも、奥さんだって同じことを思ってるはずだから」
「どうかな」と森内さんが笑った。
「あいつはさみしがりやでね。寝たきりになってからは、いつもわたしの姿を探していた。今はきっとさみしがっている。いや……さみしいのはわたしのほうかもな」
ゆっくり立ちあがると、森内さんは私と冬吏の正面に立った。
「君たちが、道理に従い行動していることはわかるし、感謝もしている。だが、わたしの人生はわたしだけのものだ。この人生をどう終えるかは、自分で決めさせてくれないか」
「森内さん……」
私にはわからない。好きな人のそばにいたい気持ちは理解できても、自ら命を投げ出すことには賛成できない。
「もう帰りなさい。二度とここへ来るんじゃないよ」
「森内さん……!」
呼びかけてもふり向かず、縁側から家に入りガラス戸を閉めてしまった。
「時間がない。次の家に行こう」
早足に庭から出ていく冬吏を追いかける。
もう一度ふり向くと、太陽に照らされたベンチがキラキラと輝いていた。
今日も空は青く、屋上の手すりは朝というのにすでに熱い。
屋上から見下ろす景色も、ずいぶん変わってしまった。
あの日の地震は、津波を発生させなかったものの、水位はあがったままで、今やおばあちゃんの家まで海に浸されている。
町の下のほうは半壊状態で、海に瓦礫が溜まっている。港も海に沈んだため、小学校の校庭が臨時の港になった。
本土にそびえる南山は、昨日から黒い煙を吐いていて、噴火が近いことを知らせている。
「風岡さん」
声にふり返ると、クラスメイトの佐々木さんが立っていた。いわば一軍に所属する佐々木さんとは、これまであまり話したことがなかった。私が『地球がこわれる』と言ったあと、誰よりも陰口を叩いていたのが彼女だ。
「あの……ね。さっきご飯もらったの。ありがとう」
スクールメイクをしておらず、メガネまでかけているせいで違う人に思える。
「佐々木さんのご家族は大丈夫だったの?」
そう尋ねと、佐々木さんは顔をゆがめた。
「お父さんが単身赴任で東京にいて……。こないだの地震の日から連絡が取れなくって……」
あの地震で通信塔に障害が出たらしく、スマホや電話が使えなくなった。テレビによれば、東京も海抜の低い地域は水のなかに沈んでしまったとのこと。
「お父さんって東京のどこにいるの?」
「中野区って聞いてる」
「中野区は海抜が高い地域だから、建物の崩壊とかに巻きこまれてなければ、大丈夫じゃないかな。はっきり答えられなくてごめん」
首を横にふる佐々木さん。その頬に涙が音もなく伝った。
「私こそごめんなさい。九条くんと風岡さんのこと、信じなかったから……」
「こんなことになるなんて、誰も想像できないよ。私だって、お父さんが学者じゃなかったら信じなかっただろうし」
少し安心した顔になった佐々木さんが、もう一度頭を下げ、校舎に消えた。
ほとんどの住民が島の外に避難したらしく、この高校にいるのは全部で八十名程度。半数以上がひとり暮らしのお年寄りだ。
熱い風が髪を躍らせる。
こんな状況なのに悲壮感がないのは、冬吏が戻ってきてくれたから。
溺れながらつかんだ手の感触。青空をバックに見おろす冬吏の顔。
思い出すたびに、うれしくて泣きそうになる。
「お、いたいた」
桜輔があくびをしながら登場した。Tシャツとデニムという軽装ながら、両手に軍手をはめている。
「おはよう。よく眠れた?」
「布団が足りなくってさ、これから冬吏と探しに行く。逃げるときにケガした人がいるから、夏海は薬局に薬を取りに行くってさ」
「千秋は?」
「まだ家に居座ってる人がいるから、説得しに行くんだって。俺も昨日行ったけど、追い払われちまってさ」
昨日の夜、桜輔とふたりきりになれたら告白すると、千秋は決意を語ってくれた。
「悪いんだけど、冬吏とゴミについて話し合いたいの」
「ゴミ? 一階にまとめてるけど」
