レオナールは、フェルナンの部屋に来ていた。

「フェルナン。渡したい物がある。」

 アルチュールに合図をして、取り出したのは、古そうな本だった。それをフェルナンに渡す。

「これは、私が小さな時に呼んでいた歴史書だ。フェルナンより少し大きかった時に読んでいたものだから、今は少し難しいだろうが、理解出来るまでゆっくり読めば良い。」
「父上、ありがとうございます。」

 フェルナンは、本を大切そうに抱えた。

「あぁ。今日は何をしていたのだ?」
「今日は講義の後は部屋で本を読んでいました。」
「そうか。もう剣の稽古はしないのか?」
「今は、色々と勉強するのが楽しいのです。」
「ならば好きな事をすれば良い。」
「はい。ありがとうございます。父上、今日はベルナルダ様には会って行かれないのですか?」
「あぁ。また改めて食事をしよう。今日はその本をフェルナンに渡すために寄っただけだ。」

 レオナールは、フェルナンの頭を撫でて、部屋を出て行った。


∴∵


 小さな足は、一歩、二歩と進むが、ポテっと尻餅をついた。

「マルゲリットは、成長が早いのね。この前、やっとつかまり立ちが出来る様になったと思ったら、もうつかまり歩きが出来るの?お利口ね。」

 アデライトの部屋は、歩きを覚え始めたマルゲリットがいつ遊びに来ても良い様に、ローテーブルやコンソールテーブルなども全て片付けてしまっている。里桜が不便ではないかと聞いたが、使いたいときに持ってこさせるから平気だと笑顔で返された。
 アデライトは、足元で座り込んでいるマルゲリットを抱き上げる。

「お祖母様よ。マルゲリット。おばーさま。言ってご覧なさい。おばーさま。」

 マルゲリットは聞き方によっては‘ばーばー’にも聞こえなくもない喃語を発する。

「王妃。聞きましたか?今、ばーばと言ったでしょう?マルゲリットは本当に賢いわ。こんなに賢いのだから、来週にはお祖母様と呼んでくれるかも知れないわ。」

 里桜は、‘そんなにハッキリ話すのはさすがに、まだまだ先ですよ。’とは言えず、微笑ましくアデライトとマルゲリットを見ている。アデライトにとっては三人目の孫ではあるが、フェルナンとは年に一度、建国記念日に挨拶にやってくるだけで、ほぼ会うことがないらしい。

「王妃。最近レオナールの側妃の…」
「ベルナルダですか?」
「えぇ。そう。彼女とはよく会っているの?」
「よく・・とまではいきませんが、月に一、二度ベルナルダから声がかかりますので、フェルナンの様子を聞きたいのもあって、お茶をしに離宮へ行っています。」
「そう。」
「何かございましたか?」
「いいえ。少し耳に入ったのだけれど、王妃のベルナルダに対する態度が良くないようだと噂になっているそうなの。人間味がないとか、冷たいだとか。」

 里桜は思いがけない話しに言葉を失う。

「王妃に直に接したことのある者ならば、何かの勘違いだと思うのでしょうけど。王宮には千人以上の者が働いていて、離宮などを合わせれば二千人を超す者が働いています。全体から考えてしまうと、王妃に直接会えて、尚且つ会話も出来る立場となるとごく一部だけになってしまう。誤解のまま噂が広まってしまっているのでしょうが、ここでは噂一つも命取りになることもある。気をつけなさいね。」

 アデライトは里桜を真っ直ぐに見た。

「はい。お話しありがとうございました。これからは十分配慮いたします。」
「私は、噂通りの酷い王妃だったけれど。あら、随分静かだと思ったら寝てしまっていたのね。」

 アデライトは、アネットに目配せをすると、静かにマルゲリットをアネットへ渡す。

「シルヴェストルの時もレオナールの時も乳母や侍女に全て任せて自分で育てることをしなかったから、あの子たちもこんな風に日々成長したのでしょうけれど、それを見ることはなかったわ。良い時を大切にして来なかったのね。」

 ‘疎まれても当然ね’と小さく呟いた言葉は、聞こえないふりをした。

「王太后陛下は本当にマルゲリットのお披露目式には参列されないのですか?」
「えぇ。あなたという国母がいるのですから、これから先、私は公の場に出るつもりはありません。ただ…マルゲリットの十五歳のデビュタントは会場で見たいわね。それまでは元気でいなくてはいけないわね。」
「今は長いように感じるかも知れませんが、きっと、あっという間にデビュタントを迎える日になってしまいます。」

 里桜が微笑みかけると、アデライトも笑った。その笑顔は聖母のようと形容したくなるような綺麗な笑顔だった。

「そうかもしれないわね。」