「しばらくここで暮らすことになるから、生ゴミとかの処理をどうするのか決めておきたい。そのあとで、家にいる人たちの説得に行くから、桜輔は千秋と布団を探しに行ってもらっていい?」
「おう。じゃあ、千秋誘って行ってくるわ」
背中を向けて手をあげる桜輔に、
「気をつけてね。千秋を守ってあげて」
そう言うと、横顔でニッと笑った。
「俺のほうが守られそうだけどな」
千秋の想いが届きますように。明日、地球がこわれるときにふたりがそばにいられますように。
柵に手を置き、校庭を眺める。小学生の男の子ふたりがサッカーをしている。
あ、冬馬くんが合流した。元気な声をあげ、ボールを追う姿を見てホッとした。
校舎に戻り、二階へおりた。家族ごとに教室がふり分けられていて、ひとり暮らしの人たちは五人でひとつの教室に入ってもらっている。
二年三組にいるのがうちの家族だ。教室のドアを開けると、机と椅子はうしろに下げられ、教壇前に畳んだ布団が置いてある。昨日のうちに軽トラで運んできたらしく、テーブルや食器棚、ソファまで設置されていて、まるで家のリビングだ。
今、いるのはお父さんだけ。
「お母さんとおばあちゃんは?」
「調理室に行ったまま帰ってこない。いつもの長話、ってやつだろう」
お父さんはソファに座り、テーブル広げた地図を難しい顔で見ている。
「なにしてるの?」
「学会で発表した資料だ。このあたりで起きることを予測して地図にまとめたんだ。学会を辞めるときに、こっそり持ってきたんだが、なんせ古い資料だから、どこまで信用していいのかわからん」
本土の地図は、ほとんどの部分が赤く塗りつぶされている。私の住む町と、海北町だけはかろうじて緑色のままだ。
「赤いところが海に沈むの?」
「当時の予測だから、どこまで当たってるのかはわからん」
二十五日の地震で、大きな被害が出てしまう。この島も海北町も、半分くらいまで水に沈むと記してある。
真剣な表情のお父さんに、どうしても伝えたいことがある。これまでも、何度か言おうとしたけれど、素直になれなかった。
「あの、ね……」
「これから荷物を運びたい人の家を順番に回ってくる。軽トラがあってよかったよな」
地図を手にお父さんは立ちあがった。
「うん」
「食料もいつか足りなくなるだろうから、空き家を物色してみる。缶詰くらいはあるだろう」
「お父さん」歩き出す背中に声をかけた。私は今、『私との約束』のひとつを言葉にする。
「あの、ね……ごめんなさい」
「ほえ?」
驚いた顔でふり返るお父さんから視線を落とす。
引っ越しをしたこと、ピアノをあきらめたこと、自分に仮面をつけたこと。全部、お父さんのせいにしてきた。そうすることで、自分を守ろうとしてきた。
「お父さんに冷たくしてごめんなさい。あと……ちゃんと信じてあげられなくてごめんなさい」
佐々木さんだけじゃなく、私だってお父さんの主張をちゃんと信じてこなかった。
「今は信じてくれてるんだろ? だったら問題なし」
日に焼けた顔でお父さんは笑う。
「もっと早く信じて行動していれば、町から出ていく人を止められたかもしれない。ニュースで、たくさんの人が亡くなったり、行方不明になってるって……」
今日までの準備期間をもっとうまく使えていたら、この町に留まってくれる人が増えたはず。
「そんなのお父さんだって同じだ。ソーラーパネルをつけながら説明はしてきたけど、誰ひとり信じてくれなかった。自分に不都合な真実から目を逸らすのが人間なんだから気にするな」
そう言ったあと、お父さんは私に一歩近づいた。
「雪音はよくやってるよ。ここにたくさんの物資があるのも、雪音と友だちのおかげだってみんな言ってくれてる」
「そうよ。雪音は自慢の娘よ」
いつの間にか、教室の前方の扉にお母さんが立っていた。
「それに、お父さんも自慢の夫よ」
エプロンを外しながらお母さんは笑った。
照れくさそうに鼻の頭をかいたお父さんが、
「おばあちゃんは?」
と尋ねたとたん、お母さんの顔色が曇ってしまった。
「家に帰りたいって何度も言うの。もう水に浸かってしまったと言っても聞いてくれなくてね。田後さんが、『屋上から見れば状況を理解してくれるだろう』って、連れていってくれてる」
「落ちこんじゃうよね……」
家には思い出が染みついている。長い間暮らしてきたからこそ、水のなかに沈んだなんて受け入れられないよね……。
ピアノも、もう二度と音を奏でない。縁側に座って話をすることもない。
「いいんだよ」とお父さんが明るい声で言った。
「命より大切なものなんてない。雪音、おばあちゃんを助けてくれてありがとう」
お父さんとお母さんも屋上へ行くらしく、三人で教室を出た。
階段の踊り場で別れたあと一階へおりると、昇降口に冬吏がいた。
「ゴミのことで話があるって聞いたけど」
そう言うと、冬吏は両手に持っているペットボトルの一本を渡してくれた。
「冷えてるね」
「直前まで冷凍庫に入れておいた。ここにも予備が入ってる」
リュックを揺すってみせたあと、冬吏は靴を履き替えて外に出ていく。
「雪音ちゃん!」
大声で叫びながら、冬馬くんが駆けてきた。
「おはよう。サッカーやってるの上から見てたよ」
「まだほかの子はやってるけど、ママに呼ばれちゃって。引っ越しの準備をするんだって」
冬馬くんのお母さんは、すぐにでも都会に避難すると言って聞かなかった。お父さんが何度説得しても聞き入れてもらえず、折衷案として二十六日以降に町を出ることになっている。
「動いていいのは今日だけだからね。明日は絶対に学校にいてね」
うなずきながら、冬馬くんはあどけない瞳を冬吏に向けた。
「お兄ちゃんが冬吏くん?」
「そうだけど」
「やっぱり。雪音ちゃんが教えてくれたんだ。僕たち冬の名前三人組だ、って」
そう言うと、冬馬くんはブカブカの上靴を履き駆けていった。
「元気だな」
苦笑する冬吏の横顔を見ていると、胸が鼓動を速めるのがわかった。ごまかすように外に出ると、空をキャンバスに白い入道雲が描かれていた。
「こないだは助けてくれてありがとう」
「何回言ってるんだよ。約束を守っただけだから気にしないで」
最初はどちらかが死んでいて、幽霊になったんじゃないかと何度も疑った。前以上に好きな気持ちが大きくなっている。
あの入道雲みたいにどんどん大きくなる気持ち。ブレーキをかけたいのに、どうやればいいのかわからない。
今はそれどころじゃない、と自分に言い聞かせても、一秒後には冬吏のことを考えている。
二十五日を無事に終えるまで、ううん、この町が正常に戻るまでこの気持ちは封印しないと。
裏庭に回り、ゴミの処理について話し合った。
生ゴミと燃えるゴミは焼却炉で燃やし、燃えないゴミについては駐車場に積み重ねることとなった。
「ここでしばらく暮らすなら、役割分担を決めないとな。食事や片づけも、今は気づいた人がやってくれてる状態だから」
「シャワーを使う順番も決めたほうがいいよね。地球がこわれても、水とか電気は使えるのかな……」
「田後さんがプールを掃除して水を張ってくれるから、いざとなれば生活用水にできる。電気が止まったとしても自家発電機があるし、ソーラーパネルもあるから生活に大きな支障は出ないと思う」
スマホにメモしたあと、校門から外に出た。
坂道をくだりながら冬吏と並ぶ。
「冬吏のお父さんとお母さん、今ごろ心配してるだろうね」
「置き手紙しか残してこなかったけど、たぶん母親のほうは気づいてた。パスポートと一緒にお金を置いてくれてたし」
「え、そうなの?」
「メッセージの返信できなくてごめん。スマホ、まだ没収されたままでさ……。今ごろ後悔してるかもよ。って、通信がダメになったから意味ないか」
やさしくほほ笑む冬吏。きっと私も同じ表情をしているのだろう。
「一緒にみんなを助けよう。冬吏はヒーローだもんね」
これから家に残っている人を説得して、ここへ連れてくる。把握している限り五軒あるが、今のところ耳を貸してくれる人はいない。
テレビでは世界中がパニックになっていると報じている。
北極だけでなく、山岳地帯などの標高が高い場所が安全区だと報じられ、飛行場に多くの人が駆けつけているそうだ。
まるで映画を観ているみたい。地球がこわれてしまうなんて、あまりにも現実味がない。
「まずは誰を説得しに行くんだっけ?」
そう尋ねると、冬馬はなぜかいたずらっぽい顔で私を見た。
「ちょっと寄り道しようか」
そう言うと、冬吏は歩き出した。
旧校舎沿いの舗装されていない道をのぼっていく冬吏。セミの声が遠ざかり、しだいに風の音が大きくなった。
木立を抜けると、視界がふわっと開けた。
南山の稜線がくっきりと空を切り取っていた。青い風が草原をわたってゆく。
「お気に入りの場所を見つけたから教えたくって。君沢湖というベストな場所がなくなってしまったから」
視界いっぱいにひろがる空と山に圧倒されていると、冬吏が転落防止の柵の前まで連れていってくれた。見下ろすと眼下に海が広がっている。足がすくむ恐怖よりも、風景の美しさのほうが上回っている。
「すてきな場所だね。すごく……きれい」
「だろ?」
得意げに冬吏は笑った。景色も一緒に笑っているように見えた。
限りなく静かな世界に、ふたりきり、取り残されたみたい。
不意に、胸の奥がきゅっとした。
この時間が、静けさが、どこか夢のように感じられて――壊れてしまうのが、こわかった。
「戻ってこられてよかった。雪音と約束しておいてよかった」
満足げに冬吏は言った。
「……ねえ、冬吏」
風にまぎれるように、口を開いた。
「私もね、冬吏がいない間に、『私との約束』をしたの」
「自分と約束した、ってこと?」
そうだよ、と小さくうなずいた。
「まずは……お父さんに謝ること。これは、できたよ。ちゃんと謝ることができた」
「すごいな。俺は逆に親には謝ってほしいくらい」
冗談めかせる冬吏に、少し笑ってから残りの約束を言葉にする。
「それから、『ラ・カンパネラ』を最後までちゃんと弾くこと」
くだらないことかもしれない。でも……冬吏には知ってほしかった。
「あとひとつ。……みんなで生き残ること。誰ひとり、欠けずに」
言い終えると、ふと、胸の奥がひんやりした。
口にするたびに、それがどれだけ難しいことか、突きつけられるみたいで。
――冬吏に、想いを伝えること。
言葉にしたら、なにかが終わってしまいそうな気がして、それだけは言えなかった。
それに、今の私は、そんな資格も勇気も持っていない。
だから、私は三つの約束を言葉にした。 残りひとつは、自分だけにした約束だ。
しばらく沈黙が流れた。風が、草を揺らしていく。
「俺も、みんなで生き残りたいって思ってる」
知ってるよ。冬吏がそう思っているからこそ、この約束は生まれたのだから。
「でもね……本当は怖い。ずっと笑顔の仮面をつけてきたから、みんなで生き残るためになにができるか、本当にそんなことができるのか、自信がない」
冬吏の視線を感じながら、心の奥を覗いてみると、そこにあるのは忘れたはずの不安。
「がんばってるつもりなの。でも、最近、これで本当に大丈夫かなって……。誰かを助けたいと思えば思うほど、自分の足元がふらついてくる」
冬吏に二度と会えないと覚悟していたから、必死でがんばってきた。だけど、再会したとたん、また弱い自分に逆戻りした気もする。
こんなこと言うつもりじゃなかったのに。地球がこわれる日までがんばると言いたかっただけなのに。
冬吏がいると、強くなれる気がする。
でも同時に、張りつめていた糸がほどけてしまいそうになる。
「……ちょっと座る」
その場にしゃがみこまないと、風景に呑みこまれそうな気がした。
情けないな……。結局私は、強い自分の仮面をつけていただけなのかもしれない。
目の奥がじんとして、膝を抱える手がぼやけて見える。
冬吏が「なあ」と私の隣にしゃがみこみ、目線の高さを合わせた。
「俺がいない間に物資を運んだり、みんなを説得したり――雪音はすごいよ。でも、弱音を口にできる雪音は、もっとすごいと思う」
「……え?」
「俺だって実は怖い。だってこんなこと一生に一度のことだし」
やさしい声が直接脳裏に流れこんでくるようだった。
「怖くていい。自信がなくったっていい。似たもの同士の俺たちが力を合わせれば、きっと困難を乗り越えられる」
頬が、かすかに熱を持った。
やっぱり冬吏は、私を強くしてくれるんだ。そう思った。
立ちあがり、もう一度景色を見渡してからニッと笑いかけた。
「ありがとう。なんか、スッキリした」
「俺も」
告白は、まだしない。そのときが来たら、きっと抑えようとしても言葉があふれ出すはず。
「それよりも、まずはみんなを助けなきゃ」
もとの道に戻り、スマホのメモ帳アプリを開いた。
「水に近いところからだから、ええと――森内さんだね」
「自治会の?」
「元副会長さん。奥さんが亡くなったのをきっかけに退任したみたい。息子さんたちは何十年も前に実家を離れ、ひ孫さんまでいるみたい。森内さんは今でも、小学校の登下校の見守りは続けてくれてるんだって」
この情報は、ほとんどお父さんから聞いて作った。
住民とコミュニケーションを取り続けているお父さんだからこそわかる情報ばかり。そんなお父さんでも、まだ家に残っている住民を説得できなかったそうだ。
森内さんの家は、平屋建てでおばあちゃんの家とよく似た外見だった。チャイムを鳴らすけれど、先日の地震で壊れてしまったらしく音が鳴らない。
庭へ回ると、森内さんは小さなベンチに座っていた。白髪をオールバックに流し、家にいるのにワイシャツとスラックス姿でネクタイもつけている。情報によると、今年八十歳になったそうだ。
私たちに気づくと、困った顔になりながらも招いてくれた。
「この数日は客ばかり来るな」
森内さんとはあまり関わったことがない。小六のときに登下校の見守りをしてくれていたのは覚えているけれど、挨拶を交わす程度だった。
久しぶりに見た顔には、たくさんのシワがあって、体もひと回り小さくなったように見える。
「初めまして。九条冬吏と申します」
丁寧に頭を下げた冬吏に遅れて、私もお辞儀をした。
「風岡雪音です。突然押しかけて申し訳ありません」
「雪音ちゃん、大きくなったね」
「え……覚えていてくれたんですか?」
「もちろん。きちんと挨拶できる子だったね。小学校を卒業してからは、たまに見かける程度だったから会えてうれしいよ。九条くんは去年越してきたばかり。こないだお父さんを初めて見たよ。普段は一緒にいないのかい?」
「事情がありまして……。それより森内さん――」
「説得に来たんだろう?」
返事を聞く前に、森内さんは顔を前へ向けた。
「ここからは君沢湖が見えてね。海水が上昇したときからは、海と湖の両方が見えたんだ。でも、今では海しか見えない」
冬吏が一歩前に出た。
「明日二十五日に大きな地震が起きます。さらに水位があがり、ここも海になってしまうんです」
「そうらしいね」と、森内さんは人ごとのように答えたあと、ベンチの隣に目を向けた。
「ばあさんが生きていたころは、ふたりでここに座って君沢湖を眺めていた。昔は今ほど気温も高くなくてね、読書をしたり世間話をしたりしてたんだ」
森内さんの奥さんのことは覚えていない。スーパーで森内さんを見かけたことはあるけれど、いつもひとりだった。
「ばあさんはここに座るが好きだった。リウマチを患い、家から出られなくなってからは、日中のほとんどをここで過ごしていた」
過去を見るように目を細める森内さん。穏やかな口調の片隅に、深い悲しみが存在していると思った。
「森内さん、一緒に避難してください」
冬吏の言葉に答えず、森内さんはネクタイをキュっと上にあげた。
「雪音ちゃんのお父さんも同じことを言っていた。避難すれば助かるのはわかるよ」
「だったら――」
「君たちは逃げなさい」
冬吏の言葉を遮り、森内さんがはっきりとそう言った。
「わたしはここにいるって決めたんだ。ばあさんとの思い出の場所にいたいんだよ」
「ダメです」思わずそう言っていた。
「二十五日だけは高校にいてください。ここにいたら、海に呑みこまれてしまいます」
「わかった上で決めたことなんだ」
周りの酸素が急に薄くなった気がした。大きく息を吸ってから「でも」と続ける。
「それじゃあ命を投げ出すようなものです。森内さんの奥さんだって、そんなこと望んでいないと思います」
しんとした時間が流れた。
森内さんが膝の上で自分の手を握った。
「夫婦ってのは不思議なものでね。そばにいるときは、どれほど大切かということを忘れてしまうんだ」
なんて言えばいい? どう説明すれば伝わるの?
「結婚当初は仕事のことで頭がいっぱいだった。家のことを任せっきりだったせいで、子どもたちはわたしに懐かなかった。ばあさんが亡くなったあと、息子たちは寄りつかなくなり、もう何年も会っていない。自業自得という言葉を実感しているところだ」
こんな話なのにどうして笑みを浮かべているの?
小学生の登下校を見守っているのは、ひょっとしたら森内さんなりの懺悔なのかもしれない。
冬吏はキュッと頬を締め、森内さんの話に耳を傾けている。
「定年を迎え、やっとばあさんとふたりきりの生活がはじまったと思ったら、病気が発覚した。リウマチだけじゃなく、認知症も発症してしまってね。ある夜、気づくとばあさんがベッドにいなかった。慌てて探すと、ベンチに座るばあさんのうしろ姿が見えたんだ」
そこにおばあさんがいるかのように、森内さんはベンチの座面に右手を置いた。
「月がきれいな夜だった。白い光がばあさんだけを照らしているように見えて、幻想的な光景だったよ。そのときに、わたしはこれまでばあさんにやさしくしてこなかったことを思い知ったんだ。病気になってからは特にそうだった。イライラをぶつけることも多かった」
ふいに森内さんが私を見た。後悔と悲しみが、森内さんの瞳を潤ませていた。
「願いごとがひとつ叶うのなら、早くばあさんに会いたい。会って、これまでのことを謝りたい」
「なんでだよ。なんで、そんな考えになるんだよ。精いっぱい生きて、生きて、生き抜いてから会いに行けよ!」
怒りを抑えられずに怒鳴る冬吏。腕をつかむと、ハッとしたようにあとずさった。
「……すみません。でも、奥さんだって同じことを思ってるはずだから」
「どうかな」と森内さんが笑った。
「あいつはさみしがりやでね。寝たきりになってからは、いつもわたしの姿を探していた。今はきっとさみしがっている。いや……さみしいのはわたしのほうかもな」
ゆっくり立ちあがると、森内さんは私と冬吏の正面に立った。
「君たちが、道理に従い行動していることはわかるし、感謝もしている。だが、わたしの人生はわたしだけのものだ。この人生をどう終えるかは、自分で決めさせてくれないか」
「森内さん……」
私にはわからない。好きな人のそばにいたい気持ちは理解できても、自ら命を投げ出すことには賛成できない。
「もう帰りなさい。二度とここへ来るんじゃないよ」
「森内さん……!」
呼びかけてもふり向かず、縁側から家に入りガラス戸を閉めてしまった。
「時間がない。次の家に行こう」
早足に庭から出ていく冬吏を追いかける。
もう一度ふり向くと、太陽に照らされたベンチがキラキラと輝いていた。



